95(2016.12掲載)

 『智惠子抄』
 
(高村光太郎、龍星閣、1972.11)

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(11月号からの続き)

●智恵子狂乱の美しすぎる描写

 「人生遠視」という詩から智恵子の狂気が描かれ始める。

足もとから鳥がたつ
自分の妻が狂気する
自分の著物がぼろぼろになる
照尺距離三千メートル
ああ此の鉄砲は長すぎる

 夫の着物をぼろぼろにするということは、憎しみの表れ。あとの2行は意味不明瞭だが、 この先を考えると長い苦悩がつづきそうだという光太郎の絶望がしのばれるようだ。 昭和7年7月15日、智恵子アダリン自殺はかる。幻覚を多く見るようになり、寝台に伏しながらそれをいちいち手帳に写生し、 《形や色の無類の美しさを感激を以て語った。》このころはまだまわりの人間は更年期障害だと見ていた。 母や妹のいる九十九里浜の家に転居させ、光太郎は1週間に1度汽車で訪ねた。 だが、《諸岡存博士の診察も受けたが、次第に凶暴の行為を始めるようになり、自宅療養が危険なので、 昭和十年二月知人の紹介で南品川のゼームス坂病院に入院》、智恵子はそこで切り紙を始める。そのかず千数百枚にのぼるという。 《此を私に見せる時の智恵子の恥ずかしそうなうれしそうな顔が忘れられない。》なにがあったにせよ智恵子は光太郎が好きだったのだろう。 それにしても「凶暴の行為」について触れないのは、片手落ち。まあ死後2年では書けない。 それはよくわかる。わたしだって死後20年も経つのに先妻の行為をすべて書けるわけではない。

 つづけて「風にのる智恵子」

狂った智恵子は口をきかない
ただ尾長や千鳥と相図する
防風林の丘つづき
いちめんの松の花粉は黄いろく流れ
五月晴(サツキバレ)の風に九十九里の浜はけむる
智恵子の浴衣が松にかくれ又あらわれ
白い砂には松露(ショウロ)がある
わたしは松露をひろいながら
ゆっくり智恵子のあとをおう
尾長や千鳥が智恵子の友だち
もう人間であることをやめた智恵子に
恐ろしくきれいな朝の天空は絶好の遊歩場
智恵子飛ぶ

 「相図」は、『字通』によれば「そうたく」と読み、意味は「はかりみる」とある。夫である自分とは口をきかず野鳥と相談しているということか。 最後の一行は美しい。

 つぎにつづく詩「千鳥と遊ぶ智恵子」は同内容。文字どおりチドリと遊んでいる。 無数のチドリが智恵子のまわりに集まり、両手に持った貝をねだる。

群れ立つ千鳥が智恵子を呼ぶ。
ちい、ちい、ちい、ちい、ちい――
人間商売さらりとやめて、
もう天然の向うへ行ってしまった智恵子の
うしろ姿がぽつんと見える。
二丁も離れた防風林の夕日の中で
松の花粉をあびながら私はいつまでも立ち尽す。

 美しい、あまりにも美しい狂気の表現。智恵子の真実を描いていないとわたしはおもう。 わたしの先妻の日常はこんなに美しいものではなかった。狂人といってもひとそれぞれだから、こういう狂気があり得ないとはいわないが、 あまりにも美しすぎる。なぜこれほどまでに美しく狂妻を描かなければならなかったのだろう。 芸術家だから世間に向かって美を提供しなければならないのだろうか。何か智恵子に対して負い目をいだいているのではないだろうかとわたしは邪推する。

 智恵子はだいぶ乱暴なふるまいにも及んだ。光太郎はなぜ第2弾でそれを書かなかったのか。 死後2年では書けないと先に述べたが、もう一つ、『智恵子抄』が売れすぎたため、智恵子のイメージを崩せなかったのではないだろうか。 昭和16年初版第1刷、 19年初版第13刷(わずか3年で12回の増刷!)、23年に改版第1冊、26年に新版が発行されているが、 昭和47年にはなんとこれが第52刷となっている。わたしが入手した本の奥付には〔通販第七十四刷決定保存版〕と謳われている。 これだけ売れてしまうと、光太郎が第2弾を発行したいといっても(それが第1弾と同系統のものであることを光太郎の矜恃は許さないだろうから) 出版社はうんといわない。世間に流布した智恵子のイメージを壊されてはかなわない。 『智恵子抄』が売れなくなるからだ。かくて智恵子狂乱のさまは墓場まで持っていかざるを得なくなったのではないか。

 もし智恵子の全貌を描いたとすれば、そのタイトルは『智恵子』となっただろう。 美しい面を強調して書きたかったから『智恵子抄』とせざるを得なかったのだとわたしはおもうが、いかがなものだろうか。

●発狂の原因は

 本編のあとに「智恵子の半生」という伝記が小さめの活字で収録されている。その書出し。 《妻智恵子が南品川ゼームス坂病院の十五号室で精神分裂症患者として粟粒性肺結核で死んでから旬日で満二年になる。》 何年入っていたのかこの書出しではわからないが、精神病院に入れられていたのだ。そりゃ精神病院に入れてしまえば光太郎は楽だろうよ。 智恵子は入院に抵抗しなかったのだろうか。

 さらに光太郎の叙述を読み進める。福島県二本松町の造り酒屋長沼家に長女として生まれ、日本女子大学家政科に進学 (美術の道に進みたかったのだが、文学部と家政学部しかなかった)、卒業後、太平洋絵画研究所に通学、1914年、光太郎と結婚。 《結婚後も油絵の研究に熱中していたが、芸術精進と家庭生活との板ばさみとなるような月日も漸く多くなり、 その上肋膜を病んで以来しばしば病臥を余儀なくされ、後年郷里の家君を亡い、つづいて実家の破産に瀕するにあい、 心痛苦慮は一通りでなかった。やがて更年期の神経変調が因となって精神異状の兆候があらわれ、昭和七年アダリン自殺を計り、 幸い薬毒からは免れて一旦健康を恢復したが、その後あらゆる療養をも押しのけて徐々に確実に進んで来る脳細胞の疾患のため昭和十年には完全に精神分裂症に捉えられ、 其年二月ゼームス坂病院に入院、昭和十三年其処でしずかに瞑目したのである。》 なお智恵子は1886年生〜1938年没だから、52歳の生涯。

 「智恵子の半生」から発狂の原因を探ってみたい。

 《彼女がついに精神の破綻を来たすに至った更に大きな原因は何といってもその猛烈な芸術精進と、 私への純真な愛に基く日常生活の営みとの間に起る矛盾撞着の悩みであったであろう。彼女は絵画を熱愛した。 女子大在学中既に油絵を描いていたらしく(中略)セザンヌに傾倒していて自然とその影響を受ける事も強かった。 私もそのころは彫刻の外に油絵も画いていたが、勉強の部屋は別にしていた。》 これは現在でもさらに大きな問題になっており、結婚前には「共稼ぎだから家事は分担しようね」なんて男はいっていても、 いざふたをあけてみれば、やはり家事のほとんどは妻の役目になってしまう。 絵画に邁進したい智恵子にとってそれは耐えがたい苦痛だったろう。 《互にその仕事に熱中すれば一日中二人とも食事も出来ず掃除も出来ず、用事も足せず、一切の生活が停頓してしまう。 そういう日々もかなり重なり、結局やっぱり女性である彼女の方が家庭内の雑事を処理せねばならず、 (中略)ますます彼女の絵画勉強の時間が食われる事になるのであった。》

 その程度のことで発狂するだろうか。そうはおもわれない。では何か。もう少し詮索してみる。 同じジャンルの芸術家どうしの結婚は、得てしてうまくいかないという。夫婦である前にライバルになってしまうらしい。 光太郎と智恵子の関係は奇しくもオーギュスト・ロダンとその妻カミーユ・クローデルの関係に似ている。 カミーユは19歳のとき、すでに結婚していたロダンの弟子となるが、ふたりはあっという間に愛人関係におちいる。 妻ローズとの三角関係に悩み、さらにロダンときたら、アトリエにやってきたモデルの顔を「骨格を見る」と称してなでまわしているうち、 モデルのほうは「もうどうにでもして」という気持ちになったという。 粘土いじりに長けた彫刻家が繊細な指先をしかも下心を持ってつかえば、ちょろいもんなのよ。 ロダンもさぞかし「金龍」をふるったのだろう。カミーユもやはり40代で精神分裂症に陥っている。 だが光太郎夫妻のあいだに別の女性が割りこんで揉めたとはおもわれない。

 もう一つ俗っぽい理由について、あまり気が進まないが、触れておかなければならない。 《私と同棲してからも一年に三四箇月は郷里の家に帰っていた。田舎の空気を吸ってこなければ身体が保たないのであった。 彼女はよく東京には空が無いといって歎いていた。》《私自身は東京に生れて東京に育っているため彼女の痛切な訴を身を以て感ずる事が出来ず、 彼女もいつかは此の都会の自然に馴染む事だろうと思っていたが、彼女の斯かる新鮮な透明な自然への要求は遂に身を終るまで変らなかった。》 彼女の痛切な訴えを身を以て感ずることができないのは、都会育ちの光太郎には無理からぬ話だ。

 光太郎は都会育ちと田舎育ちの話にしているが、べつの大きな違いを暗喩しているような気がする。 光太郎の父高村光雲は東京美術学校の教授であり、光太郎の作品は知らなくても光雲の「老猿」を知らぬひとはいるまい。 かたや智恵子は造り酒屋の娘に過ぎない。造り酒屋といえば田舎では名士に入るが、両家ははっきりいって格がちがう。 庶民の結婚においてもたかがドングリの背比べにもかかわらず何かにつけて問題になることが、二人のあいだで問題にならなかったわけがない。 光太郎は何とも思っていなかったろうが、智恵子のほうは心穏やかではいられなかったにちがいない。田舎に帰ればなにかと厭な陰口も耳に入っただろう。 まだ子どもはできないのかとせっつかれれば、胸の内を吐露できない苦しさにどれほど苦しんだだろう。

 吐露できない胸の内とは何だったのだろう。さていよいよ智恵子発狂の原因について、わたしの推論を述べなければならない。 《彼女が脳に変調を起した時、医者は私に外国で或る病気の感染を受けた事はないかと質問した。私にはまったくその記憶がなかったし、 又私の血液と彼女の血液とを再三検査してもらったが、いつも結果は陰性であった。》 「或る病気」とは何だろう。性病ではないか。医者は智恵子が性病にかかっているのを疑った、いや発見したからこそ、光太郎にこのようなおもいきった質問をし、 なおかつ二人の血液検査をしたのだろう。でなければ再三検査する必要はない。《私にはまったくその記憶がなかった》という言回しも不自然。 ここは「その覚えがなかった」と書くのが自然な日本語だろう。

 ロダンの彫刻に衝撃を受けた光太郎は1906(明治39)年からアメリカ、イギリス、パリに留学。 ヨーロッパ各地を巡って1909年に帰国。……ふとおもいだした。早稲田大学文学部仏文科のある授業でのこと。テキストの中に出てきたパスツール研究所に関して、 教壇の老先生は、「私もパリ留学中に悪い病気にかかりましてこの病院のお世話になりました、ホッ、ホッ、ホッ」とおっしゃったので、 その枯れっぷりに大笑いした。

 第2次世界大戦後ペニシリンが発明されるまで、梅毒は不治の病であり、花柳界に出入りすれば必ず感染したもののようだ。 日本では18世紀中葉にはなかった梅毒が、19世紀中葉には猖獗を極めたと「探検コム・梅毒の歴史」というネット情報にはある (幕末に西洋人が運んできたのではないだろうか)。杉田玄白(1733〜1817)は「1000人のうち700〜800人は梅毒だ」と語っているから、 なにもパリに行かなくてももともと梅毒だった可能性はある。亭主が梅毒持ちなら必ず女房にも移る。 母子感染があるから冷静な母親なら子を作ることは控えただろう。ただしその後は冷静でいられるわけがない。 子を産みたいというのは女性の本能、ましてぞっこん惚れている光太郎の子なら切望しないわけがない。 それを不可能にしたのは誰あろう光太郎自身なのだ。明治の末年にはコンドームが作られているが、遊興目的で、避妊具としては使われていない。 となれば智恵子は性交渉を拒むしかない。

 なお、同サイトによれば、感染後10年で痴呆や精神障害があらわれるとのこと。光太郎と智恵子の年譜をたどってみる。 1914(大正3)年、光太郎31歳、智恵子29歳で同棲、貧乏生活が始まる。智恵子34歳で順天堂に入院。46歳で分裂症の兆候が現れる。 47歳で自殺未遂。48でほとんど痴呆状態になり、49で九十九里に転地療養。50でゼームス坂病院に入院。 ……上記の梅毒の特徴と似てはいないか。だが光太郎は性病の疑いを否定するため、用心深く《私の血液と彼女の血液とを再三検査してもらったが、 いつも結果は陰性であった。》といっているから、性病だったと決めつけるわけにはいかない。

●光太郎の後悔

 《その時には分らなかったが、後から考えてみれば、結局彼女の半生は精神病にまで到達するように進んでいたようである。 私との生活では外に往く道はなかったように見える。(中略)配偶者が私のような美術家ではなく、美術に理解ある他の職業の者、 殊に農耕牧畜に従事しているような者であった場合にはどうであったろうと考えられる。或はもっと天然の寿を全うし得たかも知れない。》 この一文は痛切であり共感できる。わたしも先妻の死後しきりにそうおもった。ただしわたしは性病にかかったことはないし、婚外性交をしたこともない。念のため。

●智恵子の最期

 《昭和七年以来の彼女の経過追憶を細かに書くことはまだ私には痛痛しすぎる。ただ此の病院生活の後半期は病状が割に平静を保持し、 精神は分裂しながらも手は嘗て油絵具で成し遂げ得なかったものを切紙によって楽しく成就したかの観がある。 (中略)彼女はそれを訪問した私に見せるのが何よりもうれしそうであった。私がそれを見ている間、彼女はいかにも幸福そうに微笑したり、お辞儀したりしていた。 最期の日其れを一まとめに自分で整理して置いたものを私に渡して、荒い呼吸の中でかすかに笑う表情をした。 すっかり安心した顔であった。私の持参したレモンの香りで洗われた彼女はそれから数時間のうちに極めて静かにこの世を去った。 昭和十三年十月五日の夜であった。》

 「智恵子の半生」はこのようにして幕を閉じている。穏やかで美しく、智恵子の覚悟も確かなものだ。 とても狂人の最期とはおもえないほど。なお切り絵は、智恵子生誕の地の「二本松市智恵子記念館」に収蔵展示されている。

◆S氏(60代男性) 『智恵子抄』についての感想、読みごたえあり。 智恵子の発狂原因について、ロダンとカミーユを例に引き、光太郎と智恵子の氏育ちを比較したのは明察、と思いましたね。 この二点、痛切。かつ図星でしょうねえ……

そして問題の「性病への疑義」。これ、今となっては、たぶん論証しようがないんでしょう?  カルテやら、遺体の一部やらを検証できれば別だけど。 で、ここからは推測なんだけれど、小生は、智恵子が、光太郎ではなく、他の男から性病をもらっていたという見方をしてみたい。

智恵子は、なんてったって「青踏」のメンバーである。 周囲には、男出入りの多い女友だちがいるわけだから、かなり「トンデル女」だったと思う。実際、モガとして、 文士や画家、慶應ボーイなどがたむろする銀座のレストラン、喫茶店(カフェ・プランタン)などに頻繁に出入りしていたと、 書いてある文献をみた記憶がある。光太郎と同棲するのは、29歳でしょう(大年増だぜ。男を知らないわけがない)。 こうして我が推測は、「光太郎は、愛憎悶々、惚れてしまった女をしゃにむに理想化して描こうと努めたのである」ってな感じにススム。

アハハハ…。ちょっと過激になっちゃった。でも、こんなこと、書けないよね。 二人の愛は至高。智恵子は永遠のマドンナ! というのが一般的・公式(?)な解釈らしいから。

今回の書評、後半の部、ナイスでした。