96(2017.1掲載)

 『さいごの色街 飛田』
 
(井上理津子、筑摩書房、2011.10)

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 「取材拒否」の街に食らいつき、書き上げるのに11年かかった。なかなか内情をつかむことができず、しまいには体を張ってでも潜入しようとする。 見上げたルポライター魂。1955年奈良県生、京都女子大学短期大学部卒。関西を中心に活躍するフリーライター。

●ちょんの間遊郭

 取材をしようにも女性は客として上がれない。やむなく飛田に行ったことのある男性を探し出して体験談を聞く。男たちの意見をまとめると――。 かつての吉原遊郭のように、「料亭」があって窓際に「女の子」がすわっている。「おねえさん」に案内されて2階に上がる。 「部屋は6畳〜8畳くらいの和室。雨戸が閉まっていて、午前中なのに薄暗い。敷き布団の上にミッキーマウスの絵柄のバスタオルが置いてあった。 掛け布団はなく、ほかに室内にあったのは、ちゃぶ台と座布団2枚だけ。/「ちょっと待っといてくださいね」/と、おねえさんはいったん退室したが、 すぐにお茶と煎餅を持って部屋に戻って来た。黄色いドレスから白い襦袢に着替えていた。」おねえさんは「20分か30分かどちらにするか」と問う。 20分(1万5000円)と答えるとすぐに目覚まし時計がセットされる。

 その後すこしだけ当たりさわりのない会話をして、「じゃあ、時間がないから始めましょうか」とおねえさんは襦袢の前をはだける。 濡れティッシュで男性のものを拭きなめてくれる。ゼリーを塗ってハナから濡れている。時間が短いし、いちいち本気でセックスしていたら身がもたない。 口でコンドームを装着する技術は神わざのよう。コトの最中の声は、自分の彼女より数倍大きい。もちろん演技。 帰りがけ階段の途中でおねえさんは突然キスをしてくれる。ほかのお客にはしない僕にだけの愛だとおもう。これも常套手段なのに。 《「また、足が向いたら寄ってくださいね」/しおらしい言葉に、本当にまた来ようと思って玄関に降り、曳き子のおばさんにお金を支払って、店を出た。》 と体験者は語る。

 飛田新地は大阪市西成区にある、約160軒の店からなる売春街。東京の人間には場所も雰囲気もいまひとつピンとこないところだが、 東京の新宿歌舞伎町は「日本一の風俗街」、吉原遊郭は「日本一のソープ街」と呼ばれる。くらべて飛田は「全国3大ちょんの間地帯」といわれているようだ。 飛田のある西成区北部は「あいりん地区」とも「釜ヶ崎」とも呼ばれると聞けば、貧困地帯であること、だから「ちょんの間」であることも想像がつく。

 《下賤な言い方をすれば、飛田は「早い、安い、おいしい」の三拍子揃った男性天国だった。客は予約なしで、直接に登楼し、初見でも手軽に遊べた。 太夫(タユウ)も花魁(オイラン)もいない。娼妓は平等に皆、娼妓。客も身分を問われない。花鳥風月を解せなくとも、謡の一つもできなくとも、 金さえ持っていれば堂々と客になれた。つまり、客の階層を問わず、セックス専門の飛田は、「一ランク下」に見られていたことが否めない。》

●料金はジュース代

 取材当時、20分1万5000円、30分2万円。プラス消費税5%。取り分は女の子50%、経営者40%、やり手ばあさん10%。

 《飛田の店は「料亭」である。曳き手おばさんの言う「兄ちゃん、遊んでいってや」の「遊び」とは、料亭の中で、ホステスさんとお茶やビールを飲むこと。 お客が案内される部屋はホステスさんの個室。その中で、偶然にも「ホステス」さんとお客が「恋愛」に陥る。恋愛は個人の自由。 恋愛がセックスに発展することもあるが、それは決して売春ではない。だから、支払う料金も、女性の体を買ったために発生する料金ではなく、 ビールやジュースや菓子の料金である……と、今、表向きにはそういうシステムなのだ。》お客にとっては明朗会計であり、 娼婦にすれば料亭内の恋愛だから危険がなく(性病や妊娠はどうだか知らないが)、ソープのように全身を使ってサービスするのではなく本番だけなので、 肉体的に重労働でない。《考えようによっては、お客、ホステスさん双方に合理的な場所だ。》井上は「娼婦」ということばを使わない。 あくまでも飛田で使われる用語を使う。

 飛田の女性は、昔も今もほとんどが地方から来る。昔は色の白い子が多かった。東北出身だからだ。 特に飛田開業の1918年(大正7)第1次世界大戦中に米騒動が起きると、全国の女衒(ゼゲン)が大活躍した。 ある農村が凶作で飢饉に陥ったと聞くと、一目散でその村に娘を買いに走った。断るまでもないが、売春が合法だった時代のこと。

 わが国では1958年(昭和33年)まで売春は合法だった。女性を金で買うことは、なんらやましいことではなかった。 その世代の男性は「僕らのころは、好きな女の子がいても、指一本出せない。出さない。結婚するまではダメ。自由恋愛など思いもしなかった。 僕らの世代で、遊郭に行かなかった男などいなかったのではないか」と語る。結婚前のセックスは非道徳的なことであるという道徳があった。 だが男は溜まったら出さなければならない。この国で売春が合法か否かが論議されることは有史以来なかった。 日本で売春が非合法になったのは、太平洋戦争に負けてGHQから命じられて以降にすぎない。

  ●飛田に君臨する橋下徹氏

 いくら飛田のことを知ろうとおもっても、誰も本当のことをいわない。それなら自分が客になって上がろうかとやり手婆に持ちかけても、 当然「アホか」と一蹴される。そこで「直球」を投げてみようと決意。「飛田新地料理組合」に電話してみる。飛田の「料亭」の経営者で組織する組合だ。 何回か断わられたが、しつこく取材を申し込むとついに組合長が電話に出た。

   指定の日時に出向く。応接間に通された。壁には西成警察署長・大阪府知事・大阪市消防局長などからの感謝状が飾られているが、 いちばん目立つマントルピースのうえには料理組合長と「行列のできる法律相談所」に出ていたころの橋下徹氏がにっこり笑う写真が飾られている。 幹部の名札の最後には「橋下事務所」の札も並んでいる。《笑顔のいっさいない男性が次々と六人入室してきてドアがパタンと閉まった時は、 一瞬「まじ、やばい?」と背筋が寒くなった。》刺すような視線を向ける6人の靴は、みな先がとがっている。脅えていても観察は忘れない。

 「で、ご用件は?」
 「飛田の町が好きだから歴史を書きたい」
 「書いてもらわんでいい。飛田のことは、話すべきことではない」
 「それはなんでですか?」
 「おたくが、飛田を本当のところはどう思ってはるのかわからへんけど、昔はともかく、今は私らはイカンことしてるんやから、書かれては困るんや」
 「でも、飛田へ来て、元気もらって帰らはるお客さんが大勢いはるわけでしょ。昔は合法やったし、必要な町でしょ」
 「昔はよかった。今はあかんということや。昔は情があった。親方はみんな人助けをしとったわけや。飛田の宣伝になるんやったらええけど、 商売の邪魔になるようなこと、後ろに手が回るようなことを書くんはあかんということや。分かるな」

●警察にとびこみ「売春してますよね」

 後ろに手が回ることなどあり得ない。料理組合は1970年ごろは西成警察を神崎新地に、尼崎警察を飛田新地に招待していた。 もちろん手入れの情報を警察から入手するためだ。これは取材した組長から聞いたことだから確かなことなのだが、警察が証言するわけないからウラをとれない。

 そこで井上は飛田の大門から300メートルのところにある西成警察へ乗り込み、窓口で「売春がおこなわれていることが明らかな飛田をなぜ取り締まらないのか」 と切り出す。こういう度胸は女性ジャーナリストのほうがあるような気がする。しばらくして上役が出てきて 「飛田新地のお店はちゃんと営業届けを出している」ととぼける。2階で売春がおこなわれていますよねと食い下がる。 「それはわれわれのほうでは分かりません。取材なら大阪府警の広報課を通してもらわないと」結局、生活安全課の人間が出てきて、 「われわれだって料亭の2階で何がおこなわれているかは察しが付くが、被害者からの通報がなければわれわれは動けないのだ」と答える。 売春業者の供応を受けているという話をうまくそらされている。

●経営者は子どもを飛田の外に出す

 客も遊郭も、もっとも恐れるのは性病だ。1933(昭和8)年、飛田遊郭組合が飛田診療院を開設。5日ごとに「定日健康診断」が義務づけられた。 梅毒9%、淋病66%、軟性下疳(ゲカン)25%。数年のあいだどの花柳病にも罹患していないひとは3%。反復罹病するもの7割。 罹病が発覚すると、住吉区帝塚山にあった難波病院に強制入院。

 入院中の娼妓たちの作った歌――。浮き川竹の勤め程/辛い切ないものは無い/二七の検査が来たなれば/親にも見せない玉手箱 /情け知らずのお医者さん/少しの傷も容赦なく/直ぐに取り上げ病院に/入院するのは厭はねど/さすれば年期が増すばかり/里に帰るも遅くなる

 2と7の付く日に検査がおこなわれた。もっともいくら無事につとめても借金はいっこうに減らない。娼妓たちは計算ができなかったから、 経営者はやりたい放題だった。今の飛田の経営者にその当時の子孫はいないかと古老に尋ねてみると、「おるわけないやろ」と一笑に付された。 賢い経営者は子どもたちに教育を付けて飛田の外に出した。男子なら桃山学院に入れ医者・弁護士・税理士にし、女子なら帝塚山学院を出して堅い商売人に嫁がせた。

 まさに娼婦の膏血を絞って自分だけ甘い汁を吸っていたわけだが、それだけに戦後、売春防止法が成立したときは右往左往した。 《何しろ、親方たちに「搾取」の意識は希薄だ。言ってみれば、セックスの小売業である。「畳屋が畳を、めし屋がめしを、八百屋が野菜を売るように、 遊郭が女の子を売って何が悪い」であり、むしろ「貧しい女の子とその家族を、わしらが救ってやってきた」という自負心のほうが強い。 /「人間、男と女がいる限り、コレはつきもんや。アメリカさんかて、パン助を大めにみとるやないか」/「暴行事件が増えるだけや。法律で『あかん』て言うたかて、 必要なもんは必要や」(中略)「法律がなんやっちゅうねん。政治家かて、赤坂や銀座の芸妓を抱いてるんや。一般市民が女を抱けるところがあって何が悪い」》 最後の意見は説得力がある(笑)。

 警察も売春婦たちを救おうと、旅費を持たせて田舎に帰らせたのだが、結局、「売春婦まで落ちた女性は転業ができなかった。 田舎に居場所がなかった。飛田の経営者や暴力団に搾取されても売春をして生きていくほうがよいという、貧困の構造には太刀打ちできなかった」 と当時大阪府警本部風紀捜査担当だった者は回顧する。「多年の売春生活が、肉体に絶ちがたい要求としてしみこんでいたため」戻って来た者もいた。

 現在、女の子は、黒服とスポーツ新聞経由、それにパチンコ金融が連れてくることが多い。「あのへんのパチンコ屋には、一日中遊んでる子がいっぱいいる。 こいつ、ええ加減すりよったな、すっからかんになりよったなていうのを見計らって、さっと女の子の顔の前に一万円札三枚をちらつかせるんですね。 (利子は)トイチ。あっという間に百万、二百万になって、返されへんようになる……」(つづく)