98(2017.3掲載)

 『ヴォルテール、ただいま参上!』
 
(ハンス=ヨアヒム・シェートリヒ著、松永美保訳、新潮社、2015.3)
 原題 “SIRE,ICH EILE...”VOLTAIRE BEI FRIEDRICH U.EINE NOVELLE

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 著者は1935年、旧東独南部ザクセン州生まれ。 《この小説は、ヴォルテールがプロイセン宮廷に三年近く滞在するうちに軋轢が高まり、ついにフリードリヒと訣別するところで終わっている。》 小説とはいっても、膨大な資料の中から肝心な部分を抜書きしたもので、ほぼノンフィクションといってもいいようだ。 《十八世紀のプロイセン国王フリードリヒ二世(フリードリヒ大王とも呼ばれ、ドイツではもっとも親しまれている専制君主)と、 フランスの百科全書派の一人で啓蒙思想家のヴォルテールが主人公になっている。》

 ヴォルテールはおさかんだった。本作には二人の愛人が出てくるだけだが、その夫も出てくるから一覧表を作らなければ混乱する

 エミリー・ド・シャトレ:ヴォルテールの愛人となる侯爵夫人。知的な女性で、ニュートンの『プリンキピア』を翻訳。
 シャトレ侯爵:エミリーの夫、陸軍中将。
 ルイーズ・ドゥニ:ヴォルテールの姪。のち彼の愛人。
 サン=ランベール侯爵:エミリーの愛人。彼女に子どもを産ませる

   ――といったぐあいで、フランス人というのは本当に恋愛に対してイヤハヤナントモなのだ。かたやフリードリヒは同性愛者。

 わたしを読書に駆り立てたのは、学生時代からヴォルテール(1694〜1778)が好きだったからだ。百科全書派というのがいいではないか。 わたしもかくありたい。かつて日本の高度成長期には百科事典が各家庭の応接間を飾っていた。 各項目の筆者はそうそうたる大学者、誰が書いたかわからぬWikipediaとはわけがちがう。世界中のあらゆることが詰まっているのだ。 載っていないものはない。こんなすばらしいもののいしずえをつくったのは、 ヴォルテールをはじめディドロ、ダランベール、ジャン・ジャック・ルソーなど18世紀フランスの啓蒙家たちだ。 その中心人物だもの尊敬せざるを得ない。もっともわたしはヴォルテールの作品を1冊も読んでないのだが(^^;)。 だからまあ、どんな人物だったのか、そのひととなりでも知っておこうかという次第。本コラムは書評でも何でもない。 ただ男女の愛憎劇をノンビリと楽しんでほしい。

●フリードリヒ2世はフランスかぶれ

 まずはフリードリヒの紹介から。18世紀プロイセン王国の啓蒙専制君主。若いころからヴォルテールに傾倒、彼を宮廷に招く。 著者のシェートリヒは、膨大な資料を博捜して執筆に及んだ。ただし、《二人の偉大さというよりは、 知られざる欠点や人間的な失敗の部分をうまく取り出して編集している。この小説を読むとフリードリヒ二世の見栄っ張りやフランスかぶれ、 ヴォルテールの金銭への執着や計算高さ(もちろんそれは、執筆家としての自立した地位を保つためでもあったのだけれど)がわかり、 二人のイメージが読む前とはかなり変わる。》と「訳者あとがき」にある。

 まだプロイセン王国の王子だった24歳のフリードリヒがヴォルテールに手紙を送り、ふたりの文通は始まるのだが、 まあ昔のコミュニケーションは手紙しかなかったとはいえ生涯に254通もの書簡を交わしている。 父親は「兵隊王」とあだ名されるほどの軍国主義者。フリードリヒは父親を嫌って18歳のとき宮廷から脱走しようとしたが、 計画は露見、脱走に協力したカッテ少尉は処刑される。フリードリヒは処刑の様子を見るように命令され、「カッテ、わたしを赦してくれ!」とさけんだという。

 一方、フリードリヒの母ゾフィー・ドロテアは、後のイギリス国王の娘で洗練された宮廷人だった (イギリス国王の娘がプロイセンの王と結婚する。姻戚関係を持つ、あるいは人質をとることにより、戦争を防ぐ手段としたのだろう)。 そのため教育方針も正反対の2人は対立し、それは王子フリードリヒにも大きな影響を与えた。 父王はフリードリヒの教育係に「オペラや喜劇などのくだらぬ愉しみには絶対に近づかせぬこと」といいわたし一切の芸術に親しむことを禁じた。 一方フリードリヒはヴォルテールに送った手紙の中で「支配者の義務は、人間の苦しみを減じさせることにある。 不幸な人の声、悲惨な目に遭っている者たちのうめき、抑圧された者の叫び声が、支配者に届かなければならない」と書き送っている。 その彼が国王になったとたん他国を侵略しているからどこまで本気かわからないが、とにかくそう書き残している。

 21歳で結婚したが、どうやら女性嫌いでセックスレスだったらしい。24歳のころにはフルートを演奏し、作曲もする。 哲学について友人たちと語り合う。ドイツ帝国の前身プロイセン王国の王子なのにドイツ語が苦手、フランス語で会話した。 壁にはヴォルテールの肖像画が飾られ、尊崇の的だった。《フリードリヒはプロイセンの国王になろうとしていたが、ドイツの言語と文学を軽蔑していた。 ラインスベルク城では、ドイツ語はほとんど話されることがなかった。/ドイツにおいて話されているのは卑賤な方言が混じり合った言語で、 それがドイツ語と呼ばれているのだ、というのがフリードリヒの見解だった。》ドイツはヨーロッパの田舎だという劣等感があったのではないか。 まだ国民国家というものが確立していない、いわば豪族同士が争う戦国時代だったのだろう。

 それでも彼はWikipediaによれば(^^;)――国王に即位後は、啓蒙主義的な改革をおこない、フランス語とドイツ語の2種類の新聞を発刊したという。 著名な学者をベルリンに集めたため、ベルリンには自由な空気が満ち「北方のアテネ」と称されるようになった。プロイセンは現在のドイツ北東部付近。

●ヴォルテール、波瀾万丈な人生

 一方のヴォルテールは手紙をもらった当時、41歳。20代半ばから作品が評価され、フランス国王の結婚式にも招かれたというからその令名のほどが知られる。 平民出身の身でありながら上流社会の社交界にも出入りし、さまざまな女性ともつきあった。 《当時のフランスでは上流社会の人々がオープンに愛人を作っていた、という本書の記述は興味深い。》と解説の松永はいうけれども、 フランスという国はいまでも上から下までそんなことは珍しくないのではないか。訳者の松永は1958年生、早稲田大学文学部教授、 ちょっとカマトトが過ぎるm(__)m。なぜ夫婦ともに愛人を作ったのか、その理由はあとでわかる。

 おさかんな女性関係だけではなく、決闘事件やバスティーユ監獄への監禁、イギリスへの亡命も経験しており、波瀾万丈の人生を送っていた。 ヴォルテールは独身だったが、愛人である侯爵夫人エミリーと堂々宮廷に出入りしたり、王妃のことで失言したりとフランスの宮廷でも「お騒がせ」な人物であった。 《すぐれた洞察力ゆえに封建社会のくだらなさも見えてしまうヴォルテールは、優秀だけれど扱いにくい廷臣であったにちがいない。 そのヴォルテール、プロイセン宮廷でもたちまちスキャンダルを巻き起こしてしまう……。》

●ヴォルテールとエミリーの出会い

 のちにヴォルテールの愛人となるエミリーは、1725年にシャトレ=ロモン侯爵と結婚させられていた。 翌年エミリーは娘を産むが、すぐに社交界に復帰、夫は戦場に戻っていった。「させられていた」ということは政略結婚を意味し、 ヨーロッパの貴族のあいだで婚外性交が多いのはここにも起因するのだろう。侯爵は戦争の話が好き、エミリーは哲学の話が好きだった。 《夫が若い愛人を囲っていることをエミリーが耳にするまで、長くはかからなかった。アルザス出身の美人という噂だった。 夫はエミリーに、おまえにも愛人を持つ権利があると知らせてきた。》まあ平等といえば平等な結婚観だ。

 1733年、ヴォルテール38歳、エミリー26歳。最初の出会いでふたりは愛人関係になってしまう。 ヴォルテールもエミリーも古いしきたりを軽蔑することに無上の喜びをおぼえていたので、《男とその愛人が一緒に王の前に出ないのは自明のこととされていたのに、 二人は一緒にヴェルサイユ宮殿に行き、謁見の間に足を踏み入れた。》あるひとの結婚式でシャトレ夫妻、 シャトレの愛人そしてヴォルテールの4人が顔を合わせたときも、お互いに好感をいだいた。……信じらんない(¨;)。

 ヴォルテールとエミリーは1738年に『ニュートン哲学入門』を共著として出している。 1740年、エミリーは『物理学概説』『幸福論序説』などつぎつぎに執筆、彼女と対等に話せるのはヴォルテールだけだった。

●ヴォルテール、フリードリヒ、そしてエミリーの三角関係

 1736年、ヴォルテールのところにラインスベルク城のフリードリヒから熱烈な恋文にも似た手紙が届く。 曰く、すべての著作を送ってほしい。《もしヴォルテール氏自身をこの城に迎え入れて我がものにすることが叶わぬとしても、 せめて一度会ってみたいというのが余の希望である。》エミリーは、ヴォルテールを我がものにするという表現にカチンときたが、 ヴォルテールはお世辞たらたらの返事を書く。

  「我が人生の最上の日、ついに訪れたり。
  あなたが王座に就く日、
  哲学者が王となる。ああ!
  あなたは北方のソロモン……」

 エミリーは辛辣だ。「『北方のソロモン』の心を射止めたわけね。彼の書いていることは粗野で傲慢だし、攻撃的で、人を見下しているわ。 自意識の強い権力者で、恥知らずよ。彼はあなたの友人とはいえない。彼は他の財宝を所有するように、あなたを所有したいだけなのよ。 そうして、自分の名声を高めたいだけなの」エミリーとフリードリヒのあいだには直接のコミュニケーションはない。 それだけに手紙の片言隻語に気配を感じるのだろう、フリードリヒは「マダム・エミリーにお会いするつもりはないので、 あらかじめお詫びのことばを伝えておいてほしい」と書き送っている。《エミリーは激昂した。ヴォルテールをフリードリヒに奪われてしまう、と恐れたのだ。》

 《フリードリヒの同性愛的傾向は、ヴォルテールもすでに承知の事柄だった。モイラント城にいたときは、その雰囲気をおもしろがることもできた。 美しい男たち! ヴォルテールには同性愛を批判する気などさらさらなかった。しかし、ラインスベルクとベルリンに来て、 ヴォルテールは美しい女性たちから受ける刺激が恋しくなっていた。》

 フリードリヒの軍隊は、1740年12月、ハプスブルク家のシュレジアを襲撃した。「プロイセン国王は自分が文化的な人間だと信じているが、 耽美主義者の薄い外皮の下には大量殺人者の魂が眠っている」とヴォルテールはメモした。 そしてすぐさまフリードリヒに自作の悲劇『マホメット』に関するこのような手紙を書き送った。 「ひとりのラクダ商人が登場しますが、彼は自分が天に上げられ、かの難解な書物の一部を天から与えられたことを自慢しています。 その書物は健全な人間の理性を揺り動かすもので、彼はこの書物が人々から崇められるようになるために、祖国を火と剣で覆い尽くすことになります。 これは、どんな人間にもけっして許されないはずのことです。/戦争を自分の国で開始する者、それを神の名において行おうとする者は、 どんな残虐行為もしてしまえるのではないでしょうか」

 フリードリヒをいさめたのだが、効果はなかった。プロイセン軍はさらにオーストリア軍を打ち負かし、 オーストリアの女帝マリー・テレジアは、多くの国土と税収を失った。 だいたいこのころの戦争というのは、王様による縄張り争いゲームだった(いまでもそうか)。

 ヴォルテールがフリードリヒのいいなりになっているとおもいはじめたエミリーは、しだいにヴォルテールに対する不信感をつのらせていく。

●ヴォルテールの二股

 《ヴォルテールの姪であるルイーズの夫ドゥニ氏が、一七四四年に亡くなった。夫の死後、ヴォルテールは秘かに姪と関係を持つように。 しかも、パリに一軒の家まで買い与えていた。》なんということを。いくらフランス人の性的関係が奔放であろうと、姪と関係を持つとは。 わが邦の島崎藤村などはこれがもとでゴウゴウたる非難を浴びた。

 それでもヴォルテールとエミリーは別れず、シレイ城で前と変わらぬ生活をつづけた。同棲していれば子どもができるはず。 エミリーは妊娠した。夫シャトレの子ではなく愛人ランベール侯爵の子を。ヴォルテールとエミリーのあいだに性生活はなかったのだろうか。

 《ふたたびシレイ城に戻ってからの、ヴォルテールとエミリーの会話。
 一七四九年一月に、エミリーはヴォルテールに言った。
 「わたし、子どもができたの。相手はランベール侯爵よ」
 「彼には伝えたのか?」
 「あの人、興味を持たないと思うわ」
 「きみのご主人には知らせなくちゃいけないよ」
 「もう知らせたわ」
 「それで?」
 「返事が来ていないの」
 エミリーはさらに、こう尋ねた。
 「あなたの意見は?」
 ヴォルテールは言った。
 「お互いの仕事を続けよう」
 ヴォルテールは『一七四一年戦史』を執筆中で、エミリーはニュートンの『プリンキピア』を翻訳中だった。
 ヴォルテールは、自分と姪のルイーズ・ドゥニとの関係に、正当な理由ができたように感じていた。》

 さらに好都合なことに――かどうかは知らないが――エミリーは産後死に、赤ん坊もエミリーの死後まもなく死んでしまった。 医療の発達した今日でさえ出産は危険なこと、まして18世紀においてをや。亭主のシャトレ侯爵、ヴォルテール、ランベールが臨終の場に同席していた。 まあこのあたりはヨーロッパ人も日本人と同じメンタリティを持っているわけだ。ヴォルテールはランベールに向かって「彼女を殺したのはあなたです!」と叫んだ。 赤ん坊には誰も関心を抱かない。ここでわたしは想像する。赤ん坊はネグレクトされて死亡したのではないか。実の父親に愛情はない。 夫は愛人の産ませた子を扶養する気にはなれない。最も昵懇なヴォルテールにしても自分の子ではない。 積極的に殺されたのではないにしても、哀れな赤ん坊は放置されたにちがいない。で、パリに戻ったヴォルテールのところに姪のドゥニが引っ越してくる。

●ヴォルテール、有頂天から零落へ

 いったんはフランス国王ルイ15世の廷臣になったものの、ヴォルテールはプロイセンに行くことにし、 ドゥニについてくるよう頼むが断られてしまう。フランス人というのは簡単にくっつくものの、結びつきが弱いのだね。 ドゥニはパリでいいふらす。「わたしの叔父は、王さまと暮らすようにはできていないわ。叔父は元気すぎるし、ちゃらんぽらんで、すごくわがままなんだから」

 ヴォルテールはフリードリヒに旅費を無心して、プロイセン宮廷のあるポツダムに向けて旅立つ。 フリードリヒは、ルイ15世の廷臣で資料編纂者のヴォルテールを奪ったのだからルイ15世に勝ったとおもった。 ルイ15世は「こっちの宮廷から狂人がひとり減った」とよろこんだ。

 フリードリヒはヴォルテールに2万リーブルの年俸を与え、おもいきり厚遇した。ドゥニも来るなら4000リーブルの年金を与えると約束した。 《フリードリヒは国王にふさわしいぜいたくの数々でヴォルテールを甘やかしていた。まるでビロードの手で撫でまわすようなものだったが、 ヴォルテールはそれが虎の前足であることを忘れていた。虎は、一撃で相手をずたずたに引き裂くこともできるのだ。》

●プロイセン、フランス両国から見捨てられ

 ヴォルテールはユダヤ人相手にプロイセン国債の取引をして失敗し、フリードリヒの逆鱗に触れた。 「貴殿が宮廷にいることは余の喜びではない」とフリードリヒは書き送った。フリードリヒがヴォルテールに与えている特典が宮廷でねたみそねみを引き起こしていた。 フリードリヒは「余がヴォルテールを必要とするのは、せいぜいあと1年間だ。オレンジをぎゅうぎゅうに絞って、皮を捨てるようなものだ」と答えた。 この言葉はヴォルテールにも伝わり、彼は忘れることができなかった。しかしフリードリヒはヴォルテールを何に利用しようとしたのか。 そしてそれはなぜあと1年で終わるのだろう。思い当たるのはフリードリヒの稚拙なフランス語に手を入れてやることぐらいなものだ。

 ヴォルテールは名誉ある決別を望んでいた。逃亡や解雇は望んでいなかったので、フランス北東部のプロンビエールで療養するための休暇を願い出た。 1753年3月16日、フリードリヒからの最終的な通告があった。「貴殿は余の宮廷から暇乞いをするために、プロンビエールでの温泉療養を口実にする必要はない。 貴殿は望むときにいつでも、プロイセン宮廷の職務を離れることができる。 ただし、出発の際には職務契約と勲章、鍵、余が貴殿に特別に手渡した私家版の詩集を返却しなければならない」 それらのものにどれほどの価値があるのかよくわからないが、以後これらの争奪戦になる。

 ルイーズ・ドゥニはパリで、ヴォルテールがまたパリ市内に戻る許可を得るために尽力したが、しかしルイ15世はこの願いを拒否した。 プロイセン王の機嫌を損ねるようなことはしたくなかったのだ。

 結局、1755年、ジュネーブにレマン湖とアルプスが一望できる館を購入、ルイーズ・ドゥニとともに暮らした。 1778年5月30日死去、享年83。葬儀に当たってはフリードリヒからじつに懇篤な弔文が送られた。いったいどういう仲なのか。 真の友情ではないにしろ、単なる見栄ともおもえない。深い縁を感じていたのは確かだろう。

 本書を読んでもっとも印象に残ったのは、男の小ずるさだった。