101(2017.6掲載)

 『原始仏典』
 
(中村元、ちくま学芸文庫、2011.3)

  100_genshibutten.jpg"

(5月号からの続き)

●なぜ大衆は邪教にすがるのか

 近年は釈尊を神のように考えるのではなく、どこまでも非常に優れたひととしてとらえようとしている。 ユダヤ教・キリスト教・イスラム教などの一神教のように、釈尊を「神」としてとらえる傾向はない。 《昔、お坊さんがされたやり方が意味をもたなかったとは決していいません。昔はそれでよかったのです。 つまり、非常にこけおどしが多いわけです。それによって人々に畏敬の念を起こさせる。それで人々はついてきた。 それは西洋でお坊さんがラテン語でお祈りをしたのと同じことです。あれは信徒にはわかってはいない。わからないほうがいいのです。》 現在のように一般大衆の教養が高くなっている時代には通用しない。かとおもうと、オウム真理教のように高学歴の者が引っかかる例も枚挙にいとまがない。 なぜか。自信のない者がなにかにすがりたいとおもってのことだろう。だが釈尊最期のことばは「おのれにたよれ」だった。 あらゆる新興宗教は、集金マシーンに過ぎない。ご用心あれ。

●いかにしてバラモンと対決したか

 《仏教が当時の社会に現れた意義は、「因習を超えて」ということでまとめられるでしょう。》当時は民間宗教、俗信などいろいろなものがあったが、 最有力だったのはバラモン教。動物を殺して神々に犠牲を捧げるというような残酷なこともしていた。 そういうことをすればこの世を幸福に暮らせるし、また死後も天上に生まれてよい果報にあずかることができると考えていた。 「慈悲のひと釈尊」がそんなものを認めるわけがない。

 当時のひとはバラモンを非常に尊敬していた。バラモンの身分は、釈尊の時代も今日も世襲。それに対して釈尊はこういった。 《人は家柄によって尊いのではなく、一切の悪を退け、人間としてなすべきことを実行する、そういう人が本当のバラモンと呼ばれるべきである。》と、 庶民が尊敬しているものを無下に否定するのでなく、巧妙に換骨奪胎してやった。

 《バラモンよ、われは木片を焼くのを放棄して、内部の火をともす。》釈尊がそういっているにもかかわらず、護摩を焚くという習俗は、 インドでも日本でも相変わらずおこなわれている。釈尊は優しいから無下に否定はしないけれども、あくまでも「内なる火をともせ」といっているのだ。

●釈尊の頭はなぜ螺髪

 またバラモンは螺髪(ラホツ)というパンチパーマのような髷を結っていたが、それによって尊いというものでもないといった。螺は巻き貝。 ところで大仏様のヘアスタイルは螺髪ではないか。どういうことなのだろう。ネット情報によれば、釈尊他界の直後には仏塔を建ててお骨をまつることはあっても、 仏像をかたどることはなかった。いまの仏像に近いものができたのは1世紀ごろだというから、他界から500年ほどたっている。

 西北インドのガンダーラ地方に仏教が伝わると、そこで盛んに仏像が作られるようになった。 紀元前3〜4世紀にギリシャのアレクサンドロス3世の遠征軍が北インドまで制圧し、ギリシャ文化を持ち込んだ。 だからそのころの頭髪はギリシャ美術の影響を受けてウェーブがかかっていたという説もある。 その後はさまざまな文化の影響を受けてごった煮になったことは想像に難くない。 津田左右吉は、日本に入ってきた仏像は仏教芸術の歴史からいえばすでに退化したものをコピーしただけで、芸術品としては価値の高くないものだと断じている。

 仏像は釈尊が何歳ぐらいの時を写したものだろう。それによってヘアスタイルは変わるのではないか。 もしそのころから僧侶が剃髪していたとしたら、螺髪は単にバラモンの権威を借りたに過ぎないということになるのではないか。

●なぜ中道を選ぶのか

 『サンユッタ・ニカーヤ』にいう。《カッチャーヤナよ。あらゆるものが有るというならば、これは一つの極端な説である。 あらゆるものが無いというならば、これも第二の極端の説である。/人格を完成した人は、この両極端の説に近づかないで、中道によって法を説くのである。》 当時のインドの宗教家のあいだでは苦行がはやっていた。一方快楽に熱中するひとびとも多かった。 この両極端を超えたところに正しい道があるはずだと釈尊は説いた。ひとは所詮実在のある局面しか知ることができない、という自覚を持つべきなのであると。 《自分が愚か者でありながら賢者だと思う者、これこそ愚者なのである。自分が愚者であるということを知ってる者は賢者なのである。》

●釈尊の思想を最もよく伝える仏典とは

 《仏典にはいろいろと有名なものがありますが、その中でも『スッタニパータ』と呼ばれるものが最も古く、したがって釈尊の思想なり、 そのころの人々の生活を最もよく伝えているであろうと学者は推定しています。》スッタは経典、ニパータは集成の意。 この経典の中では、釈尊はどこまでも“すぐれた人間”として描かれ、後代に成立した伝記のように神格化されていない。 この経典でみる限り、彼は新たな宗教を開創したという意識はなく、どこまでももろもろの宗教に通ずる「真の道」を明らかにしたつもりだった。

●降魔とは何か

『サンユッタ・ニカーヤ』にいわく。悪魔のナムチはいろいろな甘言を弄して釈尊を誘惑する。それに対し釈尊は、「汝の第1の軍隊は欲望、 第2は嫌悪、第3は飢餓、第4は妄執、第5はものうさ、睡眠、第6は恐怖、第7は疑惑、第8は見せかけと強情、云々。」 そんなものには負けないぞといっている。このようにして悪魔をあきらめさせる。これを降魔(ゴウマ)という。

 《釈尊の生涯のうちで、特に重要なことがらは、悪魔の誘惑を撃退して、さとりを開かれたということです。》さとりを開いたあとでも悪魔の誘惑はつづく。 さて悪魔のことをインド語では「マーラ」というのだが(といってもインドには300以上の言語があるので、 どれだかわからないが、これ以上の詮索は勘弁して)、中国ではこれに同定できることばがなかったので、麻に鬼という漢字を作り出した。 余談ながら、麻薬を魔薬とおもいちがいしたり、麻薬と大麻を混同するひとがいるのはこのへんに由来するのではないか。

 ここで悪魔が出てくるのには、なんだか違和感を感じる。一神教で出てくるならわかるが、 釈尊はくだらぬ迷信など歯牙にもかけない偉大な常識人としてここまで描かれてきた。そこへこの世のものならぬ悪魔が現れるのはお門違いではないか。 すでに民衆の中に定着していた悪魔という概念に釈尊も囚われていたのだろうか。そうではなくおそらく布教のために悪魔という概念を利用したのだろう。 くりかえすようだが、神も悪魔も天国も地獄も数千年前からエジプト、ギリシア方面から渡来して民衆のあいだに定着していたと考えられる。

●結論、さとりとは何か

 『大パリニッパーナ教』は、釈尊の最後の旅路を記述している。この経典は、マガダ国の王アジャータ・サットゥがヴァッジ族を攻め滅ぼそうと企て、 王の命を受けた大臣が釈尊にアドバイスを求めるところから始まる。なぜ王がそんなことを考えたかは書いてないが、 ヴァッジ族は商業民族として非常に栄えていたから、その富をわがものにしようとしたのだろう。大臣は釈尊のもとに赴き、王さまの考えを伝える。

 すると釈尊はマガダ国王の考えが正しいとかまちがっているとかいわずに、弟子のアーナンダに「ヴァッジ族はこれこれのことを守っているか」とあれこれ質問する。 守っていると答えると、「そういう道を守っている国を攻め滅ぼすことは容易ではない。こういう国は栄えるはずだ」と結論づける。 釈尊はヴァッジ族繁栄の理由を7つ挙げた。

 1.しばしば会議を開き、多くの人が参集する。
 2.共同して集合し、行動し、なすべきことをなす。
 3.旧来の法に従って行動する。
 4.古老を敬い、尊び、かれらのことばを聞く。
 5.良家の婦女・童女を暴力で連れ出したりはしない。
 6.部族の霊域を敬い、尊ぶ。
 7.尊敬さるべき修行者たちに、正当な保護と支持を与える。

 《すなわち、こういう立派な国なんだから、そこを攻め滅ぼすことは無意味なことである。だからおやめなさい、というのです。 つまりいきなり判断を表明しないで、諄々と説き聞かせて戦争を起こすのをやめさせたというのが釈尊の態度でした。》 釈尊はしばしばこの手を使うようにおもわれる。相手にさとらせるのだ。

 以上の7つのことがらは、2500年後のいまも常識的な法律・道徳となっている。 釈尊のいう「さとり」とは結局このようなことをいうのではないかというのがわたしの結論だ。

●釈尊最期のことばとは

 齢80にして釈尊は、生まれ故郷であるネパール中部地方に裸足で虫1匹殺さぬよう向かう。人生の最期は生まれ故郷で迎えたくなるものらしい。 帰途、ナーランダーという大学都市に滞在。《このナーランダーで研究された仏教哲学は中国を経て、法相(ホッソウ)宗として京都の清水寺、 奈良の薬師寺、興福寺、法隆寺などに伝えられました。/インドで生まれ、インドではぐくまれた仏教はこうして世界中に広がっていきました。 しかしインドでは次第にヒンドゥー世界に近づき吸収されてゆき、十二世紀のイスラム信仰によって、 その姿を消していったのです。》この「イスラム信仰」は、「イスラム侵攻」の誤植ではないか。本書はテープ起こしが元になっている。

 釈尊は旅に病む。釈尊最期のことばはどのようなものであったろうか。それは〈自己にたよれ〉だった。 《要点は、世に生きていくのに何に頼ったらいいか、他のものに目がくらんではいけない、自己にたよれということです。》 自己にたよるとはどういうことか。それは人間のなすべき理(コトワリ)、実践すべき理法(ダルマ)に従って行動するということ。

 死を目前にして釈尊は、「この世界は美しいものだし、人間の命は甘美なものだ」と述懐している。原始仏典には「この世は苦である」ということばが頻出する。 なにしろ仏教では、人間がこの世で避けられない4つの苦しみを「生(ショウ)老病死」ととらえ、苦しみの筆頭に「生」を挙げているほどだ。 35歳で「さとり」を得たといっても、それはなにごとがあっても動じないといった意味ではなく上記のようなものだ。 人生が思うようにならないものだと痛感し、一切皆苦、どうにかならんもんかいなと安寧の境地を求めて修行をつづけ、人生の最期には「人の命というものは尊く、 味わいのあるものだ」という心境に達したのだった。80年に及ぶ研鑽の結果だろう。

 《わが齢(ヨワイ)は熟した。
 わが余命はいくばくもない。
 汝らを捨てて、わたしは行くであろう。
 わたしは自己に帰依することをなしとげた。
 汝ら修行僧たちは、怠ることなく、よく気をつけて、
 よく戒めをたもて。
 その思いをよく定め統一して、おのが心をしっかりとまもれかし。
 この教説と戒律とにつとめはげむ人は、生れをくりかえす輪廻をすてて(迷いの生存をすてて)、
 苦しみも終滅するであろう」と。》

 とはいえ、まだまだ死なずに旅をつづけ、カースト制度最下層の鍛冶屋チュンダが差し上げたキノコにあたって激しい病にかかるのだが、 釈尊は決してチュンダを責めることなく、「彼が供養してくれた食物は、最も功徳のあるものであった」とかばうのだった。

 さらに旅をつづけたものの、いよいよいけない。「さあ、アーナンダよ。わたしのために、二本並んだサーラ樹(沙羅双樹)の間に、頭を北に向けて床を用意してくれ。 アーナンダよ。わたしは疲れた。横になりたい」釈尊最後のことばは諸行無常。《さあ、修行僧たちよ。お前たちに告げよう、「もろもろの事象は過ぎ去るものである。 怠ることなく修行を完成しなさい」と。》

 またまた余計なことをいうようだが、齢80、最後まで瀕死の病に苦しんだ釈尊の姿は、やせさらばえたものであっただろう。 それなのに世界各地、特に新興宗教が巨額のカネで建造する涅槃の図像は、なぜあれほどふくよかなのだろうか。(つづく)