102(2017.7掲載)

 『原始仏典』
 
(中村元、ちくま学芸文庫、2011.3)

  100_genshibutten.jpg"

(6月号からの続き)

 『原始仏典U 人生の指針』
 
(中村元、東京書籍、昭和62.10)

 第U巻はT巻ほど体系立ってないが、そんな中にもおもしろい箇所があるので拾遺したい。

▽日々の心構え

 《過去を追わざれ、未来を願わざれ。およそ過ぎ去ったものは、すでに捨てられたのである。また未来はまだ到達していない。 そうしてただ現在のことがらを、各々の処においてよく観察し、揺ぐことなく、また動ずることなかれ。 /誰が明日に死のあるのを知ろう。ただ今日まさに為すべきことを熱心になせ。》(『マッジマ・ニカーヤ』第3巻)

▽性欲

 釈尊にしては珍しくナマナマしい教訓も垂れている。《盛りを過ぎた男が、ティンバルという果実のように盛り上った乳房のある若い女を誘(ヒ)き入れて、 かの女への嫉妬から夜も眠られない――これは破滅への門である。》盛りを過ぎた男とは何歳ぐらいを指すのだろう。 釈尊は80まで生きたが、当時の平均寿命はもっとずっと短かったにちがいない。 2500年前でもヒヒジジイはやはり盛り上がった乳房の若い女が好きだったことがわかる。真の仏教では婚姻を認めていない。 セックスも同様だろう。だが釈尊はとびっきりの美女と結婚し、一子をもうけている。でも飽きちゃった。ずるいのでは。 自分だけ甘い蜜を堪能し、弟子に禁じるとは。「ろくなもんじゃないからやめとけやめとけ」ということか。

 「殺生(生きものを殺すこと)と盗みと虚言と言われるものと、他人の妻に近づくことを、聖者は称賛しない。」 男女関係を乱すことのうちでも、他人の妻に近づくことはいちばん悪いことです、と釈尊はおっしゃる。人妻でなければいいのかな(笑)。

▽真理の言葉『ダンマパダ』(法句教=ホックギョウ)

 「ダンマ」(dhamma)もまた漢訳仏典では「法」と訳される。「パダ」は「ことば」。パーリ文のなかでは最も多く翻訳されている。 西洋各国でも翻訳されているほど重要な経。庶民のことばパーリ語だからやさしいことばで説かれている。

 《実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息むことがない。怨みをすててこそ息む。これは永遠の真理である。》 息むはヤムとよむのだろう。報復の連鎖をくりかえしている世界中の指導者に聞かせたいことばだ。いや、まず己自身が耳を澄ますべきことばではあるのだが……。 第2次世界大戦のあと、世界の各国は日本に対して賠償請求をしたが、スリランカ国のみこのことばを引いて、賠償権を放棄した。 さすがにパーリ語の原始仏典をまとめた国だけある。《やがてはあの人も死ぬし、わたしも死ぬものなんだ、そう思えば、この世に生きて命がある限り、 仲良く楽しく暮そうではないかと、人々は自ずからそういう気持ちになるでしょう。》と中村は述べている。 本書のなかでわたしが最も気に入ったことば。死においてすべてのひとは平等なのだ。

 ダンマパダは皮肉なことばも収めている。《学ぶことの少ない人は、牛のように老いる。かれの肉は増えるが、かれの智慧は増えない。》 思うに釈尊というひとは優しいばかりのひとではなく、弟子たちに対してそうとう皮肉も飛ばしたのではないか。

▽真心のこもった心

 《真心がこもっていることば、これが大事だというのです。必ずしも事実を事実のまま伝えるという意味ではありません。 事実をそのまま伝えて、かえって相手の人の気持ちを損なうような場合には、立派な人は語らない、ということが原始仏典の中にも説かれています。》 わたしはこれが苦手だ。相手のことばに矛盾があれば、すぐそこを突いてしまう。反省しきり。

▽我執をなくす、それが解脱

 『サンユッタ・ニカーヤ』には、無我の境地になれ、と教える非我説がさかんに説かれているよし。自己とは何か、個人存在とは何かと考える。 いろいろな面があるが、どうかすると、物質的な面が真の自分であると考えがちだ。《もしも本当に自分の物質的な面が真の自己であるというならば、 自分のものであったら自分の思うままになるはずです。》だが病気になりたくない、太りたくないなどとおもっても、おもいどおりにならない。 おもいどおりにならないということは、これは自分が主となっているものではない何よりの根拠。

 《そこで自己というのはどういうものなのだろうという、この探求が原始仏教における大きな課題となっていたのでした。 /やがてわれわれの存在を(一)物質的な形(色)、(二)感受作用(受)、(三)表象作用(想)、(四)形成作用(行)、(五)識別作用(識)という五つの構成要素に分けて、 そのいちいちについて無常・苦・非我を述語として説くようになりました。/物質的なかたち(または感受作用・表象作用・形成作用・識別作用)は無常である。 無常であるものは苦しみである。苦しみであるものは非我である。非我であるものはわがものではない。これはわれではない。 これはわがアートマンではない。正しい智慧をもってこの(道理)を如実に観ずべし。》わからん。

 本書のうち最も難解な箇所。だがそれをも中村はやさしく解き明かす――。《自分の体とか精神作用とか、あるいは自分が持っているもの、 財産とかあるいは名誉とか地位とか、そういうものもわれではない。これはアートマン(artman)ではない。 アートマンというのはインドのことばで自分のことを指します。/ここでは、何者も「我に非ず」(非我)ということを説いていますが、 非我と無我とは趣旨は結局同じことになるのです。(中略)仏教は無我を説くとといいますが、なにも自己がないとか、アートマンがないとか、 そういうことを説くのではないのです。その我執をなくするという教えです。》釈尊は弟子のカッチャーナに教える。 「世人は執着に縛られているが、『これはわがアートマンである』と執着しないならば、苦しみが現に生じつつあるときは苦しみが生じつつあると見、 苦しみが現に滅しつつあるときには苦しみが滅すると見て、惑わず、疑わず、他に縁(ヨ)ることなくして、ここにかれに智が生じる。 じつにカッチャーナよ、これだけのことによって正しい見解が起こるのである。」これがすなわち解脱である。》やさしくなかった。 だがつぎのことばですこしわかるようになる。

▽自己を俯瞰することが心の安定につながる

 《禅定の意味は心の安定、統一です。》人間の心は意馬心猿、始終あっちへ行きこっちへ行きする。 それを落ち着けてととのえ、安らぎに帰した状態、それをニルヴァーナ(涅槃)という。当時いろいろな宗教で使われていたことば。 日本では精神修養のために座禅がおこなわれるが、べつに姿勢はどうでもいい。上に見たように、「いま自分には苦しみが起きているな」とおもったら、 《ちょっと心を一歩退けて、高いところから反省する。すると苦しみは苦しみとしてそのまま受けとられるわけです。 (中略)所詮、苦悩のない人生はないのですし、その苦悩に直面して、それを超えて喜びをもって生きていく道がここに示されている。 それこそが釈尊の最も説きたかったことなのだろうと思います。》常に自分を俯瞰するように努めなさいということだろう。

▽釈尊に前世はあったか

 《ジャータカとは、一言でいうと、釈尊の前世物語、過去世物語です。 つまり、「お釈迦様がこの世に生まれていらっしゃる前に、過去世にはこういうことがありました」という、そういう物語です。》 聞き捨てならん話だ。釈尊は過去世などを認めていたのだろうか。中村は、仏教が発展していた時代に、 民衆の間で一般におこなわれていた物語や説話を釈尊の過去世にかこつけて伝えているものだと、やや冷ややか。釈尊の没後につくられたのだろう。

 だがこういう話はとかくオモシロくて流布しやすい。《仏教の教義のほうは、経典とか、あるいは哲学的な論書の中に述べられていますが、 議論がどうしても抽象的です。ところが「ジャータカ」のほうは、具体的に話をもってきて、人々にわかりやすいかたちで教えが述べられていますので、 感化も非常に大きいのです。》なおかつジャータカには最初期の仏教の教えがまとめられているというから、 釈尊のことばだけが仏教だとするわたしにとってはこれは難敵だ。特に以下の話は興味深い。

 過去世で釈尊はシビ王という王になって人々を救うという誓願を立てた。その決意が本物であるかどうか、 帝釈天(インドでいちばん拝まれていた神様)が自ら鷹に変じて鳩を追いかける。鳩はシビ王の脇の下に逃げ込む。 帝釈天はシビ王に向かって、「それはわたしの食べ物だから渡せ」と迫る。それに対してシビ王は、 「わたしは一切衆生(シュジョウ)のために尽くそうという誓いを立てて仏道修行に励んでいる。自分の所へ来た何者にもいたわりの心をさしのべる。 渡すわけにはいかない」すると鷹は、「自分の食べ物を取り上げられたわたしは一切衆生の中に入らないのか」と切り返す。

 いい展開だ。よくテレビの自然番組などにも強者が弱者を餌食にしている場面で「強者も子どもを育てるのに必死です」 なんていうナレーションが入って視聴者の心を和ませる。そこでシビ王は鷹が望むものを何でもあげると答える。 「殺したての熱い肉がほしい」シビ王はひとを呼んで自らの体を切り刻ませる。家来たちは「見るに忍びないから幕を張りたい」という。 シビ王はいう。「もし仏道を求めるなら、この苦しみを忍ぶべきである。もしこの点について固い決心ができないなら、仏になろうとの意志を断念すべきである」

 帝釈天はシビ王に向かって、「あなたはそれほどの苦しみに悩んだりはしなかったのか」と問う。 「わたしは肉を割き、血を流しても、怒らず、悩みませんでした。一心にもだえずして、もって仏道を求めました。 このわたしのことばが真実であるならば、わたしの体はもとのごとくになるでしょう」果たせるかな王さまの切り刻まれた傷だらけの体は、 またもとのとおりに治りましたとさ。

 わかりやすくてオモシロイ。インドの話は、途中でハラハラすることがあっても、最後はみんなハッピーエンドになる伝統があるという。 数千年後の現在でもインド映画のエンディングといえば善玉・悪役・キャスト総動員で踊り歌うことになっている。 それはともかく釈尊が自らをヒーローのように描く物語を作るわけはない。おそらく釈尊没後に弟子たちが作り上げた民衆向けの話だろう。

 《所詮、私たちは限られた存在なのです。凡夫なのです。だから、世の中の真相を見るといっても、自分の面からだけとらえているわけです。 それで自分の知っていること、考えていることだけが絶対に正しいと思う。けれども、まだ足りないところもあるのじゃないかという反省が、 少し足りないのではないでしょうか。》国家間の対立でも、自国のイデオロギーが絶対だと思うから戦争になる。 相手の身になって考え、思いやりを持てば、そこで初めて平和が実現されるであろうと中村は結んでいる。