103(2017.8載)

 『私の体がワイセツ?!――女のそこだけなぜタブー――
 
(ろくでなし子、筑摩書房、2015.5)

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 昼間は文化放送の「大竹まことゴールデンラジオ」を聞いている。ある日、「姫野カオルコ」という美しい名前の作家がゲストに来て、 ペンネームの由来をトツトツとした口調で話しだした。「とても美しい名前だとおもわれているみたいですけど、姫というのはおまんこのことで、……」 といったとたんスタジオが緊迫し、大竹が「2度はナシですよ2度は。いっちまったものはしょうがないけど」とさえぎった。 姫野氏はどこ吹く風といった感じで、「ア、いけないんですか。 それが香るということはクサイということで……」「2度はだめですよ」確信犯だなとわたしは感じた。

●体の一部に過ぎないのに

 ろくでなし子1972年S県生。広告で本書のタイトルを見た瞬間、「あ、そうか」と一瞬にして腑に落ちた。そういわれればそうだ。 まんこは、目・鼻・口もしくは手・指・爪とともに体の一部を指すことばと平等であって、なんらさげすまれる理由はない。 チンコ・キンタマなど男性の陰部に関してはさほどタブー視されることがないのに、なぜ女性の陰部はタブーなのだろう。

   著者のろくでなし子は、「みんなまんこから生まれてきたのに」何をいやがっているのという素朴な気持ちから、まんこアートを始めた。 自分のまんこの型を取り、それをもとにさまざまなオブジェを作るのだ。

 警察の家宅捜索をうける場面から本書は始まるのだが、警察は著者のまんこをかたどったオブジェを見ても、その3文字がいえず、
「これは五十嵐さん(本名)のアソコですか?」
「はい、わたしのまんこです」といった珍妙なやりとりをずっと続ける。ところが、要するにこれは慣れの問題で、小一時間もすると、 「こっちにもまんこありました」と口にできるようになる。

●留置場・裁判所における「まんこ」の戦い

 警察署での取調べも、刑事は「この3文字は“女性器”にいいかえてもいいよね」といったり、黙秘権のあることをいいわすれ、 《しかし、告げ忘れた事実をKくんは供述調書に書こうとしません。ムカついたので、「黙秘権があることはあとから聞かされ、渋々了解した」 という一文を入れなければ絶対に署名しない!とわたしは言い張りました。Kくんは「ちっ」と舌打ちしつつもわたしの言うとおりに書き直したので、 こちらが強気になりさえすれば、言うことはだいたい通ることがわかりました。》逮捕予定のあるひとは参考にするように。

 しかし無知はいかんともしがたい。弁護士を呼んでくれというと、「当番弁護士は1回だけタダで呼べるけど、以降は40万〜50万かかるよ」と嘘をつかれ、 あきらめる。あとはお定まりの留置場風景だが、女性ならではの生理用品に関する嫌がらせは初耳で気の毒。 とにかく嫌がらせの連続で、早く罪を認めさせようというのが留置場側の戦略。だが判決のおりた刑務所ではない。 推定無罪の被疑者にこんな嫌がらせをしていいものだろうか。特に見逃せないのは、権利として認められている「不在者投票」が、 看守に「あなたが不在者投票をすると、市役所や区役所の人にあなたがここにいることがバレちゃうよ〜? それでもいいの〜?」とおどされる。 《公務員が誰かの個人情報を悪用することは犯罪です。そんなことは警察が一番知っているはずなのに、なんと愚かな脅しでしょう。 何も知らない人ならビビって選挙を棄権するに決まっています。》たいしたものだ。 留置場に入る予定のあるひとはしっかりした常識を身につけておかなければならない。

●支持してくれるのは海外のメディア

 逮捕時にはあれだけわんさか来たマスコミも、釈放会見のとき来たのは海外のマスメディアだけ。 後日、日本外国特派員協会に呼ばれ、そのさいの反応は「こんなことでアーティストを逮捕する日本はクレイジーだ」というのが全体の論調だったよし。 ちなみに釈放後おこなわれた会見でも海外メディアの論調は同じ。なかには「かなまら祭り」(毎年4月の第1日曜日に、川崎の金山神社で行われる、 巨大な男性器をみこしなどにして練り歩く神事)はOKで、なぜまんこアートはダメなのかという質問がとんだり、 BBC、ロイター、ウォールストリートジャーナルなどがとりあげたので、MANKOということばが世界中を駆け巡ることになった。

 さらにアメリカの「クリトレイド」という、主にアフリカ28ヶ国で女性器を切除された被害女性に無料で女性器の再生手術をしている慈善団体から 「女性器の貯金箱を作りたいのでデザインしてほしい」という申し出を受けた。 クリトリスを切除し女性の性感を取り去ることによって、男性が女性の性欲をコントロールする習慣。 この習慣については「障害中年乱読日記」bP9『セックスウォッチング――男と女の自然史――』(デズモンド・モリス著、羽田節子訳、小学館)にも書かれていた。

●「まんこ」連発におびえる裁判官

 小さな法廷に傍聴希望者が125人、傍聴券が出る。父親や友人知人の顔も見える。《わたしはずっと待っていました、法廷で「まんこ」と言える瞬間を……。 (中略)すると、わたしが「まんこ」といった瞬間、裁判官がうろたえました。/「その言葉を使い続けるなら、発言を制限します!」(中略) しかしわたしはこの裁判官の言葉狩りこそまさに疑問にしてきたテーマだったので、発言を辞めるわけにはいきません。 意地になってまんこを言い続けると、/「言い方を工夫しないと退廷を命じます!」/裁判官、怯えすぎ。工夫って何でしょう?  まんこの前に「お」を付ければいいのかな?》

 結局、退廷させられたのでは主張の一部もいえないので、多少の後悔を交えながらも「女性器」といいかえる。ほんとうはこういいたかった。 《意見陳述書 平成26年12月22日 東京地方裁判所裁判官殿/ろくでなし子こと五十嵐恵 (中略)私は自分の体の一部に過ぎない「まんこ」が何故日本では悪いもの、汚らわしいものとして嫌われ、 「まんこ」という三文字を口にするだけでも怒られたり恐れられたりするのか疑問に思い、この活動をしてきました。 同じ性器でも、男性の「ちんこ」はOKなのに、女性の「まんこ」はTVでタレントが口にしただけで番組降板にされる。 おかしいと思います。私は自分が作品を作れば作るほど、人が生まれてくるこの場所だからこそ、むしろ大切にすべきなのに、 その逆の扱いをされることに怒りを覚え、その怒りをバネに、楽しく明るいまんこ作品を作ってきました。》 裁判所でいえなかったことの真意を表現できる出版メディアはすばらしい。筑摩書房えらい。

●クラウドファンディングで募金

 3Dプリンターの出現に触発され、巨大まんこの製作を思いつく。しかし、3Dプリンターは高額で手が出ない。 ITに詳しい友人に相談すると、それならクラウドファンディングで募金すればいいとの答え。著者はCAMPFIREというサイトの家入一真氏に相談。 まんこアートというだけで却下されると思いきや、「ただ3Dプリンターで大きなまんこを作るだけじゃ具体性がないから、 乗り物でも作ったらどう?」というアドバイスをもらう。2チャンネルが「バカじゃねえの」とたたいてくれたおかげで注目が集まり、 1週間で目標の50万円以上が集まり、マンボートを作る。「これをスイスのレマン湖に浮かべてこぐのだ!」 アートとはそれまでの常識や既存の価値観を覆すもの、という岡本太郎のことばを後ろ盾に、ろくでなし子は意気軒昂だ。

●うんこ・しっこ・ちんこ、……あんこ(^^;)

 2014年5月、新宿眼科画廊で初の個展「子どもでも遊んで学べる科学博物館のようなまんこのテーマパーク」開催。 会場には「ご当地まんこ名称」を書き込める白地図も用意。北海道では「だんべ」、東北は「べっちょ・あぺちょ」、静岡「つんび」、 関西「おめこ」、九州「ぼぼ・ちょんちょん」、沖縄「ほーみー」。外国人も書き込んだ。 ドイツ「ムシ」、アメリカ「カント」、スペイン「コニョ」、フランス「シャ」。日本だけでも地方によって無数にあるのだから、 世界にまで手を広げたらきりがない。

 わたしもろくでなし子支持で、まんこといって何が悪いとはおもう。特に幼女のふっくらした外性器は「マン」の音を当てるのが最もふさわしいと感じる。 愛称語尾の「コ」を付ければなおさらかわいい。――とはおもうが、日常生活ではやはり口にしにくい。『広辞苑』ですら「まんこ:女性器をいう俗語。」 と記載する時代になってもだ。男性のちんこが良くて女性のまんこが認められないのは、ちんこが物体しか示さないのに対し、 まんこは性行為をも指すからではないか。

 むかし女性雑誌が女性器の新しい呼びかたを募集したことがあった。その結果1位は「割れ目ちゃん」だったような記憶がある。 なんともイヤラシイ印象を受けた。わたしは「ヒメ」がいいとおもう。体の一部に過ぎないとはいえ、むやみに人目にさらすべきものではなく、 やはり秘めおくべき箇所だとおもうからだ。アメノウズメノミコトがチチとホトを出して踊るのを見て諸神が拍手喝采したという伝説は、 神代の昔からそこは秘部であったことを証拠立てている。そういえばホトもあったな。 『広辞苑』には「凹所の意」とあるが、意味はともかく音が合わない。わたしは漢字を当てるなら「火処」だとおもう。 一刻も早く受入れを望む段階になると火のように熱くなるからだ。

 古来貴人の娘を「姫」という。ヒメと読む。これはお屋敷の「奥」に鎮座する女性を奥さまと呼んだように、 養われて深閨にあり人未だ識らぬ息女を「秘め」と呼んでいたのではないか。ヒメはヤマトコトバだから、漢字を宛てるさい「姫」の字を用いたのだろう。

●クールベの絵を見よ

 裁判では被告側証人として上智大学国際教養学部長の林道郎(ミチオ)教授(美術史)が弁護側証人として出廷し、 弁護人の「女性器をモチーフにすることは芸術史ではあることですか」という質問に対し、「たくさんあります。古くは原始時代から、 近現代でもクールベの描いた女性器の油絵は(パリの)オルセー美術館に常設展示されている」と証言した。

 クールベ(1819〜1877)は中学校の美術の教科書に「波」が乗っていた。写実的な画風が気に入り、後年どこか忘れたが展覧会が開かれたとき実物を見た。 女性器の絵はなかったようにおもう。50年前のことだから学芸員もためらったのだろう。だがいまは「グーグル・イメージ」でも見られる。 時代は変わったのだ。太り肉の女性がすこしももをひらいてよこたわり、画家の視点はやや斜め上にある。 だが女性器というものは開いてなければただの縦線に過ぎない。いくらドアップにしても猥褻性を感じることはできない。 むしろわたしが感嘆したのは縦線の上にある豊かな陰毛のほうだった。

 「今回のことは、芸術史に記録される価値はあるか」という質問に対しては、「こうして裁判が起こっていること自体が記録されることになるでしょう。 現代美術が法廷で争われた初の事例と思う。仮に有罪となれば日本の後進性が明らかになり、汚点として残る」などと熱心に擁護した。 さて結審はどうなっただろうか。