104(2017.9掲載)

 『戦場体験者 沈黙の記録
 
(保阪正康、筑摩書房、2015.7)

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 保阪正康(ホサカマサヤス)、1939年札幌生、同志社大文学部卒後、出版社勤務を経て著述活動に。 昭和史に関する本が多い。本書は「ちくま」に2013〜2015にかけて連載したもの。取材時は30〜40代の働きざかりだったのではなかろうか。 時とひとを得た名著。

 本書を執筆するに当たって4000人の戦場体験者に取材した(戦争体験者と戦場体験者は異なる)。 《私たちは今、太平洋戦争そのもののありのままの姿をまだ十分に検証し終えていないのではないか。 なにも負の遺産を記録として残すというのではなく、改めて記憶を父とし、記録を母として、教訓という子供を生み、育てていくべきではないか。 その労を惜しんではならないということだろう。それを忘れると、私たちは〈歴史〉から復讐されるにちがいない。》 このような信念を随所でくりかえす。わたしなりの着眼点は3つ。戦友会、軍医・衛生兵、戦場における性。

●戦場体験者に聞く

 空襲などの戦争体験者にくらべ、戦場体験者は少ない。日本では戦場体験者の声はあまり取り上げてこられなかった。なぜか。 終戦直後にはGHQが大本営作戦課長だった服部卓四郎を雇ってアメリカの意に沿い、なおかつ大本営の軍事戦略を正当化する資料を作らせたからだと保阪はいう。 太平洋戦争から50年経過したころから《戦場から離れた師団司令部、軍司令部、そして東京・三宅坂の大本営の参謀たちから戦記を書き始め》たものの、 戦場の前線にいた兵士たちが筆を執って表す書はほとんどなかった。参謀たちの戦史は、自分は戦場に身を置いていないから、自己弁明が多い。

  T 戦友会の果たした役割

●踏んだ側も終生忘れない

 昭和の終わりから平成にかけて、老人医療に携わる医師たちのなかに奇妙な体験をする者がふえはじめた。 《もう死も迫っている老人患者が、突然ベッドに正座し、なにやらとりとめもない言葉を吐いて謝罪を続けたりする。 なかにはいきなりベッドから飛びだして廊下を走って外に逃げようとする患者のケースも聞かされた。/ 「医学的にはありえない状態でのことですよ」/という医師に、それとなくその老人患者は戦争に行っていたのか、 もしわかるならどの部隊に属していたのか、そのことを家族に確かめてほしいと私は頼んだ。知り合いの医師は、 わたしの質問に怪訝な表情であったが、それでもそういう患者の所属部隊を聞き出した。大体が残虐行為を働いた部隊に属していた。 このことは何を物語るのか。》といって次のように結論づける。重要なところだ。

 《残虐行為を働いた部隊の元兵士や元将校は、その記憶に終生悩まされている。心の底にどれほど隠蔽しようとしていても、 それは死の瞬間に浮上してくるほどの強さを持っている。元兵士たちのこの苦悩について、私たちの社会がより残酷に政治的に扱うことで、 彼らは二重の苦しみを味わっている。足を踏んだ者は忘れても踏まれた者は決して忘れない、というのはまったくの嘘で、踏んだ者も決して忘れていない。》

●末端兵士の苦しみ

 《戦場での過酷な記憶を持つ者は、日本に戻ってから生活者として家庭を持ち、日々の安寧のなかに身を置くと、 その次に必ず「自分の一生はこれでいいのか。あの戦場体験の過酷な思いを語り継がずに死んでいいのか」と自問自答するようになる。 私はこれまで延べにして四千人近くの人に会って、戦争体験を聞いてきた。その中で戦場体験を克明に語ってくれた元兵士は五百人ほどでしかないが、 彼らは必ず“誰かに”自らの体験を語って死にたいとの思いを持っていることに気づかされる。/ なぜだろうか。私の体験では彼らの心底には、「良心」ともいうべき核があり、どれほど日々の生活の中で抑えていたとしても、 あるいは忘却という意識で潜在化させていても、それは老いの日々の中に必ず復元されてくるものだ。(中略) (中国人大量虐殺者の)鵜野は私に対して「簡単にいえば良心のうずきというものでしょう。晩年になればこういう感情につき動かされるわけだし、 なにより卑怯な言い方になるかもしれないが、もともと性おとなしい自分をこんなふうに変えた陸軍の組織原理に心底から腹が立ってくるんです」とも話していた。》

●一般的な戦友会の姿

 戦友会というと、読者はどのようなものを思い浮かべるだろうか。戦後、予備学生の同期会に出てあきれかえり、2度と出席しなかったという者は、語る。 《この同期会なるものが黒線二本のついた士官略帽をかぶり、当直学生の腕章を腕に巻いた、かつての戦友が当時のままの調子で大声を発する、 その奇怪さだという。「総員、手を洗え」の号令のもと食卓につき、「かかれ」で食事をして、同期会の最後は「同期の桜」でお終いという光景である。 なんのことはない、戦時下の海軍予備学生の生活をなつかしんでいるだけである。》これが戦後の日本で最も一般的だった戦友会の光景なのだそうだ。 保阪はこれを、ここにはまったく戦争の記憶も記録もない。むろん教訓もないといって批判する。

 戦友会の数は、昭和50年代から平成にかけて、6000以上あった。敗戦時20代前半だった一般兵が50代になり、 戦場体験を語ることができるようになったからだ。《戦後社会にあっては戦友会には、大要次のような役割があった。》と保阪は7項目にまとめる。

 1.昭和陸海軍の軍事行動正当化
 2.戦史を一本化するための統制
 3.兵士相互が戦場での行為を癒す
 4.戦後社会での人間的支援関係
 5.「英霊」に対する追悼と供養
 6.軍人恩給支給などの相互扶助
 7.選挙時の集票機関としての役割

 ――といわれても面白くもなんともないのだが。それもそのはず、1では軍隊内の階級が生きていて、日中戦争、太平洋戦争の正当化が前提になっていた。 2では、一般兵士が「大本営が書いていることは、われわれが体験した戦闘内容と違う」と発言したところ、 かつての連隊長が「おい、一兵士風情が大本営の戦史に口を挟むな」と声を荒げた。3は部屋を閉め切りおたがいのPTSDをなぐさめあう。 4は、戦後有力者になった元将校が、かつての部下に伴侶や職業を世話したりして、上官である職業軍人への批判をつつしむ 。5は、靖国神社国営化運動。6は、軍人恩給をもらうため何人かの戦友の証言が必要なため。 7は、文字どおり選挙のときの集票機関で、自民党の補完勢力。という役割があったからだ。わたしは3がとりわけ重要な機能だとおもう。

 「元兵士たちの苦悩をわたしたちの社会が残酷に政治的に扱っている」というのはどういう意味なのだろう。 たとえば「南京大虐殺はなかった」というコンセンサスを醸成しようとしているといったことだろうか。 保阪はこう書く。《「戦争」について単に政治上の麗句で語る傾向が戦後社会にはあり、それが戦争の本質を伝えにくくしてきた。 そういう継承には幾つかの特徴があり、それがあたかも「戦争を語り継ぐ」ことであるかのように教えられてきた。 典型的な例は戦時指導者の側から戦争を語ることである。「あの作戦は参謀の立てた戦略・戦術は良かったのに現地の司令官や兵士たちの戦い方が悪かった」という言や、 「今次の戦争では日本軍は決して負けたのではない。一にも二にも現地軍の戦術が下手だったから」といった分析がその例である。 戦時指導者の責任を免罪する言は、戦後社会に一定の流れを作っている。》これを読んだだけでも、ジワジワと腹が立ってくる。 つぎを読んだら、もう耐えがたくなった。

●「処分せよ」とはどういう意味か

 本書を読んでいて最もはらわたが煮えくりかえったエピソードは次の一節。日本軍の、あるいはどの国の軍隊もそういうものなのかもしれないが、 上官が部下に責任をなすりつける心胆を寒からしめる話だ。

 《ソ満国境の警備隊に身を置いていた下士官のA氏から、「もう自分は耐えられない。君に話すから覚えておいてほしい」との前提で聞かされた証言は、 私にはとうてい信じられない史実であった。以下にその話も記録していく。》老人医療に携わっていた医師に戦場体験者が語ったことは……。 《自分は今でも四、五歳の子どもを正視できない。むろん抱くこともできない。その年齢の孫が家に訪ねてきたときはすぐに家をでたこともある。 なぜなら自分も三光作戦(焼き尽くせ、殺しつくせ、奪いつくせ)に従事し、村落を焼き払ったあとに四、五歳の子供が村から泣きながら出てきて、 自分たちの後ろについてくる。上官の将校にどうするかと尋ねると、「始末せよ」と命じられた。それで……撃った。 戦後になってこの上官に、「あのときは苦しかった」と言ったら、彼は「始末せよとは言ったけど、殺せとは言わなかった」と言いだして驚いた。 兵隊が苦しんでいるのに、彼はその責任から逃げようとしているのだと知って、彼に対して殺意の衝動さえ起こった。》

 なんという詭弁を弄する将校だろうか。殺した兵士は完全にPTSDにかかって何十年も苦しんできたのに、将校は、そんなこともあったっけかなあという調子で、 「始末せよとは言ったけど、殺せとは言わなかった」と平気の平左だ。戦友会でのことだろう。あのころなら座敷に麒麟の大瓶が林立していたはずだ。 もしわたしだったらビール瓶の首ひっつかんで殴りかかっていたことだろう。要するに戦場体験によりPTSDをかかえた者は、 それを心の奥底に押し殺して生き、各戦争のあとの日本の平安を保ってきたのだ。「変なおじいちゃんねえ、孫の顔を見たくないなんて」などとそしられながら。

●PTSDをいかにして乗り越えたか

 アメリカのホームレスの3割は戦場からの帰還兵だといわれている。残虐な戦場体験がもとで頭がおかしくなり、悪夢やフラッシュバックに悩まされ、 日常生活に適応できなくなるせいのようだ。本書を読むまで「軍需産業のために戦争ばかりやっているからだ」と冷ややかに見ていたが、 考えてみれば日本も日清・日露からアジア太平洋戦争まで多くの戦場体験者がいて、そのひとたちがPTSDを抱えていたとしてもなんら不思議はない。 それならわが父祖たちはいかにして日常を素知らぬ顔して過ごせたのだろう。

 イラクの「非戦闘地域」に派遣された自衛隊員(延べ2万人)ですら、わずかな駐留期間に35人の自殺者を出したという。 戦争がいかにひとの心を狂わせるかが分かる。もっとも当時の小泉首相は、「自衛隊の派遣されるところが非戦闘地域だ」と世にも珍妙な答弁で乗り切ったが、 自衛隊内部文書によれば、宿営地には迫撃砲やロケット弾などによる攻撃が10回以上発生、サマワ近郊ルメイサでも群衆による抗議行動、投石などを受けた。 第1次復興支援群長をつとめた番匠氏もイラク派遣を「本当の軍事作戦だった」と総括している。 ひょっとしたら戦死者が出たのを自殺といってごまかしているのかもしれない。

 体制側にとって都合の悪い真実は常に隠蔽される。たとえばアジア太平洋戦争では特攻機の無線は常に「オン」になっていた。 参謀たちはその機体がアメリカの空母に体当たりするかどうか聞き耳を立てている。ところが「海軍の馬鹿野郎」などと口にする者、 部外秘にせざるを得ない発言も多数あった。そういう事実を伏せたままだと、「戦争の本質」を見誤ることになる。

 お話かわって――。大雨のなか明治神宮外苑競技場でおこなわれた出陣学徒壮行会で行進する学徒の映像は、誰しも一度は目にしたことがあるだろう。 戦域の拡大、戦死者の増大などで兵隊不足になり、主に文科系の学生が召集された。なぜ文科系の学生から取られたか。 保阪は、学徒は一般兵士と異なり知的な訓練を積んでいるので、その目で「大東亜戦争」を見つめたら、大日本帝国の虚構が一気に解体してしまうからだとみている。

●癒やしのための戦友会

 元兵士I氏に頼み込んで、保阪はI氏の係累として戦友会に出席した。《二十数人の元兵士たちが集まり、当初は誰もが機嫌よく酒を飲んでいた。 誰かが「君は何者か」と尋ねてきた。すぐにI氏が、「私の親戚の者だ。戦争体験について調べている」と答えると、 「でも退出してもらったほうがいいのではないか」との意見が会員から上がった。「とにかくここで見聞したことは誰にも言わない」 と確認して私も話が聞けるようになった。/戸は締めきり、彼らだけの会話が始まった。 やがてひとりの元兵士(戦後は鉄鋼メーカーに籍を置く平凡なビジネスマンだということだが)が、銃を構えるふりをして、 「おれは中国人(保阪注・この語を蔑称で口にしたが)を一発で二人殺したよ……」と言いだす。 私は、なんだこの男は……と不快な目で彼をにらんだ。すると別な人物が、「俺はさ、やっぱり女性を撃ったときが辛かったけど、 こうしてもんどり打って転んでさ……」と言い、ほかの誰かが、「おまえなんかまだいいよ。俺なんかさ……」と何人かの中国人捕虜を殺した話を始める。 私は、彼らはなぜこんな話を自慢げにするのだろう、といぶかしく思った。「これが戦友会か……」と私は気を滅入らせながらつぶやいた。 しかし間もなく、彼らはこうした罪の心理を吐きだして、仲間だけで助けあっていることに気づいた。/彼らは苦しんでいた。 平時の今、戦場体験という不条理を記憶の底に沈めながら、とにかく苦しんでいるのである。それを仲間どうしで助けあっている、つまり相互にケアしているのである。 思いきりあの時代の罪業を口にすることで、仲間うちで癒しあっている。》

 I氏は、《「彼らは家に帰ると戦争の話などしないでしょう。子供や孫に聞かせられませんよ……」と、戦友会の真の役割を私に語った。 「なにも戦争を賛美するのではなく、戦争の苦しさから逃れるための戦友会なんです。これがほんとうの戦友会ではないですか」とつぶやいた。 私にはその意味がよくわかったのである。》

 この一節は重要だ。本書の白眉といってもいいかもしれない。なぜアジア太平洋戦争後、 帰還兵の大半がアメリカ兵のように精神疾患を患うことなく何食わぬ顔で経済復興に邁進できたのか。その鍵は戦友会にあったのだ。 世界中でひとを殺しまくっているアメリカでは、そのあたりはどうやって解決しているのだろう。 たぶん個人的に教会の箱の中で懺悔するという方法か、精神科医にかかるかしているのだろう。そういう方法を採れない者がPTSDになってゆく。

●「戦陣訓」の筆者東条英機の生きざま

 昭和16年1月、東条英機陸軍大臣は全軍に「戦陣訓」を示達(ジタツ)した。例の「恥を知るものは強し。 常に郷党家門の面目を思ひ、愈々奮励して其の期待に答ふべし。生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」というやつだ。 I氏の戦友M氏が語るところによれば。《中国南部、あるいはニューギニアの戦場でか、とにかく病人を残して撤退することになった。 負傷者の中でも重傷者は連れて撤退するわけにはいかない。軍医はそういう重傷者に青酸カリ(軍によっては赤玉という言い方をしたという) を飲ませるように衛生兵に命令する。自らがその役を引き受けるのは厭なので大体が衛生兵に任せて逃げる。》

 「重傷者といえども意識はありますから、口をつぐんで飲むまいとする兵士もいる。これはくすりだといって飲ませるわけだが、 赤ダマと皆わかっているから口を開けません。そこで両手で頬をはさむようにして強引に口を開け、赤ダマを口の中に投げ込むのです。 そして死亡させるわけです。私も軍医の命令で飲ませたのですが……」

 これを1990年代に聞いた保阪は激怒した。《戦陣訓を示達した当人は、アメリカ軍のMPが逮捕に来たとき(昭和二十年九月十一日)、 ピストルで自殺を図り、銃弾がそれて死に損なっている。これこそ昭和陸軍の「大いなる恥」であり、当人がこのことにとくに申しわけなさを感じていないのに、 昭和陸軍の兵士たちは「大いなる恥」を自覚して死んでいっている。この矛盾の中に昭和陸軍の真実が隠されている。》 本当に死のうとおもったら銃口をくわえればいいんだよ、陸軍大将のくせに根性なしが。(つづく)