105(2017.10掲載)

 『戦場体験者 沈黙の記録
 
(保阪正康、筑摩書房、2015.7)

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(9月号からの続き)

  U 中国人強制連行の記録

●敵国国民を強制労働させる無法

 中国人、朝鮮人を日本に連行し、炭鉱や銅山などで強制労働させた記録は、昭和20年8月14日に日本政府や大本営が焼却させた。 もっとも政府が焼却しても、現場を目撃した日本人庶民は証言しており、本コラムでも幾度かとりあげた。 強制連行の理由は、青壮年に赤紙が来ることによって日本の労働力が不足したこと。労働に対する対価はいっさい払われなかったという。

 朝鮮人の強制連行は昭和14年(1939)から実施。皇民化の名のもとにおこなわれた同化政策を大義名分としている。 一方中国人の強制連行は、戦時下の敵国人を一方的に連行して労働を強制したという点で、はるかに多くの戦時法規に違反しているといえるのだそうだ。

 保阪は2000年、強制連行された王鳳年という老人にハルビンでインタビューしたのだが、「ニシオカの使いの者ではないのか」と王はひどく怯えていた。 ニシオカは1944年のある日、突然王を拉致した憲兵の名前だった。青島で貨物船の船底に閉じ込められ、 《そこには砂利が積んであり、三百人ほどの中国人が詰めこまれました。窓はひとつしかなく、ただ皆で身体を寄せあっているだけで、 一日に二食、それも小麦粉のおかゆのようなものがはこばれてくるだけでした。》大小便のときは船上に出て、 船のはしにかかっている板に足をかけ、そこから海中にする(もっともこの方法は虐待ではなく、日本人の下級船員もこの方法でしていたのではないかとおもうのだが、 農民にはおそろしく、落下して死ぬ者も出たので、夜は部屋の隅にいって用を足した。においがひどかった)。 《大体は私と同じ二十代の若者だったが、たいがいの者は泣いていた。もう両親とも兄弟とも会えないのだろうかと、 なかには夜どおし声を上げて泣く者もあった。》結局北海道のどこかの炭鉱で鉱石担ぎの日々を暮した。 保阪が給与は払われたのかと聞いてもなかなか意味が通じなかった。わずかな食料が与えられただけだったのだ。 朝起きられない者はニシオカに殴る蹴るの乱暴を受け、殺された者もあった。だからいまだにニシオカと聞いただけで怖い。完全な奴隷制度だった。

●中国人1000万人以上を殺す

 2000年、中国東北部を10日間視察。731部隊跡、平頂山などいくつか日本人による残虐行為のあった記念館などを見て回った保阪は、大きなショックを受けた。 満州事変後1年、平頂山の村民3000人を村の一角に集め数台の機関銃でなぎ倒す。まだ息のある者は銃剣で刺し殺した。 死体の処理に手間取った日本軍は、ダイナマイトで穴を開け、遺体を埋めた。その作業は中国人にやらせた。箝口令を敷いたとはいえ、 数十人は生き残ったのだから、いつかは露見する。遺体が掘り起こされたのは1972年、そのあとに遺体館が建てられる。 《掘られた土の中から遺骨が見えるが、そこには幼児と覚しき骨もあり、見る側にはなんとも耐えられない光景であった。》

 1961年、「日中友好元軍人の会」という団体が組織された。「軍備亡国・憲法死守」をスローガンに掲げた。 右翼団体からは非国民・売国奴とののしられた。日中友好が、日本軍が過去になした罪への贖罪という意味だったからだ。 この会の事務局長永井洋二郎は語る。《会員のある将校は、永井に対して「あまり世間には知られたくないのだが……」と言って、つぎのように語った。 /「いわゆる南京大虐殺に関わった部隊の将校は、こうした記憶を幾つも自らの中に抱えているという意味での重要な証言者なのです。 倉庫の中に中国人を大勢詰めこんで(注・まるでアウシュビッツに列車で運ばれてくるユダヤ人のようだったわけだが)、 そこから何人かずつ引きだして揚子江の前に並べて機関銃で次々に殺したのです。むろんここには兵士だけではなく、一般市民もいたわけですが、 何隻かの船のスクリューを早くして川の流れを強くしていたので、死体は次々に川に流れていきます。それを終日続けた。 死体は揚子江から海に流れていったことになり、その数は正確にはわかりません。こういうケースは伏せられています。 なぜなら当事者が口にしないからですが、その分だけ彼ら兵士、将校の中には戦後になってもその記憶から抜けでることができずに苦しんでいる者がいるのです」》 記憶にさいなまれる元兵士のケアなどまったくなされない社会だった。

 このような指摘は枚挙にいとまがない。《一九三一(昭和六)年〜一九四五年までの一五年戦争の間、日本は中国侵略戦争で、 一千万人以上二千万人とも云われる中国の国民を殺し、その上、掠奪・放火・強姦・拉致など残虐の限りをつくしている。》 そんなに殺しているとは知らなかった。これでは中国が「正しい歴史認識」を日本に求めるのも無理はない。

●エリート軍人の説く「軍備亡国・非武装論」

 「日中友好元軍人の会」の中心になったのは、元陸軍中将で戦後は護憲運動や非武装・中立路線を訴えつづけた遠藤三郎。遠藤は保阪に語った。 《これからの日本は軍備をもたない国として、国際社会の信頼を得ていく以外にないともくり返した。 こうした軍事論の中で、私が興味を持ったのは、日本のような細長い国、つまり広大な地が国の奥地にまで広がっているとはいえない国は、 防御のための軍隊を持ったとしてもさして意味がないとの指摘であった。》初めて聞く軍事論。 遠藤は仙台陸軍幼年学校、陸軍士官学校、砲口学校を経て陸軍大学校に学んだ陸軍のエリート。

 遠藤の軍事論もさることながら、軍事指導部に属するエリートたちには戦場体験がないという記述には、そうだったのかと虚を衝かれた。 遠藤も戦争についての批判はくりかえし語っても、戦闘については語れないし、職業軍人として育ったゆえに、 ヒューマニズムとか人間性に対する感性は驚くほど鈍磨していたと保阪は批判も忘れない。やはり現場を踏むことほど人間を成長させるものはないのだ。 遠藤は「日中友好元軍人の会」の主催者であるにもかかわらず、一般兵士のような中国戦線での体験に基づく贖罪意識に欠けていた。

 日本軍はなぜそんな蛮行を働いたのだろうか。「日中友好元軍人の会」の機関誌『8.15』に従軍獣医が投稿している。 「戦場で、食料はすべて現地で略奪。時には農耕用の水牛も殺して食べました。(中略)親しい戦友が次々と戦死してゆきますので、 激しい憎しみが中国兵はもちろん、捕虜や老人・女・子供の住人にまで注ぎます。日本人は曾我兄弟や忠臣蔵で幼児の時から外国にない仇討ち思想を教え込まれています。 さらに悲しいことに、当時の日本人は欧米人にはペコペコしますが、中国人は蔑視し卑しめていました。」意外に平凡な回答。

 「日中友好元軍人の会」は24次にわたって中国を訪問し、第1次訪中団は周恩来総理とも会っている。 《周恩来 中国帰還者同盟の責任ある方々を招きたいと思います。(中略)ただし、その方々が中国へ来られてからも『謝罪する』ということは、 絶対に言わないように伝えてください。》周恩来の懐の深さに感銘さえ受けるのはわたしひとりではないだろう (それとも反省しないのは中国共産党の基本方針なのだろうか)。さらにこうも述べている。 「日本軍国主義の頭、東条英機ほか5名は特殊な役割を果たしたので責任がある。だが新聞に名前を出すと、彼らの家族に負担がかかるから、 東条ひとりにしておきましょう。中国では、若い人々に対して、『警戒心を持つべきではあるが、決して敵を討とうとしてはいけない』と教えています」 とまでいっている。家族にまで気を遣うとは……。現在の中国政府の反日教育とはえらくかけ離れているから、にわかには信じがたい。 周恩来は1917年来日、明治大学などに通っている。日本人をよく知っているのだろう。

 保阪が残虐行為のあとを見学したおりに、案内の外交部関係の人物から「どう思いますか」と問われ、 「こんな非道いことを行った日本軍の軍人、兵士にかわって私は謝らない。私自身がこんなことをしたわけではありませんから……。 でも一人の人間としてみれば、こんな理不尽なことは許されないと思う。もし日本が再びこのような道を歩むことになると思ったら、 私は生命をかけてでもそういう政策に反対します。私としてはそれだけしかいえないのですが……」と答えている。昨今だいぶ焦臭くなっているが、 保阪はなにかしているのだろうか。

 《中国戦線での日本兵による行為の記憶と記録の大半に目を通していると、私たちは真の贖罪の意味を問われていることに気づく。》 記憶と記録、これが本書でくりかえされるキーワードだ。真の贖罪をしなければいけないといわれてもわたしはどうしていいかわからない。 せいぜい本コラムを通じてひとりでも多くの日本人に「南京大虐殺はなかった」などという世迷い言を信じないでほしいと願うばかりだ。

 《私自身、これまで千人単位で兵士たちの戦場体験(大体が戦後社会にあって家族や友人にも話していない内容だが)を聞いてきた。 「えっ、本当にそんなことが……と問い返したくなるほどの事実はそれこそ数多く聞かされた。中国での三光作戦での話、山西省の毒ガスの話、 南方の島での現地の人々をスパイ容疑で斬殺する話など、思い出すだに嘔吐したくなる史実も多い。 (中略)戦後の日本社会の特徴は、中国での残虐行為を伝えられるたびに、「それは本当なのか」という声が一貫してあり、それが一定の力を持っていたことだ。》 「なんとひどいことを」と受け止めるより、「そんなことはありえない」と考えたほうが気は楽。 《歴史修正主義者が説く史実が、いかに根拠のない嘘が多いかを見ていけば、そのことはよくわかる。》

 三光作戦をデジタル大辞泉で引くと、「日中戦争下、日本軍が行った残虐で非道な戦術に対する中国側の呼称。 三光とは、焼光(焼き尽くす)・殺光(殺し尽くす)・搶光(そうこう)(奪い尽くす)。」とあるのだが、グーグルでこれを引こうとすると、 先頭に並んでいるのは、ほとんどが、そんなものはなかった、中国の謀略だ、洗脳されるなといった調子の、いわゆる南京大虐殺はなかった式の見出しばかり。 いかにおのれの非を認めるのがむつかしいかということがよくわかる。

●戦犯取材の心得

 1956年6月、中華人民共和国の最高人民法院が瀋陽の特別軍事法廷で日本人8人の戦犯をさばいた。 保阪は昭和5、60年代にこのうちのひとり鵜野某に徹底取材を試みた。職業軍人ではなかったが天津育ちで中国語が堪能だったので、 俘虜監督将校に抜擢され、共産党員の「始末」を命じられた。始末は殺害と同義。日本刀で28人を処刑。

 保阪が鵜野を取材した方法に、わたしは大いに心打たれた。《鵜野を訪ねた折に、彼は応接間に私を通そうとした。 「これからあなたの中国戦線での話を聞くのですが、それを応接間でお茶を飲みながらじっくり聞くというわけにはいきません。 隅田川の土手にでも行って、現実から離れて話を聞きたいんです……」と私が断ると、すぐにうなずき、私とともに近くの隅田川の土手にむかって歩いたのである。 その折に鵜野は、「君はそんな心配りをどこで覚えたのか」とさかんに尋ねた。 /「残虐行為の話を、お茶を飲みながら話すというのは、あなたの手によって亡くなった中国人捕虜がかわいそうではありませんか。 どこかに弔うという精神がなければこういう戦場体験の証言など聞いてはいけないと気づいたのです」》どこで覚えたのかという質問の答えにはなっていないが、 数多くの戦場体験者を取材するうちに自然と身についたのだろう。

 かくて60代半ばの鵜野と40代半ばの保阪は、隅田川土手にすわって話しはじめる。どこで覚えたのかという執拗な質問の裏にはむごい経験があった。 ある高名なジャーナリストが訪ねてきて、応接間で苦しいインタビューに答えた。家には誰もいないとおもっていたのに、 《ジャーナリストが帰ったあと、応接間のソファに座り、自らの辛い記憶を口にしたことの苦しさと闘っているときに不意に応接間の戸が開いた。 立っていたのは息子であった。》当時大学院生だった息子は、「親父、あんたというひとはそんなことをやってきたのか、ぼくはもうこの家にいたくない」といったきり、 2度と会っていないという。鵜野の視線は、「自分のような体験をくり返してはいけない」と訴えていた。

 しかしこの息子は大学院生にもなって、ずいぶん大人げないではないか。いったい誰に大学院まで行かせてもらったのだと、 そんな俗っぽいことはいいたくないが、『「ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか?」――ベトナム帰還兵が語る「ほんとうの戦争」――』 (アレン・ネルソン、講談社文庫、2010.3)では、小学校に講演に行って、「あなたは人を殺したか」と問われて絶句し、 恥ずかしさのあまり瞑目して「イエス」と答えたきり涙を流していたら、小学生たちがネルソンのまわりに集まり彼を抱きしめていたという。 ベトナム戦争関連のニュースに囲まれていた小学生たちは、帰還兵の苦しみまで理解できたのだ。 それなののこの息子ときたら父親がいかに過去の蛮行を悔やんでいるか、その苦しみを理解しようとはしない。

●中国の軍事法廷の実態

 鵜野は他の7人とともに裁判にかけられた。鈴木中将の罪状は以下のごとし。1942年10月28日、 《老若男女の全村民を村の入口に集めて、そこで男女を分けた。何人かの日本兵が鍬をさがしてきてそれで穴を掘らせたという。 大きな穴をつくり、その中に村民を追い込んだあとに、穴の上から草や穀物などをかぶせて火を付けた。 村民たちが逃げようと穴から出てくると、それを日本兵が足でまた穴に蹴落とした。それでもはいあがって逃げようとする村民を棒で殴りつけたというのだ。 /そして何人もの村民が撲殺された。/百名余の女性たちは一カ所に集められ、そして日本兵によって集団強姦されたという。 そのあとに銃剣で刺し殺されたケースもあった。》ある村民は、「日本の侵略軍がもたらした災難は一言ではとても言い尽くせません。 私は、法廷がこれらの残虐きわまりない殺人犯を重く罰してくださることを要求します」と証言する。 裁判長が鈴木師団長に、「これらの証言は事実か」と尋ねると、鈴木は、「証言はすべて事実です。私は心からお詫びします」と頭を垂れて罪を認めた。

 《あまりの惨状に高級将校も言葉を失ったり、なかには涙を流す者さえいたという。むろん百人余の傍聴者の怒りはすさまじく、起ちあがり、 被告たちに詰め寄ろうとする者もあった。》というし、《もし自制を失った傍聴席の農民たちが、廷吏の制止をふりきって被告たちに襲いかかったら、 それこそ殴り殺しかねない空気ができあがっていた。》

●禁固刑は「上級の指示」

 中国人の弁護士は、鵜野をこう弁護してくれた。「被告は幼少の頃より不可避的に帝国主義、軍国主義の洗礼を受けた。 日本の明治維新以来の急速な忠君愛国的天皇制教育を被告は徹底的に受けた。この結果、被告は“世界に冠たる大日本帝国・天皇”のために、 一身を捧げる思想に侵され、遂には自らが育った中国の大地をも踏みにじり、中華民族を蔑視し、果ては多数の中国軍民を虐殺するに至った罪は見逃すことはできない。 だがしかし、多くの日本人がそうであったように、被告も軍国主義の手先とならざるを得なかった面も十分に考慮せねばならないのは、 明白なる事実である」まことに公平な弁護といってよかろう。結局鵜野は帰国を許された。どのようなウラがあるのかわからないが、寛大な処置といわざるを得ない。

 その後(1956年)、獄を訪ねてきた母親にも自分の犯した行為を正直に話した。母は天津に40年も住んでおり、中国人とのつきあいも深い。 まさかわが息子が中国人にそんなひどい仕打ちをしたとは信じられない母は、大声で泣きつづけた。錯乱状態になる母親も多かったようだ。

 被告8人にそろって禁固刑がいいわたされたとたん、裁判所内は怒号に包まれ、証人や傍聴人は裁判長の席にむかって走りだす。 被告のひとり《藤田は傍聴人にむかって頭を下げ続けるだけでなく、/「私を殺して下さい。それでも恨みは晴らせないでしょうが…… この白髪首を叩き落として仇を討って下さい」/と叫んだ。鵜野は、中国人に残虐行為を働いた部隊の師団長は、このような態度をとるべきだと思いあたった、 彼らの復讐心を満足させるのに誰かがその責をとらなければならない。それが師団長の務めである、との思いであった。》 裁判長は、この判決は「上級の指示」だから変えられないと告げて裁判は終わった。鵜野が看守に聞き出したところでは、やはり周恩来や毛沢東の指示であり、 すぐ日本に返して日中友好に貢献してもらえとの方針を示したようだった。《ここには中国側の歴史的配慮があったことは事実であろう。 共産党の方針は、日本軍兵士に復讐・報復めいた刑を科すのではなく、自らの蛮行を反省させ、そして中国とのこれからの友好と不戦を誓わせ、日本に送り返す。 そうすると彼らはその恩義にこたえるために、必ず中国に好感を持つ日本人になるであろうとの計算があったことが窺えるのだ。》周恩来の助言ではないか。 わたしの観察では周恩来ほど立派な顔をした政治家は世界に類を見ない。

 もう一つ気づいたこと。日本の軍隊には、いや日本にはひとを殴ることをなんとも思わない文化があるのではないか。 日本軍人の一人は、「わたしは、ひとをたたくなどをなんともおもわず、あたりまえだと考え、街道でも中国のひとをずいぶん殴り、 また警察にひっぱりこんで殴りました。ところがわたしたちは管理所では一度も殴られなかった」と述べている。 日本人は家庭でも子どもを殴ることをなんとも思わない伝統があるのではないか。(つづく)