107(2018.1掲載)
『英語教科書は〈戦争〉をどう教えてきたか』
1956年生、和歌山大学教育学部教授、日本英語教育史学会会長。学校の英語教育が、若者をいかにして戦争に駆り立てたか、 それを調べるため30年かけて戦前の英語教科書数千冊を収集。学校の英語教育と戦争の関係を調べるのが本書の眼目ではあるが、 日本近現代史概説としても役に立つ1冊なので順を追って眺めてみたい。 英文のつぎに和訳が付してある。和訳は《あくまで参考であり、まずは英文をお読みいただければ幸いである。 このことは、学びの追体験に加えて、当時の英語教育の水準を知る上でも欠かせない。たとえば旧制中学の3年生は現在の中学3年生と同じ学齢であるが、 英語の水準は現在の検定教科書とは比較にならないほど高度であることに気づかれるだろう。》 こんなこといわれたら、とうてい原文を読む気になれない(笑)。ただし旧制中学に進めたのは、ほんの一握りのエリートだけだった。 T 日本の行く末を決定づけた本 ●文明開化を国の指針にした福沢諭吉 1冊の本が国の行く末を決定づけることがある。幕末・明治にかけて輸入された『ミッチェル地理書』は、日本の知識人たちを愕然とさせた。 なぜならそこには、「世界の文明は野蛮・未開・半文明・文明・開花の5段階に分類されており、 自分たち日本人は開化した西洋人よりも2段階も劣る半文明の段階にある」と書かれていたからだ。 Civilized and enlightened nations(文明開化国)の典型はアメリカ、イギリス、フランス、ドイツであるという得手勝手な理論は、 19世紀の帝国主義と植民地主義のバックボーンから生み出されたものに過ぎないとおもうのだが、白人に弱い日本人はこれをためらいなく受け入れた。 また悲しいかな日本人ときたら、5世紀ごろ漢字が伝来すれば中国一辺倒になり、学問といえば漢籍を読み書きすることで、 大和言葉を書くための仮名を発明してからも、幕末になるまでの1000年以上日本文学などさげすんで一顧だにしないという徹底ぶり。 で今度は産業革命をなしとげた欧米だというので舶来の『ミッチェル地理書』の邦訳(明治5年刊)を読んだら、日本は半文明国だと書いてあるので、 史上2度めの大驚嘆だったのだ。極東の島国だから世界を知らない。「そうかあ、わしらは劣等国だったのか」とたそがれてしまったのかとおもったら、 そうではなかった。 本はたくさん読まなければいけない。『日本語を作った男――上田万年とその時代――』(山口謠司、集英社インターナショナル、2016.2)を読んだら、 文明開化国の神髄は一神教にあると考え、明治政府は教導職というものを設置した。生活の根底にあるものをキリスト教に匹敵する「一神教」にしようと考え、 天皇を万世一系の神として崇めることにしたのだそうだ。なるほど、なぜ明治になって急に天皇を至高のものにしようとしたのか、 これでわけがわかった。急ごしらえだから早晩破綻するのだが。 文部省は、歴史の教科書として『パーレー万国史』を選んだが、内容は『ミッチェル地理書』と大同小異。 西洋文明中心の歴史観をとりいれ、日本を「部分的開化段階」と訳さざるを得なかった。こうした歴史観は、日本の英語教科書では大正時代まで残った。 国語の教科書にもこの思想は取り入れられたから、日本人全体が西洋文明中心の思想に取り込まれていったことは想像に難くない。 ●アジア東方の悪友を謝絶するものなり ここで登場するのがオチョーシモノの福沢諭吉だ。彼はヨコのものをタテにして有名知識人として成功した人物。 《福沢諭吉は『掌中(ショウチュウ)万国一覧』や『世界国尽(クニヅクシ)』(ともに1869)で『ミッチェル新学校地理』を紹介し、 ミッチェルの解説に従って西洋文明を「文明開化」(当初は「開化文明」)と翻訳している。 これこそが、明治初期の文化革命のスローガンである「文明開化」へとつながるのである。》文明開化とくれば、つぎは富国強兵だ。 さらに西洋式文明国めざせば、それはとりもなおさず植民地の宗主国になることだから、アジア太平洋戦争へとつづいていく。 福沢が半文明国から脱するために選んだ道は、「脱亜論」(明治18年)を発表し、他のアジア人たちと決別することだった。 福沢は「脱亜論」の中でこう語った。「我が国は隣国の開明を待って共にアジアを興すの猶予あるべからず。 むしろその伍を脱して西洋の文明国と進退を共にし、その支那朝鮮に接するの法も隣国なるが故とて特別の会釈に及ばず。 (中略)我れは心に於いてアジア東方の悪友を謝絶するものなり。」ここから支那朝鮮を見くだす風潮が広まっていったのだろう。 「脱亜論」から9年後の1894(明治27)年に日清戦争、その10年後に日露戦争を始めた。「脱亜論」の影響がなかったとはいえないだろう。 日清・日露両大戦に勝利した日本はめでたく文明国の仲間入りをする。アメリカの作家ナイヴァーは、 「西洋の文明国が200年かけて達成した近代化を、わずか50年でなしとげた」と述べた。中学の教科書はさっそくこれを取り入れている。 《ミッチェル流の文明5段階説は、かくも明治の知識人たちを捉えていたのである。》 ●日本近代史概略 明治維新以来の英語教科書が、日本をどう描いてきたかということは、とりもなおさず日本近代史をなぞることになる。 近代史の概略と、それを日本人がどう捉えたかということが記されているので、教えられることが多い。 日清・日露戦争で日本が勝利すると白人社会には黄禍論(オウカロン、Yellow peril)すなわち黄色人種脅威論が広がった。 明治期の英語教科書では、「日露戦争に関して忘れてならないのは、ロシアに代表される白人が侵略者であり、 日本は国家の存亡をかけて侵略者を迎え撃ったということである。」と教えた。わたしはこの見方を否定しない。 白人だけで世界中の富を独占しようという計画を着々と実行してきたのに、新参者の日本が頭角を現したのであわてたことだろう。 日本陸軍は遼東半島南山の戦いで、大砲と機関銃を構えるロシア軍陣地に正面攻撃を敢行したために、 1日で日清戦争の全死傷者に匹敵する4300人もの死傷者を出したとのこと。一方対馬沖でおこなわれた日本海海戦では、 東郷平八郎大将率いる日本の連合艦隊は、ロシアのバルチック艦隊を壊滅した。日本海海戦は英語の教科書にもよく取りあげられた。 東郷大将が放った命令「皇国ノ興廃コノ一戦ニアリ。各自一層奮励努力セヨ」(The fate of the Empire depends upon this event. Let every man do his utmost !)まで細部にわたって述べられている。よほど誇らしかったのだろう。 1910年代、天皇・皇后の写真「御真影」が各学校に配布される。1930年代、天皇の神格化と絶対化が進み、各学校に奉安殿が設置される。 1899年、日英通商航海条約が発効し、幕末に締結された不平等条約が撤廃され、1902年には日英同盟締結、西洋の最強国と軍事同盟関係を結ぶ。 「半文明人」から「文明人」に昇格したと日本人は大喜びした。もっともその後、舵取りを誤った日本の支配者層はアジア太平洋戦争に突き進んで壊滅的敗戦を喫し、 またもやアメリカの属国となり、日米地位協定に指一本触れられない状況に逆戻りしている。おもうに、 西洋の白人たちは幕末の不平等状態に引きずり下ろすことをつねに虎視眈々と狙っているにちがいない。 日露戦争の勝利により――といっても日本側戦没者8万8429人、ロシア側戦没者2万5331人で、賠償金も取れなかったのだが――満州(中国東北部)に進出し、 朝鮮の植民地化を進めた。1910年、韓国併合。 ●第1次世界大戦と日本の大国化 1914(大正3)年、帝国主義列強による植民地の再分割戦争起こる。日本も日英同盟に基づいてドイツに宣戦布告、その結果、 ドイツが権益を持っていた中国山東省の青島と南洋群島を委任統治領として獲得。ロシア革命が起こりソビエト連邦が発足。 1919年、国際連盟成立、日本は常任理事国になったものの、日本政府が提案した「人種平等」条項は連名に受け入れられなかった。 あくまでも西洋・白人中心の国際機構だった。日本人はあいかわらず『ミッチェル地理書』の呪縛から解放されずに地団駄を踏んだのではなかろうか。 ●第1次大戦で登場したハイテク兵器 英語の教科書はこれらの時事問題を取りあげ、「ドイツ帝国の軍国主義がこの戦争の原因だった」と踏みこんだ解説をおこなっている。 戦車、潜水艦、飛行機などのハイテク兵器も好んで描かれた。砲撃で穴だらけになった大地でも進めるキャタピラー型戦車は、 はじめ秘密兵器であることを隠して給水用タンクと偽ったため、今でもタンクと呼ばれている。 潜水艦はアメリカの南北戦争から使われているが、本大戦で使われたドイツのUボートは、イギリスの軍艦や貨客船を魚雷で沈めて大打撃を与えた。 英語の教科書も潜水艦や魚雷の構造などを詳しく解説している。撃沈されたイギリスの豪華客船にはアメリカ人も多数含まれていたので、 それまで中立国だったアメリカの参戦を促した。 ライト兄弟が飛行機の有人動力飛行に成功したのは1903年。それから間もない第1次大戦では早くも実戦に投入された。 事実か作り話かはあきらかでないが、英軍機が撃墜したドイツ軍機の兵士を埋葬しようとしたら、ポケットから母親の写真が出てきた。 英軍パイロットは思いきってその母に手紙を書く。"it was my duty in this cruel work of war to kill your son" それに対して母親は、 "the time will come soon when the war is ended and we can meet each other as friends" 《戦争がテーマであるにもかかわらず、 子どもを失った母親を主題にしたあたりは、さすが高等女学校用である。》と江利川は結んでいる。 しかし基本的に遠い欧州の戦争だったからそんな反戦的なテーマを取りあげられたのであって、アジア太平洋戦争下ならすぐさま発禁になってしまっただろう。 第1次世界大戦で戦勝国となった日本は、イギリス、フランス、アメリカ、イタリアとともに世界の「5大国」の仲間入りをした。 日本もついに文明段階5の国の仲間入りをしたのだ。これほど短期間にのし上がった国があるだろうか。 このことは日本人の誇りを大いに高め、かつ精神を尊大な方向へ導いていっただろう。またたくまに「日本は世界3大国」だといいだす教科書も現れた。 その根拠は、1922(大正11)年に締結されたワシントン海軍軍縮条約において日本が世界の3大海軍国として認知されたことに基づく。 だが冷静な教科書もあって、「海軍力は強くなったかもしれないが、工業生産力・科学技術力の低さ、封建的な地主制度を考えると、 なかなかうぬぼれるどころではない」と説くものもあった。 ●シベリア出兵 1917年に成立したロシアの社会主義政権を打倒するべく、帝国主義列強は干渉戦争をしかけた。 なかでも日本は列強最大規模の総兵力7万3000人と巨額の戦費を投入した。だが何一つ得るものもなく3000〜5000人もの死者を出した。 《シベリア出兵の大義名分は、「革命軍によって囚われたチェコ軍団を救出する」というものだったが、日本の将兵たちは出兵の正当性を実感できず、 士気は低く軍紀は退廃した。逆に、労働者・農民の権力である社会主義政権に共感するものも出た。》1918年、米騒動起こる。 まだこの時代には教科書に戦争とその影響を否定的、懐疑的に描くことができたが、 1931年に勃発した満州事変以降の「非常時」と呼ばれる時代の教科書では徐々に書けなくなっていく。 ●満州国 第1次大戦後、大戦景気というバブルがはじけ、そのうえ1923(大正12)年関東大震災が不況に追打ちをかけ、 さらには1929(昭和4)年には世界大恐慌が起こった。中学5年生の教科書にも「どこの国でも労働者はたいていその日暮らしをしている。 彼らは現在の賃金では一家を支えていくのが困難なので、とても貯蓄などできない」という例文が掲げられている。まだ言論の自由があったといっていい。 こうした不況からの脱出策として政府は、1932年の満州事変(柳条湖事件)を契機に満州国を建国。これは中国侵略という軍事目的と一体のものだったので、 満蒙開拓移民団を敗戦までに27万人を送った。アジア太平洋戦争の始まりとされる。ちなみに満州国を英語でManchukuoという。 ●上海事変 1932年には日本の関東軍が上海事変を起こした。満州国建国に対する国際的な非難の目をそらすためだった。 わたしの見るところ、どうもこのへんから英語の教科書も戦争推進一色になっていく。《上海事変の激戦で戦死した息子に対して、 父は「国のために死んだことは喜ばしい」と言い、未亡人となった妻も「少しも泣かなかった」。 ここで描かれているのは、軍や政府が理想化した家族像である。》弟は兄の代わりに立派な陸軍将校になるように英語の勉強をがんばるといっている。 そろそろ敵性語になろうというときにだ。この先もまだまだ英語熱は衰えない。 『知らなかった、ぼくらの戦争』(アーサー・ビナード、小学館、2017.3)には1942年に英語の授業をボイコットしようとする生徒に対し 英語の必要性を諄々と説く英語教師が出てくる。 1930年代、平和への願いを盛り込んだ教材もわずかながら存在した。《いずれの国でも、世界の大勢を知らず、偏狭なる愛国心によって盲動し、 国家の患を醸すものがあるのは誠に憂うべきことです。》(師範・中学)1920年代から30年代前半まで、無産階級の政党が大陸への侵略戦争に抵抗していた。 『プロレタリア英語入門』(松本正夫、鉄塔書院)という書物がある。この本は国立国会図書館にもどこにもないという、著者自慢のコレクションだ。 「我々が語学を研究しようと言うのは、決して見栄や誇りのためではなく、植民地侵略や、外交戦や、等々のお先棒を担ぐためではなく、 語学を武器としてブルジョアジイと闘うためなのだ。」むろんこんなものが文部省検定教科書に載るわけがない。 1938年には国家総動員法が施行されすべての人的・物的資源を政府と軍が統制運用できる体制が敷かれた。 ●ヒトラーとムッソリーニ 1933年、ドイツでヒトラーが政権掌握。ソ連を仮想敵国としていた日本とドイツは、 1936年、日独防共協定を締結。翌37年にはムッソリーニ率いるイタリアが加わり日独伊防共協定になる。 《この軍事同盟によって、日本はドイツと対立していたイギリスやオランダ、さらにはアメリカとの関係を悪化させ、 翌年には太平洋戦争へと突入することになるのである。》これについては皮肉な背景がある。欧州戦線ではドイツが連戦連勝だったから、 手を結んでもまあなんとかなるんじゃないのとおもっていたからだが、日独伊防共協定を結んだ日、ドイツはロンドン上空の戦闘で大打撃を被っていたのだ。 もちろんドイツは日本に一言もいわない。外交は油断のならぬもので、日本も諜報活動はしていたが、 長年外交活動をしてきたヨーロッパ諸国のそれには太刀打ちできなかった。 ムッソリーニは語った。「社会主義者とファシストの違いは、社会主義者は階級闘争を信じ、我々ファシストは階級協調を信じるという点である。 (中略)イタリアは国民全員に食糧を供給することができていない。我々は国土を爆発的に拡大しなければならないのだ。」日本の教科書はそう教えた。 1936年、エチオピア征服。(つづく)
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