108(2018.2掲載)

 『英語教科書は〈戦争〉をどう教えてきたか』
 
(江利川春雄、研究社、2015.7)

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(1月号からの続き)

U 墨ぬり教科書から連綿とつづく自主規制

●始まった「敵性語・敵国語」

 1942年ごろから「国体明徴」が叫ばれはじめ、国粋主義が強まり、JapanをNipponに変えるべきだという主張が始まった。 国体明徴とは、大正デモクラシーの中で1935年、美濃部達吉が述べた「天皇機関説」(統治権は法人である国家に属し、 天皇はその最高機関であるとする学説)に対し、一部の右翼・軍部が政府に出させた天皇こそ統治権の主体であるとする主張。 さあいよいよわれわれの知っている“戦争”のイメージに近づいてきた。ところが、JapanをNipponにするのはいいけれど、 まさかJapaneseをNipponeseにはできまいというので外務省の反対にあい、見送りになった。アホクサ。 1940年ごろにおなじみの野球のストライクを「安全」、ボールを「悪球・駄目」などといいだした。

 1941年以降、英語は敵性語になったが、英米の植民地だった大東亜共栄圏で英語を廃止したら仕事ができない。 《敗戦直後もそうなのだが、英語科の場合は文部省当局から具体的な削除指令があったという記録はないため、 時代の「空気」に順応した教科書の著者・発行者の自主規制とみなすべきであろう。》外務省や文部省には視野の広い人物もいたのだろう。

 自主規制――これほど恐ろしいものはない。だが万一当局からにらまれて「発行禁止」の烙印を押されたら、もともと零細な出版社は倒産してしまう。 今日大新聞社がおこなっている政府への“忖度”おもねりはまたべつの意味でおこなわれているのだが、 とかくメディアというものは自主規制によって堕落していくのだ。

●アジア太平洋戦争中も英語を教育

 1941年(わたしは1949年生まれだから、考えてみればつい最近のことだ)、ハワイ真珠湾攻撃とシンガポール攻略をめざしてマレー半島に上陸、 これによりアジア太平洋戦争が始まった。だが、戦時中も中等・高等の学校では英語などの外国語教育はつづけられた。 1941年から44年まで78点が検定認可を受けている。実業学校では英語・支那語・マライ語などを実地に話せ、書けることを定めた。

 なぜ英・支・馬語の教育がつづけられたのだろう。文部省教学官だった桜井役(マモル)は「大東亜共栄圏の広大な地域の民族に日本精神を宣揚し、 かつ大東亜の新建設に協力せしめるためには日本語の普及と外国語の利用も考えなければならぬ。」と述べている。 そんなこといったって、正しい情報を与えずに語学教育だけおこなっても、なんの役にも立たない。

 広島文理科大学の小川二郎は、「英語の片言がしゃべれるからとて得意になっていたやうな卑屈な優越感は、 英米文化を下から仰ぎ見るといふ劣敗感から生まれたものであるから、戦捷(センショウ)が結局は民族精神の優秀に帰することを考へれば、 日本民族の西欧先進民族に卓越するといふ自覚を覚醒せしめることになる大東亜戦争の完遂によってかかる劣敗者的優越感は払拭せられるであらう。 そのこと丈けでも大東亜戦争は遂行せられる価値がある。」といっている。やはり『ミッチェル地理書』が頭から離れない。 だが仰ぎ見るほどの文明国に戦争で勝てるとおもいこむ、その気持ちがわからない。ABCD包囲網の中で物量ではハナから負けている。 思想で欧米を超克するという考えが生まれなかったことは、敗戦後の思想戦にも敗れてますます卑屈になっていった原因であると思うのだが如何。

●墨塗り教科書、ケッサクな1ページ

 《教科書へのいわゆる「墨ぬり」は、敗戦直後の1945年の秋から翌年の新学期までの間に行われたもので、 外国語教科書に関してはGHQや政府からの具体的な指令は発見されておらず、教師が各自の裁量で生徒に示したと考えられる。》 と江利川は書いたそのすぐあとに、《墨ぬり指令の中心人物だった久保田藤麻・文部省青少年教育課長(当時)によれば、 こうした「墨ぬり」の目的は「機密書類の焼却と似通ったところがあった。つまり、日本へ進駐してくる米軍の目から、 教科書のなかの軍国主義的なところを事前に隠してしまおうというのがねらい」(読売新聞戦後史班編「昭和戦後史 教育の歩み」25ぺージ)だったという。》 と書いているから、いささか釈然としないが、文部省のおおざっぱな指示があり、具体的な墨ぬりは現場の教師に任されたということだろう。またもや自主規制だ。

 墨ぬり教科書、とくに英語のそれはきわめて貴重で、江利川はそのなかの選りすぐりの1ページを披瀝している。 女学生が皇居の方角に向かって1列に並び深々とお辞儀をしている皇居遙拝のイラストだ。 本来これには、"We stand in a line, turn towards the Imperial Palace and bow."というキャプションが付されていたのに、 そのうえに紙を貼って鉛筆で "We stand in a line and do exercize to radio."(私たちは1列に立って、ラジオにあわせて体操をします)と書きかえてある。 著者は「そう言われれば、屈伸運動に見えなくもない」と珍しくオチャメなコメントを寄せている。だが紙なんか貼ってあれば、 その下に何があったのかかえって興味をそそるだろう。貼ってなければ、検査官だって退屈な仕事だから見逃すかもしれないのに。

●いまだに墨ぬり行為が

 《このように、「墨ぬり」は授業で〈戦争〉教材を教えたことを隠すための証拠隠滅行為だった。 こうして、どの英語教材がなぜ「誤り」だったのかの検証も問題の共有化もしなかった。いわば、とどめを刺すことなく、土をかけて埋めてしまい、 存在しなかったことにしただけなのである。》それをしなかったばかりに、また同じ過ちを犯した。 1988年、文部省検定に合格していた教科書(三省堂)中の戦時中の日本軍の残虐行為に触れたWarという文章が 「自民党国家基本問題同志会」や学者から攻撃され、My Fair Ladyに差し替えられた。

 Warの内容は――東南アジアのひとびとのパーティーにひとりだけ参加した日本人が聞かされた話。世界で一番残酷なのは日本人だという。 《マレーシアからの友人の一人が、第二次世界大戦中に起こったとされていることについて話した。 /ある日彼の友人の一人が家の外でものすごい叫び声を聞いた。外に飛び出してみると、若い母親が激しく泣き叫んでいた。 一人の日本兵が彼女からかわいい女の赤ちゃんを取り上げたからだ。/それから日本兵は何をしたと思う? その赤ちゃんを空中にほうり投げ、 赤ちゃんを銃剣で突き刺したのだ。赤ちゃんは即死だった。》伝聞の形式をとり、ベトナム戦争で米軍がまいた枯れ葉剤のせいでベトちゃん・ ドクちゃんのような子どもがたくさん生まれた。戦争は人間を残酷にする。だから、ある国民が他の国民より残酷だなどと決めつけることはできないといって、 物事を一般化し、当局の検閲に引っかからないよう慎重を期している、いや、すでに検定には合格していたのだが (中村敬・峯村勝『幻の英語教材――英語教科書、その政治性と題材論』三元社)。

 江利川は、戦後40年たってもまだ墨ぬりをやっていると批判したうえで、最後にドイツ大統領だったヴァイツゼッカーの、 1985年の演説「荒れ野の40年」を引用する。「罪の有無、老幼いずれを問わず、われわれ全員が過去を引き受けねばなりません。 (中略)過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります。非人間的な行為を心に刻もうとしない者はまたそうした危険に陥りやすいのです。」