110(2018.4掲載)

 『植物は〈知性〉を持っている――20の感覚で思考する生命システム――
 
(ステファノ・マンクーゾ+アレッサンドラ・ヴィオラ共著、久保耕司訳、NHK出版、2015.11)
原題VERDE BRILLANTE : Sensibillita e intelligenza del mondo vegetale
原題の意味は、「輝ける緑〜植物界の感覚と知性」マンクーゾはフィレンツェ大学教授

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(3月号からの続き)

U 草木も眠る丑三つ時

●落葉は冬眠

 《秋になると、多くの木から葉が落ちる(その性質を落葉性という)。植物がもつ光受容体の大部分が葉に、つまり光合成に特化された器官に集中しているのなら、 葉を失った木はいったいどうなるのだろう? そう、動物が目を閉じるときと同じく、眠りにつく。 (中略)落葉性の植物は、冬が始まると葉を落とす。つまり、寒さにもっともさらされている繊細な部分を落とすのである。 冬のあいだに凍ってしまう危険があるからだ。こうして、落葉性の植物は冬眠に入っていく。厳しい気候から身を守るための定期的な眠りは、 植物では「休眠」と呼ばれるが、意図するところは動物の冬眠とまったく同じだ。》

 落葉は眠りだという。ここでわたしはふと疑問を抱く。それなら常葉樹はなぜ葉を落とさないのだろう。 一般的に高地に生える針葉樹のほうが寒さにさらされるのが普通だ。

 今度はヤフーの知恵袋に頼ってみた。質問「葉を落とさない植物は、なぜ落とさなくていいのですか」回答「葉の寿命を長くし、光合成の効率が低くとも、 少ない養分で葉を作り、光合成を細く長く行えることで、結果的に過酷な環境でも長く生存できるようになった、ということです」 よくわからないが、細々と生きているということのようだ。針葉樹といってもあまり高いところには木も生えてないものなあ。

●気孔のなまめかしさ

 植物のもつ光受容体といえば、気孔だろう。気孔は小学校でも習うようなものだから、詳しい説明はいらないとおもうが、 せっかく大人向けの本だから一言つけくわえると、2つの孔辺細胞によって管理されている。孔辺とは「穴のそば」という意味だろう。 人間でいえばまぶたのような形とも唇のような形ともいえる。唇が開いていれば光合成をしている。閉じていれば蒸散を防いでいる。

 《気孔の仕事は、見た目よりもずっとややこしい。光合成に必要な二酸化炭素(CO)をとりいれるために、植物は気孔をいつも (少なくとも、太陽が出ている時間帯は)開けたままにしておきたいが、気孔が開いていると、蒸散によって大量の水分を失うことにもなる。》

 そこに円形の「24時間時計」のイラストが出てくる。これがじつに興味深い。時刻のまわりに気孔の開閉ぐあいが並んでいる。 わたしは驚いた。日本では「草木も眠る丑三つ時」という。現代ふうにいえば、丑三つ時は深夜2時から2時半ごろを指す。 だからわたしは長いあいだ、日の照らない丑三つ時には気孔を閉じて休んでいる、すなわち眠っているのだとおもっていた。 それが「24時間時計」で立証されているではないか。

 イラストを見ると正午にはやや開きかけている。それが昼から夕方にかけて全開になり、その後徐々に閉じていき、夜の2〜3時にはすっかり閉じてしまう。 そこからまたしだいに開いてゆき朝の6時ごろにはまた満開になる。少し休憩してまた正午にかけて開いていく。 《光が強ければ強いほど多くのエネルギーを生み出せる太陽光発電パネルとは異なり、植物は、体内の水分の蓄えを気にしなければならない。 このため、昼下がりの時間帯――つまり、もっとも暑くなる時間帯――には、最高の光合成が行なえる可能性を捨てて、気孔を閉じる。 そうやって、水が減りすぎないようにしているのだ。》1日のサイクルのなかで植物が眠る――眠るがいいすぎであれば休憩する――のは、 やはり丑三つ時なのだ。日本人はなぜそれを知ったのだろう。知ったといっていいすぎならなぜ感じたか。

●胎児がえりする植物

 ところが本書の後半に「植物の睡眠」という項目があり、植物が夜間にとる姿勢には一般的な法則があり、 《夜のあいだ、葉はかつて芽だったときにとっていたのと同じ姿勢をとる傾向があるのだ。夜、円すい形に巻く葉もあれば、 扇のように折りたたまれる葉もあるし、主脈に沿って二つに折りたたまれる葉もある。でも、たいていの場合、どの葉も眠っているときには、 成長の初期段階にいつもとっていた姿勢と同じ姿勢をとっているのだ。》とある。眠ることはいわずもがな、それは夜に決まっているようなことをいう。 《どのような理由で、葉は昼間は開き、夜は閉じるのだろうか? 植物を眠らせたり目覚めさせたりするきっかけは、なんなのだろうか?  こうした問いには、まだ答えがない。》この問題に関しては、光合成と落葉の項で解決済みだったのではないか。 すでに結論が出たことを再び蒸し返されたのではたまらない。まあ正直といえば正直なのだが。

●根端はデータ処理センター

 ダーウィン(1809〜82)には『植物の運動力』という大著があり、植物のおこなう数々の運動について述べているが、 とくに根の運動にはそうとうのページを割いていて、「ミミズのような下等動物の脳と植物の根端のあいだには、本質的な違いはない」と断じた。

 ダーウィンは、『植物の運動能力』の中で、根には下等動物の脳に似た何かがあると確信していた。 だが「人間の祖先はサルである」という説を防衛するのに必死で、植物に関する仮説の証明は、息子のフランシス・ダーウィンにゆだねざるを得なかった。 フランシスが「植物は知的な存在である」と断言したのは、1908年のことだった。

 先に述べた「気孔24時間時計」と根端のイラストは刺激的だ。気孔のほうは知性を刺激し、根端の拡大イラストは官能を刺激する。 根端とは根の先端部であり、植物によって数十分の1oから2o。細長い舌にびっしりと細胞が集まっているような様相だ (イラストには「あらゆる根の先端は、複雑な感覚器官のかわりになっている」というキャプションが付いている)。 それはあたかも味蕾の1個1個があらゆる味を味わい分けているのに似ている。《優れた感覚能力をもち、 さらには活動電位を基盤にした非常に強力な電気活動を行なっている。 すなわち、動物の脳においてニューロンが用いているのと非常によく似た電気信号を作り出しているのだ。》 あらゆる根端は正真正銘の「データ処理センター」だと著者はいう。

 《たとえば水を探す場合、一つの植物は、どうやってすべての根が同じ水のある方向を向いてしまわないようにしているのだろうか?  もし根の成長がたんに自動的にそちらを向くように命令されていたなら、命を危険にさらすことになってしまう。 (中略)各根端は、数多くの変数をたえず計測している。たとえば、重力、温度、湿度、磁場、光、圧力、化学物質、有毒物質(重金属など)、 音の振動、酸素や二酸化炭素の有無など。これだけでも驚きのリストだが、これで全部ではない。》

●植物に痛覚はあるか

 《何世紀ものあいだ、動物も理性を持たない機械とみなされてきた。数十年前にようやく、権利、尊厳、敬意が動物に認められるようになった。 動物はもはや物体ではない。この動物観の変化の結果として、ほとんどの先進国が、動物の権利を保護する法律を制定した。 一方で植物に対しては、そのようなものはまったく存在していない。》

 内澤旬子は『世界屠畜紀行』(解放出版社)のなかでこの問題に切り込んでいる。インドのヒンドゥー教ではでは皮革鞣し、 屠畜業は、不浄とみなされ、「不可触民」のインド人が請け負うことになっている(やっぱり食うことは食うんだな)。 特に牛は神聖な存在。動物愛護運動も盛んで、内澤が「屠畜はかわいそうだ」という在日インド人に 《「かわいそうってんなら魚だって米だって豆だってかわいそうなんじゃないの」と言い返したら、もう大変。 /「動物と植物はちがう。植物に赤い血が流れてるかっ!! 涙を流して泣くか!!」/と、カンカンに怒りだした。》 内澤の意見はおろそかにできない。米や豆が血や涙を流さないからといって、苦痛を感じていない、悲しんでないという証拠にはならない。 米や豆の悲鳴を人間が知覚できないだけなのかもしれないではないか。これは面倒な話なのだ。もし動物の権利を保護しようとすれば、 動物実験ができなくなる(現にEUの潮流としてはそうなりつつある)。まして植物の権利を認めるならば、人間も生きてゆけなくなる。 本書冒頭の「バイオマス(生物の総重量)の99.7%は植物が占めている」という言葉を想起しよう。