116(2018.10掲載)

 『天皇陛下の味方です―国体としての天皇リベラリズム』
 
(鈴木邦男、バジリコ、2017.8)

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T 暴れん坊時代

●大久保通りのヘイトスピーチ

 本書は大久保通りのヘイトスピーチから始まる。大久保通りといえば昔職安のあったところで、わたしが最初の会社をクビになったあとにはよく通った。 職安にふさわしい閑散とした通りだった。それが韓国ドラマ「冬のソナタ」がヒットしたころから韓国人の店でにぎわう通りになった。

 ある日、鈴木が大久保通りへ行ってみると、日章旗や旭日旗が翻るなか「ゴキブリ朝鮮人は、焼身自殺しろ!」とか「在日韓国人、朝鮮人を殺せ!」と 「在日特権を許さない市民の会」(在特会)が拡声器でヘイトスピーチをがなりたてている。鈴木はこれを《下品極まりないデモ》という。 彼らを右翼と認めない立場だ。

 ネットの世界にはネトウヨの動画があふれかえっているそうだ。これを全世界のひとびとが見て凍り付き、 日本はいったいどうなっているんだと批判が渦巻いているという。

 《その天皇陛下が彼らの低レベルで下劣な言動を知って「おお、よくやってくれている」とおっしゃるとでも思っているのでしょうか。 要するに、彼らは「反天皇主義者」なのです。またネットを通じて世界中に撒き散らされている彼らの言動は、ひたすら日本という国家の品格を貶めている。 「非国民」という言葉は、まさしく彼らにこそふさわしいレッテルではないでしょうか。》

●鈴木の生い立ち

 1943(昭和18)年福島県生。早稲田大学政治経済学部政治学科卒。

 母親の影響で小学生のころから宗教団体生長の家(1930年、谷口雅春が創設した宗教団体)とはかかわっていた。 神道・仏教・キリスト教・イスラム教・ユダヤ教等の教えに加え、心理学・哲学などを融合させているもののよし。これのどこが右翼なのだろう。

 わたし(昭和24年生)の早稲田の先輩世代に当たる。《その頃の早稲田大学は、共産党の下部組織である日本民主青年同盟(民青)、 新左翼各セクト、それに全共闘が入り乱れる左翼キャンパスでした。》わが世代と変わらない。《そんな中で、われわれ民族派学生は圧倒的に少数派でしたが、 東に反民族的デモがあれば突撃し、西に全共闘の集会があれば粉砕しに行く、そんな毎日でした。もっとも、殴り合いをしても結局は数がモノをいい、 いつも敗退していましたが。それに、論争になると向こうは近代主義的ロジックで攻撃してくる。 しかし、こちらが主張する天皇だの国体だのといった価値観は、近代的ディベートの文脈に馴染まない。 声のデカさと数においてもこちらが圧倒されている。どうしても分が悪くなり、殴りかかるしかなくなります。 でも人数に劣る我々は、寄ってたかってボコボコにされてしまいます。そんなことの繰り返しでしたが、それでも我々民族派学生は燃えていました。》

●右からも左からも嫌われて

 《私は新右翼と呼ばれ過激な活動をしていた若い頃から現在に至るまでの間に(中略)いつの間にか右翼からも左翼からも嫌われる存在となってしまったようです。 (中略)これまでの自分の生き方に後悔はありませんが、オファーのあった講演を直前に断られると、やはりがっくりきます。 (中略)正直に告白すると、私はとても打たれ弱い人間です。攻撃されると、すぐに拗ねたりいじけたりするのです。》余裕と見た。

 イルカ漁をテーマにした「ザ・コーヴ」を観て、「日本人から見て不愉快なところはあります。けれども、それ以上に教えられることの方が多かった」 という感想を持った鈴木は、上映妨害の街宣が予定されている日に映画館に出向く。街宣グループは建造物侵入であるにもかかわらず、警察はまったく動かない。 《私は意を決して「俺と公開討論しよう!」と呼びかけました。すると、たちまち警官に阻止されました。警官たちは、「邪魔をするな!」 「やらせておけ。演説したら帰るんだから」などと言う。何なんだ、こいつらは。》そしてついには在特会の男にハンドマイクで殴られ出血。 現行犯なのに警察も公安も逮捕しない。右翼からも左翼からも、そして官憲からも嫌われる鈴木であった(笑)。

 アパートに放火されて大騒ぎになったときにはさすがに警察も「やった奴はわかっているんだ。告訴したらすぐ逮捕してやる」といったが、鈴木は断った。 《犯人は若い青年です。そんなくだらないことで捕まり、何年か刑務所に行くなんてかわいそうです。「お前の方が、かわいそうじゃないか」と言われましたが、 その右翼青年も「エセ右翼に放火した」だけで何年も刑務所というんじゃ箔もつかないでしょう。やるんなら、もっと大きなことに命を賭けたらいいのです。》 大物感がただよう。なお「新右翼」はジャーナリスト猪野健治命名。

●のれんに腕押し井上ひさし

 《若い頃の私はとにかく単純な天皇第一主義者で、不敬な言動に対してはパブロフの犬のごとく、条件反射的に噛みつきまくっていました。》 むかしは脅迫電話がかけ放題だった(当時電話番号は公開されていた)。井上ひさしは天皇制の批判者だったので格好の敵だった。 《と言うわけで、仲間の一人がいつも通り「この野郎! 馬鹿野郎!」といきなり怒鳴り始めたのですが、どうしたことか途中から口ごもり、 最後は「うるせー」と言って電話を切っちゃいました。》つぎに電話をかけた者も「いまちょっと忙しいから」といって電話を切る。

 《今度は自分自身で電話をかけると、井上本人が出ました。どうやら、逃げる気はないようです。そして「あっ、右翼の方ですか。 毎日、運動ご苦労さんです」なんてとぼけたことを言います。こちらは初手からガックリ拍子抜けしてしまいますが、さらに続けてとんでもないことを言い出します。 「私も天皇さんは好きですし、この国を愛しているつもりです。その証拠に歴代の天皇さんの名前も全部言えますし、教育勅語も暗誦しています。 右翼の人は当然、皆言えますよね。あっ、ちょうどよかった。今、言ってみますから、間違っていたら直してください。どっちからやりましょうか。 歴代の天皇さんの名前から言いましょうか。えーと、神武、綏靖……」とやり始めるのです。私は、黙って電話を切りました。》右翼撃退にはこれが一番効く。

●鈴木に影響を与えた二人の男、三島由紀夫・野村秋介

《憲法九条の廃棄と自衛隊の国軍化も私たち民族派にとってはわかりやすいものでした。(中略)当時の私、というより純粋な右翼、民族派は三島の説に断然賛成でした。 (中略)しかし、三島の『盾の会』結成から自決に至るまでの行動原理、そして何よりその天皇観は、正直なところ今でもよくわからない部分があります。》 「オカマの心中だあ」と青島幸男は一蹴した。

 三島の自決に関しては、東大でも京大でも全共闘が垂れ幕で弔意を示している。東大で全共闘と三島が討論したとき、 秋田明大日大全共闘議長が「東大だから話題になるんでしょ」といったのを覚えている。そもそも全共闘運動というのはは日大の不正経理告発が始まりだった。 だが残念ながら株式会社の不正は、東大・京大に対する尊敬の前には歯が立たなかった。

 一方の野村も自殺している。1993年10月、朝日新聞東京本社を訪れ、中江利忠社長から謝罪を受けたのち、「皇尊弥栄」(スメラミコトイヤサカ)を三唱したのち拳銃で自殺。 中江が謝罪したのは、前年の参院選挙を戦うために野村が結成した「たたかう国民連合風の会」を「週刊朝日」の人気コラム 「ブラックアングル」で山藤章二が「虱(シラミ)の会」と揶揄したことにあった。自殺するほどのことだろうか。大朝日の社長が謝っているというのに。

 三島も野村も死に場所を探していたとしかおもえない。このとき鈴木は「新右翼」はこれで終わったとおもったという。 《野村の政治的テーマは「反米自立」であり、行動指針は「言行一致」でした。「勤皇」を除けば、左翼の過激派とほとんど同じです。》 これは面白い指摘だ。右翼と左翼は、対米という点で妥協できないものだろうか。同じく独立国を目指しているのだから。

 経団連に立てこもったときの檄文の一部。「日本の文化と伝統を慈しみ、培ってきたわれわれの大地、うるわしき山河を、 諸君らは経済至上主義をもってズタズタに引き裂いてしまった。(中略)環境破壊によって人心を荒廃させ、「消費は美徳」の軽薄思想を蔓延させることによって、 日本的清明と正気は、もはや救いがたいところまで侵食されている」1977年、高度成長期のことだ。ズバリ正鵠を射ている。

●新左翼独特の演説口調は花魁のものまね

 わたしは、右翼左翼がフランス革命期に議会の議長席から見て右側が保守穏健派、左側が革新派であったことから来ていることぐらいは知っている。 右翼にも新左翼にも心を動かされることはなかった。当時の用語では「ノンポリ」に属した。政治運動をするために大学に入ったわけではない。 とはいえどっちつかずの自分に胸を張ることはできなかった。

 キャンパスはタテカンだらけで、いつもうるさいアジ演説が響いていた。早稲田の文学部は革マル派が牛耳っていた。 ヘルメットをかぶりタオルで顔を隠していた。いつもワアワアわけのわからんことを絶叫しているので、聞く気にはなれなかったが一度だけ耳を傾けたことがある。 「花魁言葉だな」とおもった。地方出の若者が新左翼風の演説をするのに、地方出の女性が花魁言葉を身につけたのと同じ。

 タテカンは新左翼が立てるものと決まっていたが、森田必勝が自決した日の翌日には早大正門に森田の死を悼む右翼の大きなタテカンが立てられた。 右翼のタテカンなど前代未聞だったが、誰もそれを壊そうとしないことに不思議な感覚をおぼえた。鈴木もそうだが、人は命を賭けた行動には弱いのだろう。

●鈴木は民族派

 鈴木は1970年産経新聞に入社。記者ではなく販売や広告に携わり、いったんは政治活動から離れていたが、 同年三島事件で森田が三島由紀夫と共に自決したことに衝撃を受け、1972年、生学連や学協時代の仲間などを中心に「一水会」を創設し会長に就任。 民族派団体だというのだが、「民族派」がどういう意味かわかりかねる。困ったときのWikipedia頼み。 「民族派の政治的主張の特徴は、米ソによる世界分割支配をYP体制(ヤルタ・ポツダム体制の略)と呼んで厳しく批判した」それなら民族派は正しい。

 民族派は既成の右翼団体(街宣右翼)と一線を画し、「右翼」と呼ばれることを嫌い、自らを「民族派」と呼んだ。 鈴木が主催していた一水会は街宣活動のさい、既成右翼の威嚇的スタイルがいやでいやでしかたなく、白い車に乗って普通のスーツ姿で街宣をした。

●左翼がバカだから右翼がのさばる

 1955(昭和30)年から始まった「帰還事業」で北朝鮮に渡った在日朝鮮人は9万3000人、北朝鮮と朝鮮総連が立案し、共産党や社会党が旗を振り、 リベラルを標榜する大新聞や進歩的文化人が「北朝鮮は地上の楽園」と嘘をついて推進した。 《ともあれ、左翼の連中が言うところの「正義」だの「良心」だのといった高邁な理念の裏に潜む欺瞞を、 ある時期から国民は感づき始めたことが現在の右傾化と呼ばれる状況を生み出した一因であることは間違いないでしょう。》

 何事も白か黒かという二元論でしか判断しない党派的感性はダメ、《現実の世界では一〇〇%の正邪というものはないはずで、 そのほとんどが灰色だと私は思っています。》この意見には共感する。(つづく)