117(2018.11掲載)

 『天皇陛下の味方です―国体としての天皇リベラリズム』
 
(鈴木邦男、バジリコ、2017.8)

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(10月号からの続き)

U 日本の国体とは

   ●日本は立憲君主制

 昭和天皇は、皇太子時代にヨーロッパ外遊から帰国したときこう語った。「皇室の祖先が真に神であり、現在の天皇が現人神であるなどと信ずるべくもない。 英国の王室と同様、国家国民との関係は君臨すれども統治せず、といった程度がよい」賢帝であるとおもう。 あっけないが、これにて一件落着。西洋では「王権神授説」という。何事につけても偉そうにしたいときには神様を持ってくるのだ。

 現在の日本国憲法では象徴天皇制を採用した。内閣法制局による政府見解では日本国憲法下の日本を「立憲君主制と言っても差し支えないであろう」としている。 君主が気に入らないひともいるだろうが、君臨すれども統治しないならかまわないのではないか。年間予算300億円はちと多いようにも感じられるが、 外交費の一部だと思えば安いものだ。共産国の党首でも天皇に会いたがる。

 「天皇の味方です」という割に、本書では天皇がいかなるものであるかということに関してはほとんど意見がない。 そこで「青空文庫」の『古事記』の力を借りてごくごく簡単に触れてみたい。

●日本の成り立ち

 「宇宙のはじめにあたっては、すべてのはじめの物がまずできたが、その気性はまだ十分でなかったので、名まえもなく動きもなく、誰もその形を知るものはない。」 そりゃ知るものはないわな。それから天と地とがはじめて別になって、アメノミナカヌシの神、タカミムスビの神、カムムスビの神が、 すべてを作り出す最初の神となり、そこで男女の両性がはっきりして、イザナギの神、イザナミの神が、萬物を生み出す親となった。》 たしかその後イザナミが死んで黄泉の国へ行ってしまったのに、イザナギはイザナミを追いかけて、 よせばいいのにイザナミの体からグジャラグジャラとした不気味な神様がたくさん生まれるのを目撃する。

 あわてて現世に逃げ帰ったイザナギは、身につけたものすべてを川で脱ぎ捨てミソギをする。 よく汚職で辞職した議員が、次の選挙に出馬して「禊は済んだ」なんてことをいけしゃあしゃあというが、あれは「禊」という漢字を目くらましにしているのであって、 ほんとうは「身削ぎ」でなければならないのだとおもいますねわたしは。スッテンテンの身では供託金など出しようがない。

 「青空文庫」にはこんなことも書かれている。「諸氏族中の一氏にすぎなかった天皇家が,古代日本の支配者となったとき, 自己および諸氏族がもち伝えた神話や系譜伝承を,天皇家の立場から整理し直し,その地位を確認させるための神話としてまとめあげたものが, 《古事記》なのである。」それにしても天皇というのはエラソーでいいネーミングだ。はじめから天皇家だったのだろうか。どうも疑わしい。 べつの名前だったのを知恵を絞ってかっこよくしたのではないか。

 アマテラスと神武のあいだにはどんな神々がいたかというと、ネット情報だが、 「天照大御神→アメノオシホミミ→ニニギ→ヒコホホデミ→ウガヤフキアエズ→カムヤマトイワレビコ(神武天皇)」 ――神武から急に人間になるのも唐突だから現人神というものを考え出したのだろう。

 もうこのへんでよかろう。鈴木は明治以降の天皇にしか興味がない。われわれだって明治天皇の1代前も知らない。

●明治天皇

 鈴木のいう天皇は近代以降の天皇を指す。1867年(慶応3年)14歳で即位。五箇条の御誓文(木戸孝允=桂小五郎が作成)を発布。

 一 廣ク會議ヲ興シ萬機公論ニ決スベシ
 一 上下心ヲ一ニシテ盛ニ經綸ヲ行フべシ(以下略)

立派な思想だ。釈尊のたどり着いた国家像を思わせる。釈尊最後の旅路を描いた『大パリニッパーナ教』には繁栄する国家像が以下のように述べられているが、 たとえば、――

 〇しばしば会議を開き、多くの人が参集する。
 〇共同して集合し、行動し、なすべきことをなす。(以下略)

 両者は驚くほど似ていると、わたしはおもう。なぜ『大パリニッパーナ教』を知らないはずの木戸孝允は釈尊の高みに達し得たのだろう。

●独裁国から立憲民主国へ

 政治体制を専制政体と立憲政体に区別することが世界の常識のようだ。Wikipediaによれば、「明治憲法は、立憲主義憲法とは言うものの、 神権主義的な君主制の色彩がきわめて強い憲法であった。[中略]天皇は、「国ノ元首ニシテ統治権を総覧」(四条)する者、すなわち、 立法・司法・行政などすべての国の作用を究極的に掌握し統括する権能を有する者とされた」独裁国といっていい。

 《憲法制定にあたっては、政府の出自が尊皇攘夷の志士であったこともあるのでしょうが、先進的なイギリスの制度を嫌い、 保守的(後進的)なプロシアの立憲君主制を参考にして、主権を有する元首として天皇の地位を定めました。》 日本は市民革命を経験していないから民主国ではないという意見があるが、明治政府の枢要を占めたのは江戸時代の下級武士。立派な草莽革命だ。

●歴代天皇はみな平和主義者

 《明治天皇は日清日露、どちらの戦争にも反対でした。また、韓国併合は実際に併合されるまで知らされていませんでした。  (中略)天皇は徹底した平和主義者だったのです。》

四方の海みなはらからと思う世になど波風のたちさわぐらむ

 《なお、この御製は、対米戦争が決定された御前会議においても昭和天皇が引用して詠まれています。》鈴木は、 明治以降の歴代天皇は本質的に非戦平和論者だと結論している。まあみんな生まれはお公家さんだからね。幼いころから戦争の勉強などしていないだろう。

●大正天皇

 明治天皇の第三皇子。生母は典侍・柳原愛子。典侍は宮中最高位の女官。21歳のとき15歳の九条節子(さだこ)と結婚した。 親から引き離されて寂しい幼少時代を過ごした親王にとって、結婚は非常にうれしい出来事で健康も回復、各地を行啓した。 結婚後は明治天皇とは対照的に側室を置かず一夫一妻を貫き、4人の健康な皇子(昭和天皇・秩父宮親王・三笠宮親王・高松宮親王)を誕生させた。 側室は必要なかった。これを見ただけで心身ともに健常であったことがわかる。

 大正天皇といえば「遠めがね事件」をやらかした「脳病の暗君」としかおもわれていない。《しかし大正天皇付の女官は、 手先が不自由であったことからうまく詔書を巻けたか調べていたのが遠眼鏡のように議員席から見えたのだと証言しています。》 幼少期に脳膜炎や腸チフスなど重い病気に悩まされた。だが脳が弱かったわけではなく、生涯に1367首の漢詩をのこしている。

●激動の昭和天皇

 1901年生。在位期間は、神話上の天皇を除き歴代天皇のなかで最長。即位後すぐに戦争が始まる。これほど戦争で苦労した天皇は近代以降いない。 1931年、満州事変。《この頃になると、本国では例の「満蒙生命線」が流行語となり、軍中央も関東軍の行動を拘束しない方針を決定しています。 政府(若槻礼次郎首相、幣原喜重郎外相)は天皇の意思を尊重し、戦線不拡大、満州国建国反対、国際協調路線という方針でしたが、 軍部による内閣打倒も辞さずという強硬な抗議を受け、総辞職に追い込まれます。》天皇も韓人愛国党から命を狙われたのをはじめ、たびたび命を狙われる。

●わたしは神ではない

 満州事変、5.15事件、天皇機関説、2.26事件……。「ひとが私を神というが、私は普通の人間と人体の構造が同じだから神ではない。 そういうことを言われては迷惑だ」と「独白録」の中で語っている。なお本書は『昭和天皇独白録』に負うところが大きい。

 2.26事件が発生すると、反乱軍たちをすぐさま「賊軍」と呼び、早い解決を図っている。《ところで『木戸日記』によると事件収束後、 天皇は「事件の経済界に影響、特に海外為替が停止になると困ると考えていた。しかし、比較的早く事件が片づき、さしたる影響もなかった。 本当によかった」と発言されています。天皇は、単に怒りにまかせて事件の早期収束を命じたのではありませんでした。 事件が海外に及ぼす影響とそれによる日本経済にまで目を配っていたのは、財務官僚を除けば天皇ぐらいだったのではないでしょうか。 》いかに世界を知っていたか、いかに視野が広かったかがわかる。今だって為替のことがここまでわかる国民はほとんどいない。

●軍人を叱る

 明治時代の軍人は中国をなめていたが、そもそも明治維新まで中国にとって日本は文化的劣等国だったのだ。 蒋介石の国民党と毛沢東の共産党は内戦をやめ統一戦線を組んだ。対中国強硬派の杉山陸相が「中国派兵は自衛行動、軍部に領土的野心はありません」 と奏上したところ、天皇は「杉山がそういうなら、外国新聞の東京駐在員を呼んで大臣自ら領土的野心はないといったらどうか」とヒニクっている。 今なら外国特派員協会が杉山を呼ぶところだろう。けっこうヒニク屋さんでもあった。いろんなことに気が回る。

 満州事変の首謀者板垣陸相に「柳条湖といい盧溝橋といい、ただ出先の独断で朕の軍隊としてあるまじきような卑劣な方法を用いることもある。 まことにけしからん。今後は朕の命令なくして一兵たりとも動かすことはならん」とまでいっている。それでも天皇のおもいが叶わなかったのはなぜなのだろう。

 1939年、日本の中国における経済的利権の独占に不満を募らせていたアメリカは、 明治時代の政治家が不平等条約を改正して勝ち取った日米通商航海条約を破棄した。戦略物資の多くをアメリカに依存していた日本は、 この通告に大きな衝撃を受ける。こうすればこうなるという戦略的想像力さえ軍部は持っていなかった。そうした想像力を持っていたのは、 天皇と一部の海軍官僚だけだった。

●ヨーロッパ外遊がいかに貴重だったか

 なぜ昭和天皇はそのような想像力を持ち得たのだろうか。1921年、20歳のとき、当時皇太子であった裕仁親王は6ヶ月間ヨーロッパ各国 (英仏蘭伊など)を歴訪している。日本の皇太子がヨーロッパを訪問したのは初めてのこと。このときの知見が大きいのではないか。 この時代海外のことを知っている日本人はほとんどいなかった。

 そして1941年ABCD包囲網が完成し、日本は石油輸入の道を絶たれる。《欧米からみた大東亜戦争の基本構図は、アジアは欧米列強の縄張りなのに、 生意気にも縄張り争いをする極東の新興ギャング日本は許せん、懲罰を与えよう、わかりやすく言うとそういうことです。》異議なし。

 1941年12月8日、真珠湾攻撃。「いわゆる御前会議というものは、おかしなものである。枢密院議長を除く他の出席者は、 全部既に閣議または連絡会議において意見一致の上で出席しているので、議案に対する反対意見を開陳し得る立場の者は枢密院議長ただ一人であって、 多勢に無勢、いかんともなしがたい。まったく形式なもので、天皇には会議の空気を支配する決定権はない」と『独白録』の中で愚痴っている。 よく終戦の御聖断ができたものだ。みんな「もうあかん、かくなるうえは天皇がやめるといってくれんかな」という空気になっていたのにちがいない。

 1941年三国同盟の締結を上奏しにきた近衛首相に、「アメリカは日本に対してすぐにも石油や屑鉄の輸出を停止するだろう。 そうなったら日本の自立はどうなるのか。こののち長年月にわたってたいへんな苦境と暗黒の内に置かれることになるかもしれない。 その覚悟がお前にあるのか」と難詰している。

 また9月6日の御前会議前日、杉山元参謀総長と永野修身軍令部総長を呼び、杉山に「日米にことが起きたばあい、陸軍はどれくらいの期間を考えているか」と問う。 「南洋方面は3ヶ月で片付ける」という答えに天皇は「お前は支那事変を1ヶ月で片付けるといったのに4年たってまだ片づかんじゃないか」と難詰。 「支那は奥地が広いものですから」と抗弁すると、「太平洋はもっと広いぞ」と叱りつけている。御前会議以外ではけっこうもの申しているのだ。

●聖断下る

 昭和天皇は6月8日の御前会議を「じつに変なものであった」と回想している。みな敗戦に気づいているのに、勝利まちがいなしと発言、 なんとなく戦争継続ということになった。《これ以後、天皇は頑なに守られてきた立憲君主の立場を捨て、自ら積極的に終戦に向けて動き出されます。》 すなわち東郷外相に戦争終結を命じ、最高戦争指導者6人を呼んで「6月8日の会議では戦争を継続すると決定したが、 このさい今までの経緯にとらわれず戦争終結に向けて努力せよ」とこれまでのありかたを破って異例の発言をした。 鈴木内閣はこれを受けソ連に仲介を頼むが、ソ連はポツダムの会議が終わったら返事をするというムニャムニャ回答をしてくる。

●8月15日終戦とおもったのだが

 日本人は8月15日に天皇が戦争は終わったというのを聞いて、「おわった」とおもったが、ソ連軍は北方領土に攻め込んだ。 これが悔しいことに卑怯でも何でもない。まず8月9日に日ソ中立条約を破り(卑怯な振舞いだが、条約なんか何の保証にもならないと半藤一利はいっている)、 ポツダム宣言受諾は、20年8月14日。国民に知らされたのが15日。降伏の調印は9月20日。 戦争そのものは「降伏の調印」をしなければ終わらないという国際法を日本は知らなかった。ソ連はそこに目をつけ、武装解除して丸腰になった満州に攻め込んだ。 57万人が捕虜としてシベリアに送られた。どうして日本の外務省は知らなかったのだろう。それほど無知だったのか。

 敗戦直後、《軍部の「共和制になる可能性がある」という主張に、天皇は「たとえ連合国側が天皇統治を認めても、人民が離反したのでは仕方がない。 人民の自由意志によって決めてもらって少しも差し支えない。国民が未来を選ぶべきだ」と答えられています。 本当に立派な方だなあと、私はつくづく思います。》共和制とは国王や皇帝がいないこと。(つづく)