118(2018.12掲載)

 『天皇陛下の味方です―国体としての天皇リベラリズム』
 
(鈴木邦男、バジリコ、2017.8)

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(11月号からの続き)

V 天皇は神に祈る

 1946年元日、翌年の新憲法発布に先立ち詔書が発布された。昭和天皇が現人神を否定する人間宣言だった。詔書の冒頭に「5箇条の御誓文」を入れた。 日本の民主主義はけっして輸入物ではないことを国内外に示すためだった。マ元帥もこれを賞賛し全文を入れることを希望した。

 なおこの時期、天皇は「我が身がもはやどうなるか知れない。今生の別れとしてぜひとも母君にお目にかかっておきたい」と語っている。 敗戦によって自分の死を覚悟していた。だからこそその覚悟がマッカーサーにも通じたのだろう。

 木戸幸一内相は、昭和天皇が科学者で、かつ平和主義者、自由主義者であったし、皇太子時代の外遊が立憲君主を志した基礎だと述べている。 賛成だ。なおかつ戦後の「人間宣言」を待つまでもなく、周囲の自分に対する神格化に不快感を抱いており、 天皇は「神」ではなく「神に祈るひと」であることを誰よりも認識していた。

●昭和天皇の「沖縄処分」を批判

 《私は昭和天皇に戦争責任はないと考える者です。しかし、戦後の沖縄の状況に対しては明確な責任があると考えています。 なぜなら、占領終了後も沖縄に米軍が駐留することをアメリカに強く求めたのは、他ならぬ昭和天皇だったからです。》と珍しく天皇批判をする。 1947年、天皇はマッカーサーに手紙を送る。占領後も沖縄に駐留し続けてほしい。過激な左翼や右翼が事変を起こす可能性があるし それに乗じてソ連が干渉してくる恐れがある、と。昭和天皇は、共産主義の総本山ソ連が終戦間際に参戦して北方領土をかすめ取ったり、 捕虜57万余人をシベリアに抑留して5万余人を死亡させたことを心底恐れていた。実際問題、丸腰の日本がソ連以下共産中国、北朝鮮、韓国に侵略を受けなかったのは、 米軍が駐留していたからだ。敗戦後今日まで70年の平和を保てたのは《残念ながら左翼系の知識人がいうように憲法九条があったからではありません。》 米軍基地があったからだという。認めたくはないが、これが冷徹な事実だろう。

 立憲君主を旨とする昭和天皇ではあったが、戦前の指導層がすべて監獄に入れられていた状態では、自ら「政治をされた」と、鈴木は見ている。 かなわないのは沖縄だ。平和のゴミ処理場を押しつけられているのだから。

●極東国際軍事裁判

 これについては一言いっておかなければならない。A級戦犯7人、BC級戦犯1000人が処刑されている。 日本の罪状としてあげられたのは「平和に対する罪」と「人道に対する罪」、かつて聞いたこともない戦後の事後法に過ぎない。 インドのパール判事は、事後法をもって裁くことは国際法に反しているから被告全員は無罪と主張した。 「戦争の勝ち負けは腕力の強弱であり正義とは関係ない」またナチスのホロコーストに言及し、「ホロコーストに匹敵するのは唯一アメリカの原爆投下だ」 といいきっている。俗な話だが、今後経済的に中国に付くかインドに付くかといったらインドに付くべきだとわたしはおもう。

●平成天皇

 平成天皇(明仁天皇)は、昭和天皇の第1子。敗戦直後の昭和21〜25年、12歳から16歳までアメリカ人女性ヴァイニング夫人の教育を受ける。 わたしの推測だが、昭和天皇は自分のヨーロッパ留学を重ね合わせていたのだろう。

 「日本と韓国との人々の間には、古くから深い交流があったことは、日本書紀などに詳しく記されています。韓国から移住した人々や招聘された人々によって、 様々な文化や技術が伝えられました。(中略)私自身としては、桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると、続日本紀に記されていることに、 韓国とのゆかりを感じています。しかし、残念なことに、韓国との交流は、このような交流ばかりではありませんでした。 このことを私どもは忘れてはならないと思います。」もともと日韓は縁が深いのだから、いがみ合ってはいけないと諭しているのだ。 だがそうはいってもひどい目に遭った韓国側にして見れば、そうそう日本人を心底許すわけにはいかない。

 平成天皇がしばしば沖縄慰霊の旅に出るのは、おそらく父親の懺悔代行だろう。平成天皇は明仁皇太子時代に妃と初めて沖縄を訪問し、 「ひめゆりの塔」に献花するが、隠れ潜んでいた沖縄人に抗議の火炎瓶を投げつけられた。夫妻は何事もなかったようにその後のスケジュールを敢行した。 おそらく昭和天皇から「沖縄処分」に対する後悔を何度も聞かされ、自分が懺悔の旅に出ようと決意していたのだろう。 現に平成天皇は「自分は沖縄の戦争を知っているが、浩宮(徳仁皇太子)にとっては過去のこと。 それだけに沖縄のひとが経てきた道という問題を十分に知るべきだと話したことがある」

 障害者や高齢者、罹災者に心を寄せるひと。特に身障者には強い関心を寄せる。お付きの者から聞いた大正天皇のエピソードに心を引かれたのかもしれない。 国体にパラスポーツを取り入れた。

●象徴としての務めについて(天皇のテレビ談話概略、平成28年8月8日)

 「何年か前のことになりますが、2度の外科手術を受け、加えて高齢による体力の低下を覚えるようになった頃から、 これから先、従来のように重い務めを果たすことが困難になった場合、どのように身を処していくことが、国にとり、国民にとり、 また、私のあとを歩む皇族にとり良いことであるかにつき、考えるようになりました。既に80を越え、幸いに健康であるとは申せ、 次第に進む身体の衰えを考慮する時、これまでのように、全身全霊をもって象徴の務めを果たしていくことが、難しくなるのではないかと案じています。
(中略)私はこれまで天皇の務めとして、何よりもまず国民の安寧と幸せを祈ることを大切に考えて来ましたが(中略)天皇が健康を損ない、 深刻な状態に立ち至った場合、これまでにも見られたように、社会が停滞し、国民の暮らしにも様々な影響が及ぶことが懸念されます。
 始めにも述べましたように、憲法のもと、天皇は国政に関する権能を有しません。そうした中で、このたび我が国の長い天皇の歴史を改めて振り返りつつ、 これからも皇室がどのような時にも国民と共にあり、相たずさえてこの国の未来を築いていけるよう、そして象徴天皇の務めが常に途切れることなく、 安定的に続いていくことをひとえに念じ、ここに私の気持ちをお話しいたしました」

 これまで天皇は死ぬまで天皇だったが、このテレビ談話により、平成天皇は生前に天皇の地位を退くことになった。

●天皇リベラリズムとは何か

 《昭和天皇が戦後歩まれた「開かれた皇室」をさらに押し進めるとともに、皇室の伝統すなわち古代の日本人の価値観と民主主義が混然一体となった 日本固有のリベラリズム、いわば「天皇リベラリズム」とでもいうべき新たな国のかたちを指し示されたのが、他ならぬ今上天皇であったと私は考えています。》 天皇リベラリズムとは面白い言葉だが、古代日本人の価値観がどうすればわかるのか。リベラリズムとは自由主義のこと。 天皇リベラリズムでは国民の自由主義と相反するのでは。サブタイトルに入れるにはそれ相当の思込みがあったのだろうが、わたしには理解できない。

●天皇家は神社の総代

 そこで改めて天皇とは、天皇家の始まりとは何であったかということにおもいが飛ぶ。わたしは、 今まで縄文時代のひとびとが何万年も平和に暮らしていた日本列島に韓半島から稲作などの先進文明を持って侵入してきたひとびとが天皇家だとおもってきたが、 そんな単純なことではないと考えなおした。そのきっかけは、昭和天皇崩御とそれに続く平成天皇就任(というかどうか知らないが)の儀式をテレビで見て、 その服装が神社の宮司の姿にそっくりであることを見たからだ。「そうか、天皇は神社の総代なんだ」と感じた。

 天皇という偉そうなネーミングがいつから始まったものかは知らないが、おそらくそう古いことでもなく、大風呂敷を広げても弥生時代程度だろう。 ここまで本書を読んできて、当時から天皇は支配する「神」ではなく「神に祈るひと」であったにちがいないと感じる。

 本書のここから先は、尊皇を騙る安倍政権とその取り巻きに対する舌鋒鋭い批判が繰り返される。それはジャーナリスティックな事柄であり、 本質的な問題ではないので省略する。

 だがわたしとしては反原発の立場から次の一節だけは書きとどめたい。《天皇は君主ではないし国民も天皇の臣下ではない。 (中略)天皇とは、古来の日本人の価値観と信仰、すなわち神々への畏敬と祖霊崇拝を体現された存在です。その意味でこそ、天皇は日本の象徴なのです。》 《環境保全という概念は我々日本人の中核をなす伝統的価値観に他なりません。したがって、天皇だの我が国固有の国体だのというのであれば、 まず原発に反対しなければ筋が通りません。放射能汚染で国土を汚す、これほど罰当たりなことはないはずです。 「安倍まわり」のように原発推進なんていっている連中は、間違いなく反天皇主義者です。》