119(2019.1掲載)

 『【新装版】ナチスドイツと障害者「安楽死」計画』
 
(ヒュー・グレゴリー・ギャラファー著、長瀬修訳、現代書館、2017.1)
 原題は BY TRUST BETRAYED: Patients, Physicians, and the License to Kill in the Third Reich 裏切られた信頼

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T いつ、どこで、だれが――ナチス第3帝国時代――

 ヒトラーはユダヤ人虐殺の前に自国の障害者20万人を殺している。手を下したのは医者だ。

 ギャラファーは1933〜2004。アメリカ人。1952年19歳でポリオにかかり重度の障害者に。 重度といっても具体的な言及がないのでどの部位がどの程度の障害を負ったかうかがい知れない。 1985年『フランクリン・デラノ・ルーズベルト大統領の華麗な偽り』で全米図書館協会の年間最優秀を受賞しているから、指やことばに不自由はしなかったのだろう。

●困った本

 困った本だ。わたし自身が重度身体障害者だから障害者の内実に詳しすぎて論評しにくい。 《たいていの家族には障害者がいる。(中略)遅かれ早かれ、多くの人はいずれかの形で障害を持つことになる。》 わたしと同じ障害者観の持ち主だ。おそらくどの障害者も同じだろう。だが障害の程度によっておもいは異なる。

 いっそあのとき死んでしまえばこんな苦痛を味わうことはなかっただろうにと、いまでもときどきおもう。 わたしは四肢体幹マヒであるにもかかわらず、背中と腕に24時間痛みがある。痺れ痛といったらいいだろうか。 それが昂じて震えとなり息も絶え絶えとなるときにとりわけそのおもいに駆られる。また介護の手がみつからなくてどうしようもなくなったとき。 何をするにもいちいちひとに声をかけて頼まなければならないとき。夜中に体の痛みで目が覚め、妻を起こして体位交換させなければならないとき。 妻も常勤で一日中働いてくたびれ果てているというのに。自分が死んでしまえば自分だけでなく回りのひとの苦労もなくなる。 ではなぜいまだに自殺せずに生きつづけているかといえば、今まで長年にわたってわたしの生を支えつづけてくれたひとたちを裏切り、 悲しませ落胆させるだろうとおもうからだ。

 だからヒトラーの障害者安楽死計画をたやすく断罪することはできない。本書を読み進めるのに時間がかかったのは、大部なせいばかりでなく、 いちいちわが身を振り返っていたからでもある。

 時代背景から安楽死計画の詳細に至るまで知らないことばかりだから5W1Hを意識しながら本書を要約した。

●ナチス第3帝国時代

 第1次世界大戦(1914〜1918)は、ヨーロッパが主戦場となったが、帝国主義の時代であったため、それぞれの植民地も巻きこんだ。 ネット情報によれば、戦死者はドイツ177万人、オーストリア120万人、イギリス91万人、フランス136万人、ロシア170万人、イタリア65万人、 セルビア37万人、アメリカ13万人に及んだ。

 戦勝国、特に主戦場となったフランスは――むかしは戦場というだだっ広いところで大砲や鉄砲を撃って殺し合った。 今はサイバー攻撃があって世界中が戦場になっている――ドイツに過酷な賠償を要求した。ヴェルサイユ条約により巨額の賠償金を課せられ、 その支払いをめぐってフランスがルール地方を占領したため、戦時中から続いていたドイツのインフレーションが激化し、国民の不満が高まった。 177万人が死んだということは、それだけ働き盛りの労働者を失ったということでもある。 イギリスの経済学者ケインズ(1883〜1946)は「ドイツ人など貧困にあえいでいればよいなどという考え方では、 いつの日か必ず復讐されることになる」と条約を批判した。見ているひとは見ている。

●ユダヤ人大量虐殺のまえに

 神聖ローマ帝国を第1帝国、ビスマルクのドイツ帝国を第2帝国とし、ヒトラー(1889〜1945)の体制をそれに続く第3の帝国と位置づけた。 こういうのを夜郎自大という。白人至上主義が特徴。まあわが国も大日本帝国と称したんだけどね。

 要するにドイツは第1次世界大戦の敗戦により、莫大な賠償金とスーパーインフレに悩み、独裁主義への願望を強め、 ヒトラーとその国家社会主義に傾倒し、強烈な反ユダヤ主義や地域の少数民族への差別を容認および黙認した。 ユダヤ人大量虐殺のまえに、本書のテーマである障害者大量虐殺があった。1910年代から劣等分子の断種や治癒不能の病人を安楽死させていた。 私見だが「穀潰し」を飼っておくほどの国家財政がなかったのも一因だろう。

 「穀潰し」抹殺に対して民衆は根強く抵抗した。ただしほとんどの医者は官僚のように淡々と「安楽死リスト」を作成した。これがギャラファーの癪の種だ。

●理想のドイツ人像というものがあった

 《当初の考えは重度の知的障害者、暴力的で慢性的な精神障害者、重度で苦しみを訴える身体障害者を殺すというものだったにちがいない。 馬や苦痛にあえぐ犬を撃ち殺して、苦しみから解放するという考えを障害者にも当てはめたものだった。》だが、 《殺されたドイツ市民の多くは苦痛にあえいではいなかった。死にかけてもいなかった。病気ですらなかった人もいる。 一時的に障害を持っていた人もいれば、稼ぎを上げていた人もいる。》ではなぜ殺されたのか。

 1939年9月1日、ドイツがポーランドを侵略して第2次世界大戦が始まった日、ヒトラーは、 「帝国指導者フィリップ・ボウラーと医学博士カール・ブラントに、人知では治癒不能と判断される人間に対して、 病状の最も慎重な診察の上に安楽死がもたらされるよう、指名される特定の医者の権限を拡大する責任を与える」という文書にサインした。 ブラントはヒトラーの侍医。ヒトラーは1935年からこれを考えていた。自分の主治医を責任者にするとは。独裁主義の実態とはこういうものなのだろう。 戦時中ならこういう策を実行しやすい。教会の抵抗も少ないだろうと考えていた。戦争開始の日にサインするとは、よほどこの政策にご執心だったとみえる。 「穀潰し」を養うには金がかかるという理由より、障害者そのものが理想のドイツ人像にかなわなかったから毛嫌いしたようだ。重要な点だ。

 まず手始めにブラントは、盲人として生まれ白痴で片手片足のない娘の安楽死を求めている父親の家に赴く。ヒトラーは両親が将来罪の意識を持たないよう望んだので、 家庭医が安楽死を施すようしむけた。現在なら本当に知的障害なのか、教育や補装具で生産性をもてるのではないか検討するはずだが、 そんなことはなされぬまま彼女は「慈悲の行為」として殺された。これをきっかけに同様の依頼が医者に舞い込むようになった。 両親が望んだのだ。(現代日本でも重度の知的障害児の死を望む親は多い。)

●絶大なヒトラー人気

 ヒトラーは第1次大戦の終わりかたへの不満、ワイマール共和国への怒りを抱いていたが、これはヒトラーだけではなく、 ヒトラー支持者の感情と経験を反映していた。ヒトラーは革命を支配し、国家の長としてだけではなく、最高の建築家、最高の弁護士、 最高の医者と見なされた(なんでやねん)。絶大な人気があった。公正な選挙でヒトラーは98パーセントの支持を得た。 生ける神として、ヒトラーを崇拝する民衆も多かった。

 なにしろヒトラーは、不況に落ち込んでいたドイツ経済を繁栄に導いたし、再軍備と大規模な公共事業で失業者を減らした。 それにアウトバーンと呼ばれる高速道路網を整備し、公害規制までやった。社会保障と老齢年金を整備し、乳幼児死亡率をイギリスより下げた。 ここでいう社会保障というのが何を指すのかはわからない。

 ドイツ国民が「障害者安楽死計画」を知ったとき、国民は「総統はこの計画をご存じないのだ。 総統がお知りになればすぐ中止して下さるのに」と信じていた。(つづく)