122(2019.4掲載)

 『【新装版】ナチスドイツと障害者「安楽死」計画』
 
(ヒュー・グレゴリー・ギャラファー著、長瀬修訳、現代書館、2017.1)
 原題は BY TRUST BETRAYED: Patients, Physicians, and the License to Kill in the Third Reich 裏切られた信頼

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(3月号からの続き)

W 宗教界と市民の反発

●教会の抵抗

 《ブラウネ牧師は一九四〇年の夏にT四計画の実態と広がりをつぶさに具体的に書いた報告書をまとめた。 勇敢な行為であり、労作だった。報告書の中でブラウネは殺人行為停止への力強い議論を展開している。 計画の中止を願い、ナチス政権の首脳部へも報告書を提出した。ヒトラー自身がブラウネの報告書に目を通したとされる。》

 唯一心安らぐのは、カトリックの側からもプロテスタントの側からも強硬な非難が上がったことだ。

 ヒトラーは教会の反応を恐れていた。《中央がコントロールした殺人計画を終わらせるのに最も重要な役割を果たしたのはドイツの教会だった。 特にローマ・カトリックの勇気あふれるメンバーが公開の場で意見を表明したのはナチス指導者に衝撃を与えた。》 日本の神道界や仏教界はこんな時いかなる態度を取るだろうか。まことにこころもとない。

 1939年、T4計画を成文化する動きがあった。すなわち@不治の病により深刻に苦しめられている、または他者を苦しめている、 もしくは確実に死に至る不治の病気によって苦しめられている者は誰もが、自己の希望の表明かつ特別に認定された医者の許可がある場合に、 安楽死を得ることができる。A不治の精神病の結果、永久的ケアを必要とし、かつ人並みの人生が送れない者の生命は、 無痛の医学的手段で終わらせることができる、と。

●T4計画と教会

 ギャラファーはえらくドイツの教会を持ち上げている。ユダヤ人の抹殺など教会が黙殺したさまざまな問題点の指摘は忘れないが、 《ドイツの教会は他の政策を攻撃するのとは比較にならないほど激しく安楽死を攻撃した。教会の指導者は説教壇から強力に果敢な抵抗を試みた。 社会的な支持を集め、この件についてだけは、ヒトラーとその取り巻きを後退させた。》

 ドイツの療護施設や長期入院施設の多くは教会が所有し、運営していた。カトリックは断種手術に反対した。 ところで日本で同様な政策が行われたばあい、既成仏教および新興宗教はどのような態度を取るだろう。 僧侶は厳然と反対するだろうか。葬式仏教と金満新興宗教がそれを反対するとはおもえないのだが。 そうだ、神社もあったな。まあ賽銭箱を守るのに汲汲とするだけだろう。

 最も印象的な司教による抗議はつぎのようなものだった。フォン・ガーレン司教は、1941年当時は63歳。 ドイツ全土に知れ渡っていた。ハンサムで偉丈夫であり、背は193センチ、肩幅は広く胸板は厚かった。 話す声は深みがあり朗々として、権威に満ちて説教には多くの人が集まった。その彼が怒りと抗議に満ちた説教を3回おこなったものだから、 秘密警察が逮捕を計画したという噂が立ったが、「望むならいつでも逮捕に来い」と伝えた。 「大聖堂の扉のまえで司教の衣装に身を飾り、頭には司教冠、手には司教区の信者の幸福のためにフォン・ガーレンが果たしてきた 責任を象徴する司教杖もしくは錫杖という姿で待っている」と。ローマ・カトリックの古代からの権力と権威の象徴で正装されたのでは 秘密警察も手が出せなかった。

●市民の抵抗

 《こういった患者、家族、友人の抗議が村人、教会、そして最終的には社会の大きな部分を動かした。 これはナチスドイツでは異例だった。抗議することは危険だったにもかかわらず、安楽死計画への抗議は国中からまき起こった。 集会、説教、新聞の社説、デモ、さらには小規模な暴動があった。》ヒトラーはこの反響に飛び上がっただろうとギャラファーは推測している。 なにしろ対ソ戦(1941〜1945)のまっさいちゅうだ。公式な安楽死計画は中止せざるを得なかった。

 ところがだよ。1941年夏、ハダマーでは1万人を殺した記念パーティーがもよおされていた。 1万人めの犠牲者は全裸にされ、死体は花とカギ十字の小旗で飾られていた。ブレンナー医師は手短なスピーチをした。 あとはポルカバンドの演奏と大量のビール。

●障害者・住民の抵抗

 1940年秋、アプスベルクの修道院に大型バスが乗り付け、障害入所者28人を連れ去った。 ほぼ全員がまもなくインフルエンザで死亡した。障害者でも何が起ころうとしているのかわかったので、大声で抵抗し逃げ出したり抵抗したりした。 入所者はその仕打ちがヒトラーのせいであることを認識していた。 《こういった光景がアプスベルクの住民に与えた影響ははっきりしていた。》住民は入所者を助けようとした。 ナチスは罵倒された。《支配層は市民の不満の徴候には非常に敏感だった。》

●T4計画の躓き

 安楽死がふえるにつれ、事務的な処理が追いつかなくなった。担当医が知らないまま患者が殺された。 ある家庭は骨壺を2つ受けとった。盲腸炎が死因という通知を受けとったが、盲腸の手術はむかし済ませていた、 たくさんの子供が同じ日に死んだ、等々。《ドイツでは死亡日を含む家族の死亡広告を新聞に出すのが伝統である。》 ナチスはその伝統を撤廃しておくべきだった。天網恢々疎にして漏らさずとはこのことだ。

●敗戦後、口をぬぐった医者

 1945年5月9日、ドイツ無条件降伏。350万人の男が兵役で命を落とした。復興の仕事に取りかかったのは女だった。 優生学原理も新医学も重度障害者と慢性的精神病者の安楽死も消滅した。《こういった出来事の弁解はなかった。 あったことすら認められなかった。誰もが口をつぐんだのである。》

 殺人に関与しながら、逃亡し、変名を用いてほとぼりが冷めてから再開業した者もいた。《医学界は結社である。》 T4計画に関与した医者を見つけ出すのは困難だった。ケルンの裁判所は多くの患者を殺した医者を放免した。 患者は「燃え尽きた人間の抜け殻」にしか過ぎないという理由からだった。エスタブリッシュメントはいざとなれば何とでもいう。(つづく)