124(2019.6掲載)

 『知らなかった、ぼくらの戦争』
 
(アーサー・ビナード、小学館、2017.3)

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 1967年アメリカ・ミシガン州生。1990年来日。《ぼくが十二歳のとき、夏休みの終わりに、父親は飛行機事故で死んだ。 ぼくも同じ飛行機にいっしょに乗るはずだったが、いくつもの偶然が重なって予定が変わり、こっちだけ死なずにすんだ。 「助かった」という気持ちはまるでなく、父に置いていかれたさびしさと、父と一緒じゃなかった後ろめたさに、ぼくはずっととらわれている。》泣かせる。 日本に帰化したのか、それともアメリカ人なのか気になった。これは重要な問題だ。本文中の1ヶ所でアメリカ人と判明。 父親の死という個人的なわだかまりを抱えつづけていると同時に、アメリカという国の非情な国策を恥じているように見えるからだ。

 詩集『釣り上げては』(思潮社)で中原中也賞受賞。アメリカ人が日本語で詩を書いて賞を取ってしまう。どれだけ頭がいいんだ。 本書は文化放送「アーサー・ビナード『探しています』」を採録して再構成したもの。

 本書で特筆すべきは、23人のひとにおこなったインタビューが、鎖のようにつながっていること。練りに練られた構想といっていいだろう。 アメリカが長期的展望に立って日本を倒し、属国化していったいきさつを鮮やかに浮き彫りにしている。 だが本論ではそれらのものを断腸の思いでカットし、あえて真珠湾攻撃と原爆投下に的を絞った。

T 真珠湾攻撃

●パールハーバーに重要空母はいなかった

 そう証言するのは原田要氏。1916年長野県生。零戦パイロット。真珠湾攻撃に参加。

 宣戦布告なしの真珠湾攻撃は卑怯きわまるもので、お返しに広島・長崎に原爆を落としても当然の報いであったとアメリカ人は 幼いころから教え込まれている。日本人もまた「いきなり大爆撃じゃなあ、やりかえされてもしかたないか」とおもいこまされてきた。 その一方で、アメリカは日本の暗号をとっくに解読していて、あの日あの時の攻撃を事前に知っていたという説もあり、 それは日本人にとってつごうのいい説だから、わたしも確証のないまま後者の説を採っていた。

 ところがビナードのレポートで確証がつかめた。《戦力的に価値が低く、すぐ代わりを用意できるアリゾナ号のような戦艦は、 そのままパールハーバーに無防備に並べられていた。けれど、撃沈されたら困る大事な航空母艦はすべて前もって、 みごとなタイミングでハワイから遠い海域へ避難させたのだ。》現場で死亡したアメリカ軍の2345名にとってはサプライズだった。 どこの国の大将も「この戦ではこれくらいの兵員が死ぬだろう」と冷徹な計算をしているものだ。 《ホワイトハウスとアメリカ陸軍省のインサイダーたちが、壮大な罠をしかけ、兵卒をネズミ取りのエサのように利用して、 「開戦」のシナリオがそれで整ったと考えられる。》

 さらにわたしがうなったのは、プロのカメラマンたちがロケハンまでして真珠湾攻撃の様子を撮影したという指摘だ。 YouTubeを見ると、アメリカ軍の飛行機だろう、空撮までしている。用意周到。

 不本意にも日本艦隊護衛の上空援護に回された原田氏は語る。《わたしは戦争の経験がかなりあったので、 航空母艦の怖さというものを実感していました。戦艦とか巡洋艦より、航空母艦のほうが断然手ごわい。だから攻撃隊には、 とにかく空母をたたいてもらいたいと思っていたんです。ところが、帰ってきた攻撃隊のパイロットたちに「空母は何隻いたのか?」と聞くと、 「一隻もいなかった」」というんだよね。》当時、日米の空母の数は拮抗していた。真珠湾攻撃はそれをたたくことが大きな目的だった。

 《アメリカは日本の攻撃を知っていたに違いない。それがわたしの直観だったんですね。そんなことは、戦争を体験して戦争の裏表を多少わかっていれば、 わたしのような下士官でも見えることだった。およそ戦争というものは、階級ばかりでできるものではないんです。 経験が必要なんです。》『戦場体験者 沈黙の記録』(保阪正康、筑摩書房、2015.7)で何度か目にしたことばのような気がする。

●日系人強制収容所

 リッチ日高氏。1928年カリフォルニア生。

 本書の特徴は、各章が緊密に関連性を持っていること。真珠湾攻撃のつぎに起こったのは、日系人をスパイとしてとらえ強制収容所に隔離したことだ。

 《一九四二年二月十九日にルーズベルト大統領が、合衆国憲法に違反して、アメリカ国籍の者も含めて西海岸の日系人を全員、 強制収容所に入れるための大統領令を出した。/基本的人権を無視され、農家は土地と作物を失い、商人は店と商品を失い、 老若男女みんな犯罪者として扱われ、人里離れた荒れ地のキャンプに閉じ込められた。》わかりやすいみごとな文章。 日本語がうまいだけではない。《アメリカ人のぼくは、その大事なアメリカ史を知らずに育った。日本語を学びだして、 日本に住んでからやっと気がついて、でも今なお氷山の一角しかわかっていない。》と書く素直さも魅力的だ。 ところで収監されたのが西海岸の日系人だけというのはなぜなのだろう。それ以外の地域の日系人はなぜ無事だったのだろう。 それに関しては今後の読書における出会いに待とう。

 まあここでびっくりするような深読みに遭遇。1940年代のはじめ、多くの日本人はまじめに働き、 それぞれの地域の白人・黒人・ラテン系・中国系とじょうずに付き合っていた。もしそんな状況がつづけば、 《焼夷弾で日本人を万人単位で焼き殺すような作戦は喜ばれず、非難されかねない。ましてや無防備の民間人に原子爆弾を投下するなんて、 支持を得られる行為ではまったくない。》ご近所づきあいのあるひとを悪くいうことは難しい。 だがどこか知らぬキャンプ地に隔離された者たちの人となりを知ることはできない。 1941年には「ジャップ」をさげすむ大々的なキャンペーンをはじめた。

 ビナードが知っているのか否かわからないが、アメリカ海軍にはオレンジ計画なるものがあり、 今後交戦の可能性がある国すべてに対して周到な計画を練っていた。Wikipediaには、 日露戦争に日本が勝利した翌年に早くもアメリカは日本を敵国とするオレンジ計画に着手していたとある。 35年後に日米が激突したときにはほぼその計画どおりに戦いがすすんだ。

●ちば作品の主人公はなぜジョーなのか

 ちばてつや氏。1939年東京生。2歳で満州国奉天に渡る。敗戦後、引き揚げ船で帰国。

 話はここで真珠湾攻撃からそれて、いったんソ連の「日ソ中立条約」裏切りに移る。個人的な思い出からだ。 「大日本帝国」は、満蒙開拓移民二十七万人の忠良なる臣民を切り捨てて、姿を消した。日本人は敵に囲まれながら帰国を試みた。 そのとき、一介の中国人庶民の徐さんは、友情を尽くして民族の垣根を越え、ちば家を救った。

 ビナードはためらいがちに「あしたのジョー」のみなもとは徐さんのことかと問う。 《ちばてつや びっくりしたあ! そんなこと初めていわれました。でも、そうか……そうかもしれないです。 考えたことなかったなあ。/そういえば以前……》ちばはつぎつぎに思いあたる節を述べる。 『紫電改のタカ』の主人公は滝城太朗、マラソン選手を描いた『走れジョー』の主人公も城太郎。 《確かに、無意識のうちに「ジョー」という名前ばかり描いていますね。刷り込みみたいなものなんでしょうか。 それほどわたしは徐さんに恩を感じているんですね。》ひょっとしたら、ちばはこのとき密かに涙ぐんでいたのではないか。そんな気がする。

 引き揚げ船に乗るには奉天から300キロ離れた港まで歩かなければならなかった。 《本当に歩きどおしでした。途中、いろいろなところで人がうずくまっているのですが、死んでいるのか生きているのかわからない。 みんな、そういう人を見つけると、そばへ寄って「大丈夫か」といいながらポケットを探り、食べ物を取っていく。 死んでいたら、着ているものをはいで奪う。そういう様子をたくさん見ました。日本人同士がそういうことをするんですから。 /今考えると、人間ではなかったですね。もう鬼です。》 (つづく)