125(2019.7掲載)

 『知らなかった、ぼくらの戦争』
 
(アーサー・ビナード、小学館、2017.3)

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(6月号のつづき)

U 原爆投下

●夫婦であっても語り合えない被爆体験

 大岩孝平氏。1932年広島生。13歳のとき広島市南区の自宅でピカに遭う。東京都原爆被害者団体協議会代表。 原爆体験は、話すことも難しければ、まして書くことなど及びもつかない。大岩が被爆して60年たった2005年ごろ、 近所の被爆者に体験記を書くことを持ちかけたが、「思い出すのも嫌なことだから、とても書けないと」と断られた。 だがしだいに「わたしたちが書き残さないと、この思いは消えてなくなる」と35人ぐらいが賛成した。

 《うちの女房も「書けない書けない」っていってたんですが、書き出したら三日間徹夜して書いてくれました。 実は、わたしが女房の原爆体験を詳しく知ったのは、そのときが初めてなんです。わたし自身の体験も、女房にきちんと話していなかったですからね。 一九五八年に結婚したので四十七年も経っていたんですけど、たとえ夫婦であってもなかなか正面から語り合えなかったんです。》

●わたしの広島平和資料館体験

 オバマの平和資料館の訪問はたったの5分だった。これはいけない。広島で「はがき通信」の懇親会が開催されたときの個人的な経験を書いてみたい。 せっかく広島を訪れたのだから広島平和記念公園ぐらい寄らなくてはという軽い気持ちだった。 きちんと整備された原爆ドームを見ても、原爆死没者慰霊碑を見ても特別な感興はわかなかった。

 平和資料館だけは違った。ただし、焼け焦げた弁当箱を見ても、石の階段に写った人影を見ても、とくにどうということもなかった。 以前から知っていたからだろう。だが被爆直後の写真、それも爆心地から遠く離れた町の写真館の主人が撮影した写真には驚いた。 心配そうな顔をして通りに出てきたひとびとの衣服は爆風で引きちぎられていた。ほかの写真にも心を揺さぶられた。 写真にはひとの心を打つ力があると改めて思った。車椅子はエレベーターを使わなければ出入りできない。 ひとけのないエレベーターホールに来たとき、おもいがけないことが起こった。突然涙が出てわたしは号泣した。嗚咽はしばらくおさまらなかった。 家内がティシュを何枚も使って涙を拭いてくれた。平和資料館だけは時間をかけて見学しなければならない。5分といえば走り抜けただけだ。

 ビナードはつづけて、オバマが長崎を訪れなかったことを糾弾している。《なにしろ「長崎」の実相を注視すると、 戦後の核戦略の暗部も見え隠れするからだ。》何をいいたいのだろう。それは後回しにしよう。

●オバマの欺瞞

 《アメリカ市民は一人一人「武器を持つ権利」がちゃんと保証されている。(中略)そもそも憲法は権力を縛るための装置だ。 もし権力者が市民から武器を取り上げ、武力がすべて政府にコントロールされたら、今度は暴走して市民の財産を奪ったり、 人権を踏みにじったりする可能性が高い。したがって自由を抑圧されないために、市民はいつでも政府を倒せるくらいの武器と組織力を持つべきだ。 (中略)――これこそジェファーソンやワシントンが考え出したthe right of the people to keep and bear Armsの「武器を持つ権利」の 奥にある意図だった。》銃器による惨劇が起きるたびに全米ライフル協会をはじめとする一派が口にする論理だ。 ところが当時の「武器」は弓矢とか剣のことであり、せいぜい火縄銃が最先端の技術だった。全米ライフル協会のいいぶんは、18世紀のもの。 もはや詭弁に過ぎない。

 《メディアは現職のプレジデントの初の広島訪問と沸き立ったが、ぼくには米軍岩国基地を訪れたついでに、 ちょっと立ち寄っただけのようにも映った。/ひねくれているのだろうか?  しかし海兵隊のオスプレイのパイロットを褒めたたえるタイムスケジュールを少し変更してでも、ピカとピカドンの体験者に耳を傾ける時間、 平和記念資料館を一分でも多く見学する時間をつくることは、どうしてもできなかったのか? /アメリカ人として、広島でたったの一時間のみ過ごすことにどんな意味があるのか?/本気でこの場所の意味を考えていたのだろうか?  こなれたスピーチ力で観衆を魅了したとしても、ぼくの中には空疎なものばかり残ったままだった。》

   2016年5月、オバマ大統領の広島訪問をテレビで見ていたわたしは尋常でない違和感を抱いた。 本欄は著者の意見を重視することを心がけているが、このあたりの文章には私見が入る。 ビナードは地元のラジオ・テレビに解説者兼通訳として出演していた。大統領の「広島演説」の同時通訳もした。 テレビに映らない裏事情を記して、ビナードはげんなりしている。

 オバマは当日の午後、まず広島と瀬戸内海を隔てただけの山口県岩国基地に入って時間をふんだんに使い海兵隊員を褒めたたえ オスプレイの宣伝をおこなった。大統領専用の安全なヘリコプターとオスプレイ4機の5機編隊で広島入りした。 《「核なき世界をめざす」という触れ込みの訪問でも、実態はアメリカの軍需産業の訳あり品のセールス・プロモーションかと、 ぼくは生放送が始まるころからすでにげんなりしていた。》訳あり品とは欠陥機の意だろう。

 平和記念公園の資料館を5分間(!)見学し、「自分で折った」きれいな折り鶴を二つ広島の少女にプレゼント。 さすがに気が引けたのか「少し手伝ってもらった」

 《慰霊碑のそばで献花、つづいてスピーチを行った。その間じゅう、同行したスタッフに「核のフットボール」を持たせていた。 (中略)噂には聞いていたけれど、爆心地にそんな代物を持ち込む姿勢に、ぼくはアメリカ人ながらあきれた。》 大統領に付かず離れず2つの重そうな鞄を提げた男が歩いているのが画面に映った。世界のどこに行くにも同行する。 広島も例外ではない。その鞄の中に核弾頭のミサイルを発射するために必要な一式が入っていることをさすがの大マスコミも伝える。

 そのスピーチにわたしは腹が立った。ビナードはいう。《第三十三代アメリカ大統領の投下命令によって何万人も惨殺された広島の現場に、 第四十四代アメリカ大統領が平気で立ち、謝罪もせず事実とも向き合わず、具体的な取り組みすら語らないまま、長々ときれいごとの挨拶を並べた。》 それを同時通訳しなければならなかったビナードの心中は穏やかでなかったが、周りは誰も拒否反応を示さないし、怒る様子も皆無だった。 周りとは日本のマスコミを指しているのだろう。日本人の鈍感さにもあきれているのだ。

 「71年前の明るく晴れわたった朝、空から死が降ってきて世界は一変しました。閃光と炎の壁によって町が破壊され、 人類が自らを破滅させる手段を手にしたことがはっきりと示されました。」 (Seventy-one years ago, on a bright cloudless morning, death fell from the sky and the world was changed. A flash of light and a wall of fire destroyed a city and demonstrated that mankind possessed the means to destroy itself.) よくそんな図々しいことがいえたものだ。空から死を降らせたのは誰なんだ。この文章には文法上の主語はあっても、実質的な主語がない。 延々ときれいごとが並べられる。オバマはスピーチがうまいことで知られている。だがそのスピーチは、 スピーチライターが書いたものでオバマが考えたものではない。上手なアナウンサーにすぎない。

 「人間が悪を行う能力をなくすことはできないかもしれません。ですから私たちがつくり上げる国家や同盟は、 自らを防衛する手段を持つ必要があります。しかし私自身の国と同様、核を保有する国々は、恐怖の論理から逃れ、 核兵器のない世界を追求する勇気を持たなければなりません。」自己弁護ときれいごと。

●「悪いのは原爆でなく戦争」という平和教育

 献花ののちにテレビに映し出された光景は、どう解釈して良いかわからないものだった。明らかに被爆者らしき老人が2人、 オバマと抱擁しなにごとか話しているのだが、2人の顔は恍惚といってよいほど喜んでいる。顔のケロイドを見るだけで、 おふたりは筆舌に尽くしがたい人生を歩んでこられたに違いないとわかる。にもかかわらず原爆投下国の大統領が広島に来たというだけで、 何らの謝罪もしていないのに、何がそんなにうれしいのか理解できない。

 Wikipediaによれば――。「オバマは原爆死没者慰霊碑前に献花をし、演説を終えると2名の被爆者のもとへ行き、 握手をしながら通訳を交えて会話した。日本原水爆被害者団体協議会(被団協)代表委員の坪井直は、 オバマに「大統領退任後も広島に来てください。核兵器のない世界に向けて、あなたとともに頑張ろうと思う」と訴えた。 自らも被爆者である森重昭はオバマの訪問を歓迎し、熱い抱擁を交わした。オバマと森の抱擁写真は、ロイターから配信され、 日米の多くの紙面のトップを飾った。」トップではないにしろ、世界中の紙面を飾ったのではないか。

 ビナードは語る。《アメリカ国籍か日本国籍かという問題ではない。ぼくは広島の爆心地を現在進行形の「現場」ととらえている。 一方、日米両政府とその演出に協力するマスコミは、同じ場所を単なるセットととらえて「撮影現場」に利用したのだ。 死者と向き合う姿勢など最初からなく、リアルタイムでの宣伝効果のみ狙ったパフォーマンスだった。》

 本書を読んだあとで、あるひとから「広島ではアジア太平洋戦争の原因は真珠湾攻撃であり、原爆投下はそれ以上の犠牲者を出さないためだった」 という教育が徹底的になされたというはなしを聞いた。そうだったのか!

 その瞬間、ずっと前に聞いたあるヘルパーの言葉が記憶の底からよみがえってきた。 原爆症に苦しむひとびとのニュースをいっしょにテレビで見ながらそのひとはいった。「原爆被害者だけが被害者ではない。 空襲で同様の被害を受けたひとはずっと多い。なぜ原爆被害者だけが厚遇されるのかと広島のひとはみんなおもってますよ。 だから悪いのは原爆ではなく戦争。戦争をなくさなければならない」広島出身のヘルパーがいうのだから説得力があった。

 ところがそんなテレビ画面で受けるような印象とはかけ離れた事実が潜んでいたのだ。いうまでもなくアメリカによる思想教育だ。

●広島の原爆と長崎の原爆は異なる

 松原淳氏。1933年長崎市生。市内で被爆。《曇っていたから室内がなんとなく薄暗かったのに、 いきなり太陽に照らされるみたいに部屋のどこも明るくなって、おっつけ爆風が来た。小さかったわたしは飛ばされそうになったんですが、 兄貴がしっかり抱きかかえて爆風がおさまるまで守ってくれました。(中略)やがて外へ出てみると、建物も塀もめちゃくちゃに壊れて、 とても歩けない状態でした。(中略)やがて爆心地の近くにいた人たちが、こちらまで逃げてきました。みんな皮膚がドロドロに焼けただれていて、 担架で運ばれてくる人もいました。》

 《広島の上空で核分裂の連鎖反応を起こしたのはウラン235という、自然界でとれる唯一の核分裂性物質だ。 威力は比較的弱く、一発だけで終わった。》ウラン鉱石はそのままでは原爆に使えず、そこから1%未満のウラン235を取り出す ウラン濃縮という作業からスタートし、これを核分裂させ、飛びだす中性子を238の原子核に当てると239に化ける。 こうやってプルトニウムを人工的につくり、ふやしていく。《天然資源のウランが枯渇しても、核兵器で世界を支配しつづけるシナリオは成り立つ。》

 《一九五〇年代に入ると「原子炉」は「発電機」に偽装され、米国に百基以上、日本列島に五十基以上も組み立てられた。》 現在、日本は1万キロのプルトニウムを保有している。

●原爆投下の真の狙い

 金子力氏。1950年大阪府生。社会科の教師。1986年より「春日井の戦争を記録する会」の中心メンバーとして、空襲調査などをおこなう。 2013年、ビナードは『原爆投下部隊』(金子・工藤洋三共著、自費出版か?)を読んで歴史認識が変わったという。 なぜならアメリカは広島・長崎に原爆を投下する前に、訓練として長崎型模擬原爆「パンプキン」を49発投下していたからだ。 原爆投下は、通常の空襲とはまったく別のもののようにおもわれてきたが、そうではなく、本土空襲全体の中に原爆投下作戦が位置づけられていた。 模擬原爆が日本で最初に使用されたのは1945年7月20日。すでに通常爆弾を落とした都市にパンプキンを落としても成果がはっきりしない。 無傷の目標を温存させていたが、空爆が長引くにつれてアメリカは投下場所を確保するのに苦労した。

 《金子 パンプキンの投下は原爆投下訓練の最後の仕上げともいうべきことでした。/戦争が終わってから、通常爆撃の部隊は、 「原爆投下部隊においしいところを持って行かれた。俺たちだけでも日本を降伏させることができた」という主張もしています。 にもかかわらず、広島と長崎への原爆投下を強行したのは、手柄争いのような面もあったのかもしれない。日本の降伏は時間の問題だ、 このままではせっかくつくった本物の原爆を使う機会がなくなってしまう。それではまずい、ということです。 /ソ連との関係も意識していますから「アメリカが原爆によって日本を降伏に追い込んだ」と主張したいところもあったんじゃないか、 とおもいますね。》

 《アメリカの公文書から透けて見える原爆投下部隊の本当の狙いは、長崎ではなく、もちろん広島でもなく、戦争の終結でもない。 /核兵器をテコに世界的に優位を占め、支配の戦略を成功させることだ。》

●浦上天主堂と長崎市長の変節

 要するに長崎には広島型原爆より強力な原爆が投下されたのだ。当時の長崎市の人口24万人(推定)のうち約7万4000人が死亡した。 それなのに長崎原爆投下記念日は、広島ほどテレビでも取り上げない。まあ総理大臣が出席したということが報道される程度だ。

 長崎とキリスト教の歴史は長く、キリスト教にくわえられた弾圧はいまさらいうまでもないだろう。1594年にザビエルが来日、 日本にキリスト教が広まった。一方でキリシタンに対する弾圧はどんどんひどくなり、特に明治初期の弾圧はすさまじいものだった。

 浦上天主堂は、1895年に起工、30年の歳月をかけて建てられた。当時は東洋一といわれた大きな教会。原爆の日、一瞬のうちに爆風で崩壊。 当時の写真を見ると真っ黒に焼けただれ、地獄のような恐ろしさを感じさせる。これをこのまま保存するべきか新しくするべきか論争があった。 わたしならこれをドームですっぽり覆って雨風による浸食風化を避けて保存しただろう。そうすればいまごろ世界遺産になっていたにちがいない。

 当時の田川務市長は保存派だった。ところが奇妙なことに市長在任中、1955年にアメリカ合衆国セントポール市という 聞いたこともないような町と日本国内では初となる姉妹都市提携を結び、アメリカ旅行に招かれた。するとどういうわけか 1958年に浦上天主堂の廃墟の撤去を決定。ハニートラップの匂いがする。

 翌年撤去後の跡地に被爆前の天主堂を模した新しい天主堂が建てられた(本物は30年かかったのに、新しいものは1年で作ったことになる)。 新しい天主堂は美しいもので、想像だがクレープ屋か何かが軒を連ねているのではないか。

 市長はこう述べている。「この資料をもってしては原爆の悲惨を証明すべき資料には絶対にならない、のみならず、 平和を守るために必要不可欠な品物ではないというこういう観点に立って、将来といえども多額の市費を投じてこれを残すという考えは持っておりません」 どうしてこう役人の答弁というのはテニヲハがはっきりしないのだろう。

 キリスト教国のアメリカは、日本で最もキリスト教徒の密度の高さとその迫害で知られた長崎の象徴をなんとしても消し去りたかったのだろう。 長崎におけるアメリカ側の「平和教育」は広島以上のものだったと想像される。