126(2019.8掲載)
『國語元年』
1934〜2010、山形県生。上智大学文学部卒。本作初出は『日本語を生きる――日本語の世界』(1985年6月、中央公論社刊)。 のちNHKで放送。 やたらルビが多いのに閉口。NHKテレビドラマの脚本だが、明治時代日本各地で方言を話していては国家の統一が難しいから 共通語を作るようにと文部省に命じられた主人公の役人南郷清之輔、ところがその家には日本各地から集まったひとびとがそれぞれの出身地の方言を話し、 それぞれが自己主張するから大混乱を来す(江戸時代、1万石から103万石の前田家までおおよそ300藩あった。 それぞれの国に方言があったとすれば近代国家は成立しがたい)。国といえば藩のこと。 井上は極力わかりやすいよう以下のように項目別に話を分けている。 ★と き 明治7年『文部省雑誌』に説諭11則が掲載されたが、その第10則「会話(コトバヅカヒ)ノ事」が本書のテーマ。 この10則はおそらく井上の創作ではなく本物だとおもうのだが、これを読み解くだけでもタイヘン(/マークは私)。 奥羽ノ民其音韻正シカラスシテ上国ノ人ト談話スルニ言語通セサルモノ甚多シ(中略)従前会話ノ学ナキカ故ナリ/ 方今吏務(リム)ヲ奉スルモノ或ハ西ヨリ東ニ趣キ或ハ東ヨリ西ニ詣リ事ヲ訊(ト)ヒ訟を聴クニ言語アイツウセサルアレハ情実審カニシ難ク猶外国ニ至ルガ如シ 其不便モ亦以テ知ルヘキノミ故ニ辺陬僻遠(ヘンスウヘキエン)ノ小学ニ在テハ必十分会話ノ課ヲ授クルヲ要スへシ然レトモ 其教員之ヲ土人ニ選ヘハ自ラ土音土語ヲ脱セサルノ弊アラン(以下略) 東北のひとと都会のひとは言葉が通じにくい。役人は東西を駆け巡らなければならない。そんなとき言葉が通じないようでは困るから、 これからは小学校で言葉遣いを教えなければならない。――ここまで書くのに1日かかった(愚痴です)。 どういうわけか明治8年には新政府の政治方針が一変し復古調になり、以上の方針も転換、 文語調が復活(というわけでドラマの舞台も明治7年初夏からその年の秋となる)。 十数年後に鹿鳴館時代が来るまで口語共通語が顧みられることはななかった。 ★ところ 東京・麹町番町・南郷清之輔邸 ★ひ と (括弧内はテレビ放映時の配役。これを見ただけでも再放送が見たくなる)
南郷重左衛門(浜村淳)薩摩弁、61歳。 井上は山形生まれなのでやはり東北弁に通じているらしく、東北弁が多く出てくる。まずは筋書きをたどってみよう。
T ★前口上 南郷清之輔が「全国統一話し言葉」の制定を命じられたというふみの手紙が信光寺で発見されたというニュースが流れる。 ★ふみが最初にお屋敷へやってきた日 ふみ (両親宛の、お国言葉で書いた手紙を自分で読み上げる)父上様(オドチャ)に母上様(オカチャ)、 余りお屋敷(アンマシオヤスギ)が大きいので私は動転(オッケーガラオラハドデ)したや。 こんな文章を書き写すことは不可能に近い。文庫本だからまたルビが判別しがたい。ルビの省略またはルビ優先の書記方法をお許しいただきたい。 このドラマは何度か観ないと理解できないだろう。
加津がふみをみんなに紹介。
たね 江戸とは御瓦解まえのこと、今はトウケイさ。あたしが言っているのはイドだよ。
加津 こちらのお屋敷では、いくつものお国訛りが通用しておりましてね、たとえばご隠居様と奥様、
それから重太郎坊ちゃまのお三人は薩摩言葉、奉公人では車夫の弥平さんが南部遠野弁、下男の太吉さんが津軽弁、そしてわたくしが江戸山の手の言葉。 Wikipediaによれば、「山の手(やまのて)とは、低地にある下町に対して、高台にある地域を指す言葉である。山手(やまて)とも。」 「山の手の代表的な地域は、麹町・芝・麻布・赤坂・四谷・牛込・小石川・本郷であり、地理的には武蔵野台地の東端にあたる。」 一方、下町は「地形的な特徴によって区分した「下町」があげられ、市街地中の海や川に近い低地の部分を示す。」 今でいえば高級住宅地と庶民的な土地と言い換えられるだろう。むかしから金持ちは高台に住み、貧乏人は低地に住むことになっている。 結論を急げば、山の手の言葉が標準語になる。 なおネット情報だが、小林信彦氏は『下町バビロン』の中で日本橋を下町として描いているよし。 下町とは武家屋敷地域(山の手)に対し、商工業が盛んな町ということだから、 繁華街(+住居)という感じだったとのこと。 いまでも銀座や渋谷、新宿に店舗と住宅が共存しているうちがある。銀座も下町のうちに入る。下町の親爺の使うことばというと、 たいていはいわゆる「べらんめぇ口調」と思われがちだが、それは職人の言葉であって客商売である商人が使うのは当然もっと 物腰がやわらかな言葉であったと小林氏は述べているよし。井上がそこまで知っていたかどうか。 家の者みんなが出身地のことばを標準語にすべきだというから、薩摩出身の重左衛門は憤懣やるかたない。仏壇の前で声を張り上げる。 《重左衛門 ここは南郷家でゴアス。南郷家は薩摩の出でゴアス。そうしますと、ここでは鹿児島の言葉が強力でないとやっかいな事が起こります。 ……ここでは鹿児島言葉が一番でゴアス。しかし、南郷家の、今の婿ドンは、南郷家の土台石であることを忘却して、勝手次第、 他所のあたりの言葉を真似して、……もう、どうもこうもない酔狂者でゴアス。どうか沢山な叱ってクイヤンセ……。》 ちなみに最後の読みは「ドーカズンバイカッテクイヤンセ」だ。全編これだもの筆記は容易でない。 なんということ、清之輔はその日に文部少輔から任命された「全国統一話言葉制定取調」の辞令を重左衛門に突きつける。 明治7年のことであった。こうなったら重左衛門も祝わざるを得ない。酒宴が始まる。その中に見慣れぬ人物、京都訛りの裏辻芝亭公民が混じっている。 《男 裏辻芝亭家は代々、国学者を輩出しておりますけど。この公民も国学を修めましたサカイニ、 アンタサンの国学教授のお役目ぐらいはつとまりますヤロ。新政府のオエライサンの中にむかしの遊び仲間がギョーサンおりましてな、 そのうちの一人からアンタサンに言語改革の大命が下ったことを聞きましたんドッセ。それでここへ…… 》 古来から言語を改めることに成功したのは二つしかおへん。始皇帝の漢字改革とフランス革命によるフランス語革命。 アンタサンは史上3番目の成功者にならはるわけや、と、大いにおだてて酒を要求する。(つづく)。
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