127(2019.9掲載)

 『國語元年』
 
(井上ひさし、中央公論新社、2002.4)

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(8月号のつづき)

★清之輔がお国訛りを観察した日

 宴席にもぐりこんだ裏辻芝亭公民に、古来から言語を改めることに成功したのは二つしかおへん。始皇帝の漢字改革とフランス革命によるフランス語革命。 アンタサンは史上3番目の成功者にならはるわけや、と、大いにおだてるのだが、ところがギッチョンチョン、公民は、 お国訛りを観察せよという方法以外何の解決案も持っていないことがわかってくる。

 清之輔の観察その1。「奥羽出身者は、「イ」と「エ」をはっきりと区別して発音できない。重左衛門が太吉に「老木(エギツ)を伐れ」といったのに、 太吉は「エギ(植木)を切ってしまう。その2。鹿児島出身の父は、枯れ木、すなわち「老木(オイギ)」のことを「エギッ」と発語。 鹿児島県人は「オイ」を「エ」と発音する。

 名古屋出身の修一郎が英語の勉強をしている。There is not a cloud in the sky. sky をスケェアと発音。 ふみが梨を持って来て「ナス」というと修一郎は「ナス? これは(コリアー)ナスでは無い(ネアー)ゼーモ。ナシだがネ。」と答える。 名古屋育ちのわたしは半音のルビまで判別できる。「無い(ネアー)の「ア」もおそらく半角だろう。

 修一郎は、「どこのお国訛りもア・イ・ウ・エ・オの5個の母音を持っている」という法則を見いだす。 《清之輔 ところで奥羽の人は「イ」と「エ」とを同じ音と思ッチョル。したがって奥羽人には母音が四個しか存在しませんのヂャ。 すなわち、ア。ウ。オ。それに「イ」と「エ」とをごっちゃにしたものが一個で、都合、四個でアリマスナ。(中略)さらに面倒なのが子音だという。 十五夜をズーゴヤ、人力車をズンリキシャ》

 思い出したのは茨城県出身の同世代ヘルパーの話だ。英語の授業を受けていたある日、外人の先生がやってきて、その発音を聞いたら、 それまで習っていたものとまるで違う。いったい自分たちは何を教わってきたのかと驚いたという。先生も気の毒な。 ここでは再現できないが茨城の先生の発音をまねしてみせるのが彼女の持ち芸のひとつだった。

 清之輔はこう結論づける。全国のひとが赤ん坊のように素直にアイウエオを発音し、カキクケコ以下の子音をはっきりと正しく発音するなら、 お国訛りなどすぐにもなくなると。どうだかね、怪しい。赤ん坊は母親の発音をまねてことばを覚えるのだから。 今はテレビのおかげでどんな地方でも若者は標準語をしゃべることができるが、それとてもテレビカメラがいなくなれば普段の言葉遣いになる。 上京した若者が故郷に帰って標準語をしゃべると白い目で見られるという話はよく聞く。 ましてご老人の話は標準語に変換してテロップになおすが、そのうちついて行けなくて、 「%!=%$#」というでたらめな文字の羅列でもう降参ですという意思を表す。明治時代と何も変わってない。

 ある夜、南郷家に出刃包丁を持った強盗が入る。急に強盗が出現するのも喜劇作家の井上らしい。 例によって何をいっているのか訛りがきつくてわからない。在所を聞かれると、「在郷? ン、エアアヅ(会津)ヂャ。」 強盗の出身地を聞くのも珍しいが、答えるのもおかしい。

★口型練習で明け暮れた日

 さあそれからというもの、みんなで口型練習だ。そんな折、吉原にいたたねが「アイウエオ、アイウエオか。どうも吉原を思い出しちまうね」 と意外なことをいいだす。

加津 吉原? おたねさんは吉原をごぞんじでございましたか。
たね 三年ばかりおりましたのさ。と言ったって顔の造作が造作だからオイランにゃなれっこない。 ある見世でオマンマを炊いておりましたのさ。
加津 それでその吉原でも、お国訛りを直しますのか。
たね オイランの卵にはアイウエオやら、イロハニホヘトやら、アメツチホシソラやらを そりゃもう強く仕込みまさあね。 こうして訛りをマッツグにしておいて、それからアリンス詞(コトバ)叩き込む。 皆、泣き泣き口を動かしていたっけ。そんときのことを思い出した。

   花のようなオイランが、たとえば「今晩、どうが泊まってってくお」といったとしたら客はがっかりする。途端に百年の恋も冷めちまう。

たね いやその前に、オイランの言うことが客には通じない。そこで訛りを直してマッツグにして、アリンス詞(コトバ)を教え込むわけさ。

V

★清之輔が若林虎三郎を説得した日

 ふみは父母への手紙の中で、強盗の若林虎三郎がお長屋に寝泊まりするようになって五日たったのに、会津訛りはまるでわからない。 おらの育った米沢と会津とのあいだには飯豊山(エエデサン)があるだけなのに、こんなに訛りが違うとは魂消た話だもや、と書き送る。 それはそうだろう。隣の村とのあいだに山があれば滅多に行き来しない。まして川があれば、どこまで行っても向こう岸に着くことはない。

 若林は東京に出てきて3度押し入ったが、話が通じなかった。 《清之輔 日本人は一人残らずお国訛りチューやっかいなものを背負うて生きチョルのでアリマスヨ。 このお国訛りを早くなくさないと、いつまでも不便至極ノータ。そればかりではノーテ、第一、日本の御国がたちゆかんのでアリマスヨ。 そこでこの南郷清之輔が一方法を案じましてノ……。》口形練習を文部省輔の田中不二麿閣下に申し上げたところ、 オーゴトおよろこびになられて、口形練習という名称も閣下が付けてくれた。

  虎三郎は文語体を使ってはどうかと提案する。文語体なら全国どこでも通用する。話し言葉の全国統一をしようとしているのにとしぶる清之輔に、 虎之助は文語体のなかの書簡体を使って仕事する。《虎之助 (時候のあいさつののち) さて洵(マコト)に申し難き事に候えども唯今金二十円拝借出来まじくや。何卒事情御賢察下されご承諾の程、切願に候。》どうだ書簡体なら通じッべえ。

 確かに巧みな企みじゃと頷く清之輔。「だが書き言葉が口から出るときは、それはもう話し言葉に変わっちょる。 相手に、文字ではノーテ、声で伝わるわけヂャ。それなら訛りを取り除かねばならんのでアリマスヨ」と反論。 ごもっとも。虎三郎は書簡体で喋ったときも、おれァ訛って居ダタノガと驚く。

★褌の紛失が清之輔に方言学上の衝撃を与えた日

 公民がスイカの土産を買ってきた。重左衛門に伝えたが食わないと吐き捨てる。ところがみんなでスイカを食っているのを見て激怒。 名古屋出身の広沢に呼びにいかせたのだが、御上(オンジョ)様はいらないといっていた。だから呼ばなかった。

広沢修一郎 はあ……。それがナモ、名古屋では瓜も西瓜も柿もアケビも、それから梨もスモモもみんな「モモ」と呼ぶゾエーモ。 それでつい……。やっぱり「スイカ」というべきやったキャーも。おれはやっぱりバカだがね、もろ。……おーきに御無礼しました。》

 このあたりから口形練習だけでは日本語統一は難しいことがあらわになってくる。土地土地によって同じものをさまざまにいうし、文法規則も異なる。

★清之輔が再起した日

 《清之輔 わしは軽率にも、その土地にしかない言い方がたくさんあるチューことを忘れとったんでアリマスヨ。 (中略)どこか適当な土地の御国訛りを選び、その御国訛りに全国統一話し言葉の土台を求めること、これしかないのヂャナカローカ……。
公民 エライナー、よくそこに気がつきはったナー。》

 《加津 同じ江戸言葉でもお旗本家の使った本(ホン)江戸言葉の方がはるかに格式は上でございましょうね。 御瓦解以前、このお屋敷へも、しばしば各藩の江戸お留守居役のお歴々がお越しあそばしたものでございました。 お留守居役がどんな御用があってお越しになったのかと申せば、口上集という書物をこしらえるためでございましてね、 この口上集とは、たとえば仙台六十二万五千六百八十八石三斗5升八合一ト掴(ヒトツカ)みの伊達松平家の御家中が御参勤お殿様のお供で江戸へおいでになる、 その際、仙台訛り丸出しでは、他の御家中と意思の疎通がままならずお役目は滞り勝ち、そればかりか笑い物にもなりかねない。 それで御留守居役やそのその御家来衆が山の手の御旗本衆の本江戸言葉をお習い遊ばして、口上集というものをお編みなさるわけでございます。 口上集を開けば、たとえば「仙台のお国訛りのソデガスは、山の手の本江戸言葉でサヨウデゴザイマスという」などと記してありますから、 どなたも重宝なさいます。そして口上集を編むのは仙台藩だけではございません。すべてのお大名お小名がこの口上集を編んでいらっしゃった。 ということは、山の手本江戸言葉が全国統一話し言葉のお役目を果していたのでございますね。》

 これが舞台だったら、この長台詞を一気に語り終えた山岡久乃に大きな拍手が起こっただろう。ついでにこれを書き写したわたしにも拍手してほしい。 たいへんなんだから。

 とにかく事情がそうだったのならもう勝負あったといっていいだろう。ただ疑問点が一つ、口上集は一度作ればそれを受け継いでいけばいいのだから、 御参勤のたびに習いに来なくても良さそうなものだ。まあ、文字に起こせば同じでもアクセントやイントネーションは伝えられないからな。 そのたびに担当者は旗本を訪れざるを得ない。「忠臣蔵」で吉良が浅野を「フナ侍」といって嘲弄したのはこれを怠ったからではないか。 「精らいていこう」 落たへんか、かとおにくくっとかな落つぞお。(落ちやしないか。固く縛っておかないと落ちるぞ) (Wikipedia)なんて喋ったら「ハア?」なんて意地悪く問い返されたりして。まあフィクションの背景を真顔で論じても仕方がないが。

 加津はその後もおたねがオイラン言葉に詳しい点に目を付け、「旦那様、吉原のオイラン言葉のあの呼吸を盗ってまったく 新しい全国統一話し言葉をお作り遊ばせ」とアドバイス、賢婦人ぶりを発揮する。

たね ……そんな訳次第だから、たとえどんなにわかりにくい訛りで喋る女子でも、吉原の廓内に住んで、 この里言葉を覚えたらもうシメコノウサギさ、さと言葉を使えば、分りにくい訛りが消えて、もとから吉原にいた女子のように聞こえるからね。》 しかも十日もありゃ呑み込んじまうねと付け加える。

 ようやく清之輔が手がかりを掴みそうになったところで、無期休職の辞令が出てしまう。このさきもあるが、もういいだろう。 旗本と吉原という相反する階級の言葉が合わさって現在の日本語が作られたといいたいわけなのだ。井上の反骨精神の表れだろう。