130(2019.12掲載)

 『おクジラさま――ふたつの正義の物語――
 
(佐々木芽生(メグミ)、集英社、2017年発行)

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(11月号のつづき)

U IWC脱退賛成

●マッカーサー・ライン

 わたしが南極海での捕鯨について知っているのは、次のことだ。アジア太平洋戦争に敗れた日本人は国土から出られなくなった。 海は沿岸漁業の範囲に限られ、それ以上出てはいけないとマッカーサーはいった。この線を「マッカーサー・ライン」という。 日本じゅう飢えている。タンパク質はない。マッカーサーは他の捕鯨国の反対を押し切って日本のIWC加盟を支持。 日本は特別許可で米軍用の重油の無償給付を受けて再開。捕獲した鯨肉はGHQの指令でまず最初に大部分が学童給食にあてられた。 それでクジラの給食を懐かしむひとが多いのだ。「給食にクジラの竜田揚げがでてきたときはうれしかった」 肉なんか口にしたことがないのだから無理もない。だからこの世代がいなくなったとき、世論は変わるだろう。

 そのうち南氷洋のシロナガスクジラの捕獲量は早い者勝ちになった。これを「捕鯨オリンピック」という。日本は毎年1位を取った。 ここにおそらく利権が絡んできて、どうしても捕鯨をやめられなくなったのだろう。敗戦国が1位になるのも面白くなかったのではないか。 特に南極に近いオーストラリアやニュージーランドは。考えてもみよ。日本にとっては遠洋漁業でも、彼らにとっては沿岸漁業なのだ。 自分たちの海でクジラを捕られたのではかなわない。

 だが著者の佐々木はこう主張する。《しかし、需要が少ない鯨肉のために巨額の補助金を投入して、南極へ出向く必要があるのかという批判は、 国内からも少なからず上がっている。商業捕鯨を再開したいのであれば、南極での調査捕鯨をやめて、 沿岸捕鯨再開を目指した方が太地のように捕鯨を伝統とする地域にとって有益だし、資源の持続的利用という目的にもかなっているのではないか。 実際に国際社会からは南氷洋を諦めれば沿岸捕鯨を認めてもよいという譲歩も提案されているが、日本は拒否している。》 重ねていうが、日本は2018年、佐々木のいうように方針を変えた。200海里以内で捕れば他国に文句をいわれる筋合いはない。

  ●水  銀

 オバリーは、《イルカを食べてはいけない理由として、イルカ肉が水銀で汚染されていると指摘し、水俣病を引き合いに出しているのも誤解のもとだ。 水俣病は、有機水銀を含む大量の工場排水が水俣湾に放出され、それによって汚染された魚介類を食べた人間、 猫やカラスにまで被害をもたらした公害病である。後でも述べるように、太地で捕れるイルカやクジラに含まれる水銀は、 自然界に存在する元素がゆっくりと時間をかけて蓄積されたものであり、人体への影響も水俣病とは一緒にできない。》 水銀の話はわたしにとって初耳だった。

●クジラと水銀

 映画「ザ・コーヴ」が公開されてから、太地町には「イルカやクジラには水銀が含まれている」という警告文が送られてくるようになった。 映画でも東京の街頭でリック・オバリーが「年間2万3000頭のイルカが殺されて食べられているのを知っていますか」 と道行くひとにインタビューするのだが、誰も知らない。それもそのはず、日本でイルカを食べる習慣がある地域は、 太地以外では静岡、沖縄、三陸地方など非常に限られているからだ。

 日本人がイルカを食べていることを知らないのは、イルカ肉は水銀に汚染されていることをメディアが隠しているからだとオバリーはいう。 水俣病と同じように。

 以前から太地で捕れるゴンドウに高濃度の水銀が含まれているという噂があった。《新宮のスーパーへ行って手近なゴンドウの肉を買い、 民間のラボでまず検査をしてもらった。その結果、驚くような高い水銀値が検出された。》総水銀で規制値の38.75倍、 メチル水銀も28.43倍。町民もうすうす心配していたことだった。だが「ザ・コーヴ」はひとつ歪曲をしていた。 給食に出されたのはわずか7回だった。

 《精査してみると『ザ・コーヴ』には、このようなちょっとした事実とのズレが多く見られる。(中略)ナショナリズムを煽るような捕鯨文化論、 またはドキュメンタリー論を国内で議論するのではなく、事実誤認の指摘を重ね、国際社会で公に抗議していれば、 『ザ・コーヴ』がアカデミー賞を受賞することも、歪んだメッセージがここまで広く世界に拡散されることも、 なかったのではないかと思えてならない。》日本の配給会社はなぜ抗議しなかったのか、まったく素人はしょうがない、 はじめからわたしに任せておけばこんなことにならなかったといいたいのだ。嫌みではない。その筋のプロに頼めば、双方納得のいく解決がなされる。

●太地町民に水銀被害がないわけ

 2015年、もと国水研の安武章がのりだした。毛髪水銀の平均値を出すため日本中の美容理容業者の協力を得た。 安武はすでに2004年に日本全国1万3000人のサンプルから、男性の平均値が約2.5PPM、 女性の平均値は約1.6PPMという数字をはじき出していた。太地で調べると驚くべき検査結果が出た。 20や30を超えるひとはザラ、中には50、100というひともいる。WHO基準値は50PPM。 ところが太地のひとに水銀による健康被害はまったくない。三軒町長は幼少期を思い出し、「おやつもクジラ、 外で遊ぶときはクジラの腸をかじりながら。東京に出るまですき焼きに牛肉を使うとは知らなかった」

 食物連鎖の頂点に立つハクジラは0.4から100PPMという高度の水銀を蓄積する。なぜ水銀値が高いのにハクジラ自身は健康なのか。

 水銀には3種類ある。
1.蛍光灯の中に入っている金属水銀。
2.ふたつめは無機水銀。ほとんど毒性はない。
3.問題は有機水銀。
これが水俣病の原因物質。《ある特殊な微生物が体内に取り込み、メチル水銀に変えて放出する。このメチル水銀が水俣病の原因物質であり、 人間の脳や、乳児、胎児にも影響を与えて神経細胞を破壊する。》ハクジラの筋肉組織には、セレンという化学物質が存在し、 これが無機水銀やメチル水銀の毒性を制御する。結局、ハクジラの筋肉に含まれる水銀の多くが無機化された無毒のセレン化水銀であることが確認された。

 だから太地町民がクジラ肉を食べて、驚くような水銀値が髪の毛から検出されても中毒症状は起きていない。 クジラやイルカ、海の生物は長い時間をかけて自然界と折り合いを付け、この水銀という有毒物質を解毒するシステムを作り上げてきた。 そのおかげで、ゆっくりと食物連鎖の過程を経て水銀を取り込んだ海の生物を食べても、今のところ成人への明らかな健康被害はなさそうだ。 ということは、魚を何千年も食べ続けてきた日本人は水銀に強いということだろうか。海藻と似ている。 海藻はノンカロリーだと思われているが、日本人だけが海藻からカロリーを摂取できる。

●プラスチックゴミ

 話はいったん横にそれる。いまわたしの頭の中を占めているのは2つのことだ。ひとつは宇宙ゴミ、ひとつはプラスチックゴミ。 宇宙ゴミは各国が打ち上げた人工衛星などの発射物が役目を終え、ゴミとなって地球を360度というのか、卵の殻のようにぐるりと取り巻いている。 それを考えると憂鬱になる。発射物がぶつかり合ったりして破損するのはまだ先のことだろう (いや、もう障害が起きているらしい)。自国で打ち上げたものは自国で回収する、それを国連で取り決めるべきだ。IWCどころじゃない。

 今ひとつは喫緊の課題、毎日無量の重金属、化学物質が放出されている。1年間に世界の海に廃棄されるプラスチックの廃棄量は、 800万トンと国連は推定している。2017年ノルウェー沖に打ち上げられたアカボウクジラの胃袋の中から、 大量のポリ袋などのプラスチックゴミが発見されてニュースになった。スタバやマクドナルドがプラスチックのストローをやめると発表しているが、 そんなものは九牛の一毛であって何の役にもたたない。プラスチックに変わる、土に帰り海水に戻る物質を発明しなければならない。 ストロー問題など、もともとのストロー(麦の茎)を使えば済むことだ。わたしたちはいま1億種類の化学物質に取り囲まれているそうだ。

●ポール・ワトソンからの攻撃

 2015年春、佐々木は映画「おクジラさま」の制作資金を集めるためにクラウドファンディングを始めた。 英語での情報発信はしないようにしていた。《映画の完成前に反捕鯨やイルカ漁反対の活動家から余計な圧力や嫌がらせを受けて、 制作に支障をきたしたくなかったからだ。》だが最悪の事態が起こった。シーシェパード代表のポール・ワトソンが「プロパガンダ映画監督、 佐々木芽生への返答」と題して攻撃を始めた。「佐々木はバランスの取れた視点を提示することなど考えていない」イルカを擬人化し、 イルカ漁をナチスのホロコーストと同一視するというのは、どうやらワトソンの常套手段らしい。ワトソンのフェイスブックのフォロワーは54万人。 佐々木への猛烈なバッシングが始まった。

●リチャード・オバリーのいいぶん

 2015年8月31日、出入国管理法違反でリチャード・オバリー逮捕。旅券を持たずにホテルの外へ出た、それだけの理由。 留置場に着くと全裸にされ、看守が懐中電灯で全身を検査。日中は背筋をまっすぐにして椅子に座ったまま、 壁に寄りかかってもいけないし横にもなれない。尋問は朝の4時までつづいた。「私は75歳だ。もう体力的に限界。銃で撃つなり、 殴りつけるなり好きなようにしてくれ」翌日釈放。アメリカ領事館から釈放するようにと圧力がかかったらしい。

 「ザ・コーヴ」の成功で自分の人生はハイジャックされてしまったとオバリーはいう。 本当だったら妻と10歳の娘と今頃フロリダで平和に生活しているところだった。シーシェパードと混同されるのを不快に思っている。 イルカだけを特別視しているわけではない。サメだって大切な生き物であることを自覚している。 《水族館のイルカショーという娯楽産業を作った責任は、自分にあるからだ。》

 数日後、燈明崎に一人ぽつんと坐っているオバリーに佐々木は話しかけた。「僕は誰とでも公平に話をするよ。 批判されてもされなくても、僕の言うことは一貫しているからね」佐々木はそのフェアな態度に感心する。 《誰だって自分に対して批判的だとわかっている人とは話したくない。しかし、彼にはイルカを救いたいという情熱があるからだろう、 自分を批判する人も含めて、対話をすることの大切さをわかっているようだった。》

 「なぜクジラやイルカはダメで、牛や豚は殺してもいいのか」
 「後者は『再生産可能な食料資源』であり、それぞれの国内で処理されているので他の国は関知しないからだ」
 これは欺瞞だと佐々木はおもう。日本人がアメリカの屠畜場へ乗り込んで撮影しようとしたらどうなるだろうか。 まず、私有地に勝手に侵入するのは違法行為であり、下手をしたら銃を向けられる。

 「カヌーをこいで、銛で突く捕鯨が伝統で文化だというならわかる。でも、追い込み漁は1969年に始まったもので、伝統とはまったく関係がない。 追い込み漁は畜産や養殖と同じでお金と欲がからんだ事業だ。」オバリーはイルカ漁の保証を太地に申し出たという。 すなわち、もし1年間船をイルカ漁に使わず他の漁に使うなら、イルカ漁の売り上げ分を支払うと申し出た。却下された。 《伝統で受け継がれるのは、捕鯨や食、祭りといった人の営みそのものだけではない。太地の小学生がクジラ肉を日常的には食べなくとも、 捕鯨に携わった祖父や、家にあるクジラの歯を自慢するように、大切なのは伝統を通して培われてきた誇りやアイデンティティではないか。 一九七〇年代以降、捕鯨反対運動の流れで、強制的に捕鯨やアザラシ漁をやめさせられた北米のイヌイットたちの集落がその後にたどった道は悲惨だった。 やる気をなくした男たちはアルコール依存症になり、極北の多くの町は朽ち果てていった。》

 《日本は外国人活動家を国内から排除するのに成功したが、実は、クジラ・イルカ問題の国際的な議論で世界から 「排除」されているのは日本の方ではないのか。日本が、国際社会に対してきちんとアカウンタビリティを果たしてこの議論に参加しなければ、 クジラ・イルカ問題は今後ますます日本に不利な方向へ向かうことになるだろう。》と忠告する。

●そして2019年12月IWC脱退

 日本政府が、商業捕鯨の再開に向けて、国際捕鯨委員会(IWC)から脱退。商業捕鯨をめぐっては、IWCが、資源の減少を理由に一時停止を決議し、 日本はこれに従って、商業捕鯨を中断したうえで、クジラの資源を調べるための調査捕鯨を続けている。調査といっても後始末は売りさばくのだ。

   一方で、クジラの食文化を守る立場の日本政府は、近年クジラの資源量は回復しているとして、9月に開かれたIWCの総会で、 商業捕鯨の再開やIWCの改革を提案したが、反捕鯨国の反対によって否決されていた。 これを受けて、政府は今回、IWCに加盟したままでは商業捕鯨の再開は困難と判断し、脱退の方針を固めた。 さらに、脱退によって、南極海での調査捕鯨ができなくなることについては、「反対する国の前でわざわざ捕らなくても、 捕れるところで捕ればいい」として、日本近海で商業捕鯨を再開する見通しを示している。賛成だ。