133(2020.3掲載)
『文庫解説ワンダーランド』
いまさら斎藤美奈子を紹介するまでもないだろうからそれは省略。各出版社の文庫の解説ばかりを集めて論評するというのが気に入った。 だれの発案か知らないが、妙な企画を思いつくものだ。 収録されているのは――
1 夏目漱石『坊っちゃん』 ●さあ『走れメロス』だ 『火花』で有名になった又吉直樹氏が、あるときテレビで「ぼくは太宰治が好きです」というのを聞いて、ヒヤリとした。 じつはわたしも太宰が好きで大学生のときに筑摩書房の全集を読破した。 太宰ファンはたいていそうだとおもうが、「まるで自分のことを書かれているようだ」と感じた。 だがむかしの太宰ファンはそれだからこそ口が裂けても「わたしは太宰が好き」などとはいわなかった。 恥ずかしかったからだ。私小説なのかフィクションなのか分からないが、とにかく自殺未遂だのなんだの暗い話ばかりだからね。 そのなかで唯一明るい、いや明るすぎる話が『走れメロス』だ。健康そのもの、愛と友情の物語で短さもちょうどいいとあって、 教科書各社の国語の教科書あるいは文庫に採用された。これがほかの作品と異なり、明るすぎ、健康的すぎるのものだから、 『走れメロス』が好きだとだけは決して口外できない。それなのに又吉氏は平気で口にするからヒヤリとしたのだ。 又吉氏の個性なのか時代の変化なのか。 ●あらすじ 「新潮」1940年5月号発表。わざわざ紹介するまでもなく、皆さんご存じだろうが、いちおうおおざっぱにいえば――。 《メロスは激怒した。》この1行から始まる。書き出しのお手本のようにうまい。純朴な羊飼いメロスは、 妹の結婚式に備えてシラクス(ギリシアの都市)の市に買い物に来た。親友セリヌンティウスに会うのも楽しみだった。 だが2年前に来たシラクスとは様子が変わっていた。人間不信に陥った王様が無実のひとを殺すというのだ。 《メロスは激怒した。「呆れた王だ。生かして置けぬ。」》 暴君ディオニスの王城に乗り込んだメロスの懐中から短剣が出てきたので、大事になった。 ところで、メロスはアポロン的な性格だが、それと対比するものをディオニスと名付けたのは偶然ではあるまい。 アポロン(単純で明るい正義漢)とディオニソス(混沌の酒神)を敵味方に据えているのだ。中村錦之助と山形勲の関係のようなものだ。 ポスターを見ただけでどちらがイイホウで、どちらがワルイホウかわかる。 《「命乞いなど決してしない。ただ、――」と言いかけて、メロスは足もとに視線を落し瞬時ためらい、 「ただ、私に情をかけたいつもりなら、処刑までに三日間の日限を与えて下さい。たった一人の妹に、亭主を持たせてやりたいのです。 三日のうちに、私は村で結婚式を挙げさせ、必ず、ここへ帰って来ます。》 かくてメロスは親友セリヌンティウスを人質にして村へ飛んで帰り、そそくさとシラクスに走る。 《きょうは是非とも、あの王に、人の信実の存するところを見せてやろう。そうして笑って磔の台に上ってやる。》 ところが天災に見舞われるは、王の放った山賊に襲われるはたいへんな思いをする。ゼウスの神に祈りを捧げるからギリシア時代が舞台なのだろう。 それでも約束の刻限には城にたどり着く。日没寸前、親友がはり付けになっているところに到着する。 《「セリヌンティウス。」メロスは眼に涙を浮べて言った。「私を殴れ。ちから一ぱいに頬を殴れ。私は、途中で一度、悪い夢を見た。 君が若(も)し私を殴ってくれなかったら、私は君と抱擁する資格さえ無いのだ。殴れ。」
セリヌンティウスは、すべてを察した様子で首肯(うなず)き、刑場一ぱいに鳴り響くほど音高くメロスの右頬を殴った。
殴ってから優しく微笑(ほほえ)み、 このあたりが一番クサイ。恥ずかしい。
「ありがとう、友よ。」二人同時に言い、ひしと抱き合い、それから嬉し泣きにおいおい声を放って泣いた。 最後に(古伝説と、シルレルの詩から。)という注記が付いている。シルレルというのは、 ドイツ古典主義文学の代表的作家(1759‐1805)。英語読みシラー。 ●解説者やる気ゼロ 10点以上の文庫に収録されているにもかかわらず、本気で作品に取り組んだ解説は一つもなし。 こんな子供向けの作品なんかまともに相手にできない。あるいはどう解説していいか分からない。 岩波文庫の解説は井伏鱒二。〈「あとがき」を書く私は、作品鑑賞の自由を読者に一任して、太宰君自体について書いてみたい。 (中略)私が初めて太宰君に会ったのは、昭和五年の春、太宰君が大学生として東京に出てきた翌月であった。〉あとはただただ交遊録がつづくのみ。 角川文庫版の伊馬春部は〈文庫本には何だって“解説”などというアクセサリイが必要なのであろう。 (中略)荻窪の里の井伏さんをおとずれた。/「太宰との交友日誌でも書くんだね」/井伏さんは同情して、言ってくださった。〉とぼやく。 『走れメロス』への言及は一切なし。 ●「友情と正義」のオンパレード 新潮文庫の奥野健男はいう。〈人間の信頼と友情の美しさ、圧政への反抗と正義とが、簡潔な力強い文体で表現されていて、中期の、 いや太宰文学の明るい健康的な面を代表する短編である〉ほかの解説も友情と正義ばかり。斎藤はそれに異議を唱える。 ということは名だたる評論家をすべてぶった切るということを意味する。 《友情、正義、信頼、純潔。みなさま、ほんとにこんなことを思っているのだろうか。/だとしたら、ちょっとそれって単純すぎない? 私には『走れメロス』が友情と正義なんて言葉で語れる作品だとはとても思えないのですけどね。》 第1にメロスの人間像である。《〈メロスには政治が分からぬ〉〈メロスは、単純な男であった〉とあるように、暴君の噂を聞き、 カッとなって突然城に乗り込むメロスは、思慮深いというより「キレやすい若者」だ。》 第2の問題は王の人間像。《考えても見てよ。猜疑心が強く、圧政を敷いてきた王が、たかだかバカな若者が必死で走ってきたくらいで、 簡単に翻意するものだろうか。/王が二人の若者を称え〈おまえらの望みは叶ったぞ。おまえらは、わしの心に勝ったのだ〉と語った後に、 「万歳、王様万歳」と〈群衆の間に、歓声が起こった〉点に注目したい。要は王の思う壺。この一件で王が圧政をやめたとは一言も書かれていない。 /二人のバカな若者を、民衆の支持を集めるパフォーマンスに利用するくらい、政治家だったらやるんじゃないの? 王がこの後メロスとセリヌンティウスを登用したら? 単純な二人は友となった王に味方し、民衆を支配する側に回ったはずだ。 /――というような深読みを、少なくとも文庫解説は試みない。/『走れメロス』はシラーの詩を下敷きにした作品、つまるところはパロディである。 毒の入らないパロディを太宰がわざわざ書くだろうか。まして発表されたのは一九四〇年。皇紀二六〇〇年。 皇紀二六〇〇年で世間が沸き、大政翼賛会が発足した年である。戦時色が濃くなるのはまだ少し先だが、当時の日本も十分 「万歳、王様万歳」な国だったのですぜ。》 わたしはこれを読んで打ちのめされた。こういうのを文学というのだなと。お話を読んで喜んでいるだけでは駄目なのだ。 社会情勢をはじめとするもろもろの事情を頭に入れて深読みしなければならぬのだと。 紀元2600年(1940年)には東京オリンピック・札幌オリンピックと万国博覧会が計画された (ともに支那事変のため中止。記念切手も中止されたのではなかろうか)。令和元年にも平成天皇の退位と皇太子への天皇位継承が大々的におこなわれた。 厳粛かつアラエッサッサーとおこなわれた。東京オリンピックと大阪万博が開催される。記念切手も出るだろう。 その他いまは気づかないが、あとになって同じことをやっていると気づくことも多いに決まっている。 東京オリンピックを開催するため、プレゼンテーションで日本の総理大臣は「フクシマはアンダー・コントロールにある」といった。 この上なく頑丈な圧力容器を突き破った燃料棒がただの建物である格納容器の底に落ちればそれを突き破って地上に落下するのはたやすいことだろう。 地中にしみこんだ汚染水は今でも毎日大量に海を汚しているにちがいない。そうでなくても、 原子炉の冷却に使われた水100万トン以上が2022年に満杯になる。
|