134(2020.4掲載)

 『金子兜太の俳句入門』
 
(金子兜太、角川文庫、2012.5)

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 親爺が俳句を始めた年齢に自分もなった。70歳だ。親爺は定年の70歳まで若いころから英文学一筋のひとだったから文芸の素養はある。 そのせいかめきめきと腕を上げ、朝日俳壇にも何度か採用された。ここに採用されるのは俳句結社の主催者級の者が主で、 素人が採用されると一族郎党を挙げて大宴会をするのだと婉曲的に自慢していた。どこの結社にも属さず、そもそも大腸癌の手術をしたせいで、 すぐトイレに行く必要があったので外出を嫌うひとだった。句会にも出席しなかった。正解だ。一度だけ断り切れずに出席し、 「オフィーリア」の出てくる句を発表したら、総スカンを食らった。ところが翌週の「読売俳壇」に採用された。

 「ざまあみろってか?」とからかうと、「いやそんな」ムニャムニャとごまかした。息子の前でも下品な発言はしなかった。

 病人や老人になると俳句をひねりたくなるものらしい。ヒマだからだろうが、これは俳句人口数百万人という、 世界にも類を見ない詩人人口が基調にあるからだろう。おれもいっちょやってみるかと、ホームページの更新だけでも忙しいのに、手を出した。 何も知らない。俳人も知らない。金子兜太の名前だけは知っていたので本書を購入した。普通こういう際は「手に取った」というものだが、 そういう表現はウソになるからしたくない。

●1974年執筆開始

 日刊工業新聞のコラムに連載。銀行員だったのを55歳で定年退職する日から俳句専業(江戸時代は「業俳」といったそうだ)になった。 むかしは55歳で定年だったのだなあ。2018年98歳で没。43年も専業にできたのだ。俳句で頭を鍛えていたからこその長寿ともいえるのではないか。

 「俳句とは」「作句法あれこれ」「俳句誕生まで」の3部構成だが、難しくてよく分からん。気になったところだけを抜き書きしていく。

●季語にこだわらない

 のっけから「古池や蛙飛こむ水のをと」芭蕉
      「古池や芭蕉飛こむ水のをと」仙涯和尚

というのが出てきて、うれしくなってしまった。和尚は見覚えのあるポヨーンとした漫画のような禅画を描くひとなので印象に残っている。 こういうのを本歌取りといって、季語はいらない。「俳句は有季定型」が常識だが、季語はいらないといきなりそれをひっくり返す。「つかみはOK」だ。

 詩歌の元祖は記紀歌謡。つぎに万葉集、こののち五七五七七の和歌と柿本人麻呂の長歌があらわれる。100年後に出た『古今和歌集』で和歌が決定。

 つぎにあらわれたのが五七五と七七をべつのひとが作る連歌。

●切字――「曼珠沙華どれも腹出し秩父の子」

 《日本語は一字一音で、その音には高低強弱がまことに乏しい。唄(ウタ)に合わせての手拍子のようなもので、等間隔同音程で続きますから、 学者は「等時性の拍音」といいます。》

 わたしはこれを読んでふたつの発言を思い出した。まずは「サウンド・オブ・ミュージック」。 ちなみに「サウンド・オブ・ミュージック」はわたしが認める唯一のミュージカルだ。 なぜってミュージカルというと普通の会話をしている途中で急に誰かが歌いだして相手役がそれにハモったりする。 そんな不自然なことは日本の日常にはない。その点上記ミュージカルはマリア先生が子どもたちに歌とはどういうものかを教え、 教わった子どもたちが教わった法則に従って歌をうたう。何ら不自然なところがない。まあちょっとうますぎるけど。

 さてマリア先生はどう教えたかというと、「一つの音符に一つの単語を当てはめよ」。これを聞いてわたしは目からうろこが落ちた。 われわれがなぜ英語その他の歌を覚えにくいかというと、えらく早口で歌わなければならないからだ。

 さてもう一つの余談。ある外国人ミュージシャンが「日本人の手拍子は聞いたこともない特殊なものだ」といったこと。 テレビのワンシーンで聞いただけだから、深くは分からない。だがこれが「等時性の拍音」ではなかろうか。 《その結合のうち、いちばん強い音を出すのが五や七の奇数字(音)だったわけで、それを奇数組み合わせて、俳句や短歌ができあがりました。》 ここで作者は小見出しに挙げた自作を例にとる。秩父に行くとどの子も腹を出していた。曼珠沙華が咲いていた。 おもしろくもなんともない。そこで、「まん・じゅ・しゃげ」とリズムを取って読み「げ」で切って、一息つくと、次にいうことへの、ひびきが出る。 これが切字効果というもので、「や」「かな」の切字の典型。《いいたいことをボンボンぶつけていって、それをリズムで整えてしまうのです。》 ガンガン作句すればいいのだというが、そうが問屋は下ろさない。金子はこれを《自慢の俳句の一つです。》というが、 いまのわたしにはその良さが分からない。

  霜柱俳句は切字響きけり  (石田波郷)

 《切字といえば「や」「かな」を思い出すのが普通ですが、この霜柱のような名詞もあり、「けり」のような助動詞も、おおいに活用されています。

  真昼自由な鶏(トリ)と井戸水村にあふれ  細川美恵子
の動詞の連用形「あふれ」も、

  虫に寝る今日のくやしさを子はもちて  矢島房利
の助動詞「て」も、ともに切字です。》

助動詞、連用形、助詞! 久しぶりに聞く文法用語。また受験勉強を再開しなければならないのだろうか。

●二物衝撃

 いきなり二物衝撃といわれてもねえ。ほかにも「倒置法」「回帰法」などがあるとのこと。 たとえば「荒海や佐渡に横たふ天の川」では切字「や」によって荒海と佐渡に横たふ天の川が、ぶつかり合っている。これを衝撃法という。

 佐渡に横たふ天の川まで一気に読み下し、そこで一息ついて荒海に戻る。それを幾度か繰り返す読み方を「回帰」とする。

 「どくだみや真昼の闇に白十字」(川端茅舎)いい句だなあ。ドクダミの花が好きだから気に入った。わが家にもたくさん生えているようだが、 わたしは見ることができない。シロ十字だろうかハク十字だろうか。シロのような気がする。 これも「どくだみ」と「真昼の闇の白十字」が飛躍しているので衝撃法。

●自由律

 「せきをしてもひとり」(放哉)

 「鉄鉢の中へも霰(アラレ)」(山頭火)

などをいう。自由に見えても「読み」は「せきを/しても/ひとり」と三句体で奇数字中心だから俳句の基本に収まっている。 ただし自由律のおおかたが口語で書かれているため、どうしても長くなり、リズム感も希薄になる。

 ところで嵐山光三郎が『文人暴食』(マガジンハウス)という本の中でこの句の背景を解説し、放哉ときたらとんでもない酒乱で妻にも離縁され、 寺男になったが、金はないけどうまいものが食いたい、そこで友人に無心の手紙を書く。 「せきをしてもひとり」は、粗食がたたって肋膜炎を悪化させたときの句だ。こういった句は、 友人に借金の申込みをするときに添えると効果があったようだ、と愉快な解釈をしている。

●即興

  山路来て何やらゆかしすみれ草

 この句は「山路来て何やらゆかし」まで和歌の本歌取り。《芭蕉の独創ではありません。しかし、それに「すみれ草」とつけたところは、 間違いなく独創で、雅やかな和歌の言葉遣いに、宮廷歌人から無視されていた、いわば下賤の草たるすみれ草を結び付けた時、 それは俳諧になりました。》もとの歌は何というのだろう。「春の野に菫摘みにと来し我ぞ野をなつかしみ一夜寝にける」 (赤人・万葉・巻八)あたりか。スミレの季節に野宿するとは、むかしのひとはよっぽど頑丈だったのだ。スミレが下賤の花だったとはね。

●挨拶

 ひとの家に行ったら俳人は挨拶の句を詠まなければいけない。福井の俳句友だちで寺の住職を訪ねたとき、 《「山麓に初夏の花摘み寺の友」とやってみました。寺は山麓にはありませんが、車中、山麓に咲く白い初夏の花をたくさん見てきたので、 友人とともにそれを摘むと想定したわけです。即興の挨拶句です。(中略)冠婚葬祭、別れ、出会いなどなど》で、相手に送り、あるいは自分に聞かせる。

●即興で、短く、定型で

 ある高校生が「勉強じゃまするのは選挙」という句を作った。とても俳句とはいえないが、感想なり、 見た物なりをその場で完結した形で書きとめることができるという、俳句形式の持つ即興性の面、いま一つは短く定型で書く。 それをこの句は備えているという。それならわたしが高校生のとき作った初の俳句「盆踊りオバQ音頭ばかりだな」 だってそう馬鹿にしたものではないのではないか。書くたびに恥ずかしいけど(笑)。

●待つ間の記録

 むかしのひとは楽しみが少なかったせいか、十五夜をひどく心待ちにした。十五夜の前の晩を待宵、翌日の夜が晴れることを祈る。 《だから雲で月の姿が見えないような時には、嘆きはひとしおで、無月(むげつ)といい捨て、雨ともなれば雨月などと、 こんどは味な言葉で落胆を撥ね返します。》

 そこで一句詠める。

  ベッドから空は見えない常無月  (景)

あるいは

  病床(ベッド)から夜空は見えぬ常無月

  横臥の身夜空は見えぬ常無月

 《名月の翌の夜が十六夜、まことに月を惜しむ情のこもった、心憎い言葉です。あとは月の出が遅くなりますから、それにしたがって、 立待、居待、寝待、更待(フケマチ)の月となって、しだいに遠のいてゆく恋人の後ろ姿を見送ります。そのあいだの月の出を待つ間の闇が宵闇。》 フランク永井の♪宵闇せまれば〜ってそういう意味だったのか。大正時代の作詞だというから、そのころのひとびとの月に対する気持ちは、 江戸時代とそう変わらなかったのではないか。

●画

 俳句は、言葉で画を描く心構えが必要。《俳句と絵画は親戚筋といってよく、そのあたりに見当を付けて出発したのが正岡子規の 「写生」論だったことも周知の事実です。/しかし、あまり絵画性にとらわれすぎると、発想の時の感銘を薄めてしまい、 形と取り組む精神性を失うことにもなりかねません。》

●画と詩

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 さあ問題の句が出てきた。正岡子規の「鶏頭の十四五本もありぬべし」《明治三十三年、子規三十三歳の秋の時、つまり死の二年前の作ですが、 病床に横臥したまま庭の鶏頭を見ていて作ったものです。鶏頭がある、十四五本はあるだろう。ということで、まったく見たまま、 思ったままの句といえましょう。/しかし、それだけのことかと思っているうちに、鶏頭は伏兵のようにすっくと立ち上がり、忍者のようにくろぐろと、 こちらに迫ってくるではありませんか。不気味です。人によっては、その不気味な感じを、存在感といったり、 病者が感じる生命感とかいったりするかもしれません。》

 『仰臥漫録』に「女郎花と鶏頭」という画がある(子規筆、右掲)。

 意見を異にするのはつぎの部分。《病床に横臥したまま庭の鶏頭を見ていて作ったものです。鶏頭がある、十四五本はあるだろう。 ということで、まったく見たまま、思ったままの句といえましょう。》実際に見てはいないと思う。 多分小さな家だろうから、横臥すれば庭も一望できるかもしれない。では「ありぬべし」の「べし」はなぜあるのか。 「べし」は推量を表す助動詞だ。子規の目に鶏頭が映っていたとしても、それは部分であって全体ではないはず。仰臥していたときの句ではないか。 あるいは「病重篤になる前に全体を見たことがある。たしか十数本はあったはずだ。 そのときより増えて14〜5本はあるかもしれない」という気持ちか。

●形で書く

  死は君の腕に待ちたし夕茜(アカネ)  (猪本千恵)

 旧制高女卒業の翌年に肺結核を発病。以来ほとんど入院療養生活。その間、土居漠秋という愛人に巡り会い俳句の手ほどきを受けた。 《病中の女体が燃やす激しい恋情が書きとめられています。》《感情や想の動くままに、それこそ自由に書く(表現する)ことも一個の表現ですが、 形に込めて書くこともまた、一個の表現で、これを俳人・堀葦男は「形で書く」といっております。(中略)したがって、この書き方に熟達すると、 短く、簡潔な文体が身につきます。(中略)これらの文章には、俳句と同じように、型で書いている印象があって、 「形から型(カタ)」をつかんだものの自在さが認められるといっていいでしょう。》あけすけにして上品。このひとの句集が読みたい。 (つづく)