135(2020.5掲載)

 『金子兜太の俳句入門』
 
(金子兜太、角川文庫、2012.5)

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(4月号のつづき)

●本歌取りの要領

 これはとてもじゃないが無理。こんな難しいことできない。
 『新古今和歌集』の撰者藤原定家は「本歌取」を初心者に熱心に勧めたというから、少し上達すればできるのかもしれないが、まあ無理ね。

   白雲に羽うちかはしとぶ雁の数さへ見ゆる秋の夜の月(原文は「白雲」から「雁」まで傍線)

 つぎが定家の本歌取り。

   思ひ立つ山のいくへも白雲にはねうちかはしかへる雁がね

 本歌は秋の夜空の叙景。月空に白雲。「羽うちかはし」が巧みだという。本歌が渡ってきた雁であるのに対し、定家の雁は帰る雁。 叙景ではなく、《自分の想い(主観)を表現することにしました。雁がとびさってゆく山の重なりの、その向こうに想いをはせてゆくのです。》。
 それよりわたしは、月明かりの空に雁がわたってゆく風景が見られる、そのことがうらやましい。「数さへ見ゆる」だなんて。ああ、うらやましい。
 ひょっとしたら共に想像による創作かもしれない。

●大教養人、小林一茶

 小林一茶にも「本歌取」が多い。

   これがまあつひの栖(スミカ)か雪五尺

 一茶は50歳で江戸から郷里の柏原(豪雪地帯)へ帰る。この句の良さは、「つひの栖」という雅語を真ん中において「これがまあ」と 「雪五尺」という話し言葉を配したところ。一茶は「本歌はなんでもござれ」の教養人で、和歌、漢詩、古諺(コゲン)、俚謡(リヨウ)、 仏語などを庶民の言葉で包んでなつかしい韻律を生み出した。
 一茶といったら、

   痩せ蛙負けるな一茶ここにあり
   やれ打つな蝿が手を擦る足を擦る
   雀の子そこ退けそこ退けお馬が通る

といった句を作って子どもと遊ぶおじいちゃんかと思っていた。

●「和歌」の本当の意味――したくてたまらない!

 和歌というのは日本の歌という意味だと思っていたが、まったくちがう。もともとは「和(コタ)うる歌」、すなわち唱和、問答の歌という意味。 『万葉集』の9割以上が恋問答。
 たしか『万葉集』の最初の歌はナンパの歌だった。「籠もよ み籠持ち ふくしもよ みぶくし持ち この岡に 菜摘ます児  家告らせ 名告らさね そらみつ 大和の国は おしなべて 我こそ居れ しきなべて 我こそいませ 我こそば  告らめ 家をも名をも」作者は雄略天皇だという。はじめの部分の意味はよく分からないが、当時、 女性が自分の名を教えることは体をゆるすに等しいことだった。つまりひらたくいうと、この岡で菜っ葉を摘んでいるお姉ちゃん、 住所教えて、名前教えて、ぼくも教えるからさ。オレこのあたりじゃちょっとしたカオなんだよ。結婚しようよ」という意味だ。

 日本の歌は、イザナミ・イザナギの「あなにやしえおとこを」「あなにやしえおとめを」から始まったと言っても過言ではないと金子はいう。 《こうした唱和にはじまった「日本のうた」は、これからずっと、この「対話性」を基本に持つことになります。 人によっては連歌、連句の言い方に即して、これを「挨拶」という場合もありますが、一般的な言い方をすれば「対話」です。 /唱和は「問答歌」ともなり「歌垣」(東国では「かがい」)での男女の恋のやりとりともなります。 歌垣は自由婚の場ですが、ここでも、男から先に女に歌いかけることになっています。》 ここでもというのは、女神イザナミから声をかけたものだから障害児が生まれたという伝承を指す。男から誘わなければいけないのだ。

 歌垣(ウタガキもしくはカガイ)では、男女が2列になって歌をうたい合う。歌詞・歌唱力ともに試された。 お互いに歌が気に入ればパートナーとなって茂みに隠れる。春・秋におこなわれた。冬は無理だろうな。 今なら合コンで下地を作っておいて、カラオケにゆき、歌のうまさで目星を付けた相手にモーションをかけ、 かくてラブホにしけ込むといったところだろう。冬でも大丈夫。

 歌垣は沖縄では「もうあしび」と呼ばれた。夜なべ仕事を終えたあと、「もう」(野原)で三線や小太鼓に合わせて歌い踊った。 音楽に秀でた男女は特に好まれただろう。真っ暗な草むらには事欠かない。要するに日本人は(日本人に限らないか) 北から南までセックスのことばかり考えていたのだ。

●俳諧師は歌仙を巻くひと

   前項で触れた唱和・問答の歴史から見ると、俳句とは「十七文字」を基本とし、「俳諧」を属性とするものなり、と金子はいう。 「俳諧」がはっきり姿を見せるのは、庶民の中に連歌の五・七・五と七・七の付け合いが浸透した中世以降のこと。俳諧とは何か。 《人によっては、それを「滑稽」といい、「意外性」といい、「アイロニー(反語性)」などともいいます。》金子は、 《戯れ和するための言葉の工夫(心情を伝えるための工夫)のすべて、と受け取っております。(中略)したがって、滑稽、意外性、 アイロニーも、そのための一態と私は見るわけで、挨拶、諧謔、笑い、本歌取り(もじり)、即興(当意即妙)、ウイット (機知)などもまた一態です。》わたしはこのへんを狙いたい。

 《江戸期に入って俳諧は二とおりの扱われ方をしました。/一つは『新撰犬筑波集』から江戸初期の貞門派・談林派を経て、 柄井川柳選の川柳あたりにまで至る道筋があります。犬筑波集で「ふぐりのあたりよくぞ洗はん」に「昔より玉みがかざれば光なし」 と付けたのに対し、貞門の祖・貞徳が「料理者に蛸の包丁打ちまかせ」と付けてみせたことがありますが、 貞徳が一歩進めたところには、すでに川柳の姿が見えていました。世事風俗をそのままの姿で、面白おかしくとらえてゆく方向です。》 まだよくわからない。だが和歌→俳諧→川柳の順でできたことは確かなようだ。

●心と情

 万葉集では「こころ」というとき、3分の1が「心」という字を使い、3分の1が「情」を使っている。 《その学者のいうには、心という字を使ったときには自分の中に閉じていく状態を歌にしている。例えば自分は彼女が好きだ、 けれどもうまく自分で彼女にいえないといった時に、その鬱々たる心を歌にする時は「心」という字を使っている。》相聞のばあいは「情」。 どちらともいえないときは万葉仮名。現在は「情」に向かっている。

●大俳人、小林一茶

 小林一茶は28歳で、宗匠に次ぐ執筆になった。

 《俳諧の連歌でございますが、芭蕉はそれを整理しまして、三十六組の連歌を、歌仙と名付けたのです。 歌仙は江戸時代主流であったわけで、俳諧師というのは歌仙を巻く人で、発句だけ作る人は、いわば傍流で、 俳諧師の仕事は歌仙が中心の仕事であって、発句を作ることは余技というか余興というか、それが仕事の中心ではなかったのです。》

 《例えば馬。馬というのは季語じゃございませんね。無理して、馬の子だの春の馬だのとかいって使うわけですけれど、 私なんか見ていて非常に気の毒な気がします。馬は馬なんですね。馬というのは無季の言葉だ。 馬というのが生活に役に立っている言葉であっていい言葉なら馬でいいわけなんです。 一茶系統の俳人、いまの私たちの中で一茶の考え方のほうが分かるというひとはそういう意味で、自ずから無季を認めているだろうと思います。 /芭蕉のばあいもそうですね。自然と自分の心を結ぶということは、季語であり季題であるんですね。 岩・火・山・宇宙、こういう言葉は季語ではございませんが、私たちの心と自然を結ぶ言葉でございますね。 そうなれば理想主義で考えても、季題にこだわることないんじゃないか、もっと言葉を広くとって自然との交わりを深めていけばいい。》

 芭蕉は37から41まで芭蕉庵にこもって観念的なものを追求していたが、なにも出てこない。そこで東海道の旅、野ざらしの旅をする。 すると、「道のべの木槿は馬に食はれける」や「山路来て何やらゆかしすみれ草」といった 微風のような句ができる。 《観念的な相手じゃないですね。造花の生き物、これに触れたときの喜びがあったと思います。》

●剽窃か模倣か偶然か

前号134でわたしは正岡子規の「鶏頭の十四五本もありぬべし」の解釈について、恐れ多くも金子に反論した。 本書を読み進めていくうち、さらにいくつも反論したいことが出てきた。

   「降る雪や明治は遠くなりにけり」(中村草田男)

 この句を金子はまたしても、「明治は遠くなったなあ」という感慨をそのまま表しているのだというのだが、わたしはそうは思わない。 それでいいなら「降る雪や昭和は遠くなりにけり」でもなんでもいいではないか。中村にそう思わせる動機があったのだと思う。
 この句は昭和6年に作られた。このころ何があったのだろうか。3.15、張作霖爆殺、柳条湖事件……愚かな政治家たちが戦争に向かって 愚かな政策を採る。明治の元勲たち(江戸時代生まれ)はもっと国際関係に対して聡明であった。不平等条約解消に努めた。 それに比べていまの政治ときたら、といったような何かこの句を作らせるきっかけがあったと思えてならない。

 《浜松市与進中学の本屋誠一郎君は、「みつばちはシロツメ草のゆうびん屋」という句を作っていましたが、 (中略)シロツメ草の白い花をとびまわる蜜蜂に寄せる気持ちが、うまく書きとめられています。》
 ちがうとおもう。19世紀末フランスの詩人ジュール・ルナールの『博物誌』(岸田国士訳)の一節
《二つ折りの恋文が、花の番地を捜している。》
のパクリとはいわないが、ヒントを得たものだとおもう。ちょうど中学の国語の教科書に載っていそうな作品だ。 いうまでもなく「二つ折りの恋文」はモンシロチョウ、それを蜜蜂に変え、シロツメ草の花のあいだを飛び回らせたのだ。 だがルナールのほうが圧倒的にうまい。本屋氏のほうは韻文という制限があるにしても。

 またたとえば朝日俳壇(2019年11月17日)高山れおな選に入選された

   頂きし朱欒(ざぼん)に眼鏡かけてみる(東京都)竹内宗一郎 は、

 2002年の読売俳壇に入選した

   見つかりし眼鏡ザボンにかけてみる  (藤川玄人)

に酷似している。
 内容も玄人のほうがよりよいと思う。やっと見つかった眼鏡をどこにしまっておいたらいいものかとあれこれ考えているうちに、 ザボンにかけたら面白かろうと思いついたのだ。竹内氏のはザボンにかける理由がない。買ったものでも拾ったものでもいい。
 玄人のこの句には俳味があって特に記憶していた。

俳句は読者の教養も試される。選者ともなればなおさら。大相撲の立行司が脇差しを差しているのを思い起こさせる恐ろしい文芸だ。 俳句の選者になどなるものではない。そのひとの全教養が試される。