●障害老人乱読日記 140

 『夏井いつきの世界一わかりやすい俳句の授業』
 
(夏井いつき、PHP研究所、2018.8)

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  ●俳号

  夏井がPHPの編集者を相手に、対話形式で講義を進めていく。編集者は俳句初心者。 本屋で背表紙を眺めながら作句を始めて1年も経たないわたしにはうってつけだと思った。
 テレビ「プレバト」の解説や添削もじつに面白い。ただ、こういう対話形式の文章はよほど吟味しなければ、ダラダラした退屈なものになってしまう。
 「自分の俳号を考えよう」という章からはじまる。これには意表を突かれた。俳号のことなど考えたこともなかった。 初心者が俳号を持つなど不遜ではないか。正岡子規は学生のころ回覧雑誌を作ったが、俳号を変えてほとんどひとりで作っていたとか。 子規なら許される。高浜虚子は、本名高浜清のもじり。俳号で発表すれば下手でも恥ずかしくないと俳号の功名を語る。

 俳句は何でもありの自由な文芸で、「♪」「★」などの記号やアルファベットを使ってもOK。夏井が車を運転中追突され横転、 救急車が来るまで俳句を作っていたというエピソードを披露、自作「指で〇(マル)作りて笑う星月夜」という句を作っていたと余裕を見せる。 横転してもへっちゃらだいという意味での〇か。
 ところで星月夜はなんと読むか。意味は、「星の明るい晩。月が出ていないで、星だけが輝いている夜。星明かりの夜」。 ところがゴッホの「星月夜」という絵には、煌々と輝くでっかい三日月が描かれている。最初に邦題をつけたひとが無知だったのだろう。
 発音はどうか。わたしは高校の国語の時間に芥川龍之介の「舞踏会」に出てきた星月夜を、これはホシヅクヨと読むのだと教わった。 『日本国語大辞典』にもホシヅクヨのほうが上位にある。

 では、わたしは藤川景のうしろの2文字をとって「川景」としよう。川の風景。美しいではないか。
 だが川景では松尾芭蕉や小林一茶のような苗字がない。なくてもいいのだろうか。明治時代になるまで苗字は武士階級に限られていた。 特別に功績のあった者はそれ以下の階級でも許された。
 Wikipediaによれば――、小林一茶は「信濃国柏原で中農の子として生まれた。」いつ苗字を許されたのか、そこまで調べるのは面倒だからよす。
 松尾芭蕉はどうか。「松尾家は平氏の末流を名乗る一族だったが、当時は苗字・帯刀こそ許されていたが身分は武士ではなく農民だった。」とある。 やはり武士ではない。
 与謝蕪村はどうか。「京都府与謝野町(旧丹後国)の谷口家には、げんという女性が大坂に奉公に出て主人との間にできた子が蕪村とする伝承と、 げんの墓が残る。」分かりにくい文章だが、とにかく谷口という苗字の家に関係があるから、農工商の階級ではなかろう。
 「目には青葉山ほととぎす初鰹」で有名な山口素堂はどうか。造り酒屋の息子だ。みんな偉そうに見せたいものだから苗字を名乗ったのだろう。 江戸時代には写真もテレビも、ましてネットもないからごまかし放題だ。

●音数

 チューリップは何音に当たるか。「チュ」のように拗音が入るばあいは、前の字と合わせて1音。「チュー」のようなオンビキは1音として数え、 「リップ」のような促音は1音と数える。合計5音。

●「一物仕立て」と「取り合わせ」

  @白藤や揺りやみしかばうすみどり   (芝不器男)

  Aしら藤や奈良は久しき宮造り     (黒柳召波)

 最初の句はわかりやすい。2番目は分からない(しら藤が美しく咲いている。奈良では、久しぶりにお宮の建設が始まったという意味らしいが、 その土地の人でない限り説明を聞かなければ分からない)。
 @のように「季語のことだけで俳句を作ることを『一物(イチブツ)仕立て』、
 Aのように「季語以外の要素も入れて作ることを『取り合わせ』という。

 話は飛んで、篠原梵(ボン)という俳人に少し触れたい。知っているひとは少ないだろう。わたしの勤めた会社の社長で、 愛媛県出身・東大国文学科卒だから知っているひとは知っている。このひとは「取り合わせ」と切れ字を嫌った。 晩年に選集を出し、私たち社員にも1冊ずつくれた。わたしも大切に保管していたが、数奇な運命に翻弄されているうちになくしてしまった。 それでも「葉桜の中の無数の空さわぐ」はよく覚えているし、「吾子(アコ)昼寝小さき指(オヨビ)汗の髪掻く」などは暗誦できる(選集に見当たらないが)。
 わたしも切れ字はなんとなく便利すぎる感じがする。

●類想

 誰もが思いつくような凡人的発想のことを「類想」、その類想から生まれた誰もが作りそうな俳句のことを「類句」、合わせて「類想類句」と呼ぶ。
 「一物仕立て」でこの「類想類句」を避けて、「おっ!」と思わせるためには、@観察力、A根気、B描写力を必要とするので、 はじめは「取り合わせ」から始めたほうがいいそうだ。

●尻から俳句――俳句は型

 さあここから実践篇だ。上五・中七・下五でできている俳句を、下五からつくっていく。まず5音の普通名詞をなるべくたくさん見つける。 次に中七、上五と考える。たとえば「腕時計」を下五、中七に「時の止まった」、最後に季語の入った上五「蝉時雨」。
ここで肝腎なのは、中七・下五と上五とのあいだには、関連がないこと、「意味の切れ」がある。「意味の切れ」に俳句の秘訣がありそうだ。
 「尻から俳句」では季語は上五にしか置けない。その理由は分からない。でも《この型は、俳句の基本中の基本の型です。 何十句と作って、身体に覚え込ませてね。》
 しかし「蝉時雨時の止まった腕時計」のどこが面白いのだろう。第一作の句に文句を付けてもしょうがないか。

●中七

 《「中七」は、字余りや字足らずになると俳句らしいリズムが失われるので、七音ちょうどで作るのが定石といわれています。》

●十二音日記

   《こんな風に「五・七」あるいは「七・五」で日記を書くと、それがそのまま「俳句のネタ」になります。》 ただし、@季語らしきものを入れない、A「うれしい」「悲しい」などの感情を表す言葉を入れない。これは重要なことのように思われる。

 強調・詠嘆をあらわす。映像を切り替えて、2カットの俳句にする効果もある。「古池や蛙飛び込む水の音」を「古池に蛙飛び込む水の音」にすると、 一句の意味が直線的になって、最後まで一息でスーッと読めて、印象が薄くなる。「や」にすると一度映像が切れる。 この少しのあいだに人間はいろいろな想像をする。夏井は「プレバト」でも盛んに「画像を切る」ことを指導する。
 他に「省略」の効果もある。《この「古池や」なら、「や」によって「古池」の情報を省略しています。 「古池」を詳しく説明すると、それだけで十七音を超えるからね。(中略)必要な情報以外を省略することで、 読み手それぞれが自由に「古池」を想像してくれるの。つまり、「切れ字」は必要最低限の情報以外を省略しながら、連想も広げてくれるのね。》(了)