●障害老人乱読日記 141

 『新版20週俳句入門』
 
(藤田湘子、角川書店、2010.4)

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 俳句歴45年を超えた藤田は、あちこちのカルチャー教室と関わってきた中で、「どうしたら本格的な俳句が作れるようになるか」 「どういうふうに作れば早く上達するか」という点で教えてあげたいことをたくさん持っている。それで『新実作俳句入門』を書いたのだが、 それでもまだ「俳句のイロハから教えてくれる本がほしい」という声があるので、それに応えて本書をものした(「はじめに」)――というのだが、 わたしには難しすぎて、どうにも困ったものだ。ただ、一つだけ腑に落ちたのは「俳句は韻文詩である」という言葉。

準 備 編

●俳句は韻文詩

 《俳人のあいだでは「多作多捨」ということがよく言われる。たくさん作ってたくさん捨てることだけれど、「多作は分かるが多捨とはなんだ。 せっかく作ったのにもったいないという人が少なくない。さらには、「捨てたほうにいい句があるかもしれない」と疑心暗鬼にかられる人も。 そのことをちょっと説明しよう。
 多作する、と言っても、すべて名句に仕立てあげ上げようというのではない。そんな思いで多作したら七転八倒、たちまち体をこわしてしまう。 多作の本来の目的は、俳句形式とよくなじむということにある。あるいはトレーニングと思えばいい。そうしているうちに、ある日突如として、 「これはイケる」という直感が閃(ヒラメ)くことがある。そうしたら、そこで〈いい句を作ろう〉とがんばれいいのである。
 それだから、トレーニングのように作った句を自分の眼で見て、「たいした作ではなさそうだなと感じたものは潔く捨てる。 そこで「もったいない」とか、「なんとかならないか」などと思わぬこと。そんなグジグジした態度では爽やかな俳句はできません。さっぱり捨てる。 が、自選眼に自信がないから「捨てたほうにいい句が……」と、どうしても未練がのこる。けれども心配ご無用。 捨てた中にいくぶんいいタネがのこっていたとしても当然あなたは勉強して進歩するんだから捨てたタネほどのものは、 この先いくらでも自分のものにできる。いや、もっといい形で自分の中から湧いてくる。安心して捨てなさい、と申し上げる。
 さあ、当分のあいだ〔型・その1〕の修練をつづけよう。そして一ヵ月三十句作るようにしよう。》

第1週*自分のために

 カルチャーセンターで5人の受講生(さとみ・深志・美木子・旅水・桂子)を選んで、俳句のイロハを教えていくのだが、 時に優しく、大むねきびしく導いていく。まだ「俳句を作る」ところまではいかないという。なんとまあ厳しいことよ。 《私の言いたいことは、「一生の仕事」では気が重いというなら、せめて十年は「俳句を作る」と腹をくくってもらいたい、ということ。》 あなた自身の判断と決断によって決めたことだということを忘れてはいけない。「自分のために」ということを忘れてしまうひとが多い。

  〈今週の暗誦句〉  高浜虚子(明治7〜昭和34)

    遠山に日の当りたる枯野かな

    桐一葉日当たりながら落ちにけり

    一つ根に離れ浮く葉や春の水

    鎌倉を驚かしたる余寒あり

 注が付いている。1.五音・七音・五音と軽く区切って読む。2.朗々と声をあげて読む。作者名も一緒に記憶する。 3.全部の俳句を確実に暗唱できぬうちは、次週へ進まぬこと。

第2週*作句の必需品

 歳時記、俳句手帳、国語辞典……。

  しかし「一つ根に離れ浮く葉や春の水」といわれても訳がわからん。解らなくてもとにかく暗唱、暗唱。

  〈今週の暗誦句〉  村上鬼城(慶応元年〜昭和13)

  春寒やぶつかり歩く盲犬(メクライヌ)

  残雪やごうごうと吹く松の風

  冬蜂の死にどころなく歩きけり

  けふの月馬も夜道を好みけり

 このひとの句はわかりやすい。

第3週*『歳時記』と親しむ

●季語のはたらき

 『歳時記』が美しい詩語の宝庫であることはまちがいない、と藤田は強調する。《美しい詩語=季語は、 それでは俳句の中でどのようなはたらきをするのか。それを説明するまえに、まず次の文章を読んでもらいたい。 これは丁寧な鑑賞ということでは随一だった水原秋桜子の『近代の秀句』(朝日選書)から拝借した。》藤田、『近代の秀句』を推薦。

  愁いあり歩き慰む蝶の昼   (松本たかし)

 この句を水原秋桜子はこう解釈する。

《 解釈  なにか心にかかる事があって四五日引きこもっていた。窓外は麗らかな日和で、道ゆく人々の話し声さえ楽しげにきこえる。 すこし歩いてみたら気も晴れるだろうと思って作者も外へ出てみた。丘には真盛りの椿が風にかがやき、道辺には蒲公英が咲き、菫も咲きまじっている。 蝶が二つ三つ、作者の後になり先になりして飛んでゆく。その影がはっきり地にうつるのを見ると、時刻は正午を過ぎた頃なのだが、 作者はまだ食事をすることも忘れていたのだ。
 しかし歩いているうちに心も次第に軽くなっていった。家々の垣には、はや木の芽が伸び、連翹の咲く庭からは、鞦韆(シュウセン、ブランコのこと) の軋りがきこえたりする。こうして半時ほど経て家に帰った気持は決して暗くなかった。 門辺にいた犬がなつかしげに尾を振りつつ、身体を寄せてきた。》

●季語の持つ三つのはたらき

 まだこのほかに「批評」がある。わたしはゲンナリしてくる。一句読んだだけでこれだけの想像をしなければならないのだ。 むりやり解釈するのではなく、自然と湧きあがってくるのだからかなわない。とてもわたしの出る幕ではないと自信を失う。

 季語には三つの重要なはたらきがある。すなわち、季節感、連想力、安定感だ。《一冊の『歳時記』がボロボロになるほど読まないと、 季語それぞれの持つ味が分からない。いや、それでも「わかった」とは言えぬだろう。《季語一つとってもなかなか奥が深いのである。》

  〈今週の暗誦句〉   飯田 蛇笏(明治18〜昭和37)

   かりそめに燈籠おくや草の中

   鈴おとのかすかにひびく日傘かな

   をりとりてはらりとおもきすすきかな

   秋たつや川瀬にまじる風の音

第4週*俳句の前提=五・七・五

●自由律は俳句ではない

 さまざまな変形として、「字余り」「字足らず」「破調」「句またがり」といった形がある。《これは、五・七・五でも表現することは可能なのだけれど、 それではどうしても作者の屈折した感情がリズムに乗らない、という確たる理由があって、あえて用いる手法。》

●表記のたてまえ

 《1 文語表現、口語表現のどちらを使ってもさしつかえない。一人の作者が、あるときは文語表現の俳句を作り、あるときは口語表現の俳句を作る、 ということがあってもかまわない。
 また、たまたま一句の中に、文語と口語が混じり合っていた場合でも、それが表現上「どうしてもそうあらねばならぬ」ように作られているならば、 それでも差し支えない。
 2 歴史的仮名づかいと新仮名づかいは、どちらか一方にハッキリきめておく。ある句は歴史的仮名づかいで書き、 別の句は新仮名づかいで書くという混用はダメ。まして、一句の中に両方の仮名づかいが混ざるなんてことは当然「もってのほか」である。
 3 したがって、歴史的仮名づかいで表記するときめたならば、口語表現の俳句でもそうしなければいけない。同様に、新仮名づかいと決めた作者は、 文語表現でもそれで押し通さなければいけない。》

 藤田が主催する「鷹」ではそのような方針でやっている。だから「乞食(コツジキ)に僧が道問ふ春の暮」といった歴史的仮名づかいの俳句もあれば、 「冬の灯(ヒ)の下に赤子の覚めており」のような新仮名づかいの俳句もある。藤田自身は、俳句は文語表現がいいと信じている。

 〈今週の暗誦句〉

     頂上や殊に野菊の吹かれけり     原  石鼎(セキテイ)(明治19年〜昭和26年)

    蔓(ツル)踏んで一山の露動きけり

     秋風や模様のちがふ皿二つ

     短日の梢みじんにくれにけり

第5週*切字とは何か

 《「俳句を俳句として立たしめている本質」ということだが、その特徴として挙げるべきものが、三つある。その三つとは、
  1 五・七・五という型
  2 季語の連想力
  3 切字(キレジ)の効果
ということです。》

 1はわかる。2もなんとなくわかる。3はむつかしいけれども、「や」「かな」「けり」などだと聞けば、「ああ、あれか」と思い出す。
    荒海佐渡に横たふ天の河 (松尾芭蕉)
    さまざまの事おもひ出す桜かな (松尾芭蕉)
    大根引大根で道を教へけり (小林一茶)
 ただ「けり」だけは動詞や形容詞の連用形につく助動詞。

   《この三点が、お互いにそれぞれの力を発揮し、ほどよくひびき合ったとき、名句とか秀句といわれる作品が生まれるわけだから、 この三点がどんな役割を果たすのかということを、十分に知って、頭の中に叩き込んでおく必要がある。》 はたしてわたしの頭の中にたたき込めるだろうか。

●やむにやまれぬ変形

 先に藤田が、「五音・七音・五音をかるく区切って読む」「朗々と声を上げて読む」と注を付けたのは定型感覚をしっかり身につけることが、 俳句の本質を知るうえできわめて大切と思っているから。
 ただし例外もある。

 「薔薇の坂に聞くは浦上の鐘ならずや」(水原秋桜子)

などは全部字余り。秋桜子ほどの俳人ならこれを定型にすることはさしたる難事ではない。《だが、しかし、です。 この句は秋桜子が戦後初めて九州の地を踏み、原爆の傷跡の残る長崎を訪れた時に作った 。だから、作者の胸中には、 原爆の悲惨なさまや憤りがある一方、長く心の中で温めていた長崎という土地に対する憧憬が、旅情となって渦巻いていたはずで、 そうした複雑な心情心理を表現するには、どうしても荘重なリズムが必要だった。》

 《現代俳句におけるリズム、調べの重要さを、一番初めに説いたのは秋桜子です。そういう作者だから、あえて六・八・六という音数にして、 自分の感動をそのリズムに乗せようとしたわけで、初心者の推敲不足の字余りとは、まったくワケがちがう。》

 〈今週の暗誦句〉   前田 普羅(明治17〜昭和29)

   雪解川名山けづる響かな

   うしろより初雪ふれり夜の町

   奥白根かの夜のゆきをかゞやかす

   駒ケ嶽凍てゝ巌を落しけり

第6週*季語のはたらき

●季語を信用する

 たとえば「蒲公英の黄色い花や女の子」という俳句を作るとする。だが蒲公英は黄色いに決まっている。こういうのを「季語を説明している」という。 《季語の説明はいっさいやめて、季語はそのまま、なんの手も加えず一句の中に置くようにする。(中略)これはとても大切な作句上のポイントで、 ゆめゆめ忘るることなかれ、なんだけれど、五年選手十年選手でも、「季語を説明」してしまって失敗する例が、後を絶たない。》

〈今週の暗誦句〉    水原秋桜子(明治二五〜昭和五六)

   啄木鳥(キツツキ)や落葉をいそぐ牧の木々

   夕東風(ユウコチ)や海の船ゐる隅田川

   ふるさとの沼のにほひや蛇苺

   むさしのの空真青(マサオ)なる落葉かな

第7週*切字の効果

●代表的な切字「や」「かな」「けり」

 《高浜虚子は明治・大正・昭和三代にわたって俳句界をリードした大俳人だが、新しい人に俳句の作り方を教えるとき 、/「季語を入れて、『や』か『かな』を一つ使ってお作りなさい」/と教えたそうである。》

 切字のはたらきはおよそ次の三点。
 1 詠嘆  2 省略  3 格調

  夕東風や海の舟ゐる隅田川 (水原秋桜子)

 夕東風だけで菅原道真の本歌が解る。そこに「や」がくれば、「ああ、この夕風の感じ、もうまぎれもなく春がやってきたのだ」という、 たしかに春を感じ取った喜びが含まれている。その喜びも詠嘆なのです、と藤田はいうのだが、わしにはわからん。 「海の舟」以下はどうやってひねり出すのだ。

 《で、切字軽視派の人たちは、もう「『や』『かな』なんて古くさい。『や』『かな』を使わずに、新しい俳句表現の方法を探求する」 などと言っているらしいけれど、これははなはだ短絡的な考え方。言わせてもらうなら、俳句表現の新しい古いを論ずること、 そして、古いという理由で切字を用いぬことほど愚かで“あさはか”なことはないと思うのです。俳句が芭蕉によって確立されてから三百年。 この間いくたの起伏を経て今日の盛況に至ったのは五・七・五と季語と切字、この相乗効果の見事さが多くの人の心をとらえてきたからにほかならない。 このうちどれか一つが欠けても駄目なのである。》

     〈今週の暗誦句〉   渡辺 水巴(スイハ)(明治15〜昭和21)

   庭少し踏みて元日暮れにけり

   珠数屋から母に別れて春日(ハルヒ)かな

   ぬかるみに夜風ひろごる朧(オボロ)かな

   月見草離れ\/に夜明けたり

実 作 編

第8週*作句へスタート

●四つの型

 《誰でもすんなり一句を作れる方法はないだろうか。そして、すんなり作れた上に、できることなら少しは“まし”な俳句になっているようにしたい。 そんな欲ふかいことをあれこれ考えてみたのです。/その結果、/・五・七・五という型/・季語のはたらき/・切字の効果/ この三つの特長を十分に生かすよりほかない、というおもいに至った。》さあここが見得の切りどころ。 《もし自慢めいたことを言わしていただけるならば、たくさんの作品群の累積はあったけれど、その中から作句の手ほどきになる、 「四つの型」を見いだしたという前例はなかった、ということです。》

●配合の句・一物の句

 「遠山に日の当りたる枯野かな」(高浜虚子)は配合の句の代表。遠山と枯野の合わせから成っており、なおかつ枯野は季語。 この作り方を「二物衝撃」という。俳句のような優雅な文芸に「二物衝撃」とは、なんだか物理学の用語のようだ。
 一方「まさをなる空よりしだれざくらかな」(富安風生、まさをは真青)のような、季語そのものをとことん見据えて、べつのものの手を借りずに 、その本質に迫ろうとした詠い方を「一物俳句」という。この二句を比べる限りでは富安のほうがかっこいい。一物俳句は《一見たやすいようだが 、じっさいに作ってみるとなかなかむつかしい。そのわけは、一つの対象(季語)を深く鋭く観察して、作者独自の発見をしなければならないからである。 ふつう誰でもが見ているようなことを一物俳句にしても、「なーんだ、そんなこと当たり前じゃないか」で終わってしまい 、読者の心を揺さぶるような感動は生まれない。それに比べると配合の句は二物の組み合わせの妙味の勝負だから、わりあい初心の作者でも、 ときおりハッとするような一句を得ることができるのです。/そういった作り方の難易、成功率の差があるためだろうが、 今日の俳句の大方は配合の方法で作られている。/したがって本書では、一物俳句の作り方にはふれない。》おもいきったことを言う。

  《念のため、これまで述べてきた〔型・その1〕のポイントを箇条書きにしてみよう。
 @ 上五に季語を置き、「や」で切る。
 A 下五を名詞止めにする。
 B 中七は下五の名詞のことを言う。
 C 中七・下五はひとつながりのフレーズである。
 D 中七・下五は、上五の季語とまったくかかわりない内容である。

 この五項、コピーして句帖に貼っておくことをおすすめする。そして、いつでも、どこでも“そら”で言えるようになってもらいたい。》

   〈今週の暗誦句〉   山口 誓子(明治34〜平成6)

   鱚釣りや青垣なせる陸(クガ)の山

   匙なめて童(ワラベ)たのしも夏氷

   美(ヨ)き雲にいかづちのゐるキャムプかな

   捕鯨船嗄(カ)れたる汽笛(フエ)をならしけり

第9週*第一作をどう詠んだか

 《ところでこの〔型・その1〕は、〔四つの型〕の中でも一番の基本形とも言うべきもので、もっとも俳句らしい型、 俳句の原型と言っていいほどのものである。したがって、一句や二句作ってやれやれと思っているようでは困るのです。五十句でも百句でも、 徹底してこの型で作る。イヤというほど作ってみることをすすめたい。私の担当するカルチャー教室では、これを何回も反復して修練するが、 残念ながら本書ではそれができない。読者の皆さんがそれぞれ自覚して、この型でたくさん作ることを希望する。》多作の本来の目的は、 俳句形式とよくなじむということにある。

   〈今週の暗誦句〉   阿波野青畝(アワノセイホ)(明治32〜平成4)

     さみだれのあまだればかり浮御堂(ウキミドウ)

     探梅やみさゝぎどころたもとほり

     葛城(カツラギ)の山懐に寝釈迦かな

     うつくしき芦火(アシビ)一つや暮れの原

第10週*基本から応用へ

●俳句は韻文である

 むつかしい本で、少しも頭に入らないのだが、ここに来て目からうろこの落ちる思いの一言が出てきた。すなわち「俳句は韻文である」。 散文は「詩情のないこと。散漫平凡で、しまりのないこと」
 韻文の韻は「ひびき」という意味。《韻文ということをたえず念頭においておけば、やがてキリッとした俳句ができるようになる。 》はげまされるなあ。
 《俳句を詠うときは、対象を概括的に掴むより、その中の一点に絞って詠うようにしたほうが効果的で、言いかえると、 「部分を詠って全体を想像させる」ことがトクなやり方。》

    〈今週の暗誦句〉   久保田万太郎(明治22〜昭和38)

   神田川祭の中をながれけり

   竹馬やいろはにほへとちり\/に (ほんとうは記号の上に点々が付く)

   おもふさま降りてあがりし祭かな

   パンにバタたつぷりつけて春惜しむ

      (つづく)