●障害老人乱読日記 142

 『新版20週俳句入門』
 
(藤田湘子、角川書店、2010.4)

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 (7月号のつづき)

  第11週*上五の切り方

 ここまでは上五を「や」で切る作り方を習得してきたが、切字は「や・かな・けり」だけではない。 芭蕉は「切字に用ふる時は、四十八字みなきれじなり」といっている。

 《私はこれまで、「上五を『や』で切って季語を置いたとき、中七・下五は季語と関わりのない内容にする」ことを、しつこく言ってきた。 このことはみなさんに大分徹底していると信じてうたがわないのだが、それでは、上五の季語のほうを見ている詠い方、 季語と関わり合う内容の詠い方の句は、絶対ダメなのか、と言うと、そうではない。作例はある。こういう句がそれ。》

   囀(サエズリ)や絶えず二三羽こぼれ飛び   (高浜虚子)

 ウーンこれも良いけど、わたしは「とび下りて弾みやまずよ寒雀 川端茅舎」のほうがすきだなあ。 堅苦しい〔型・その1〕よりこちらの方がしっくりくる。

  〈今週の暗誦句〉   高野素十(スジュウ)(明治26〜昭和51)

  朝顔の双葉のどこか濡れゐたる

  翅(ハネ)わつててんたう虫の飛びいづる

  まつすぐの道に出でけり秋の暮

  づかづかと来て踊子にさゝやける

  第12週*二つめの型へ進む

 今週から〔型・その2〕にはいる。
 お手本
  寄せ書の灯を吹く風や雨蛙
  ふるさとの沼のにほひや蛇苺

 共通点を見ると、中七の終りに切字「や」があること、下五が季語で名詞止めになっていること。これを〔型・その2〕と呼ぶことにする。

●〔型・その2〕の応用型

 こんどは上五や中七に季語があって、下五は季語以外の言葉から成っている句をあげる。

  炎天の空美しや高野山      高浜虚子
  たんぽぽの大きな花や薄曇    松本たかし

 《今まで作句してきた〔型・その1〕の基本形も応用型も、そしてこんどの〔型・その2〕の基本形も、切字「や」を境にして、 前後の内容が異なっていたね。(中略)これはどういうことかと言うと、端的に言えば、〈季語〉に直接切字「や」が付いていないからであるが、 もっとつきつめて言うと、この「や」は主として、一句の韻文としてのリズムを整えるために使われているのである》

●“わび・さび”なんてもう古い

 古臭さ・常識・独善はいけない、と藤田はいう《さて、これまで三回の実作をし、そのつど作り方の要領やコツについては教えてきたけれど、 俳句の対象の選び方とか、それをどういうぐあいにフレーズにしていくか、といった点については、あえてふれずにここまできた。 はじめからあまりあれこれ注文をつけて、俳句を作り惑うといけないという老婆心からだったが、 このへんでそろそろそういう問題に言い及んでもいいかと思う。》

 ムム、これまででも十分むつかしかったのに、これから本格的にむつかしくなるというのだ。

 自分の主催する俳句雑記や新聞・雑誌で選句をおこなっている。その経験から、こういう「作り方」ではとうていうまくいかない、 いい作品はできないと思われることが、大別して三つある。それを箇条書きにすると、
  《@ たいへん古くさい対象に目を向けたもの。
  A 幼稚なことや、常識きわまりないことを詠んだもの。
  B 観念的、独善的なフレーズをふりまわしているもの。》

 @については、「蟻が這ふびんづる様のテツペンを」「落葉降る水子地蔵の風車」等々だが、《これを読んで、 「うんなかなかいいことを詠っている」なんて思ったら、あなたも危ない。「なんと情けない古臭さだろう」と感じるくらいでないと要注意である。 ごらんのように一句めから三句めまではお寺がらみだが、私の見たところ、「俳句を作る」となると、 にわかに神社・仏閣のほうへ足を向ける人が少なくない。どうやら“わび”だの“さび”だのを勘ちがいしているらしいが、今の時代、 もう“わび”“さび”は古いのです。そんなことは考えず、ということは学校の教科書に載っている古い俳人の作品などの影響を受けず、 現代に生きる作者自身の興味を惹く対象を、ためらわず作品化することに専念すべきです。神官や僧職にある人とかその周辺に生きる人は別として、 「俳句を作る」からといってわざわざ神社・仏閣、そのほか祠なんてものへ足を運ぶ必要はないこと、銘記すべきです。》。

 次はA。幼稚な例。
 れんげ田にはづんでゐたる子等の声
 孫とゐてうれしきビール重ねけり

 B観念的・独善的な例
 万緑と対話ができて村愛す
 新緑の風を育てる保育園
 《「俳句を作る」態度の基本は、対象に素直に接し、素直に感動を表現すること。》

    〈今週の暗誦句〉    日野 草城(明治34〜昭和31)

    春の灯や女は持たぬのどぼとけ

    ところてん煙のごとく沈みをり

    花衣(ハナゴロモ)ぬぐやまつはる紐(ヒモ)いろ\/  杉田 久女(明治23〜昭和21)

    谺(コダマ)して山ほととぎすほしいまゝ

  13週*配合は離れたものを

●口語は薄っぺらになる危険

 受講生の一人が作った「新宿の空は四角やいわし雲」に対して藤田は、《空を見たらいわし雲が見えた、というのはいささか単純。 ここは空のほうにこだわらないで、パッと目を転じたいところ(――ということで作者と話し合った結果、新宿で酒を飲んだというので、 私が「今年酒」を提案して決着)。(中略)季語でうんと苦労することが上達の秘訣。》そんなこといわれても「今年酒」 などという季語を知っている初心者なんかいない。

 《次の「秋の暮」。「読みたい本」と口語を用いた。口語表現はしばしば使われるが、一句が薄っぺらになるという危険がある。 俳句は短いから、文語表現が似つかわしいのです。文語に不馴れかもしれないが、安易な気持ちで口語表現にしない心構えをもってもらいたいね。》

 《「や」のつよさ、重さが堅確・堅牢をもたらしていることはまちがいないが、古くさい感じや固苦しい感じを与えるのも、 やはり「や」なるがゆえである。だからこのさい、「や」という切字にはしばらくお引き取り願って、ほかの切字を使うようにすればいい。》
   《五音・七音・五音の終りは、切字を用いる要点・要所である。(中略)今日の俳壇でも、しかるべき俳人はちゃんとそこのところを実作で示している。》 といって次のような句を並べる。》
  鈴に入る玉こそよけれ春のくれ       ワカラン
  石に寄るたましひあらむ冬桜         ワカラン
  遺書父になし母になし冬日向(フユヒナタ)    ワカラン

 上記の句は、下五に季語が置かれてあるという。五音で切れているところを探せばそこしかないから、それは解るとしても句の意味が分からない。 そのほか、

  ぼんやりと夏至を過せり脹脛(フクラハギ)    ワカラン

 《「や」ばかり見慣れた目には戸惑いがあるかも分からないが、中七の終りの「をり」「なり」「ぬ」「よ」といったのが切字。》 こういうのを「中七切れ」という。「まつすぐの道に出でけり秋の暮」(高野素十)も、中七切れ。 曲がりくねった細い道をしばらくたどりながら心細い思いをしていたのが、やっと大通りに出てほっとしたという句。 《フレーズの意味だけを読んでいたら、そんなことはなにも書いてないから分からない。私の言ったことは、賢明な読者ならもうピンときている。 リズムです。リズムが表現している。/これまで、説明を複雑にしないため、季語「秋の暮」をあえて無視してきたが、心配とか不安、 あるいは安堵感といったことを感じさせるうえで、この季語のはたらきも忘れてはいけない。》解説してもらうとよく分かる。

  〈今週の暗誦句〉

  みちのくの伊達の郡の春田かな    富安風生(明治18年〜昭和54年)

  螢火や山のやうなる百姓屋

  実朝の歌ちらと見ゆ日記買ふ     山口青邨(セイソン)(明治25年〜昭和63年)

  祖母山(ソボサン)も傾山(カタムクサン)も夕立(ユダチ)かな

  第14週*「眼中のもの皆俳句」

●継続こそ素質

 俳句は作りつづけているうちに分かってくるものと藤田は言う。作句を初めて3、4ヶ月たつと、必ず「わたしは俳句を作る素質があるだろうか」 と悩むひとが出てくる。そんなとき藤田は、「だまって一所懸命に作句をつづけなさい。素質があるかないかは、作句を続けるか続けないか、 と同じ意味です」と答える。《一ヶ月に三十句は作らぬと俳句が馴染んでくれない。》

 受講生の青年が作った「赤い羽根さけて通れり駅近く」に対して、《「セコい感情を羞ずかしがらず出したもの。その率直さはよしとしよう。 だが、これは“詩”ではない。俗情だ。俳句も立派な詩である。韻文である。(中略)「秋風や眼中のもの皆俳句」(高浜虚子)こんな句があるけれど、 大虚子先生だっておのずから〈詩になるもの〉と〈詩にならぬもの〉を選別しているんだ。低俗愚劣な感情は俳句の材料にはならぬこと、 よくよく自戒してもらいたい。》

 《ちょっと注意を怠ると字余り句を作るというのは、いただけません。ことに中七の字余りは決定的に一句のリズムがだらけてしまう。 私は、「中七字余りの成功率は一パーセントもない」と公言しているくらい。》

●見えてくる句が大切

  「どんぐりを数えてみたりテーブルに」という受講生の句に藤田はこんな評言を加えている。《どんぐりの句。 これは平凡のようだけれど案外うまくできている。というのは「数えてみたり」がいい。五、六個や十個ぐらいだったら、 わざわざ数えなくても見てパッと分かる。また反対に、いっぱいあると数えようという気も起こらない。たとえて言えばひと握りほどのどんぐりを、 テーブルの上にパラパラとおいたところ。そんなふうに、どんぐりのおおよその分量が見えてくる句です。この「見えてくる」ということ、 ものすごく大切で、詠った対象が〈そこにある〉〈そこに見える〉というのは佳句(カク)の欠かせぬ条件です。作者、はからずもそれができた。 「みたり」のお蔭を忘れぬよう。ここが「みたる」になったらどうなるか。もう分かっているね。》

 《切字は文字どおり切るもの、ことばの流れを絶つものという意識の結晶です。》

●悪い句の見本

 蝉鳴くやこの世に命ある限り
 風化せぬ悲しみあらた終戦日
 《これを読んで、「いい俳句だ」とか、「うまいこと表現した」などと、もはや感心したりはしないだろう。これ、みんな最悪の見本なんです。 /どうしていけないのか。(中略)新聞・テレビの報道でときどき歯のうくような決まり文句を言うけれど、あれと同じ。使い古され使い古されして、 手垢がピッカピカにくっついている。内容も虫酸が走るような陳腐さと薄っぺらな感傷。》
 《だいたい俳句の中に次のような内容を盛りこもうとすると、まちがいなく失敗する。いや、俳句の体をなさなくなる。とくとご承知置きを。
  ・道徳観、倫理観、教訓。
  ・理屈、分別臭。
  ・風流ぶり、気どり、低劣な擬人法。
  ・俗悪な浪花節(ナニワブシ)的人情。》

  〈今週の暗誦句〉     中村草田男(明治34〜昭和58)

    ■瑰(ハマナス)やいまも沖には未来あり   (注、■は王ヘンに攵のツクリ

   蜥蜴の尾鋼鉄光(マガネビカ)りや誕生日

    蜩のなき代わりしははるかかな

    冬の水一枝の影も欺かず

  第15週*デリケートな「かな」

《〔型・その3〕
 切字「や」を終って、こんどは「かな」。まず、その基本的な用い方を例句によって見ることにする。》下五に季語を置くのが特徴。

   金色(コンジキ)の佛ぞおはす蕨かな    水原秋桜子

 この句に対して藤田は(上五・中七はひとくくりになって金堂内の仏像のことを言っているが、下五はパッと転じて、 境内に生い出た「蕨」を詠嘆している。)という解説を施している。だからどうしたとわたしは言いたい。

   傘もつ手つめたくなりし牡丹かな    富安風生

   ふるさとを去(イ)ぬ日来(キ)向こふ芙蓉かな    芝 不器男

   オムレツが上手に焼けて落葉かな       草間時彦

   帯解きてつかれいでたる螢かな       久保田万太郎

    〈今週の暗誦句〉        石田波郷(大正2〜昭和4)

   初蝶やわが三十の袖袂(ソデタモト)

   遠足や出羽の童に出羽の山

   葛咲くや嬬恋村の字いくつ

   蓼科は被(カズ)く雲かも冬隣
    (「かずく」は、頭上にいただく意。)

  第16週*あるレベルに達した

 新年の句を受講者の一人はこう詠んだ。「めでたさに長くつかりし初湯かな」。それに対し藤田はこういう。 《「ありうべき嘘」新年の句の作り方で言うと、上五「めでたさ」が不要と分かってもらえるだろう。だから、この上五で、 初湯にはいっていることをもう少し具体的に表すことにしよう。初湯は朝でも昼でも夜でもかまわないわけだが、朝起きてすぐつかったようにすれば、 ふだんとちがった気分が出てくる。「いや夕方だった」なんて言わないこと。事実は夕方であっても、 朝にふり替えて詠ったほうがよりよい雰囲気になるのならば、状況設定は自由に変更していいのです。つまり「ありうべき嘘」はついてもいい。 「ありうべき嘘」によって、より現実感が出てくるようならば、ためらわず状況設定を変更するべし、です。
 この〈状況設定の変更〉ができないという人が少なくない。とくに旅水、京子さんの世代にその傾向が強い。「嘘つきは泥棒のはじまり」なんてことを、 子供の時分にしっかり教えこまれたからね。でも一方に「嘘も方便」なんていう便利なことわざもある。俳句は詩であり創作です。 事実のみにこだわっていたら、名句はそうそうできるものではない。過去の体験をあれこれ呼び覚まして状況設定をよりよくして、「ありうべき嘘」をつく。 そして現実感をいっそう高めることを、考えてください。/したがって、/朝(アシタ)より長くつかりし初湯かな   さとみ/で一件落着。》

●遠近・大小の組み合わせ

 「遠山に日の当りたる枯野かな」この句がなぜ印象的なのか。
 遠山――遠景・明
 枯野――近景・暗
という仕組みになっているから。《二物の配合・衝撃はこうしたあざやかさが欲しいのだが、それを求める基本として、 /遠←→近/のほかに、/大←→少/を考えに入れておくとよい。〈明←→暗〉はそれを彩る副次的なものとして利用したらいいと思う。》 最初この句を読んだときは意味が分からなかった。まして面白みをや。こういう構造になっていたのだなあ。

  〈今週の暗誦句〉     松本たかし(明治39〜昭和31)

   渋柿の滅法生りし愚さよ

   芥子咲けばまぬがれがたく病みにけり

   金剛の露ひとつぶや石の上      川端 茅舎(ボウシャ)(明治30〜昭和16)

   ひら\/と月光降(フ)りぬ貝割菜(カイワリナ)

  第17週*「俳句は切字響きけり」

●「けり」の要点

 〔型・その4〕――上五に季語、下五に動詞+けり

 《「かな」が沈黙の切字ならば、〈「けり」は決断の切字〉と言っていい。こっちのほうははじめから、「これで行くんだ」 「これしかない」と肚(ハラ)をくくっている。だから、「あれか、これか」と省略に迷っていたんでは、「けり」はひびかない。》

   霜柱俳句は切字響きけり    石田波郷

 深志の句「朴落葉安曇野暮れてゆきにけり」深志は安曇野生まれ。《回想の句は誰しも作るわけで、そういう詠い方は決して悪くはない。 ことに自分の生まれ育った地や、長く住んだ土地の回想は、時としてたいへんロマンチックな一句を生むことがある。ただし、回想句は、 回想的に詠んではダメ。自分がいまそこにいると仮定して詠わぬと、現実感を失い、感傷ばかりが目立ってしまう。》さらに 「朴落葉安曇野暮れてしまいけり」にすればずっと厚みが出てくると指摘する。

  〈今週の暗唱句〉

   天の川鷹は飼はれて眠りをり    加藤 楸邨(明治38〜平成5)

   鮟鱇の骨まで凍ててぶちきらる

   中年や独語おどろく冬の坂     西東 三鬼(明治33〜昭和37)

   中年や遠くみのれる夜の桃

  第18週*俳句を上手に作る法

 《私がまだ初心者のころ、先輩から、/「作句する人は、一、三、五年の奇数年に分かれめがある」/と言われたことがある。 (中略)いささか我田引水になるが、この『新版 20週俳句入門』には、深志君の言う「俳句を上手に作る方法」がいっぱい書いてある。 (中略)だが、実作に即してみてどこが一番のポイントになるかと言うと、やはり「季語」。私は周囲の人たちに、「季語の使い方如何が、 一句の正否の五〇パーセント以上を左右する」と、いつも口を酸っぱくして言っているし、句会で注意することも季語に関わることが多い。》

●季語を離して使う

 《・ 季語(A)とその他のフレーズ(B)とは近づけてはいけない。離して使うことを心がけよ。
  ・ 季語を修飾しても効果はない。季語に余分なこと言葉を使わぬことが大切。
  ・ 季語に使われてはいけない。作者が季語を使いこなすのである。
  ・ 季語のほうを見て作句するな。季語のこころでほかのものを見よ。》

  〈今週の暗誦句〉

   曇り来し昆布干し場の野菊かな    橋本多佳子(明治32〜昭和38)

   七夕や髪ぬれしまま人に逢ふ

   夏痩せて嫌ひなものは嫌ひなり   三橋鷹女(タカジョ)(明治32〜昭和47)

   薄紅葉(ウスモミジ)恋人ならば烏帽子で来(コ)

  第19週*「をり」「なり」「たり」

●内容に応じた使い分け

 《作句数がふえてあれこれと応用型を駆使していくと、「ここはどういう切れを使うべきか」に迷うことがあるが、私の見るところ、 「けり」とこれら「をり」「なり」「たり」の使い分けがどうもうまくいかぬようである。》そんなときは、

   野分あと口のゆるびて睡りをり(原句) (石田波郷)
   野分あと口のゆるびて睡りけり
   野分あと口のゆるびて睡るなり
   野分あと口のゆるびて睡りたり

 迷ったときは、こうして四とおりの句を書いて机上に置き、朝夕暗誦すればおのずから自分の意にかなった下五が選べるとのこと。

●吟行

 《「吟行に行かぬと句ができない」/という作者もいれば、反対に、/「吟行句はどうも苦手だ」/と嘆く人もいる。 これは机に向かって、ゆっくり想を練って作る作者だろうが、俳句作者たるもの、やはり吟行へ行ってスカッとした一句を作る修練も、 積んでおかなければいけない。家に閉じこもっていなくても、日常生活の中だけで取材していると、素材も発想も固定化してしまう。 見なれたものばかりでは、いつかマンネリ化する恐れもある。時には目新しい風景や行事に接し、ふだんはふれることのない季語も見たりして、 新鮮な感動を呼びさますことも大切。吟行の目的はじつはそういうところにあるのだが、あまり大仰に考えず、「ちょっと行ってくる」ていどのところに、 詠いやすい場所を一つ二つきめておくとよい。/そのような場所(吟行地)が決めてあると四季の変化はもちろんのこと、同じ季節でも、 前年、前前年との違いやわずかな変化が分かり、そのたびに自然の奥行きの深さを教えられることがある。また、そういうことを重ねて、 自然を見る眼を養い、季語の味わいを知っていくわけである。/そういった意味で私は、名所・旧蹟などよりも、近くの林や湖沼(コショウ)、丘、 海岸、川などの平凡な場所に吟行地を作っておくことをおすすめしたい。》

  〈今週の暗誦句〉

   吹かれきし野分の蜂にさゝれたり      星野 立子(明治36〜昭和59)

    大仏の冬日は山に移りけり

    梅干して人は日蔭にかくれけり       中村 汀女(明治33〜昭和63)

    晩涼や運河の波のやや荒く

  第20週*これからの勉強法

 《もう一度第8週以降を読んで、実作を反復すること。(中略)型の習得は五句や十句作ったくらいでは不十分だから、 その意味でも型にそった実作をくり返すことは大切である。ぜひ実行していただきたい。》

 「今」を「点」でとらえて詠む

 実作指導の中で作句のポイントを述べてきたが、あえてこれについては言わなかった。混乱すると思ったからだが、最後に述べておかぬと画竜点睛を欠く。 ――よほど大事なことらしい。
 たとえば「白雲(シラクモ)と冬木と終(ツイ)にかかはらず」(高浜虚子)これのどこが「今」であり「点」であるか。 《近景に冬木があり遠景に白雲が浮かんでいる。白雲はゆっくり動いて、冬木に近づきつつあるように見える。作者は、 やがてその白雲が冬木の梢とかさなるかと思っていたのだが、その予想はついにはずれ、白雲は梢と交わることなく過ぎていった。 /こういう内容だが、白雲の動きを追っていたしばらくの時間は省略して、「もう白雲と冬樹は交わることはない」と分かった時をとらえて、 素早く発想している。「分かったとき」というのは生ぬるい。「分かった一瞬」と言いなおそう。その「今」があざやかだから、 交わりそうで交わらなかった、白雲と冬木のある空の一点が見えてくるのである。何回か朗唱しているうちに、 そのあたりの機微が感じられるはずである。》

 《以上のこととこれに関連したことを、わかりやすく要約しておこう。/
 ・俳句は、時間・経過を詠うより点をとらえて詠うものである。/
 ・対象を広くひとまとめに詠うのではなく、一点に絞って詠うのである。/
 ・全体を表現するのではなく、部分を詠って全体を感じさせる方法が適切である。/
 ・発端、経過、完了と分けてみたとき、完了の点で詠うと発端、経過も連想されてくるものである。》

●どこで切るか

 《要は、一句を作ろうとするとき、まず「どこで切るか」を考えて、形をととのえるようにする。上五でダメなら中七、 中七でうまくゆかぬなら下五、というふうに、頭の中で言葉を操作し、句帖に書いてからまた検討してみるようにしたらいいだろう。 そして、まえにも述べたように、応用へ応用へとやって行きづまったら、ためらわず〔型・その1〕の基本形に戻って、もう一度ゆっくりやり直す。 これは振り出しに戻って新規まき直しということではない。再スタートの足固めである。それを素直に実行するかぎり 、あなたは長い低迷期と無縁に過ごすことができるだろう。》

●これから歩む道

 《必要なことはおおよそ20週の中にちりばめて書いたつもりだが、しかし、俳句の奥行きは深い。私の述べてきたことも、 結局は必要最小限のことがらと言ってよかろう。したがってこれからも学ぶべきことは多々あるのだが、 さしあたっての数年間は次のような勉強をしていったら効果が上がると思う。/
 (1) 作句を休まずつづけること。一ヶ月三十句は必ず作りつづける努力をすること。/
 (2) 鑑賞、句集その他の俳書を読んで、視野を広め、鑑識眼を高めること。/
 (3) 俳句専門誌を購読し、その投稿欄に応募して実技を磨くこと。》

   俳句は一千句作ってようやく分かる。(了)