2021年9月号

《ずいひつ》

 『誹風柳多留』(岩波文庫)に

   山出しハ笑ッてやるがしなんなり

という川柳が載っている。解説を加えるまでもないだろう。春風駘蕩たる句ではないが、もともと川柳だもの鋭いに決まっている。 今月はこれをテーマにあれこれ述べていこう。

●日本語編

 誰のこととはいわない。うちにはいま1週間で14〜5人ほどの他人が来宅し、それに毎日家内が出勤・在宅する。
 静かな日もあれば騒々しい日もある。たとえば引き戸にせよ開き戸にせよ、ドアノブに関係なく勢いで閉めるひとがいる。ビシャッ!  ドン! おどろくほどの轟音がする。
 衣類をしまう引き出しも閉める時は「ピシャッ」と閉めるものだから、跳ね返ってきて半開きになってしまう。 それで「この引き出しは壊れてるんじゃないか」などという。バカをいっちゃいけない。静かに閉めれば閉まったままだ。
 昔だったらこんなときわたしなどは「のろまの三寸、バカの開けっぱなし」と親に叱られた。「お里が知れるよ」ともいわれた (これは誤用。お里はあんただ。いや、わたしが大きくなってこんな無作法をした時のことまで考えていったのかもしれない)。
 そこへいくと看護師は部屋の出入りも戸の開け閉めも、神経質なほどソッとする。教育のたまものだろう。

「いやならよしゃがれヨシベの子んなれ、ペンペン弾きたきゃ芸者の子んなれ」とか「たえしたもんだよ蛙のしょんべん、 見上げたもんだよ屋根屋のふんどし」とか昔は愉快な悪態をついたもの。どうして今はなくなってしまったのか。 悪態は世間の荒波に備える家庭教育だったのではないかとわたしは思う。すぐキレてナイフを振り回す現代人のひ弱さは、 その家庭教育の欠如によるのではないだろうか。

 「おまえの母さんデベソ」といわれたら「おまえの母さん大デベソ」といい返せばよかった。 《悪口が多かったから、いい意味での免疫力があったのです。》なんの本で読んだか忘れたが、同感だ。

 しゃれ。鐘突の昼寝=いちごんもない。猿の小便=きにかかる。貧乏人の嫁入り=ふりそでふらん。こういうの大好き。 もっと知りたい。若いころ、製本屋の老職人に搬入を早めてくれるよう交渉したとき、はじめは渋っていたが最後は「わかりました、 嫁へ行った晩だ、やりましょう」といった。首をかしげると、「いわれるまま」だと笑った。いい親爺さんだった。 酒でも飲みながらもっといろいろ教わりたかった。

 柳田国男は『不幸なる芸術』に《ラジオも映画もない閑散な世の中では、ことに笑って遊びたい要求が強かったのである。 ……ウソは大昔から、人生のためにはなはだ必要で平素これを練習しておかなければならなかった》と指摘しているそうだ。 それで昭和まで寄席が多かったのだろう。いまわれわれはテレビやラジオのお笑い番組のおかげか楽しいウソやほらを吹く話術をみがかなくなり、 言葉の生活が寒々しくなってしまった。わたし自身「楽しいウソやほらを吹く話術」を持たない。うかつに下手な冗談を女房にいうと、 ムッとした顔をされる。女性は男ほどジョークを好まない。

 さあそろそろのどかな話からとんがった話に移るよ。テレビやラジオのニュースなんか聞いていると、まあたとえば国会議員や官僚が、 「さきほど先生、かくかくしかじかとおっしゃられましたが……」などという。わたしはそれを聞いていると、ノドをかきむしりたくなる。 手がノドまで届かないから、「この山出しが!」と毒づく。
 「言う」の敬語は「おっしゃる」、それは問題ない。そして「言う」の敬語は「言われる」これも問題ない。 だがこの二つがゴッチャになると、猿の小便になる。

 わたしもうるさいジジイになった。だがこれも若者のため。やはりテレビのニュースショウを聞いていて、話の終わりが気にかかる。 司会者はゲストのエライひとにむかって、「ありがとうございました」という。するとエライひとも「ありがとうございました」と答える。 これはまちがっているとはいいがたいが、美しい日本語ではない。「ありがとうございました」に対しては、「どういたしまして」 と答えるのが正当な日本語というものだ。

●外国語編

【sustainable】(サステイナブル
 最近よくSDGsという言葉を耳にするようになった。これは Sustainable Development Goals「持続可能な開発目標」の略。 Wikipediaによれば、17の世界的目標、169の達成基準、232の指標からなる持続可能な開発のための国際的な開発目標だとか。
 目標が多すぎて何のことやらよくワカランが、ワカランときは何か下心があると見ていい。「これ以上地球を汚すと利益が上がらないから、 汚さずに金儲けをしよう」といったところだろう。
 Sustainable Development Goals、これを日本語では「エスディージーズ」と略してよむ。
 ところで多くのマスコミがSustainableを「サスティナブル」と発音するのはいかなる理由にや。英語の辞書で発音記号を見ると、 【サステイナブル】とある。【サステイン】の形容詞だからだ。
 幕末まで「ティ」なんて発音はなかったのだから、いいにくいのはわかる。だがいくら日本人が「ティ」の発音に弱いからといって、 こんなに重要な国際的取決めをおろそかにしていると、また「日本ばかりが儲けやがって。東洋の黄色い猿めが」と呼ばれかねない。 「サスティナブル」なんていってはいけない。

 【コンシエルジュ】
 「コンシエルジュ」はもともとフランス語(concierge)で、「アパートの門番や管理人」を意味する。 ゴミ箱をあさっていたのがどういうわけか高級化していって、いまでは高級マンションや高級ホテルの案内人を意味するようになっている。 問題は発音だ。もともとは「コンシエルジュ」だったのに、民草はこれを「コンシェルジュ」と呼ぶようになった。発音しやすいからだ。
 帝国ホテルでは「コンシエルジュ」と呼んでいる。一方最近やたら軒数を増やしている〇〇ホテルでは「コンシェルジュ」と記している。
 まあこれはたいした問題ではない。「大番頭」と日本語で呼べば済むことなのだから。もっと日本語を使おうよ。

 【award】(アウォード)
 さてこんなことを言っていると切りがないのだが、もう一つこれだけは言っておかなければ死ぬに死ねない(笑)。
 これから年末にむかって、映画・演劇・音楽・テレビ番組などでさまざまな賞が発表される。見ていたまえ、外国の賞は関係ないが、 日本の賞は必ず「アワード」といって発表される。
 君たちは中学生のころ英語を習っただろう。そのときwarの発音を「ワー」と習ったか。

 


小  休  止

 2003年6月(54歳)から2008年12月まで「障害中年乱読日記」を67回掲載し、 ついで2009年1月(60歳)から「障害老人乱読日記」を141回連載した。ほぼ200余冊を読んで書評したことになる。 所詮しろうとの「書評もどき」とはいえ、内容や感想などを読んで書くとなると、楽ではない。

 わたしは今年72歳になった。書き始めるときすでに全身麻痺の障害者で、膀胱瘻も造設していた。数年前には大腸癌、人工肛門の手術もした。 こんなところで泣き言を漏らしても恥ずかしいだけだが、寝返り一つ自分では打てないし、なにより1987年受傷年以来34年このかた背中の痛みに 24時間苦しんできた。鎮痛剤をたくさん飲んでも安眠できる日など数えるほどもなかった。

 おそらくこの鎮痛剤や睡眠薬の大量摂取も悪かったのだろう、最近記憶がぼやけるようになった。医師の診断を受けたら「軽度の痴呆症」といわれた。 もう疲れた。しばらくお休みをいただきたい。必ず復活するつもりだ。