2021年9月号 《ずいひつ》
『誹風柳多留』(岩波文庫)に
山出しハ笑ッてやるがしなんなり
という川柳が載っている。解説を加えるまでもないだろう。春風駘蕩たる句ではないが、もともと川柳だもの鋭いに決まっている。
今月はこれをテーマにあれこれ述べていこう。
●日本語編
誰のこととはいわない。うちにはいま1週間で14〜5人ほどの他人が来宅し、それに毎日家内が出勤・在宅する。
「いやならよしゃがれヨシベの子んなれ、ペンペン弾きたきゃ芸者の子んなれ」とか「たえしたもんだよ蛙のしょんべん、
見上げたもんだよ屋根屋のふんどし」とか昔は愉快な悪態をついたもの。どうして今はなくなってしまったのか。
悪態は世間の荒波に備える家庭教育だったのではないかとわたしは思う。すぐキレてナイフを振り回す現代人のひ弱さは、
その家庭教育の欠如によるのではないだろうか。
「おまえの母さんデベソ」といわれたら「おまえの母さん大デベソ」といい返せばよかった。
《悪口が多かったから、いい意味での免疫力があったのです。》なんの本で読んだか忘れたが、同感だ。
しゃれ。鐘突の昼寝=いちごんもない。猿の小便=きにかかる。貧乏人の嫁入り=ふりそでふらん。こういうの大好き。
もっと知りたい。若いころ、製本屋の老職人に搬入を早めてくれるよう交渉したとき、はじめは渋っていたが最後は「わかりました、
嫁へ行った晩だ、やりましょう」といった。首をかしげると、「いわれるまま」だと笑った。いい親爺さんだった。
酒でも飲みながらもっといろいろ教わりたかった。
柳田国男は『不幸なる芸術』に《ラジオも映画もない閑散な世の中では、ことに笑って遊びたい要求が強かったのである。
……ウソは大昔から、人生のためにはなはだ必要で平素これを練習しておかなければならなかった》と指摘しているそうだ。
それで昭和まで寄席が多かったのだろう。いまわれわれはテレビやラジオのお笑い番組のおかげか楽しいウソやほらを吹く話術をみがかなくなり、
言葉の生活が寒々しくなってしまった。わたし自身「楽しいウソやほらを吹く話術」を持たない。うかつに下手な冗談を女房にいうと、
ムッとした顔をされる。女性は男ほどジョークを好まない。
さあそろそろのどかな話からとんがった話に移るよ。テレビやラジオのニュースなんか聞いていると、まあたとえば国会議員や官僚が、
「さきほど先生、かくかくしかじかとおっしゃられましたが……」などという。わたしはそれを聞いていると、ノドをかきむしりたくなる。
手がノドまで届かないから、「この山出しが!」と毒づく。
わたしもうるさいジジイになった。だがこれも若者のため。やはりテレビのニュースショウを聞いていて、話の終わりが気にかかる。
司会者はゲストのエライひとにむかって、「ありがとうございました」という。するとエライひとも「ありがとうございました」と答える。
これはまちがっているとはいいがたいが、美しい日本語ではない。「ありがとうございました」に対しては、「どういたしまして」
と答えるのが正当な日本語というものだ。
●外国語編
【sustainable】(サステイナブル)
【コンシエルジュ】
【award】(アウォード)
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