インターネット文庫 『五秒間ほどの青空――介護する側される側――』増補版 著 者 藤川 景 出版社 (株)三五館(電話03−3226−0035)           書籍初版発行 1997年2月7日   †増補版まえがき    前著『上の空』が入院生活をえがくことを通じて頸髄損傷とはどういうものであるかを説いたのに対し、本書は退院後の在宅生活のむつかしさやそれを克服するための工夫について書いた。1997年の発表だが、その後生活は大きく変わり、改訂すべき点がいくつも出てきた。このかんにおこなった工夫の数々を補足しておきたい。†マークをつけた箇所がそれである。  なおインターネット文庫の売上金はすべて、脊髄の再生をめざす日本せきずい基金に寄付させていただくことにした。ご諒承いただきたい。   2004年1月  藤川 景               *まえがき*  頸髄(けいずい)損傷者は、四肢麻痺(まひ)者ともいわれるが、この言い方は不正確だと思う。なぜなら、四肢とは、両手両足のことだからである。頸髄損傷者が麻痺しているのは手足だけではない。胴体も麻痺している。程度の差こそあれ、肩から下はすべて麻痺しているのだから、全身麻痺者と称してもかまわないと思う。  麻痺とは何か。感じない、動かない、にもかかわらず、皮膚の内部にしびれと痛みだけはあるという状態である。  私は、1987年、38歳の夏に転落事故で首の骨を折り、その瞬間から全身麻痺になった。救急車で日本医科大学附属病院救命救急センター(以下、日医大)にかつぎこまれてから、防衛医科大学校病院(以下、防大)、国立身体障害者リハビリテーションセンター病院(以下、国リハ)、潤和(じゅんわ)病院、そして再び国リハと、いくつかの病院を転々として、約1年後に退院するまでの事柄を書いたのが、前作『上(うわ)の空(そら)――頸髄損傷の体と心――』である。  副題の「体と心」は、いささか強引な日本語である。心身というように、心と体を並べるときは、心を優先するのが、まっとうな日本語というものである。わかっていながらあえてそうした。心はひとりひとりあまりにも多様であり、そんな不確かなことよりも、多くの頸髄損傷者に共通する特有の症状を優先して述べたほうが有益だろうと考えたからである。  退院したのが1988年で、その本を出したのは1993年。退院後の在宅生活についても書くべきだと思ったのだが、現在ただいまのことであるから、なまなましすぎてあまり書く気になれず、最終章で軽く触れるにとどめた。いろいろな意味で「死ととなりあわせ」といっても過言ではない日々である。  頸髄損傷は、本人の体にとって、いわば送受信の伝達路の根幹を断ち切られた真っ暗闇の停電状態である。この異様な状態になんとか体が慣れるには、5年ほどかかると思う。家族がこの状態に慣れるにも、同様の時間がかかる。大混乱するのは、本人よりむしろ家族かもしれない。家族が介護にあたるということは、大混乱と大混乱が衝突するということである。うるわしい話だけではすまない。 「中途障害者は大変でしょうね」と、生まれつきの重度障害者に同情されたことがある。なるほど、たとえば生来目の見えないひとは、目が見えるというのがどういうことであるかわからないのだから、目が見えない悔しさをあじわうことはあっても、目が見えなくなった苦痛をあじわうことはないであろう。  人生の途中で全身麻痺になった者は、たいてい無気力になっていく。それは、健常者であったころの自分とくらべて、いまの自分があまりにも無力であることからくる絶望感が、主な原因である。ひとは「がんばれ、前向きになれ」と言うが、やる気をおこそうにも、何も手がかりがない。  また、なにかをしようと思えば人手をわずらわせざるをえないということも、障害者を無気力にしていくひとつの原因である。気兼ね、遠慮、ものおじは、障害者のかかえるもう一つの障害といえるだろう。  かといって、その内なる障害を克服すればしたで、今度は、自己中心的だの図々しいだのという声が聞こえてくる。  気兼ねを最小限にして、なおかつ何事かをおこなおうとすれば、道具の工夫は必須である。てだてがなければ、すべて雲をつかむような話で終わってしまう。そこで本書では、全身麻痺の私が在宅生活をより快適なものにするためおこなったさまざまな工夫を中心に述べることにした。  ひとくちに頸髄損傷者といっても、その残存能力や症状は各人各様である。心のありかた、家庭環境となればなおさら異なる。それでもなお私的な生活の状態や道具の工夫について書こうと思ったのは、多くの頸髄損傷者を知るに及んで、みんなが困っていることにそれほど大きな差はない、むしろ共通するもののほうが多いという確信を得たからである。  健常者にとっても無縁な内容ではないと思う。ひとはいつ重度障害者になるかわからないし、年老いれば必ずなんらかの障害を負うことになる。目は見えん、耳は聞こえん、足腰たたんというふうに。  全身麻痺という極端な個別性の中に、なにかしら普遍的なものを見いだしたいという志をいだきながら筆を進めた。いや、レーザー光線を走らせた。              五秒間ほどの青空 目次 まえがき T 苛酷な現実 アブチャン    何十人もの障害者が集まる食堂の光景は、なれてしまえばどうということもないが、最初は異様に感じられた。〈キーワード=痙攣、セルシン、起立性低血圧など〉 不健康な骨    退院後も関節の硬縮予防運動は欠かせないのだが、家人の手はとてもそこまで回らない。PTが来てくれることになった。〈尿路感染、体位交換、硬縮予防、肩胛骨など〉 前のめりの日々    もし悪魔というものがいて、そいつが寝返りの自由を保障してくれるなら、私はいつでも取引きに応じる用意がある。〈お立ち台、三角筋、背起こし、円座、痛み対策など〉 肉体という名の独房    頸髄損傷者は肉体という名の独房に終身とじこめられた囚人なのだと思う。こんな体で生きながらえることに意味があるのか。〈ハンディキャブ、安楽死、自己決定権など〉 5秒間の青空    突然はげしい頭痛におそわれ緊急入院。病身の妻ががんばって看護してくれるのだが入院先でもひと騒動。妻はおびえていた。〈バルーン交換、完全看護、トランスファーなど〉 ヒマワリの種を買いに    疲れきった妻は呪詛と自虐をくりかえす。逃げるように寒空のもと外出した私は、ひとりの男の子と出会う。〈夫婦関係、バードウォッチング、外出、身支度、危険など〉 U 意志の実現 選挙権を回復せよ    投票所に行かなければ投票できないと思っていたが、郵便投票という手があることを知る。ところが両上肢の使えない者はダメだという。〈選挙管理委員会、公職選挙法など〉 究極のページめくり    誰に気兼ねすることなく思う存分本を読みたい。さまざまな方法を試した末にたどりついたのはごく単純な方法だった。〈マウススティック、スティック置きなど〉 筆ペンも、パソコンも    『上の空』を読んだ国リハ研究所の部長から手を使わないパソコンを紹介された。いまや必需品。〈音で動く録音機、電動書見台、医療裁判、電子化図書、光キーボードなど〉 まがるストローはしゃらくさいか    まがるストローはそもそも医療用具だった。障害者にとって便利なものは、健常者にとってはもっと便利なので普及した。〈蛇腹、ルーズソックス、鼻毛切りなど〉 インテルサットめざまし    全身麻痺者にとってもっとも恐ろしいのは連絡の遮断。2階で眠りこんでいる子供を起こすにはどうしたらいいか。〈気管切開、意思伝達、シルバーホン、環境制御装置など〉 あとがき   ────────────────────────────────── T 苛酷な現実 ────────────────────────────────── *アブチャン*  入院中、なにをするでもなく、ただベッドに横たわっておしだまっている私を見て、話の接ぎ穂にこまった見舞い客から、一日中寝ていて退屈ではないかと聞かれることが、しばしばあった。そのたびに理解されざる悲しみといらだたしさとが、胸をよぎったものだ。説明するのも大儀だった。  私は朝から晩まで、いや深夜でも、息をするだけで精いっぱいだった。首から肩にかけての筋肉が収縮して痛み、あごは奥歯をかみしめていないことには間断なくガチガチふるえつづけていた。ことに受傷後半年ほどは高熱にさいなまれていたこともあって、ひたすら苦しみに耐えるだけの毎日で、とても退屈しているひまなどなかったのである。  熱がおさまると、いれかわるように今度はしびれと痛みがやってきた。いや、しびれは受傷当初から全身にあったような気もする。ただそれは不快なだけで、特に痛みをともなうようなものではなかった。ほかの苦しみが大きすぎて、しびれまで気が回らなかったのかもしれない。  最初に痛みだしたのは、左腕の上腕二頭筋、力こぶのあたりである。まったく無感覚だった二頭筋が、指で押されると、すこし痛みの混じったしびれと触覚を感じたのである。触覚といっても明確な皮膚感覚ではなく、皮一枚下の内部感覚である。  それと同時に、かすかに力が入れられるようになった。それまでは、「はい、腕をまげて」と言われても、胸から下にはなんの感覚もなく、自分の腕がどこにあるのかさえわからないありさまで、いわば支点も力点も濃霧に没し去って、まったく見えない状態であった。それがかすかにでも力が入れられるようになったのだから、「しびれ痛」は単なる苦痛ではなく、機能回復を予感させる吉兆ともとれないことはなかった。  日医大から防大、国リハを経由して潤和病院に移ったのは、けがをしてから約8カ月たった1988年3月はじめのことだった。ストレッチャーに横たわったままの転院である。4人部屋のベッドに寝かされた私は、転院に付き添ってくれた友人に、窓が灰色に見えるのは、すりガラスだからなのか、それとも空が曇っているからなのかと問うた。私の目は窓を見上げる角度にあり、地表近くは見えなかったのである。にび色は雲の色だった。  窓の外には見わたすかぎり建物ひとつなく、若者の多い国リハとちがって、この病院の入院患者は脳卒中で片麻痺(かたまひ)になった老人が多いようだった(入院患者とはいっても、病気で入院治療しているひとではなく、ほとんどが行き場のない障害者である)。歩行も言葉もままならぬ患者とは対照的に、威勢のいい付添いさんが大勢いるのも、見なれない光景だった。私には、青森県からの出稼ぎだというおばちゃんが付いた。  妻と友人が帰ると、急にあたりがシンとした。  その夜は一睡もできなかった。ただでさえ枕が変わると眠れないたちなのに、環境の変化が大きすぎたのだろう。明け方、ふるえが来た。痙攣(けいれん)の大波は国リハにいたころ経験ずみだったので、おどろきはしなかったが、入院初日から騒ぎを起こすのはまずいと思って、なんとかふるえを押さえようとした。押さえようとして押さえられるものではない。必死にこらえようとした。だが、くいしばった奥歯のあいだからうめき声が漏れだしたころには、もう首がすっかりのけぞってしまって、あごをとじることができず、声を喉の奥で止めようとしたものの、所詮息を止めていることなどできるものでもなく、かえって騒々しいうなり声を出すことになってしまった。  もはやこれまでと観念し、付添いを起こして看護婦を呼んでもらった。痙攣止めの注射を2種類打ってくれたが、症状はいっこうにおさまらない。国リハで聞きおぼえた「セルシン」の名を口にする私に向かって看護婦は、いまの注射で効くはずだと言う。効かないから言っているのだ。  医師が来た。  「痙攣を止める薬には3種類あって、ひとつは筋肉そのものに作用するもの、ひとつは筋肉と神経の接合部に作用するもの、そしてもうひとつは脳に作用するもので、セルシンはそれに当たるんだけど、しかし効くかなあ」  目も満足にあけられない状態の中で聞いた声である。医師の言葉を正しく再現し得ているかどうか疑わしいが、とにかく私はそれどころではなく、国リハで同じ症状が出たときにセルシンを打ったら効いたのだとふるえながら言うと、やっと打ってくれた。じきに楽になった。頸髄損傷者をあつかいなれた医師など、世の中にそうたくさんはいないのである。  新前(しんまえ)患者が変な声を出すは、看護婦や医師が入れかわり立ちかわりやって来るは、天井の蛍光灯はつくはで、しらじら明けに私の症状がおさまってきたころには、部屋中の者が目をさましてしまった。  はたせるかな翌朝の私の評判は、さんざんなものだった。おばちゃんはしゃくれたあごを露骨にゆがめて、  「ああ、いやだいやだ。はやく田舎に帰りたい。ここでひと月しんぼうしたら、とうちゃんといっしょにトラックで帰るんだ。弘前の桜は日本一だよう」 などとほかの付添いに大声で話しかけるし、私がうとうとしていると、同室の患者が、  「お、一晩中さわいだから、そろそろ眠たくなったかな」  皮肉をとばす始末である。  その後、精神的緊張から痙攣が起きたというおぼえがないところをみると、あの日の騒ぎには、寒さが影響していたのかもしれない。寒さは、痙攣の一大原因である。だれでも寒ければふるえるものだが、頸損のばあいはそれが極端なのである。  この病院のスケジュールは、当時の私にはきびしいものだった。  それまでの病院はどこでも、食事をベッドまで運んできてくれた。ところが、ここでは3食とも食堂なのである。ベッド上で上半身を起こして食べることさえきつかったのに、リクライニング機能のない車椅子で食事するのは、当初そうとう苦しいことだった。  ベッドから車椅子にうつって体を立てたとたんに、起立性(きりつせい)低血圧と肺活量不足で息苦しくなる。食堂に運ばれて、決まった席に着き、配膳車が来るのを待っているうちに、まわりの風景がひび割れてきて、暗くなる。そんなときは何度も頭を前にいきおいよく振りおろす。その動きを利用して深呼吸し、なんとか脳のほうへ酸素を送り込もうというわけだ。それでもなお風景が暗くなりつづけるばあいは失神の恐れがあるから、おばちゃんに両足をかかえて持ち上げてもらう。衆人環視のなかで、体裁のいいものではない。  40人ほどの障害者と20人ほどの付添いや看護婦の集まる食堂の光景は、なれてしまえばどうということもないが、最初は異様に感じられた。自分で食べられる者は、食べさせてもらわずに自分で食べることというのが病院の方針で、片手でも使えるひとは、席に着くと胸に白いプラスチックのエプロンをかけられる。エプロンには、こぼしたものが服や床に落ちないように折返しがついている。片手が使えるといっても、自由自在というわけではなく、また片麻痺のひとは口も半分麻痺しているので、せっかく食いものを口もとまで持っていっても、こぼすことが多いからである。  しかしこんな妙なエプロンをかけられて、恥ずかしくないのだろうか。患者たちは、文句を言わないのだろうか。食堂の光景を異様に感じさせる最大の原因は、このエプロンにある。それはたしかに衣服や床の清潔のため必要なものであることは、理解できるのだが……。若き合理性の前に、年老いた尊厳がしかたなく無念の膝を屈している図といったところだろうか。  ひとは体の自由をうしなうと同時に、じつにさまざまなものをあきらめざるをえない。いや、あきらめたものの数より、残された自由の数をかぞえたほうが早いだろう。「自分のことは自分でする」ようにしつけられて育っている私たちにとって、なにごとによらず個人的な用事を頼むのは、ためらわれることである。頼まずに我慢してすむものなら、なるべく我慢してしまおうと思うようになる。  排泄を他人の手にゆだねることの苦痛は、多くのひとが告白するものであり、わかりやすい例であろう。たとえばこんなことがあった。脳卒中の中年男性が、病室のベッドで若い看護婦から排尿介助をうけていた。尿が出にくいときは、ペニスをかるく刺激するというセオリーを実践していた看護婦が、「やだ、もう!」と恥ずかしそうな声を上げた。ペニスが膨張したのである。この話は、またたくまに退屈している患者や付添いのあいだに広まった。口のきけないひとだったが、どれほど屈辱的な思いをしたか、心中は容易に推し量られる。  患者の食事時間が終わると、エプロンは折返しを広げて洗われる。食い物の落ちる部分だけが黄ばんだ白いエプロンが、食堂の窓際で列をなして揺れるのである。  朝食後、午前中のPT(理学療法)訓練までには2時間ほどの余裕があった。私としては朝食が終わって歯みがきがすんだら、すぐにでも横たわりたかったが、弘前のおばちゃんは私を部屋に連れ帰ると、すぐに食堂へとって返した。患者のつぎは、付添いの食事時間なのである。  私をベッドに戻すのがめんどうなのは、よくわかる。ひとりではできない。まず車椅子をベッドに横付けしたら、私の腹にイノチヅナと称する帯を何重にもまわし、おばちゃんがベッドと車椅子の両方にまたがってイノチヅナを両手でつかみ、もうひとりの介助者が膝から下をかかえて、「いっせーの、せ」で移すのである。たいていは看護婦を呼びにいくのだが、あいにくこの時間帯は看護婦も夜勤と日勤のひきつぎで忙しい。おばちゃんも声をかけにくいのだろう。  その日も私は、「テレビでも見てるといいよ」ということで、車椅子を部屋の百円テレビのほうへ向けられたまま放置された。おもしろくもないテレビを見ているうちに、また風景がひび割れてきた。力をふりしぼって、「ハッ、ハッ」と頭を振りおろし、なんとか脳貧血に抵抗しようとしたが、形勢は悪くなる一方。誰かに足を上げてもらいたい。だが、部屋には足腰の立たぬ患者しかいない。しかたなく、ナースコールの押せる角田(かくた)さんにたのんで押してもらうと、  「どうしましたあ」  天井から声が聞こえた。ナースコールのボタンはベッドごとに付いているが、送受信の装置は各部屋1個、天井にしか付いていないのである。かえってそれが幸いした。  「あ、すいません、ちょっと気分が……」  私はのけぞるようにして、天井に助けをもとめた。  看護婦はなかなか来ない。実際にはすばやく来ているのに、遅く感じられるだけなのかもしれない。  足を上げてもらうと、拍動とともに頭に血がもどってきて、しだいに風景がよみがえってきた(ひとの観察によれば、このとき私の白くなった唇に赤みがさしてくるということだ)。たとえようもないほどの息苦しさがうすれていくにつれて、意識がはっきりしてくる。意識がはっきりしてくると、いままで自分が別の意識世界に片足をつっこんでいたのだということがわかってくる。つっこんでいる最中には、それがわからない。  「あ、もう大丈夫です。すいません」  ほんとうはもうしばらく上げていてほしいのだ。十分に回復しないうちに足をおろしてしまうと、またじきに脳貧血を起こしかねない。が、このスタイルが気になる。椅子にふんぞりかえって、女性に両足をささげもたせるというこのスタイルが、えらく尊大なものに感じられてならない。生まれてこのかた、そんな偉そうな態度をとったことがない。申し訳ないという思いが、心の中に満ちてくる。そこへもってきて、忙しいのにもうと言いたげな看護婦の顔である。悪いような気がして、ついつい「もう大丈夫」と言ってしまうのである。  「付添いさんはどうしたの?」  「えっ? ……食事に」  わかってるくせに。ぶっさいくなのに限って、こういうことを言う。  テレビを消して、車椅子を角田さんのほうへ向けてもらった。さきほどから話しかけられていたのに、背中を向けていたのでしゃべりにくかったのだ。  角田さんは、2度の脳出血で片麻痺になった。右手右足がきかない。長年「生活保護」でくらしているようだ。頭は丸刈りにしている。顔面も右半分麻痺して、舌がよくまわらず、右目はあさってのほうを見ているし、着ているものも不潔ではないがくすんでいる。通りすがりのひとなら、おつむの弱い浮浪者と見まちがえるかもしれないが、じつはなかなかの論客で、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利があるんだよ」などと憲法の一節を引いて、生活保護が当然の権利であることをほかの障害者に説いて聞かせたりする。  陽気なひとで、だれかれとなくまわらぬ舌で話しかけ、おどけたことを言うから、院内の人気者である。伸びかけていた髪を、ある日付添いに頭が光るほど短く刈ってもらった。  「あらあ、角ちゃん、すてき、男っぷりがあがったじゃない」 などと、看護婦たちの評判は上々である。わざわざ主任までほめにやって来る。病院は、患者が髪の毛を短くすることをすすめるのである。入院時には髪の長かった女性が、いつのまにかチョンチョンの短髪になっていたりする。管理に手間ひまのかかる長髪はゼイタクということなのだろう。  角田さんが坊主頭にしたのは、無論それが好きだからなのだろうが、動機はほかにもあるような気がする。  競艇帰りに電車の中で倒れたときのことを、流れ出るよだれをタオルでふきふき話してくれた。  「都立駒込病院に友達がいてよう、そいつが助けてくれたんだよ。電話したらすぐ来てくれて、病院に入れてくれたんだ」  この友人がよほど自慢らしく、同じ話を何度か聞いた。  「リハビリだかなんだか知らねえけどよ、飯食うのにどうしてスプーンつかわせねんだろな、ここは。箸だとボロボロこぼれて、もったいねえよ。どうせ家に帰ったらスプーンで食うんだからよう。全部口ん中にはいったとしても、唇のはじからこぼれちゃうんだよ。箸でつまんで半分こぼれて、口の中から半分こぼれたら、アブチャンに食わせてるようなもんだ」  アブチャンは、よだれかけの幼児語である。  まだ家に帰れると思っているのかと、すこし意外な気がした。いつだったか、福祉事務所のケースワーカーが、角田さんのアパートから段ボール箱いくつかに衣服を詰めて持ってきたことがあった。アパートを引き払うような様子だったのである。  家族のことをたずねられると決まって、身寄りはない、天涯孤独だと言いはなっていた角田さんに、ある日めずらしく女性の見舞い客があった。部屋の入り口に遠慮がちに立っている女性の顔を見た角田さんは、車椅子に乗っていそいそと部屋から出ていった。  もどってきた角田さんは、気づくと、よだれのついでに涙と鼻水もタオルでふいている。聞けば、妹さんが来たのだという。  生活保護を受けるためには、自分のめんどうを見てくれる係累はひとりもおりませんという証明書だか申告書だかが必要なのだそうだ。面会ひとつでも、気兼ねするのだろう。               *不健康な骨*  妻は、私のけがをきっかけに、一時ずいぶん元気になった。けがの功名とはこのことかと私はよろこんだものだ。もし私の受傷が妻の快復の条件であったならば――だれがそんな条件を出すのかは別として――それでもいいと思った。  私が入院していた1年のあいだに妻は、子供の転校2回、マンションの売却、アパートの賃借、引越し2回、役所の手続き、障害者用住宅の新築などとそれにまつわる仕事をこなしながら、毎日のように私のもとへ通いつづけた。マンションは神奈川、病院は埼玉である。  「そんなにしょっちゅう来てくれなくてもいいよ、たいへんだから。家で休んでろよ」  「来ないと落ちつかないの」  元気になったのではなく興奮しているのだと気づいた。もともと積極的になんでも手際よくやってのけるひとで、かつて私は「スーパーかあちゃん」と呼んでいたほどだから、元気をとりもどした妻がそれくらいの仕事量をこなすことは、不思議でもなんでもなかったのである。だが、以前にくらべて、いっそう感情の起伏がはげしくなっていた。  私のけがで、みずからをふるいたたせたのは確かだ。夫が全身麻痺になってしまい、子供はまだ幼い。自分がやらなければ、がんばらなければと発憤したのである。しかし一時的な発憤でかたづくような事態ではない。頻繁な発憤は、じきに持続的な興奮状態にむすびついていった。  興奮を抑制する薬が処方された。その薬で枕から頭があがらなくなると、今度は「元気の出る薬」が処方される。そんなことをくりかえしているうちに、ますますセルフ・コントロールがむつかしくなっていった。  私の退院は妻の神経を休めることにはならないだろうと思い、  「おれはこのさきも病院ぐらしでいいんだよ」 と幾度か提案したが、妻は絶対に耳を貸そうとしなかった。家族はいつもいっしょに行動するべきだということと、子供はいずれ巣立つものだから最終的な単位は夫婦2人であるというのが、妻の昔からの持論だった。一日でも早く一家4人がひとつ屋根の下で暮らせる日が来ることを、妻は切望していた。  日曜日には、娘と息子をつれてきた。そんなとき、私はつとめて車椅子に乗り移って部屋から出るようにした。見舞い客のほとんどない患者も多く、そういうひとにとっては、ほかの家族のたのしげな談笑は、いたたまれないことなのである。ちなみに、付添いさんによっては、あまり頻繁に家族が来ると、それを自分に対する侮辱とうけとるひともいる。  PT室の前に長椅子が置いてあった。PT室は建物のはじにあり、訓練時間以外はほとんどひとが来ない。3人が椅子に腰かけ、私はその前に車椅子をとめた。  「お父さんに聞いてもらうんでしょう?」 と妻は小学4年生の息子をうながした。息子はすこしはにかみながら国語の教科書をとりだして、音読した。教科書の音読を親に聞かせるという宿題である。床にとどかぬ足をブラブラさせながら、なめらかに棒読みしていった。  私の受傷にともなうもろもろの事情で、横浜から都内の小学校に転校してほぼ1年になろうとしていた。2人ともおなじ学校なのが、安心といえば安心である。妻の実家から通学している。私の実家に新居が完成したら、また新しい学校に移らなければならない。  「はいよく読めましたあ、パチパチパチ」  口で拍手をした。  子供たちは飲みものを買いに階下へおりていった。どんなに辺鄙(へんぴ)な病院にも、コカ・コーラとタバコの自動販売機だけは置いてある。  「おまえ、ほんとうに大丈夫かい? 毎日毎日、おれの食事介助だの膀胱洗浄だの排便だの入浴だの……それにトランスファーとか、夜中の体位交換もあるしさ」  「まかせといてよ。むかし、看護婦になろうと思ったこともあるんだから」  妻は胸をたたいた。  まあなんとかなるだろうと思うしかなかった。  受傷から約1年後、1988年の8月、国リハに再入院、膀胱瘻(ぼうこうろう)造設手術をして、病院生活を終えた。頸髄の損傷により、私は自力排泄ができなくなった。正常な便意・尿意がない。受傷後ずっとペニスから膀胱にバルーン・カテーテルを挿入して排尿していたのを、退院後の生活を考え、腹に穴をあけ、そこから膀胱にバルーン・カテーテルを留置する手術をした。尿路変更の一種である。  1年ぶりに家族4人の生活が再開された。病院生活から家庭生活にもどったとはいえ、私の毎日は、入院中とさほど変わらなかった。病人とちがって、障害者のばあいは体が良くなったから退院するというわけではない。全身麻痺も痛みもしびれも、そして起立性低血圧も、あいかわらずである。  私の退院によって、妻の負担は大幅にふえた。それまで付添い婦と看護婦のやっていた仕事を、ひとりで引き受けることになった。主婦と母親の役割もある。  退院後の生活の様子については、前著でそのあらましを述べた。ここではくりかえしたくない。  今から思えば、私を退院させた時点で、妻のエネルギーはすでに底をついていたのである。数年前から心の揺れとざわめきに悩み苦しみ、ただでさえ長年思い描いていた人生設計がくずれかけていたところへ、38歳でいきなり夫が重度障害者になった。妻にとってはもはや15の春から見なれてきた私ではなくなったのである。  布団をかけて横たわっている姿は、むかしとなにも変わらない。車椅子にすわっていたら、なおさらどこが悪いのかわからない。しゃべりもすれば、笑いもする。しかし、それまでである。それ以上のことは何一つできない。  どこの家庭においても、一家の主が倒れたとき、誰の苦しみが大きいといって、やはり配偶者の悲嘆を上回るものはないであろう。  妻の主治医は、「赤ん坊が一人ふえたと思ったらどうですか」とアドバイスしたようだが、ききめはなかった。このなぐさめかたには無理がある。なるほど受傷直後の頸髄損傷者は、何もできずに与えられるばかりの存在であるという点において、赤ん坊に似てはいる。だが、この赤ん坊の笑顔は、ほんものの赤ん坊の笑顔ほど保護衝動を解発(かいはつ)しない。ほんものほどかわいくないのである。野太い声で「タバコをくれ」などと言う。成長のたのしみもない。  以前の夫となにも変わりはないと思おうとしても、いまの夫は瓶詰めのふたをあけることもできなければ、洋服箪笥の上の衣装箱をおろすこともできない。たよりにならないのである。  悲嘆に暮れるばかりではなく、なんとか前向きの姿勢になろうと妻はもがき苦しんだ。しかし、荷が重すぎたようだ。しだいに臥(ふ)せりがちになっていった。  障害者を施設から自宅にもどそうという主張は、一方では人権擁護の立場から、また一方では財政負担の増大をおさえる立場から、すでに唱えられはじめてはいた。だが、重度障害者を受け入れる体制は、世の中にまだできていなかった。公的な訪問看護制度もなければ、いわゆる福祉公社的な機関もなく、ましてや24時間訪問介護制度など夢のまた夢で、だれもそんなものが実現するだろうとは考えていなかったころのことである。すべて各家庭で解決すべきものとされていた。介護者が倒れてしまったら、重度障害者の在宅生活はたちまち危機に瀕するというのに。  病院は、退院後の患者の健康を気づかってくれればまだましなほうで、介護者のことなどつゆほども眼中にない。  退院指導の要点は、まず尿路感染に気をつけること、つぎに褥瘡(じょくそう=床ずれ)をつくらぬこと、そして各関節の硬縮をふせぐこと、その3点であった。妻は毎日膀胱洗浄をした。体位交換は、どうすれば褥瘡をふせげるかだけでなく、どうすれば私がすこしでも快適にすごせるかまでを考えて、姿勢やクッションを工夫した。しかし硬縮予防運動にまでは手がまわらなかった。介助者が患者の身体の各部を動かす他動運動のやりかたは、国リハのPT訓練室であらかじめ教わって、熱心にメモを取っていたが、これは完全に脱力した私の足を持ちあげて動かしたりするもので、そうとうな腕力と体力を要する仕事である。片手間にできることではない。  私は一日の大半をベッドの上ですごした。あおむけに寝ていると、麻痺した背中が、次第にベッドに溶けこんでいった。ベッドと背中の境がわからなくなり、自分がベッドの一部になったような気がした。ベッドから顔だけが浮き出ているというイメージである。  手の指は、すべて第2関節で内側にまがってしまった。もとはまっすぐだったものを、入院中に、「麻痺した指はまがっていたほうが便利だから」という理由で、わざわざタオルをにぎらされて、まげたのである。リョウシイというのだそうだが、良指位あるいは良肢位とでも書くのだろうか。これのどこが良なのか、さっぱりわからない。指の長さが足りないために、環境制御装置(残存能力で身の回りの電気製品を操作するリモコン装置)のタッチ・センサーにあと1センチというところで届かず、呼び鈴が押せなくてつらい思いをしたことや、指がまっすぐであればどれほど電動車椅子の運転が楽か知れやしないと思ったことが、かぞえきれないほどある。  ひとに伸ばしてもらえば、いまはなんとか伸びるが、このままほうっておけば、そのうち完全に硬縮してしまうだろうと、私は心ひそかにおそれていた。それを私のとなりのソファーベッドにグッタリと臥せっている妻に言うわけにもいかない。訓練をしなければとあせっているのは、妻にしても同じなのである。  ソファーベッドがソファーの役割を果たしたのは、購入してからほんの束の間で、布団がのけられることはなくなっていった。  指がまがったところで死ぬわけでもない。命に関わる問題以外は不要不急とみなすことにした。  いちおう保健所に当たってみたが、なかなか訪問してくれるPT(理学療法士)などいるものではない。実現困難という回答を受け取っても、別段おどろきはしなかった。だめだろうなと思いつつ申し込んだのである。  当時、わが地区を担当する福祉事務所は、頸髄損傷の世帯主と病気の配偶者、それに小学生2人というケースを重大視し、区内の福祉関係機関すべてに集合をかけて、わが家の問題を検討したようだ。そこにつどった有償ボランティア団体のひとつから、PTが週2回訪問してくれることになった。退院して2年後のことである。  PTの吉野先生は、長年勤務した病院を定年でやめたかただと前もって聞いていたが、さしだされた名刺の肩書きには指圧道師範とあった。なんと幸運なことか。だいたい病院のPTは、痛いことをするのが専門で、気持ちのいいことはやってくれないものだが、指圧師でもある先生は、足の裏から首筋まで丹念に時間をかけてほぐしてくれる。長時間の治療も、訪問ならではの特権だろう。  ことに側臥位(そくがい)の姿勢をとって、上になったほうの肩胛骨(けんこうこつ)を治療するとき、これが得も言われぬほど気持ちいい。単に肩がいやされるだけでなく、心までホッといやされるような気がすると言ったら、経験のないひとには大袈裟に聞こえるだろう。  「肩胛骨が、背中にめりこんだようになってますね。特に右側が。それに両方とも背骨側に寄っている。なるべく間をひろげるようにしたほうがいいですよ。腕が上にあがらないのは、肩胛骨が動かないからなんです」  肩胛骨が、背中にめりこんでる!? なんとおそろしいことになっていたのだろう。初耳だった。  受傷後、ハロー・ベストという首の骨を牽引するための器具を装着していた2カ月間で、肩がすっかり硬縮してしまい、万歳の姿勢がとれなくなっていた。それをむりやり動かされて、肩の周辺に化骨(かこつ)ができたことがある。その経験から、関節の硬縮とは、骨や軟骨にカルシウムかなにかが沈着してかたまってしまうことなのだろうと思いこんでいたが、じつはそうではなく、周辺の腱や筋肉がちぢんでしまうことなのであった。  ある日、いつものように治療が終わって、あおむけになり、  「ありがとうございました。いやあ、治療していただくと、肩胛骨がよみがえりますよ。肩胛骨の存在がわかるというか……」  先生に礼をのべていると、それまでとなりのベッドで横になっていた妻が起きあがって、ふいに、  「どうもすいませんね!」 と言った。先生に対する感謝の言葉にしては、声に険がある。つぎにつづいた一言で、それは私にむけられたものであることがわかった。  「あたしがなにもしないって言いたいんでしょ」  退院以来、家中ヒリヒリするような日々をかさねるうちに、妻がなにに傷つくかおおかたのところは見当がつくようになったつもりでいた。そういう話題を口にしないことはもちろん、そちらに結びつきそうな話題も避けるようにしていた。それでもなお思いがけない激ミにでくわすことがしばしばあり、そのたびに私は心のタブー帳に1項目をつけくわえていった。    私が退院したとき、たしか娘は小学6年生だった。入院中、1輪車に乗れるようになったと聞いていたので、退院したらぜひ見てみたいと思っていたが、はずかしいのかなかなかやろうとせず、その後ついに見る機会はなかった。  息子は、未整理の引っ越し荷物のなかから私のシュノーケルをみつけだし、風呂にはいるたび浴槽にもぐってあそんでいた。風呂からあがると、すっぱだかのまま私とテレビのあいだにたちふさがって、「ちょっとお、パンツぐらいはきなさいよね」という娘の声を気にもせずテレビに見入っていた。  息子の肩胛骨は、じつに美しかった。やせっぽちながらも、しっかり張った両肩の下に、肩胛骨がくっきりと浮き出ていた。左右の肩胛骨のあいだは、十分に離れていた。  おりしもテレビでは、「女だらけの水泳大会」を放送していた。昔からある番組だが、以前はたしか「スター水泳大会」だったか「水上大運動会」だったか、とにかく男性も出ていたのが、結局、主な視聴者は男性だという調査結果が出たのだろう、進行役のお笑い芸人をのぞいて、出演者はすべて女性である。水中騎馬戦で無名タレントの胸があらわになったり、小さい水着が足のつけねにくいこんだりするさまを、水中カメラがなめるように追うというのが、番組最大の呼び物なのである。  「最新水着ファッションショー」というコーナーもあって、スタイルのいい子がつぎからつぎへとあられもない格好でモデル歩きするのを見ながら、「これで水着といえるのかね、ひもじゃないの。親の顔が見たいよまったく」などとぶつくさ言いながらビールを飲むという、テレビ局のねらいどおりの反応を、かつては私もしていたものだ。  けがをしてからは、この番組の見方がすこし変わった。ハイヒールのキャンペーンギャルが、カメラに向かって歩いてくる。カメラマンの関心は、胸部と足のつけねに集中している。女の子がターンすると、画面は、くるぶしから上に向かってパンしていくのだが、どうしても足のつけね近辺に長くとどまる傾向があって、せっかく背中をうつしても、1秒ともたない。「お、いい肩胛骨してるな」と思った瞬間に、画面はもうつぎの女の子にきりかわっている。肩胛骨もうつしてほしい。私は肩胛骨の魅力にめざめたのである。  肩胛骨は、乳房とおなじくらい美しい。ただ、ホネのあるやつだから、少々とっつきにくいところはある。  国リハで相部屋だった友多さんが、たまたまおなじ区内に住んでいる。訪問PTの情報を伝えておこうと思って電話をした。友多家も子供2人の4人家族である。暮らしぶりは似たり寄ったりだろう。  「どうもおかしいと思ったら、肩胛骨が背中にめりこんでるんだってさ」  電話口に出た細君にそう言うと、  「じゃあ、ケンコウコツじゃなくて、フケンコウコツですね」 と言われた。  「うまい!」  おもわず笑ってしまった。深刻な話を軽くいなすところがいい。              *前のめりの日々*  競走馬は、足の骨を折って回復不能と診断されるやいなや、薬殺されてしまう。競馬ファンならずとも周知の事実だが、理由を知らない者にとってはむごい仕打ちのようにも見える。足1本折ったぐらいで、役立たずになったからといって殺すのかと。  だが実情はすこし異なるようだ。なおる程度の骨折なら、しばらくしてまた競馬に復帰するし、競馬ほどの激務に耐えられないものは、乗馬用にまわされるそうだ。  問題は、ポッキリ折って回復不能なものである。ふだんは眠るときですら立ったままのウマも、そうなってしまっては横にならざるをえない。寝そべると、ことさらにうすいサラブレッドの皮膚は、またたくまに破れてしまう。褥瘡(じょくそう)である。患部から菌がはいって、敗血症になり、おそかれはやかれ死に至る。それで、馬の苦痛を減じるために、麻酔薬をつかって安楽死させるのだという。  競馬ファンの、「かわいそうだから助けてあげて」という助命嘆願が功を奏し、手術がほどこされたとしても、500キロからの体重はほかの足をもこわしてしまい、身動きができなくなる。運動不足もまた、ウマにとっては命取りなのだそうだ。  そこへいくとライオンはうらやましい。一日中寝そべっているにもかかわらず、運動不足にもならなければ、褥瘡にもならない。それだけでなく、いつもごろごろ寝てばかりいるのに、いざとなるとスックと立っていきなり走りだせるというのが、これがまたうらやましい。私など、急に上半身を起こされたら、脳貧血で失神しかねない。  心臓にとっていちばん楽なのは、体が横たわっている状態である。立っていると、体のすみずみまで血液を送り込むのがたいへんらしい。とくに心臓より上の脳に血液を運ぶことが、難事業のようだ。寝てばかりいると、心臓はいまのはたらきでいいものだと思いこみ、力が落ちてしまうのである。  寝たきり人間が起立性低血圧を克服するには、なるべく長い時間、体を立てているよう心がけるしかない。訓練は、ベッド上で上半身を起こすことから始め、ついで車椅子にのることによって足を下にさげ、最終的には「お立ち台」にあがるというのが、リハビリ病院のとる手順である。  お立ち台は、過激なものだ。入院中、幾度かこれにのったことがある。児童遊園地のシーソーのような形で、人の背丈ほどの長さ。水平にしたシーソーの上に抱えられてトランスファーし、体が落ちないようにベルトで固定する。スイッチをいれるとシーソーの頭部があがり、脚部がさがる仕組みになっている。  「苦しくなったら声をかけてください」  担当のPTは、そう言いのこしてほかの患者のところへ行ってしまう。患者数にくらべ、PTの数が少ないから、1人の患者にかかりきりになっている暇はない(PT訓練の保険点数は、時間の長短に関わりなく1回いくらできまっているそうだ。関係ないけど)。  15度あげた程度で、はやくもすこし息苦しくなってくる。30度にかたむけると、頭から血の気が引いていく。45度あげた日には、目の前の風景がひび割れだらけになって、もはや失神寸前である。PTに呼びかけても、室内はざわつき、こちらの声も小さいときているから、聞こえやしない。   脳貧血になりやすいことが分かっている患者には、体を起こす前に足首から太股にかけてゲートルのように包帯を巻いておく。これはかなり効果があった。いままでならとてもあげられない角度まであげることができた。人間の体は、血の袋のようなものなのだろうか。  ベッドの背起こしをあげるのは、はた目で見るよりずっと苦しいことだ。ひとそれぞれ置かれた条件が異なるから、念のため現在の私のベッドについて記しておくと、電動ベッドで、付属のマットの上にエアマットがのっており、尻のあたりに平らな紙おむつ、背中のあたりに大きいバスタオルが敷いてある。ベッドは、背起こしのみ可能。膝はあがらない。  上半身を起こしていくにしたがって、ただでさえ痛む背中が、ますます痛くなっていく。腹筋がきけば話はまた別だろうが、胸から下の筋力すべてを失っている私にとって、ベッドを起こすということは、うしろから背中を押すというに等しい動きなのである。起こせば起こすほど圧迫が強くなる。足首を直角にたもつため、ベッドの足板(というのだろうか)と足の裏とのあいだにクッションや座布団を詰めてある。だから頭が上方にスライドしていかないかぎり、体を起こせば起こすほど、背中がひきつれるのである。  さらに無理をしてあげると、逃げ場のなくなった圧力は、カクンと膝をもちあげて逃げ、その刺激で反射的な痙攣(けいれん)が起きて体がバッタンバッタン波をうち、ズルッと尻がさがる。これがまた困るんだ。ベッドをおろしてみると、体が下方に移動してしまっていて、頭は枕から半分ずり落ちている。いごこちがわるいといったらない。一度さがってしまった体は、自力ではもちろん他力でも容易にはあがらない。  ベッド上にいるときのいちばんの問題は、痛みである。背中が痛い。地獄のように痛い(もし悪魔というものがいて、そいつが寝返りの自由を保障してくれるなら、私はいつでも取引きに応じる用意がある)。  触覚が残っているのは、肩胛骨のあたりまでだから、そこをすぎてしまえば痛いということもない。いちばん重みの加わっているのは尻のはずだが、尻にはなんの痛痒もない。ただし、痛みがないというのは危険なことでもあり、寝たきりになってまず褥瘡ができるのは、尻の仙骨部なのである。  私のようなC5クラスは、三角筋がわずかにきくので、あくびをすると腕が体側から離れてしまう。もっとも、決して頭上に手をあげて、「ウーン」と伸びをする快感にはとどかない。腕はせいぜい肩の位置まで、すなわち水平にあがるにすぎない。C4のひとは、三角筋も動かせないようだから、C5はそれよりましかというと、必ずしもそうとは言えない。あくびをしたあと、左右に広がってしまった肘を自力で元にもどせないからである。ベッドの外へたれさがってしまった手の重みが、腕のつけねや上腕二頭筋にかかってくる。  あくびが出そうなとき腕が動かないように我慢していると、あるいは布団の重みで腕が動かせないばあいなど、負担が肩に集中して、肩の筋肉がつることもある。つったとしても手でもむことができない。「ウーククク」とうなりながら、あくびの涙と痛みの涙をながすのみである。  ベッドに寝ていたいなんて、これっぽっちも思わない。横になっていたのでは、なにかと不自由なのである。テレビも見にくいし、食事もしにくい。パソコンもむつかしければ、読書はもっとむつかしい。第一、頭が枕にくっついているのがうっとうしい。頭にかいた汗は、かゆみのもとだ。頭はいつも空冷式にひやしておきたい。でないと、脳味噌がぬくくなってしまう。  起立性低血圧克服のためでなくても、ベッドになんかいたくはない。寝ていること自体がいらだたしい。いまいましいのである。  電動車椅子に乗ると、精神的には楽になる。ひとに押してもらう介助用車椅子は、自分の思いどおりのほうに向けないから、つまらない。退院後まもないころは、外出するときは介助用車椅子ときめていた。妻が押していくのである。家族で近所のコンビニへ行ったおり、店内で、「ちょっと待っててね」と、通行のじゃまにならないところに置いておかれた。わずか4、5分のことだったが、ポテトチップスの山ばかりを見つづけるのは、じつにうんざりすることだった。  しかしだ。車椅子に乗ればたしかに行動範囲はひろがるものの、息が苦しくなる。失神その他の危険が増すうえに、背中と腕の痛みはあいかわらずなのである。  なんとか痛みを軽減する方法を考え出さねばならない。  まずベッドである。  私のつかっているエアマットには、失禁予防シーツが付いていた。自転車の雨よけにつかうような頑丈な材質で、エアマット全体をおおうものである。せっかくの除圧機能をこれでは減殺(げんさい)してしまうのではないか。いくらひどい失禁をしても、まさか足や背中までよごれることはあるまい。そう考えた私は、この失禁予防シーツをとりのけた。そのかわり、腰のあたりに通気性のあるビニール様のふろしきを敷いた。無論その上にふつうの縦シーツと横シーツをかけるのである。これで肩胛骨の当たりかたがすこしやわらかくなった。  つぎに車椅子。  私の車椅子は、リクライニングできるように背もたれが頭の高さまである。この型式をハイバックとよぶなら、ふつうの車椅子はロウバックといっていいのだろうか。このロウバックがうらやましくてならない。ロウバックなら、背中が当たって痛むということはないはずだ。  背もたれが上半分とりはずせる構造になっている点に目をつけ、ためしにはずしてみた。そのとたん上半身が、うしろへひっくりかえった。そうなるはずだと思ってはいた。頸髄を損傷すると、腹筋も背筋もきかなくなると本には書いてある。しかし現実には、ロウバックの車椅子をつかっている頸損も多いのである。C5、C6といっても、その髄節で中枢神経が完全に切れるとは限らず、腹筋などを支配する神経が生きのこるためらしい。  ちなみに、「症状固定は1年半」といって、体の機能回復は事故後1年半ほどで終わるというのが医療上の常識なのだが、数年後に回復する筋肉もなかにはある。神経を圧迫していたなにかがなくなって神経のはたらきが回復したり、べつの筋肉が擬似的な動きをはじめるというようなことがあるらしく、まことに人体は玄妙なものである。はやばやとあきらめてはいけないということだ。  しかし、私のばあいはそんなふうだった。背もたれの低い車椅子はつかえないものと覚悟をきめた。そこで、背もたれの肩胛骨に当たる部分をくりぬいてみてはどうかと考えた。車椅子屋にたのんで、窓をあけてもらった。背もたれをおおっているムートンも、おなじ場所をくりぬいた。  やや楽になった。突き刺すような痛みはなくなった。だがやはり背中の上部に対する圧痛はのこった。  前のめりの発見、これが私の生活を変えた。  痛みの種類は、圧痛である。しびれのミじた「しびれ痛」もまじってはいるが、大半は圧痛なのだから、圧を取り除けばいい。除圧すればいい。そういう思考経路から行きついた体勢であった。  入院中にカットアウト・テーブルを注文してつくっておいた。ふつうのテーブルでは車椅子の肘かけがつかえて、体をテーブルに付けられないが、これは高さがあるうえに天板の一辺がえぐってあるので中まではいりこめる。入院中の計画では、これにスプリング・バランサーをとりつけて腕をつるし、自力で食事をしたり腕の運動をしたりする予定だった。新聞の見開きをひとりで読めるような仕掛けにもしておいた。しかし、家に帰ってみるととてもそんな余裕はなく、部屋のかたすみで物置きがわりになっていた。今度はこれに目をつけた。手近にあるものを利用するのが、生活改善のコツである。電子機器の利用をハイテクというなら、こちらはロウテクともいうべきものである。  背中全体を除圧するには、前によりかかるしかない。カットアウト・テーブルの上に、これまた使われずに無用の長物と化していたフローテーション・マットを2枚かさね、さらにクッションや枕などを積みあげ、前傾姿勢をとったとき、ちょうどあごが枕の上にのるようにした。  大成功といってよかった。一気に背中が楽になった。どうしてこれをもっとはやく思いつかなかったのだろうと、それまでに味わった苦痛の総量を悔やんだ。前のめりをした瞬間におぼえる背中の解放感もさることながら、しばらくして痛みが遠のいたあとに聞こえてくる細胞たちの声がまたよろこばしい。  「ひゃあ、たすかったあ」  「よかったねえ、楽になったね」  「いやはやなんとも。これでさすってもらえたら言うことはない」 などと、背中の1個1個の細胞たちがささやきかわすのである。チリチリと背中全体に安堵の領域が広がっていく。痛みのない体は、それだけで快楽である。  このあとの行数が少なければ、めでたしめでたしの成功譚だと見当がつくが、まだずいぶんあるところを見ると、読者は波瀾の展開を予感せずにはいられないであろう。    枕の上に置いたタオルにポチポチと茶色の点を発見したのは、前のめりを始めて数日後のことである。よく見ると、血痕だった。あごがこすれて血が出たのである。上半身の重みの何分の1かが、あごの先端にかかるのだろう。人は頭だけでも10キロある。  あごをまっすぐのせずに首をかしげ、ちょうつがいのほうで力を受けるようにすると同時に、以来、あごのせの素材さがしが始まった。  これこれこういうわけで出血したと訪問看護婦にうったえたら、その場で脱脂綿と包帯をつかってドーナツ形の小さな円座をつくってくれた。しかし、円座というのはいつでもそうなのだが、患部は除圧できても円座の当たる部分に圧力が加わる。  円座はダメでしたと報告すると、つぎにウレタンフォームの「無圧マット」の切れはしを持ってきてくれた。無圧マットの形状を説明するのはむつかしい。華道でつかう剣山、あれの針をうんと短くして全体を百倍ぐらいに拡大した形とでもいったらいいだろうか。  もし剣山の上に立ったとしても、足の裏に針が刺さることはない。なぜなら重みはたくさんの点で支えられ、分散されるからである。無圧マットもその原理であるという。「点で支えるから安心です」と、むかしジャイアンツの王選手もテレビCMで言っていた。しかし無圧マットは本当に点で支えるものだろうか。答えは否である。顔が無圧マットの中に沈み、鼻がふさがれた。剣山は金属製だから足をのせても針がまがることはないが、ウレタンフォームはやわらかいから物をのせればすぐさまつぶれる。たいらなマットとなにも変わらない。テンで支えやしないのである。  妻が子供用の浮輪を買ってきた。エアマットにヒントを得たようだ。さっそくふくらませてあごの下に置いてみた。肌ざわりが悪いのでガーゼをかぶせる。輪っかの外側からあごをのせると浮輪がじゃまして前が見えないし、かぶるように内側からのせると、なんだかアメリカ映画のタイトルバックに出てくるライオンのようだ。それに素材のビニールがくさくて閉口した。浮輪のにおいをわざわざかぐひとはいないから、浮輪会社もそこまで配慮しないのだろう。  結局、そばがら枕の上にムートンを敷き、さらにたたんだガーゼをのせることにした。これであごが沈みすぎて鼻がふさがれることなく、かつ適度な弾力を得ることができた。ようやく前のめりのスタイルが完成した。    前のめりの時間ほど安楽なものはなかった。顔の前に書見台を置き、そこに本や雑誌、新聞などを立てかけて読むこともできれば、前方のテレビを見ることもできるのである。  だが――。このスタイルの内包していた問題点が、しだいにあらわになってきた。あごの先端に力が集中しないように、なるべく顔をねじまげていたところ、あごの調子が悪くなってきた。口をひらくたびに、あごのちょうつがいが引っかかってカクカクいう。ときには口が全部ひらかないこともある。顎(がく)関節症である。奥歯が痛くなり、修理した歯のかぶせものが頻繁にはずれるようになった。歯に口中の粘膜が押しつけられて、口内炎ができやすくなった。  歯科医に相談してみたが、どうやらそんな症例にはお目にかかったことがないらしく、マスクの下でもごもご言うばかりで、さっぱり要領を得ない。内科医に話したときには、歯よりむしろ頸椎に負担がかかりすぎるほうが心配だと言われ、それもそうだと思い、だからといって解決策があるわけではないから、ますます憂鬱(ゆううつ)になった。PTに聞くと、10分から15分なら問題ないだろうと言う。1時間はしないと背中が楽にならないというのに。  あごで体重を支えるところからさまざまな支障をきたすのである。支点を胸とひたいにかえてみた。胸とテーブルのあいだにクッションをはさみ、枕をすこし前方におしやり、あごでなくひたいをのせる。かくしてあごにはなんの負担もかからなくなった。この方式を「おでこ」とよぶことにした。  だが、おでこにしても、重みのくわわる場所がかわるだけなのである。今度はひたいと眼球が圧迫されることになった。前のめりしている最中になにも見えないのはもちろん、体をおこしてもしばらくは目の焦点がさだまらない。  視力の問題は、切実である。いまの私にとって、視力は危険から身をまもるための最大の武器であるとすらいえる。めがねをかけたりはずしたりかけかえたりしているひとを見るたび、自由にそれができるならまだいいだろうが、もし自分がそんなことになったらどうしようと思う。  「あご」でなく「おでこ」で、なおかつ目にさわらないもの……。テレビでなにげなくアメリカンフットボールを見ていたとき、「そうだ、このヘルメットだ」と思いついた。これをかぶって前のめりすれば、重みは顔全体に分散され、目は眼前の格子で保護されるではないか。われながら名案と感心、思いついたら矢も盾もたまらない。初対面のボランティアに、なんとか試すつてはないものだろうかと相談してみた。  「うちの大学はスポーツはみんな弱いんですけど、アメリカンフットボールだけは強いんです。心あたりがあるから、あたってみます」 と上智大生の返事はたのもしかった。  1週間後、新品のヘルメットを持ってあらわれたのには、すこし意外な気がした。てっきり使いふるしを借りてきてくれるものと思いこんでいたのである。アメフト部の友人に話したところ、貸すのはかまわないけど1度つかったヘルメットなんか汗くさくてかぶれたものではないよと言われたので、専門店へ行って事情を説明し、新品を借りてきたとのこと。人情いまだ地におちずである。  ところが――。かぶってみておどろいた。いや、痛いの重たいの。ヘルメットと頭のあいだにクッションがはいっているのだが、これが猛烈にこめかみをしめつけるのである。ゆるくては用をなさないのだろう。重さも2、3キロあるのではないか。こんなものをかぶったうえに鎧(よろい)を着込んで走るなんて、常人の技ではない。  それでもなんとか使えないものかと1日、2日ためしてみたが、せっかくの好意も無駄にせざるを得なかった。  つぎに着目したのは、野球のキャッチャーマスクである。これもまた、テレビのプロ野球をボーッとながめていたときにひらめいた。アメラグのヘルメットが重いのは、頭全体をおおっているからだろう。私に必要なのは、前面だけである。キャッチャーマスクの重さなどたいしたことはない。衝撃をひたいとあごに分散して受けとめるという構造も、うってつけである。  キャッチャーマスクの構造は、だれでも知っているだろうが、しげしげとながめたことのあるひとは少ないだろう。鉄格子の顔面側の上下に括弧のかたち――( )――をしたクッションがとりつけられている。クッションにはジッパーがあり、あけてみると中にはスポンジがつめてある。   ためしてみたところ、あごに当たりすぎる。あごの部分のスポンジをすこし抜き取って、なるべく頬骨で重みを受けとめるよう工夫した。まずまずといったところか。眼球はたしかに保護されるが、顔と体の傾斜角がむつかしい。  結局いまのところは不本意ながらほとんど「おでこ」で前のめりをしている。  前のめりという体位の発見で、乗車時間は飛躍的に延長した。痛みの量も半減したといっていいだろう。しかし、前のめりをして痛みがうすらぎ、心にゆとりができると、ああ、こんな無為の時間をすごしていていいものだろうか、痛み対策を第一義とするような生活にどれほどの意味があるのだろうかというあせりもまた生じるのである。人生の残り時間が少ない。  読まれたくて順番待ちしている本たちも、列をなしているというのに……。役所から来た書類もたまっている。原稿もはやく書かないとなあ……。パソコンに向かえる時間は限られているのだ。でも、体を起こしたらまた背中が痛むだろうし……。痛みは気力を萎えさせる。ウーン、どうしたものか……。もうすこしこのままでいるか。でもなあ、おでこも痛くなってきたし、枕もだいぶくずれてきたし、息も苦しくなってきたから……。  ふさがれた瞼(まぶた)のうらの暗闇の中に緑や黄色の模様が浮かんでは消え、消えてはまた浮かぶ。その消長を見ながら思うのである。前にも後ろにも、どこにも寄りかからずにすわっていられたら、どんなに楽だろう。畳の上にあぐらをかいてすわれるなら、腕の1本ぐらいくれてやってもいい。体重があるかぎり、いかなる手段を講じても自分にはもはや楽な姿勢というものはあり得ない。  ウマは、横になると2時間で神経麻痺を起こすそうだ。エアマットをつかっても4時間が限度だという。体重のあまりにも多きがゆえである。一生を立ちっぱなしで暮らすウマの習性も極端だが、人間もまた横になったままで生きてゆくようには造られていない。動くようにできている生物を動物というなら、私はいったい何ものなのだろう。            *肉体という名の独房*  退院して3年ほどたった1991年9月15日のことである。当時訪問看護を依頼していた日本在宅看護研究センターの看護婦と妻をともない、ハンディキャブに乗って、中野サンプラザへ行った。  ハンディキャブというのは、車椅子ごと乗り込めるようリフト装置のついたワンボックスカーのことで、わが区の有償ボランティア団体が運営している。「ハンディキャップ」と「キャブ」を組み合わせた新造語であろう。  日にちをおぼえているのは、9月15日が敬老の日だったからでもある。看護婦と看護学生のつどいがあるので、そこでスピーチをしてほしいと言われていた。  東京では9月にはいると暑さも一段落することが多いのだが、中ごろまでなお残暑のつづく年もある。体温調節機能が弱まり、暑いところにいれば体温があがり、寒いところにいれば体温のさがってしまう私は、外出時の気温と服装に格別な注意をはらわなければならない。寒さに対しては厚着という手があるが、暑さは如何ともしがたく、しばらく暑いところにいると息もたえだえになってしまう。その日は前日までの暑さがなおつづくであろうという天気予報だったから、薄着ででかけた。そとへ出ると、ちょうどいい塩梅(あんばい)だった。  ところがハンディキャブに乗りこんで車椅子の背もたれをたおしたまではよかったが、ゆられているうちに肩胛骨が背もたれにくいこんで、背中から腕にかけて息苦しいほど痛くなってきた(まだ背もたれに窓をあける前のことである)。おまけにサンプラザについてみると、中はずいぶん冷房がきいており、会議室にたどりつくころには痛みと寒さのために私の腕はもうすっかりちぢみあがってしまい、車椅子の運転がむつかしくなっていた。  電動車椅子の運転は、ひじかけの先端にとりつけられたレバーによっておこなう。レバーを前にたおせば車は前にすすみ、うしろにひけばバックする。腕がのばせないと、前にすすめない。  広い会議室の中は、いくつかのグループに分けられていた。細長い簡易テーブルを組みあわせてつくった四角形のグループである。顔なじみのヘルパーが入口にもっとも近い席に案内してくれた。センターでは訪問看護婦の派遣だけでなくヘルパーの養成もおこなっているのである。  席につくとさっそくテーブルの上にクッションを積みあげて前のめりし、背中には毛布を何枚もかけてもらった。当時はまだ痙攣防止のためセルシンの錠剤をあらかじめ飲んでおくという知恵を持ちあわせていなかった。  冷房を弱くしてくれるようにたのんだが、「ひとつの部屋だけ弱めることはできないそうです」という答えがかえってきた。  会場をうめた数十人の大半が女性だった。前のめりしているうちに会ははじまり進行していった。看護婦の集会だとばかり思っていたのだが、最初に指名されて話しだしたのは、母親を在宅で看取った女性。つぎが痴呆の妻を12年間も介護しつづけた老爺。ついで高齢とおぼしい婦人が、末期癌の夫を自宅で看取った数カ月間がいかに苦しく、いかにかなしいものであったか、そしてセンターの看護婦さんにどれほどおせわになったかを、涙ながらにルルと語りはじめると、くもった表情でうつむいていた妻は、いたたまれなくなって退席した。  会場のすみにすわっていた村松静子代表がしずかに席をたって、あとを追った。村松さんは妻の精神状態をよく知っていた。妻はもともと来るのをいやがっていたのである。病院へ行く以外にはほとんど家を出ることがなくなっていた。しぶるのを私と看護婦が説得してつれてきたのである。  順番がまわってきたので、体をおこしてもらい、さらにリクライニングしてもらった。体を垂直にたてたのでは息が苦しくてとてもスピーチなどできないし、前のめりの姿勢から急に座位をとると脳貧血を起こしやすい。リクライニングは脳貧血予防のためでもある。  「きょうは看護婦さんのつどいとうかがっておりましたので、頸髄損傷がどういうものかということについてすこし話させていただこうかなと思ってきたんですが、いまのかたのお話を聞いていて、どうしても申しあげたいことが出てきたんです」 と私はしゃべりはじめた。  「自分のうちで死にたいというご家族を自宅にむかえいれ、その患者さんの苦しみを目のあたりにしながら長期にわたって看護されて、最期を看取られたかたがお話しになったあとで、そのかたの前でこんなことを申しあげるのは自分でもどうかと思うのですが、失礼を承知のうえでひとこと述べさせていただきます。  末期癌のかたの肉体的、精神的な苦しみがいかにつらいものであり、ターミナル・ケアをなさるかたのかなしみ、苦しみ、ご苦労がいかに大きなものであろうと、死んでいくひとは、私に言わせれば楽です。半年、1年ですむのですから。看取るひとも楽です。家族をうしなったかなしみはしばらくはのこります。しかしそれはいずれ時が解決してくれることでしょう。尾をひくことはあっても、うすらいでいくでしょう。しかし障害者のばあい、とくに重度障害者のばあいは、何十年ものあいだ来る日も来る日も毎日死ぬまで本人と家族は苦しみつづけなければならないのです。  まあ、人間というものはとかく自分がいちばん大変なんだと思いこみがちなものですから、私の発言もそのてのものかもしれませんが……」  そんな前置きをしてから本題にうつっていった。  「きのうテレビを見ていたら、人体に関する数字クイズというのをやっていて、206という数字が出ました。さてこれはなんの数でしょう」  しばらくためらったのち、目のまえの女性がちいさく手をあげた。  「骨の数ですか?」  「ピンポーン、あたりです。看護婦さんですか?」  正解者はうなずいた。  つづいて私は、首の骨は7個あり、自分が転落事故でその5番・6番を前方脱臼骨折したこと、頸髄損傷による全身麻痺とはいかなるものであるか、皮膚感覚もなければ内臓感覚もないのにしびれと痛みだけは四六時中たえまなくあること、胸式呼吸ができないためつねに息苦しいこと、さらには食事・排泄・入浴など日常生活のほとんどをひとにたよらざるをえないことなどについて述べた。  最後の話し手は、結婚して間もない妻を癌でうしなったサラリーマン風の男性だった。「しまいには癌が頸髄に転移し、毎日、体中に激痛がはしるとうったえていました」という彼の言葉を聞いたとき、頸髄損傷の原因はけがとはかぎらず、癌におかされても症状はおなじなのだということを知って、見知らぬ新妻の痛みに同情した。その無念さがしのばれた。痛みやしびれもさることながら、夫の献身にこたえられないおのれの体をどれほどうらめしく思ったことだろう。若いひとの癌は進行がはやいと聞く。日増しに悪化していくというのはたまらない。結局は病院ホスピスだったとのことだから、最期はモルヒネで意識のないまま亡くなったのだろうか。  そのスピーチがおわると、会はグループごとの懇談にうつった。  「どうしてそんなに大変なお体になられたのに、なんていったらいいか、あかるくしていられるんですか?」  さきほどの看護婦が私にたずねた。  「どうしてといわれても……そうですねえ、ジタバタさわいでも治るわけじゃなし、まわりのひとが不愉快なおもいをするだけでしょう。……それに私のばあいは家内のことが気がかりで、自分のことを心配している余裕がないという事情もあるでしょうね」  からになった妻の席に目をやりながら答えた。  話しているとヘルパーがちかづいてきて、写真撮影をしたいのですがよろしいでしょうかときいた。集会の記念写真かなにかだろうと思い、気軽に承諾したが、数日後におとずれたセンターの看護婦からわたされた新聞のきりぬきを見て、そのときのカメラマンが毎日新聞の記者であったことを知った。当日の集会をとりあげたかなり大きな記事で、私の顔が米粒ほどにうつっている写真がのっており、私の発言も掲載されていたが、前半はカットされていた。 ○  中野サンプラザでの会合のあとだったか前だったかわすれたが、とある日曜日の朝、なにげなくテレビを見ていたら、網膜に映じた若い外人女性のモノクロ写真の画像が、脳のほうまで伝達された。私はふだんテレビに目をむけていても、ただぼんやりながめているだけで内容などこれっぽっちも聴いてないのである。熱心に見るのはボクシングだけだ。  けっしてあかるいとはいえない表情の20代なかばとおぼしい女性が、こちらを凝視している。もしやと思って注目すると、西ドイツの体育教師で、案の定、交通事故で頸損になったのだという。ここまではどうということもない。おどろいたのはそのあとにつづくナレーションで、青酸カリで自殺する直前の写真だというではないか。  東西ドイツが統一された現在はどうなっているのか知らないが、西ドイツには安楽死協会があり、登録して2年間経過してもなお自殺の意志に変化がなければ、協会の責任者立会いのもとに自殺を手伝ってもらえるのである。その様子はビデオに収録される。テーブルのうえにおかれたグラスには青酸カリの水溶液がつがれ、ストローが1本さしてある。女性は自分が鬱(うつ)病でもなんでもなく、まったく正常な意識のもとで死をえらぶことをビデオカメラにむかって宣言し、ストローに顔をちかづけた。そこからは画面が静止画像にきりかわった。  「ああ、胃のなかが熱い。こんな感覚はひさしぶりだわ」  彼女のその言葉をおぼえているのは、自分も受傷以来腹のなかが熱くなることなど絶えてなかったからである。いつも水銀がたゆたっているような冷たい感覚が腹部周辺にあった。なぜ彼女がそんなことを口ばしったのか、ほかのひとにはわかるまいと、ある種よろこびにも似た共感をいだいたのである。  それにしても自殺を手伝ってくれる機関があるとは。いいことなのかわるいことなのか判断がつかず、ただただ肉食人種はおもいきったことをするものだと驚嘆した。日本ではとても考えられないことである。  わが国でも1976年に日本安楽死協会が発足したものの、やはり安楽死という言葉のイメージがわるかったのか、それから10年間は会員が1000人をこえることなく推移したが、1983年に名称を日本尊厳死協会に変更したあたりから会員数はグングンふえはじめ、1996年には約7万8000人を擁するまでになったという。会員数の増加は、なにも名称変更によるばかりではなく、活動内容の正しい理解がすすむにつれ、賛同するひとがふえたからだろう。  協会では「リビングウイル」運動をすすめている(リビングウイルはおそらくLiving Willと書くのだろうが、それなら「リヴィング・ウィル」と表記したほうがわかりやすいのではないだろうか。リビングルームのように、もうなかば日本語になっているものはおくとしても)。リビングウイルは「尊厳死の宣言書」と訳されている。引用してみよう。 《私は、自分の病気が不治のものとなり、死が迫って来る場合に備えて、家族、縁者、ならびに、私の医療にたずさわって下さる方々に、次の要望を宣言いたします。  この宣言書は、私の精神が健全な状態にあるとき書いたものです。従って、私自身が破棄するか、または撤回する旨の文書を作成しないかぎり、有効です。 @ 私の病気が、今の医学では不治の状態とされ、死期も迫っていると診断されたばあい、いたずらに死期をひきのばすだけの延命処置は一切おことわりします。 A ただし、私の苦痛を和らげるための処置は、最大限に実施して下さい。 B 私が数カ月以上にわたって、いわゆる植物状態に陥ったとき、一切の生命維持措置をとりやめて下さい。  以上、私の要望を忠実に果たして下さった方々に、深く感謝申し上げます。そして、その方々が、私の要望に従って下さった行為のすべての責任は、この私のみにあることを、付記いたします。》  @はすこし曖昧(あいまい)だと思う。不治の病で死期がせまっていても、元気ならいいのではないか。映画「大病人」(伊丹十三監督)の主人公のように、胃癌が方々に転移するほどひどく、胃の全摘手術をうけても、なお愛人を病院の個室に引き入れてコトにおよぶくらいの元気があるなら、これはうんと延命処置をほどこしてやればいいだろう。  Aについてはなんら異論はないが、Bの一切の生命維持措置をとりやめるべき植物状態とは、いったいどのような状態であるかをあきらかにしておかなければ不安でおちつかない。1972年に日本脳神経外科学会がきめた「植物状態患者」の定義を見てみよう。 《Useful life(普通の生活)を送っていた人が、脳神経系に損傷を受けたのち、以下の6項目を満たすような状態に陥り、種々の治療を試みても、ほとんど改善がみられないまま、3カ月以上経過したばあい、植物状態患者と言うこととする。 @ 自力で移動できない。 A 自力で食事をとれない。 B 大小便失禁(おもらし)状態にある。 C 目で物の動きを追うことがあっても、それが何であるかを、認識できない。 D 「手を握って」「口を開いて」などの簡単な指示に応じることがあっても、それ以上の意思疎通はできない。 E たとえ声を出すことがあっても、意味のある発語はできない。》  「脳神経系」に損傷を受けていることが前提であり、頸髄は脳神経にははいらないのだが、どうもひとごととは思えない。@からEまで自分にあてはまるかどうか検討してみると、@合格、A合格、B合格と、たてつづけにあてはまってしまうのである。Cのようなことはない。「手を握って」と言われても応じることはできないが、まあDとEはあてはまらないと言っていい。  ただし、もし私が気管切開をしていて声が出なかったり、あるいは脳卒中をおこして口がきけなくなっていたりしたら、たちまち全項目クリアとみなされ、生命維持措置を中止されることになりかねない。生命維持措置が中止されるのはのぞむところだといまの私は思っているが、その期におよんで、はた目には6項目を満たしているように見えても、私自身には意識があり、まだ死にたくないと考えていたらどうするのか。思考能力はありながらも、意思を伝達する手段がないために自己表現できないひとはたくさんいるのである。  「ワア、やめろ、そ、そんなことするなあ!」とさけんでも、「たとえ声を出すことがあっても、意味のある発語はできない。Eも合格」とベッドサイドで医師が看護婦につげる場面を想像すると……あまり想像したくない。さぞかしくやしい思いをすることだろう。 ○  1994年春、劇団四季は、日下(くさか)武史主演で「この生命は誰のもの?」を上演した。  舞台はイギリスの病院。半年前に交通事故でかつぎこまれ、一命はとりとめたものの頸髄損傷で全身麻痺になった彫刻家が、こんな体で生きながらえても彫刻ができないなら何の意味もないから、もう退院させてほしいと病院に申しこむのだが、延命を第一に考える病院側は、むざむざ死ぬことがわかっていて退院させるわけにはいかないといって患者ののぞみを聞きいれようとしない。そこで彫刻家は裁判にうったえ、「私は、今や生命の影にすぎないのです。その肉体を維持しようとする病院のたゆまぬ努力こそ人間の尊厳を損う、実に非人間的なものだと考えます」と主張して、ついには死ぬ権利をかちとるというストーリーの劇である。  公演前日の朝、日下氏がNHKテレビに出ていた。劇の内容を紹介しながら、演技上の苦心などを語るという趣向である。そのなかで、「ベッドをおこすと背中がひきつれて痛くてたまらないが、身動きできない体という設定なので、看護婦役の女性にベッドから上半身をひきはがしてもらうのだ」と言っているのがうれしかった。西ドイツの女性が「胃が熱い」と言ったときにおぼえた共感に似ている。おそらくベッドに水平に寝ていたのでは観客に顔が見えないので、幕があがってからベッドの上半身をおこすという演出なのだろうと思った。テレビドラマでも入院患者は例外なく上半身をあげている(ついでにいえば主人公はどれほど貧乏でもかならず個室にはいっている)。  最後に氏は、自分がもし主人公とおなじ状況におかれたら、おなじ決断をするだろうと言った。彫刻家である主人公が彫刻できない体になってしまったのでは生きている意味がないと判断したように、自分も演劇のできない体になってしまったら生きていけないという意見だった。  私はいたく興味をそそられ、この劇を観に行きたくなった。劇場は都内だし、何日間か上演されるというから、行こうと思えば行けないこともない。しかし、劇の結論は死をえらぶというもので、なおかつ演者自身もそう考えているというのに、主人公とおなじ体で生きている私が観に行ったのでは役者もやりにくかろう。車椅子は、日本武道館のような広大な会場にいてもずいぶんと目立つのである。  そこで私は公演のパンフレットと原作を入手するにとどめた(さきに引用した「リビングウイル」と「植物状態患者の定義」は、パンフレットに掲載された日本尊厳死協会常任理事藤田真一氏の「『リビングウイル』のおすすめ」という一文からの孫引きである)。   本のほうのタイトルは『この生命誰のもの』(ブライアン・クラーク著、新庄哲夫訳。河出書房新社、1979年12月発行)。原題は Whose Life is it Anyway? である。  ブライアン・クラークは、頸髄損傷についてよく調べている。頸損という言葉こそ出てこないものの、主治医のエマーソン博士による症状説明や主人公ケン・ハリソンのせりふから判断すれば、C4かC5のレベルである。人工呼吸器をつけていないところをみると、C3ではなかろうし、C5ならまったく腕がうごかないということはないから、やはりC4レベルだろうか。ただ、C4とかC5とかいっても、それは損傷部位ではなく残存能力をしめす用語だという説もあって、つまり、これこれこういうことができるならCの何番とよぶということらしいのだが、……まあ、架空の人物の障害程度について、そんなにくわしく詮索することはないか。  劇の冒頭はこうである。 《(アンダーソン婦長、ケイ・サドラー見習看護婦が手押車を押しながら、病室に入って来る) 婦 長 お早うございます、ハリソンさん。ニューフェースの看護婦を連れてきましたよ。 ケ ン 結構ですな。 見習看護婦 こんにちは。 ケ ン やあ、いらっしゃい。残念だけど、握手したいにも、肝心の手が持ち上げられないんだ。腰で我慢してくれたまえ、ほかの看護婦さんと同じようにね。 (2人、昇降式のベッドを降下させる) 下に参りまーす――産科に婦人科、ランジェリ科、ゴム製品科がございまーす。 (2人、ケンをうつ伏せにさせて、背中や踵にタルコム・パウダーをふりかけながら勢いよくマッサージし始める) 実におかしな話なんだ。僕は、こんなていたらくをしょっちゅう夢見たもんだよ。 婦 長 大けがをすること? ケ ン とんでもない! ベッドに横たわって、二人の美女にマッサージしてもらうことさ。 婦 長 (真面目くさって)ハリソンさん、これ以上そんなことばかりおっしゃると、若い看護婦はお付けできなくなりますよ。 ケ ン 絶対に安全だよ、婦長。お相手が僕なんだから。》  なかなか快調なすべりだしだが、予備知識のない観客にはまだ事態がよくのみこめないだろう。きわどいことをペラペラしゃべりまくるほど元気なのに、手一本うごかないのである。背中や踵のマッサージが、褥瘡(じょくそう)予防のためであることは、芝居を注意ぶかく観ていないと最後までわからないかもしれない。  ケンは「知性と感受性の豊かな、はっきりと物を言うタイプの人間」としてえがかれている。少々やけっぱちに思えるほど御陽気なやつである。それはなぜか。  重傷を負った患者が死をのぞむのは、まれなことではない。しかし、だからといって医師はその希望をかなえてやるわけにはいかない。自殺が最大の悪であることを子供のころから意識的にあるいは無意識のうちに教えこまれるキリスト教圏において、平然と自殺を口にすることなど考えられないのであろう。そんな希望は一過性のもので、月日がたてば患者は現実をうけいれ、絶望からたちなおって死を口にしなくなる。自殺を希望すること自体が抑鬱(よくうつ)状態にあることの証明なのだから、精神安定剤でもあたえて時の経過を待とうというのが、医師のとる常識的な態度なのである。主治医のエマーソン博士は、「彼には意志決定の能力がないのだよ。あのように頭の回転が早い男、非常に知性の豊かな男が、冷然と自殺の途(みち)を選ぶとはとうてい信じられないね」という姿勢を最後までくずさない。  そこで主人公が、そうか、オレはいま精神に混乱をきたしているのかと納得してしまったのでは劇がなりたたない。主人公の主張をより説得力あるものにするためには、意志堅固なだけでなくユーモアに満ちた論理的な人物に設定しなければならないのである。  ケンは言う。「精神の安定が必要なのは先生じゃありませんか。……僕を助けようとしてもあなた方は何もできないんだ――打つ手はほんとにないんです。僕の体は麻痺してるのにあなた方は無力ときている。この現実があなた方を苦しめるんでしょう。だって、あなた方は同情心もあり、何とかしよう――いや、何でもやってみよう――といった積極的な同情心に殉ずる者として、自分が無力だと認めることには耐えられない。そこで、あなた方にできることは僕に考えさせないようにすること――つまり――僕があなた方を不安がらせないようにすること、それしかないんです。だから、僕には薬が与えられ、あなたはそれによって精神の安定を得る」  安定剤を拒否する患者なんてめずらしい。ふつうは薬をほしがるものなのである。こんな患者にでくわしたら、さぞかし医者も困惑することだろう。おかげでケンを担当する修練医のスコット医師などは、「ご立派なことじゃない? わたしたち、ありとあらゆる手を使って、あの人の命をとり止めた。意識まで取り戻させたのよ。すると、彼は言うの、『どうやってその命を使ったらいいのか』って。そうしたら私たち何をすると思って? もう一度眠らせるのよ」と、患者の拒否する精神安定剤をむりやり投与することに疑問をいだきはじめてしまうほどなのである。  体の痛みについてふれられていないのが、作者に対する私の唯一の不満である。事故後半年という設定だが、3カ月もするとしびれと痛みがはじまるはずなのだ。それを別にすれば、主人公の言い分には共感をおぼえずにはいられないものが多い。  医学の進歩のおかげで、頸損にかぎらず、昔ならとっくに死んでいたような重篤なものまで生きのびることができるようになった。だが、命を救ってくれるのはありがたいのだが、そのあとのめんどうまではみてくれない。そこが問題なのである。全身麻痺になるということは、全身麻痺というこのうえなく不自由な体をかかえて生きるということはもちろん、それに起因するもろもろすべてをひきうけることを意味するのである。  ケンは、劇のはじめからおわりまで一貫して死をのぞみつづける。ほかの劇中人物ばかりでなく観客をも論理的にねじふせようとする。彼の心の底にあるのは、「こんなざまで 生きていたくない」という思いである。両手が使えなくて、どうやって彫刻をすればいいのか。屈辱的な体になったうえに生きがいまでなくなってしまったいま、これ以上生きつづけることになんの意味があるというのか。  「僕は全身麻痺といっていいくらいで、これからもずっとそうでしょう。めでたく退院できる可能性はまずないでしょう。冷静にそのことを考えてみました。そしてこういう状態で生きつづけないほうがいい、そう決心したんです。だから、僕は死ぬために退院したいのです」  「僕の人生はもう終わったんだ。それを認めてもらいたいんですよ、なぜって、自分がやりたいことは何一つできっこないんだから。つまり、何を考えても何を言ってもどうしようもないってことですよ。これでも、まあそう悪くない人生だといえるでしょうか」  「あらゆる点からみて、わが国の病院が素晴らしいことはよくわかってます。多くの人たちが、大変なハンディキャップを背負いながら、幸せな人生を送れるようになったことも承知しています。喜ばしいことですし、その人たちを尊敬もし、賞賛もします。しかしながら、人間はそれぞれ人生に対して自分なりの決断を下さなくてはならない。そして僕の下した決断というのは静かに死ぬこと、それもあらんかぎりの尊厳を保ちながら死ぬことです」  退院すると死んでしまうというのは、誤解のないように言っておくが、あくまでもひとりきりになってしまってだれもケアをしてくれるひとがいない場合であって、世話をしてくれる者がいれば、そう簡単に死ぬものではない。  そのあたりも作者はちゃんと手をうってある。結婚はしていないのかという問いに対して、生活設計も全部たてているような若くて健康なフィアンセはいたが、「彼女がいずれ本当に望んでいることを言いだすときに感じる良心の呵責(かしゃく)を取り除いてやりたかったから」2週間まえにわかれたと主人公は言う(まったく身につまされる問題で、私もおなじ立場におかれたら、おそらくおなじ途をえらんだにちがいない)†1。  結婚しているという設定であれば、事態はもっと複雑になり、劇の奥行きも深くなるだろうが、ブライアン・クラークがそれをしなかったのは、自己決定権というテーマが不鮮明になることを懸念したためだろう。  親はどうか。1週間まえに両親が来た。案に相違して、タフだと思っていた父親は茫然と立ちつくすばかり。ショックでまいるだろうと思っていた母親は、ケンが何をするつもりか話しても、涙をうかべながら彼をじいっとみつめ、「わかったよ、お前。お前の命なんだもの……父さんのことは心配しなくてもいいよ――あたしが何とかするから」と答える。両親についてはほとんどふれられていないが、おそらく苦労に満ちた人生をおくってきたのであろう、苦しみがどんなものだか知っている母親は、わが子がそれほど大きなくるしみに耐えてまで生きていくことを強要できなかったのである。    ケンの弁護士が「これは負けてもつらくない訴訟ですよ」と最後の翻意をうながすのに対して、ケンは「もしそうなったら――僕にとっては終身刑になります」と応じる。このせりふは私の心に深くにじみいる。そう、頸髄損傷は終身刑にひとしい。それも等身大の独房にとじこめられるのである。独房の内側にはバラのとげがビッシリ植えこまれている。  たいした願いではない、本当に些細な生理的欲求が満たされないとき、たとえば家族が寝静まって物音がしなくなったころに、かけた寝具が暑すぎたことに気づいたときなど、とりわけその思いがつよくなる。暑苦しいとはこのことで、顔がほてってきて、鼻がつまる。とても眠れたものではない。のどがかわく。さりとて寝入ったばかりの家人を起こすのもしのびない。肩から布団をはぐくらいのことで、いちいち人を起こしていいものだろうか。布団一枚はぐ力もないわが身がうらめしい。起こそうか起こすまいかとためらい煩悶する。怒鳴って発散するわけにもいかず、じっと耐えるのみ……。独房、それも肉体という名の最小の独房に終身とじこめられた囚人なのだと思うのは、そんなときである。    法廷になった病室で、あくまでも信念をまげないケン・ハリソンにむかって判事は最後に「あなたが死ぬと決めたことが、どうして理性にかなっているか聞かせてもらえませんか」とたずねる。  「人間の尊厳の問題です。この私の姿をとくとごらんになって下さい。私は何もできません。基本的で原始的な機能すら果たせない。自力で小便もできないのです。常に導尿管がつないであります。二、三日ごとに浣腸されます。二、三時間ごとに二人の看護婦が私をひっくり返してくれます。床ずれでやられないように。ただ脳細胞の機能だけが損傷を受けていませんが、それでさえ何の役にも立ちません。しょせんは、頭で到達した結論に従って行動をとることができないのですから。(中略)私は実際には死んでしまったのだという事実を認識することにしました。私は、今や生命の影にすぎないのです。その肉体を維持しようとする病院のたゆまぬ努力こそ人間の尊厳を損う、実に非人間的なものだと考えます」  じつはこういう文章を引用することに、ためらいがないわけではない。頸髄損傷にかぎらず多くの重度障害者にとってケンの言い分は、生きる意欲をなえさせることはあっても決して勇気をふるいおこさせるものではないからである。くだらない意見であれば間違いを指摘したり、バカにしたり、あるいは無視したりすればいい。ところが彼の思想に反発は感じるものの同時にまた深く共感するところもあるので、反論することがむつかしいのである。  「しかし、驚くべき肉体的ハンディキャップを背負った多くの人たちが困難に打ち勝ち、真に創造的で尊厳のある人生を送っていることは認めますね」と判事に念を押させることも作者はおこたらない。この、いわば最後の切札に対して、ケンももう1枚のカードを用意しているのである。  「はい、認めますとも。しかし、その尊厳は当人の選択から生まれてきたものです。もし私が生きることを選択したのだとすれば、社会がそんな私を殺すのは空恐ろしいことです。もし私が死ぬことを選択したのだとすれば、社会がそんな私を生かし続けようとするのは、同じくらい空恐ろしいことです」  判事もことここにいたっては、おてあげである。  「必然的に死につながる行為をとるという意図的な決断は、そのことだけでは、精神異常の証拠とはなりません。もしそれが精神異常だとすれば、世の中は、勇敢さを賛えて死後に勲章を贈った多くの人々に対し、むしろ不名誉な埋葬をもって報いるべきだったということになります」と前置きしたうえで、  「病院がハリソンさんを自由にして差し上げるように命じます」 という判決を下す。    わがこととしてとらえたい。ひとは誰でも事故なり病気なりでハリソンと同じ状況におかれうる。それがいつかはわからない。原因はたぶん事故だろう。日本では、毎年約26〇〇人が頸損になっている。たとえば1990年から92年の3年間に脊髄(せきずい)を損傷した者9752人のうちの75パーセント、7317人が頸髄損傷である。受傷原因の第1は交通事故で43・7パーセント(新宮彦助「日本における脊髄損傷疫学調査 第3報」日本パラプレジア医学界雑誌8 1 1995年発行)。ひとごとではない。  もし万が一そうなったとき自分ならどうするかという覚悟を、きめておいたほうがいいのではないだろうか。  頸髄損傷者の生活は、ハリソンの言うとおり基本的で原始的な機能すら果たせないものである。こんなぶざまな姿で生きていたくないという気持ちはもっともで、ためいきが出る。しかし、じつのところ頸損が自殺したという話は聞いたことがない。頸損になると自殺もむつかしいのだろうが、私自身についていえば、方法を考えたことはあっても実行におよんだことはない。  何が私をひきとどめているのか。おそらく根本にあるのは生物すべてに共通する生存欲だろう。生存欲が死亡欲を上回っているのだと私は考えている。  さらに、他者とのつながりも大きな要因であろう。特に家族。ひとはもし自分ひとりだけのために生きているのであれば、そうはもたない。死んだほうがましという人生も世の中にあることは、否めないのである。ハリソンが婚約者を切り、親を切ったことは、単に介護の手を放棄したにとどまらず、生きつづけることの理由をも切り捨てたことを意味するのである。もし婚約者が泣いてすがり、両親が強引に食い下がれば、いかに理知的なハリソンとて考えなおさざるを得なかったにちがいない。  だから覚悟しておかなければならないのはもう一つ、重度障害者の関係者になったときのことである。婚約者が、配偶者が、親が、子供が、重度障害者になる可能性は、自分一人の場合よりずっと高い。それもまた耐えがたいかなしみであろう。  苦痛で塗り固められたような独房の中で虚空を見つめる日々をすごすうち、あるとき私はふと「頸損になったのが自分でよかった」と思いいたった。家族が、特に子供が身じろぎひとつせず横たわっている姿を見るのは、いまより精神的につらいことだろう。自分が死んだあと、この子はいったいどうなるのかという悲嘆は、重度障害の子供をかかえた親すべてに共通するものである。できれば自分がかわってやりたいと願うにちがいない。いくら願ってもせんかたないことである。それが実現できたと思えば、わずかななぐさめにならぬでもない。  †1 婚約および結婚  おのれがこんな体になってしまったから相手も愛想を尽かしているだろうと思いこむのは早計である。ケンが婚約者と話しあった様子は感じられない。相手の気持ちをじっくり確かめたほうがいい。それが礼儀でもある。  障害を得てから知り合ったカップルのほうが、既婚のカップルよりうまくいくようだ。けがをする前の相手を知っているとどうしても現在の状態を受け入れにくい。それでもたとえば「車椅子の花嫁」鈴木ひとみさんは婚約中の事故であるにもかかわらず結婚に至った。ちなみに今は男女どちらが頸髄損傷であっても子どもを作ることは不可能ではなくなっている。               *五秒間の青空*  1994年1月22日(土)夕刻、K総合病院内科に救急車で入院。29日(土)都立M病院脳外科に救急車で転院。2月4日(金)午後、寝台車で退院。  K総合病院に光子姉さん、訪問看護婦の小島さん、ボランティアの本條さん、来山(きたやま)くん、鈴木さん、M病院に三五館の松本さんの見舞いをうける。  22日の記憶がはなはだ曖昧。翌日、意識が回復してからも、ただ自分が病院にいるのだなあと認識するだけで、茫然としており、在院の理由に疑問をいだくことすらなかった。87年に首の骨を折って日医大のICU(集中治療室)にかつぎこまれたときも、おそらくこんな意識状態だったのだろう。受傷以来失神は日常茶飯事だが、人事不省ともいうべき状態におちいったのは、これがはじめてである。  のちに妻やホーム・ヘルパーの橘さんから聞いた話で事態の概略を再現すると――。  朝9時出勤してきた橘さんに食事をとらせてもらった。妻はいつものように金曜から休養のため実家へとまりに行っていて留守。  10時、福祉公社の協力員小池さん来宅。  いつもなら歯みがき、ひげそりがすむと、車椅子にうつってカットアウト・テーブルに前のめりをして背中の除圧をするのに、その日は背中の痛みをこらえながら体を起こしたまま、東京都神経科学総合研究所の松井さんから依頼されていた「はがき通信」(四肢マヒ者の情報交換誌)のレイアウト改良案を小池さんあいてに口述筆記していたのである。  前日は午前中、訪問看護で排便・膀胱(ぼうこう)洗浄・入浴・ガーゼ交換などの処置、午後1時半から福祉事務所のヘルパーと書類整理、そのあと三五館の星山さん、松本さんと次作(本書)の打ちあわせという強行スケジュール。打ちあわせにそなえて企画案も練っておかなければならなかった。  つまり2つの重要案件を同時にすすめていたわけで、これからくる疲労が今回の入院さわぎの遠因だろう。  容態急変のきっかけは、当日の「バルーン交換」と思われる。12時半ベッドにもどって昼食(ここからのことは、あらためて聞かされてもまったく思いだせない)。2時半、泌尿器科のT先生往診。バルーン交換の日であった。膀胱洗浄とバルーン交換が終わって先生がおかえりになったあとで急にはげしい頭痛におそわれた。 ○  冒頭から矢つぎ早にさまざまなひとが出てきて、わかりにくいだろう。若干の説明を加えておきたい。  わが家にはこの当時、常時6つの機関から手助けに来てもらっていた。現在もほとんど変わらない。  ホーム・ヘルパーは、民間の看護婦・家政婦紹介所から派遣されてくるひとで、1日8時間ほぼ毎日来てもらう。家事中心だが、介護もおねがいする。支援体制の中核である。以前は家政婦と呼ばれていたが、在宅高齢者の急増にともない、マンパワーの充実をはかるため、一定期間の経験と研修を経たひとに与えられるようになった資格名である。  福祉事務所は区役所の1部門。そこのヘルパーは、だから区の職員である。全員女性。  有償ボランティアは、わが区の場合2機関あり、1991年に設立された福祉公社は、半官半民の財団法人。もう1つは30年ほど前にできたボランティア団体で歴史が古く、現在は社団法人になっている。共に協力員は一般家庭の主婦が多い。  ボランティア・センターは、社会福祉協議会という民間団体の1部門で、そこで紹介してくれるのは、無償ボランティア。わが家のばあいは全員男性である。  訪問看護はわが区の医師会の事業。窓口は区役所であり、活動主体はやはり子育てのため一旦現場をはなれていた看護婦である。訪問看護制度は、看護婦の訪問だけでなく、主治医の定期的な往診も受けられる、じつにありがたい制度である。    さらに、ここでバルーン交換についても説明しておかないと話がわかりにくいだろう。私は尿意もなければ自力排尿することもできないので、恥骨のすこし上に穴をあけて膀胱にカテーテルをさしこむ膀胱瘻(ぼうこうろう)という方法で排尿している。バルーン・カテーテルは細い管だから、内側に尿のなかの石灰分などがたまって、内径がせまくなるおそれがある。血管にコレステロールがたまるようなものだろうか。そこで、3週間に1度新しいものに換えるわけだ。  いまは専門医が往診してくれるようになったのでずいぶん楽だが、退院して在宅障害者になりたてのころは、妻が介助用の車椅子を押して近くの病院へ通っていた。車椅子は道路交通法のうえでは歩行者あつかいになっている。しかし、日本には車椅子がとおれるような歩道などありはしない。バスやトラックにうしろから警笛でおいたてられながら車道を行き、やっと病院の前までたどりついたかと思うと、今度はいわゆる段差というやつがいくえにも立ちはだかっている。  雨のなかを車椅子ででかけるのは無理なことなのだが、たまたまバルーン交換の日に雨がふり、その日をのがすとつぎに病院へ行ける日が大幅にずれこんでしまうので、なんとしても行かなければならないということがあった。私は防水のフードつきジャンパーをすっぽり着こみ下半身には水をはじく毛布をかけ、妻が車椅子を押して、小学生の子供ふたりが傘をさしかけ、雨のなかを強行突破した。帰りも無論おなじ状況である。  私は妻がいつ爆発するかとハラハラしていた。程度の差こそあれ日々そのような心労と疲労を積みかさねていくうちに、妻の状態はどんどん悪くなっていったのである。  車道を通行中うしろから警笛を鳴らした自動車の運転手にくってかかることもしばしばである。運転手は、じゃまだからもっと道路のはじを行けという。ところが道路というものは、自分も障害者になってはじめて気づいたことなのだが、排水のため両はじがさがった、極端にいえばかまぼこ型の断面をえがくようなかたちにつくられている。健常者にとってはわずかな傾斜だから、どうということもない、しらずしらずのうちに全身の筋肉をつかって微妙なバランスをとっているのである。  だが車椅子にとってはこのわずかな傾斜も大敵で、道路のはじを行ったら最後、みるみるうちに車椅子はかたむき、乗っている私もかたむき、そして私には態勢をたてなおす筋力がないから、もがけばもがくほどますます体がかたむいてゆく。妻は私の体を起こしながら同時に車椅子の態勢もたてなおさなければならない。ちなみに私、身長は180センチある。  背後で妻と運転手が怒鳴りあっている。渋滞した車がクラクションを鳴らし、通行人はなにごとならんと立ちどまってながめる。私は前を向いたっきり。身をよじってうしろをふりかえることができないのである。めったなことでは怒鳴らない私も、警笛だけは腹がたつ。しかしもともと肺活量がおちているうえに体を起こすとよけい声量のかぎられてしまう私の怒鳴り声など、まわりの喧噪にかきけされて、はたから見たら車椅子の男が顔をゆがませながら口をパクパクやっている異様な光景にしか見えないだろう。あきらめて天を仰ぐしかない――こんなことが幾度もあったのである。  バルーン交換の話にもどろう。バルーンの構造については以前くわしく述べたからここでははぶくが、要するにゴムもしくはシリコン製の管を体内に留置するのに、ただつっこんだだけでは抜けやすいので、管のなかを2層にし、バイパスのほうに水を注入してその先端をふくらませ、体から抜けにくいようにするわけだ。じつに簡単明瞭な構造で、なんでもないことのようだが、これが発明されるまでは抜けるのをふせぐために絆創膏を貼りまくらなければならず大変だったという。  膀胱瘻は傷口である。雑菌がはいらないように滅菌ガーゼでおおい、私のばあいはその上から網目状の粘着シートをはってガーゼを固定している。バルーンを交換するためにはまずこの粘着シートをはがさなければならないのだが、いわば下腹部からサロンパスをはがすようなものだから、毛などもひっぱられ、私の脳はなにも感じなくても、皮膚にとっては相当な刺激になるらしく、反射で体がはげしくふるえる。ベッドのうえで体が波打つように跳びはねる。  粘着シートと滅菌ガーゼをとりさり、バイパスからバルーンの水をぬく。ここで不思議なことが起こる。バルーンには5tの水を注入しておいたのに、ぬいてみると3tしかないのである。  「これはわれわれ医者仲間でもときどき話題になって、どうしてなんだろうといってみんな首をかしげているんですよ」  泌尿器科の医師が言う。  バルーン内の水をぬくとカテーテルは1本のまっすぐな管になる。それをしずかに引きぬく。ぬく瞬間にチュポッというかすかな音がする。  つぎにあたらしいカテーテルの先端に潤滑剤をつけ、滅菌したピンセットでつまんで、瘻のなかにクイクイクイと押しこんでいく。クイクイという音がするわけではない。それからまたバルーンに水を注入し、すこし引っぱってカテーテルがぬけないことを確認してから滅菌ガーゼをかぶせ、ふたたび粘着シートで固定する。  傷口だからやはり浸出液はつねに出ているし、ガーゼに血や膿(うみ)のついてくることも多い。通常はイソジンやヒビテンなどで傷口を消毒し、さらに状態のかんばしくないときはアクリノールという黄色い薬液をガーゼにしみこませておく。あくまでも私のばあいである†1。  処置の最中にも皮膚感覚はなにひとつないのだが、カテーテルの抜去・挿入のさいにはさすがに刺激がつよいのか、過反射といって寒気や発汗をみる。ひたいにうっすら汗をかく。心身の緊張がつよいときには処置の最中に失禁することもある。  バルーン交換が終わったあとでしばらく違和感ののこることは、めずらしくない。膀胱炎をおこしていたり、あるいは精神的なストレスがたまっているときなどには、過反射がおさまらずに丸一日じわりじわりと間歇的(かんけつてき)に冷や汗にさいなまれる。  さらに過反射がつよくなると頭にドクンドクンと拍動痛がはじまる。たいていはしばらく我慢していればおさまるものなのだが、その日はおさまらなかった†2。 ○  問題の22日にも頭痛がひどくなり、妻が帰宅した4時半ごろには、「頭が痛い、頭が痛い」とわめいていたという。T医院に電話したものの先生はまだ往診中で、奥様が訪問先何軒かに連絡をとって、わが家に電話をくれるようとりはからってくださった。  手持ちの血圧降下剤のむも頭痛おさまらず。ややあってドクターから電話、「すぐに救急車でK総合病院へ行くように」との指示。  病院につくころにはさらに意識が混濁の度を深め、自分の名前すらこたえられず、「ピテカントロプスはフンデロザウルスと会議してどうのこうの」とまったく意味不明のことを口ばしり、液状の血圧降下剤を舌下にたらそうとしてもみずから口をあけられず、妻が舌を引っぱりだしたとのこと。  CT検査を終えると、「目が見えない、お茶がほしい」と大声で妻を呼んだ。烏龍(ウーロン)茶をのませたが、ほどなく気持ちがわるいとうったえ、吐いた。ついで白目をむいてゴーゴー高いびきをかきはじめた。  急に倒れて高いびきをかくのは脳卒中の症状であるという半端な知識をもっている私は、意識が回復してからその様子をきき、「すこし脳に鬆(す)がはいったかもしれないな」と言った。  ナース・ステーションに隣接する特別室に2泊したのち、6人用の大部屋にうつった。  そこでひとつ奇妙な現象を体験した。昏倒前後のことも人や物の名前もうまく思いだせず、内心すこしあせるほどであった。にもかかわらず、不思議に中高年男性の顔を見ると、きまって「あ、このひとは家の近所で会ったことがある」と感じたのである。男性部屋に入っていたので女性患者の顔を見る機会はなかったが、看護婦を見てもなんともない。若い男性もそんな思いを起こさせることはなかった。地元の病院だから近所の老人が入院しているはずだという先入観がはたらいたのだろうか。  そうだ、そういえば首の骨を折って日医大のICUへかつぎこまれたときも、意識が回復してから担当の看護士を見て、その顔や態度ものごしが当時の仕事仲間であったデザイナーに瓜ふたつなのにおどろき、兄弟ではないかとたずねたくなったが、いやいや名前もちがうし、そんな話はデザイナーから聞いたことがないから、あかの他人だろうと思いなおして、たしかめたいという気持ちをおさえたものだった。  三途の川まで行くと、むこう岸でなつかしい顔のひとたちが、おいでおいでをするという。脳になんらかの異変が生じた場合、たとえば脳圧が高まるとか酸素供給量が落ちるといったストレスが加わったときなど、記憶の表層がふっとんで「なつかし中枢」ともいうべきもののはたらきがつよくなるのかもしれない。  人や物の名前がなかなか出てこない。頭のなかにそのイメージは浮かんでいるのだが、名前が浮かばなくてもどかしい。「あのう、ほら、ええと……あれ、あれだよあれ……そう、ワインのコルク。コルクと、ええと……んー、セロテープ!……」そんな調子。だれにでもあることだが、子供より大人に多く、壮年より老年に多い。やはり脳の老化とみるべきだろう。  かつて潤和病院にいた半年のあいだに多くの片麻痺の老人を見た。脳卒中は左脳をやられるケースが大半で、そういうひとは顔から足まで右半身が麻痺すると同時に、まともにしゃべれなくなる。もちろん言語能力の喪失程度は各人各様なのだが、発病以前にどれほど口が達者だったとしても、障害は過去の実績を考慮してくれない。  むかしNHKの国際局長をつとめていたという老人は、「アートト」としか言えなかった。喜怒哀楽すべての表現が「アートト」なのである。だが、しゃべれなくて片手片足をブラブラさせていても、アタマははっきりしており、折しも「牛肉オレンジ輸入自由化問題」が世の中をさわがせていたころで、自民党政府は絶対阻止を断言し、マスコミは曖昧(あいまい)な論調をくりかえしていた。私もそんなことをしたら小規模な日本の畜産農家やみかん農家は大打撃をこうむるから、輸入の自由化はさけられないにしてもまだまだ先のことだろうと思っていたのだが、元国際局長は、歩行訓練で孫のような年齢のPTにささえられながら「牛肉オレンジは自由化する?」ときかれると、「アートト」と力づよくうなずいたものだった。  このひとのように判断力ののこっている場合はまだいいほうで、階段をエレベーターと勘ちがいして車椅子ごところげおち、顔中血まみれになった男性や、クモ膜下出血の手術でひたいに野球ボール半分ほどのくぼみをつくった女性が、零度になったテレフォン・カードが電話器から出てきてピーピー音がなりひびいているのに、なお受話器のむこうのだれかに向かって熱心に語りかけている姿などを見ると、それはだれにでも起こりうることだけに、感じるのはもののあわれだけではなかった。  半身不随ということは、理屈上もう半身は随意ということで、頸髄損傷のような全身麻痺にくらべればどれほどラクかしれやしないとも思った。同時に、もし頸損が脳卒中を起こしたらいったいどういう状態になるのだろうと考え、いささか暗然たらざるを得なかった。肩から下がすべて麻痺していて、なおかつその上が半分麻痺したら、これはもう棺桶に片足をつっこんでいるどころか、棺桶のふたからすこし顔をのぞかせている有様といってもよいのではないか。ありえないことではない。  おそれていた事態に近づきつつあるのかもしれないという思いが、K総合病院のベッドにいる私の脳裡にしばらくとどこおった。 ○  実家からかえってきた途端にはげしい頭痛をうったえてさわぐ私を見た妻は、さぞかし動転したことだろうが、かねてこのような事態のあることを覚悟していたものとみえ、救急車のサイレンが近づいてくるのをききながら入院に必要なものを手ばやくそろえ、その荷のなかに烏龍茶のボトルとまがるストローをつっこむこともわすれなかった。私は頸髄損傷の事故以来ひどくのどがかわくたちになってしまったのである。  「CTから出てきたあなたは、もう全然わけのわからない状態になっててさあ、妙なこと口ばしったかと思うと、おかあさん! おかあさん! 体を起こしてお茶を飲ませて! お茶ってわめくのよ。看護婦さんが、いま飲ませると吐くかもしれないからやめたほうがいいっていうから、ストローがみつからないの、いまさがしてるからちょっと待っててねっていって20分ほど時間をかせいだんだけど、それでもまだお茶、お茶、ってせがむから仕方なくあげたら、やっぱりじきに吐き気がするっていうんで横を向かせてビニール袋に吐かせたの」  土曜の入院だったせいか主治医もさだまらず不安だったが、とにかく入院と決まると、妻は看護婦長の了解を得たうえで、子供に電話して私が毎日つかっているエアー・マットを持ってこさせた。褥瘡をおそれたのである。  褥瘡の大半は入院中につくられる。残念ながらそれが日本の現実である。  (私のエアー・マットは、全体の大きさが、たて170センチ、よこ80センチ。直径10センチほどの丸太状の筒が16本ぴったり付いて並んでいる様子を想像すれば、おおよそのイメージは浮かぶだろうか。空気丸太はABABAB……と2系列にわかれており、付属の電動ポンプによってA系列がふくらんだときにはB系列がしぼみ、つぎにB系列がふくらむとA系列がしぼむという動作をくりかえすことによってベッドと体が密着することをふせぐ。)  CTの検査結果は異常なしと出たが、妻は光子姉さんに電話して土日家に泊まってくれるよう頼み、自分は私のとなりの補助ベッドに寝た。特別室だったからそれができたのだが、翌日曜の昼ごろ意識を回復した私が、「もう大丈夫だからおまえは家に帰ったほうがいい」と言っても、まったく聞きいれようとしない。  いつも水曜と日曜に夕食づくりなどをたのんでいるボランティアの鈴木さんが、妻用の弁当をつくって持ってきてくれた。ひとがいま何に困っているか見抜いて、すばやくそれに対処できるのである。地に足のついた能力である。  月曜日、6人部屋に移動。補助ベッドはないし、だいぶぐあいもおちついてきたから泊まらなくてもいいと言ったのだが、「待合室のベンチをくっつけてそこに寝る」と妻は頑張る。看護婦がやってきて、ここは完全看護で付添いの必要はない、体位交換も3時間おきにするので安心してほしいと言っても頑としてゆずらなかった。  妻の気持ちもわからぬではない。全身麻痺の患者には付添いなしで完全な看護などできはしないという確信を、2人とも以前の入院生活を通じていだいていたのである。しかし今回の入院はわずか数日のことであろうから耐えられないことはない。それになんといっても毎日を鬱々と過ごしている妻が、いきなり付添いのような激務に就くのは危ういように感じられた。  「付き添ってくれるのはいいけど、そんなにはりきっていたら家にかえってから反動がくるよ」  いくら説得しても、「安心できない、信用できない、心配だ」と声高に言いはるものだから、看護婦たちもムッとした表情である。たまたま見舞いにきてくれた本條さんが見かねて、「自分がかわりに待合室に泊まりますから、奥さんは休んでください」と申し出てくれ、それでやっと納得した。  妻を説得するには、ナース・コールの問題も解消しなければならなかった。私は指がうごかないから、ふつうのナース・コールが押せず、これはたしかに不便なだけでなく、かなり危険なことでもある。見ると、ショートピース大のプラスチックの中ほどに丸いくぼみ状のスイッチが付いた形式のものである。うっかりさわって作動することのないように、わざわざくぼませてあるのだが、これでは私にはつかえない。そこで一計を案じ、ワインのコルクとセロテープを持ってこさせた。コルクを輪切りにしてくぼみにはめこみ、セロテープで止め、凹式スイッチを凸式に変えた。これなら腰の横あたりに置いておき、手の甲でスイッチをたたけばつかえるだろうと踏んだのだ。大成功だった。  熱は下がらず、頭痛もおさまらなかった。  MRIというCTに似た器械の中にはいって脳と頸椎(けいつい)の写真をとった。CTは体を直角に輪切りにした断面写真しかとれないのに対し、MRIはななめ切りの写真もとれる一段と精巧な検査機器なのである。CTよりも検査に要する時間が長く、体を横たえたトンネルの中いっぱいに「ゴンゴンゴンゴン、ダッダッダッダ」と不快な音がひびきわたるのが難点で、その重たい音をきいたとたんに頭痛がはげしくなった。  「中止しますか?」  検査技師の問いに、いまやめたら後日また病室のベッドからストレッチャーにトランスファー(乗りかえ)し、検査室にはこばれたのちストレッチャーからMRIにトランスファーして検査を受け、終わったらまた逆の順序で病室のベッドにもどらなければならないという、私と介護者のわずらわしさを考え、  「いや、つづけてください」 と答え、我慢した。  結果は異常なし。  「ただのカゼだから退院するように」と主治医から告げられた妻は、「頭が痛いと言っているし、熱もさがらないのに退院しろでは納得できない」と食いさがった。  「それではご主人に説明するからいっしょに行きましょう」  怒って妻の腕をつかんだ主治医の手を、  「さわらないでよ!」  ふりはらったので医師は激ミし、  「今後二度とK病院の敷居をまたぐな!」 と怒鳴った。  ――というのは家に帰ってしばらくしてから聞いた話で、当時そんなやりとりがあったことなど、ついぞ知らなかった。  「おいおい本当かよ。よわっちゃったなあ。それじゃあオレはもうK病院に行けないじゃないか。しょうがねえなあ」  K病院は、近所で唯一の総合病院なのである。  「いいのよ行かなくて、あんなとこ。尿培養で緑膿菌が出たって言っときながら薬も出さないで、あなたが頭が痛い、頭が痛いって言って、熱も8度4分もあるのに、ただのカゼだから退院しろって言うのよ。アッタマきちゃう。なによ若造のくせしていばっちゃってさ」  だれでもはじめは若造だから仕方のないことなのだが、そういえば昔、まわりはみんな大人ばかりだったような気がする。学校の先生もおまわりさんもお医者さんも政治家も、みんな自分よりはるかに年長で偉く見えたものだ。それが今や年をたずねるまでもなく明らかに自分より年下のひとが多くなってしまった。「馬齢をかさねる」ということわざもあるし、年をとったからといって利口になるものでもないことは、わが身をかえりみればわかることだが、やはり医者などは自分より年上であるほうが安心できる。  木曜日に妻が都立M病院へ行って自分の主治医に私の症状を話すと、元脳外科医の先生は「髄膜炎(ずいまくえん)のおそれがある。自分の先輩が脳外科にいるから即刻転院して検査したほうがいい」とのご意見だという。もう病院生活には飽き飽きしていたが、「髄膜炎から脳膜炎になったらどうするの」という妻の剣幕に反論するだけの根拠をもちあわせていなかった。  転院は1月29日(土)、救急車でという計画をたてた妻は、すぐにその手配をした。そのはりきりかたがかえって不安だった。ふだんはひねもすうつらうつらして夢と現実のさかいも分明にしがたいような日々をおくっているのに、この活発さはどうだ。このままずっと元気でいてくれればこんなにうれしいことはないが、一時的な興奮だとすると、その後の反動を危ぶまずにはいられない。  転院の朝、若い看護婦が食事介助をしてくれた(K総合病院の食事は、熱いものは熱いまま、冷たいものは冷たいまま病室まではこばれてきて、なかなかうまい)。病院ではたらきながら看護学校にかよっているという。20歳ぐらいだろうか。病院や学校、寮のことなどをゆるやかにやさしくそして熱心に話しながら、スプーンを口にはこんでくれる。病人の介護がしたくてこの道をえらんだのだろう。たのしそうに介助をしてくれるのがうれしい。いい看護婦になるだろう。わかれぎわに、「きのうの夜折ったのよ」といって、ちいさな鶴を11羽糸でつらねたものをくれた。  M病院に転院、脊髄液をとって検査、結果は異常なし。髄膜炎の心配は消えた。もう何もすることはなかったが、とりあえず1週間入院して様子をみるということになった。M病院の食事は、病院食としては平均点である。まずい。  ただ食って寝ているだけではあまりにも能がない。せっかく入院したのだから体重を測ってもらうことにした。以前入院した国リハには車椅子ごとのれる体重計があったが、私は車椅子が大きすぎて測れなかった。ここにはストレッチャーに寝たまま測れる装置があった。60.5キロ。ほぼ予想どおりだった。受傷以前は68キロだったから、約8キロ分の筋肉が落ちたことになる。骨も細くなったのだろうか。肺活量も測りたかった。受傷直後には800tに落ちていたが、いまはもっとふえているはずだ。が、残念なことに肺活量の検査器具はおいてなかった。  2人部屋のあいかたは、脳をやられているらしく、一晩中大きな声でわけのわからない寝言をしゃべりつづけ、おまけに隣接したナース・ステーションからはガラス窓越しに煌々(こうこう)たる蛍光灯のあかりがはいってくる。ハルシオンを服用したくらいではまんじりともできぬ夜がつづいた。入院以来、便通もわるくなった。  「世の中に寝るほど楽はなかりけり世の馬鹿どもは起きてはたらく」という戯れ歌がある。これはふだん起きてはたらくすこやかなひとについてはあてはまっても、身うごきができず、しかも腕や背中に圧痛のある者にとって一日中横たわっていることは、苦痛以外のなにものでもない。車椅子にすわって体を縦にしたかった。できればカットアウト・テーブルに前のめりして背中を楽にしたかった。前のめりという除圧の快楽をおぼえてしまったいま、受傷後1年以上におよんだ入院生活に耐えられたということが信じられない。1日も早く退院したかった。  退院当日、2月4日(金)は友人の竹上・雁本(かりもと)の両氏が手伝いにきてくれた。妻はお見舞いにいただいたピンクのチューリップを病院においてかえるのはもったいないと、アルミホイルとラップと新聞紙を持参、喜々として花束をつつんだ。むかえには東京寝台株式会社の寝台車をたのんだ。  「この車はとてもしずかに走るんですね。え、シボレーなんですか。まあすごい。おとうさん、シボレーだって。全然ゆれないもんね。救急車とはのりごこちがちがうわよね。ほんとに今日は天気もよくて退院びよりだわ。このチューリップも家についたらすぐ花瓶にいれてあげましょう。こんなにきれいでかわいいチューリップってめずらしいでしょ。ほら、この光沢がなんともいえず上品よね。ね、ほら」  妻はしゃべりづめだった。常用している薬の副作用で声帯がとじきらずに空気がもれ、いつも寝起きのようなかすれ声なのだが、気分が高揚しているためか、ふだんより声に張りがある。目もいつになくパッチリと見ひらかれていた。  「運転手さん、寝台車っていうのはどのあたりまで行ってもらえるものなんですか。まあ、そんなに。ああそうか旅先でたおれたときねえ。そこまで行くと料金なんかもずいぶん……45万! ええ、ええ、あ、なるほど往復することになるものねえ。はい、そこを右です。さあもうじきおうちよ、おとうさん」  かぎられた車窓のそとに見おぼえのある風景があらわれはじめ、バックして路地にはいると車はとまった。うすぐらい寝台車からストレッチャーがゴトゴトと引きだされた途端、私の視界一杯にあかるい空がひろがった。その水色の空をまっ2つに分けるように1本の飛行機雲がくっきり伸びている。ゆくてをさえぎるひとはけの雲もない天空のなかをホッチキスの針ほどの銀色にかがやくジェット機がゆっくりと進み、すこしあとから繰り出されるまっ白な細い雲は、後尾へたどるほどに幅ひろくそしておぼろになって果ては水色の空にとけこんでいた。家のなかに運びこまれるわずか5秒間ほど、しあわせな気分にひたれた。 ○  ベッド正面の壁にはオカムラのユニット家具という棚が3列、天井までならんでいる。背後のあいた棚なので、電気の配線がしやすく、そこにはテレビのほかにオーディオセット、ファクシミリなどがおいてある。  ベッドの左わきに電動車椅子を横づけし、天井走行型のトランスファー・システムで車椅子に移る。完全に脱力した成人男性を人力でベッドから車椅子に移すには、最低2人の人手を必要とする。これを1人でおこなうときは、かならず器械の助けをかりなければならない。強引に独力でやりつづければ、今度は介護者が腰をいためて身うごきできなくなる。  トランスファー(乗りかえ)の道具には幾種類かある。私がつかっているものは、あらかじめ天井に埋設したレールにリフト用具を組みあわせたもので、場所をとらない点が便利で体裁もいい(ただ、このシステムは新築家屋向きで、改築には適用できないかもしれない。改築家屋には部屋にレールを支える枠を組むシステムや床走行式がふさわしいだろう)。  操作は、介助者がリモコンでおこなう。手がつかえるひとは自分ですればいい。リフト用具のボックスは、天井のレールの下を走行する。まるでモノレールカーのようだ。ボックスからは頑丈なハンガーが丈夫なワイヤーでぶら下がっており、リモコンの「下」ボタンを押せば、ワイヤーが伸びてハンガーがおりてくる。  横たわっているひとの両膝のうらと両脇の下に1本ずつ太いベルトを通しておき、ハンガーの両端に付いているフックにかける†3。「上」ボタンを押せばワイヤーがボックス内に巻き上げられて、体が宙に浮く。車椅子の上まで移動して静かにおりる。  ほかのトランスファー・システムも、あがって、横移動して、さがるという基本に変わりはない。  車椅子にすわったら、私はそのまままっすぐすすんで、部屋のすみからもってきたキャスターつきのカットアウト・テーブルに前のめりをする。車椅子の左側には本棚がせまっていてスペースはない。4メートル×6メートルというずいぶん大きな部屋なのだが、ベッドと電動車椅子だけでも場所をとってしまう。重度障害者用の部屋は、なるべく大きくありたい。  トランスファーの準備をしているころから、もう一刻もはやく前のめりがしたくてたまらない。背中がキリキリと悲鳴をあげている。高さ調節のできるテーブルは、車椅子が入るように最高の位置まであげてあり、テーブルの上には枕が積みあげてある。所定の位置まで車椅子をつっこんだら、テーブルのキャスターにストッパーをかけ、上半身を前にたおし、顔を枕の上にのせる†4。これで背中と腕の除圧ができる。このときの安堵感といったらない。大きなため息が出る。  以前は食事時になると、となりの台所のテーブルまで移動していたのだが、めんどうなのでやめた。どれほどめんどうかというと、まず前のめりの体を起こしてもらい、カットアウト・テーブルのストッパーをはずしてわきへよけ、さげてあった車椅子の運転レバーをあげて台所まで運転し、そのままの姿勢では苦しくて食事どころではないのですこしリクライニングし、食事がおわったらまた背もたれを起こしてもとの位置まで運転し、レバーをおろして、しかるのちにカットアウト・テーブルをセットして前のめりをしなければならないからである。介護する側もされる側も、そして読者もおもわず読み飛ばしたくなるほどめんどうなのである。  現在は食事をお盆にのせて車椅子の前のテーブルまで持ってきてもらっている。介護というものを考えるさいには、介護される側の都合とおなじだけ介護する側の都合も考慮しなければならない。  退院したのは、ボランティアの来山くんが来てくれる金曜日だった。ベッドから車椅子にうつると、いつもとちがって私の左側にスペースがあくような位置に車椅子をとめた。たいていの人は右ききだから右側をあけておけばいいのだが、来山くんは左ききだから私の左に立たなければ食事介助がやりにくいのである。  金曜はいつも子供が2人とも塾へ行ってしまい、妻は実家へ泊りに行って不在。そこで6時から9時までの訪問を依頼していた。食事介助、食器の洗い上げ、前のめりをしながらの書類整理、本や雑誌のページめくりなどを手伝ってもらったあと、車椅子の背もたれをフル・リクライニングして歯をみがいてもらう。フル・リクライニングしなくても歯はみがけるのだが、長時間前のめりをしたあと体を起こすと起立性低血圧で失神することがある。その予防のためである。  その日、妻は家にいたが、来山くんにはいつもどおり来てもらった。2週間ぶりの自宅の夜は、順調になにごともなく過ぎた。2人とも疲れていたから、その夜は11時ごろ右側臥位(右肩を下にした横向きの姿勢)に体位交換してねむった。  翌土曜は、ひさしぶりに会った橘さんと3人で入院時の様子などを話しながら比較的おだやかな1日をすごした。妻は、  「K病院についてCTの台にうつると、あなたはそれまでもわけのわからないことを口ばしっていたんだけど、急に、へーん! これが何々なのか、へーん! ふーん! て、すごく挑戦的なばかにしたような態度をとりはじめたの。それを聞いたら、ああこれはきっと私がいつもあなたにアタリちらしているものだから、あなたはこんなかたちで日ごろの鬱憤(うっぷん)をはらしてるんだと思って胸が痛んだわ」  しおらしいことを言う。私はすこしやさしい気持ちになりながらも、ここ数年の経験を思いおこすと安心しきれなかった。なさけのこまやかなところは、かつてとなにも変わらない。これがつづいてくれればいいんだけど……。  さわぎは、土曜から日曜にかけての深夜にはじまった。深夜、いつものように右肩が痛くなってめざめた私は、ねぼけて病院にいるものと勘ちがいし、「看護婦さん、体交おねがいします」と言ってしまったのである。あ、いけね。気づいたときは遅かった。起きあがった妻は、  「そう、あなたはやっぱりあたしのことを看護婦だと思っているのね」  猛然と怒りだした。それまでに幾度となくくりかえされてきた口喧嘩の火種に息をふきかけてしまったのである。あたしは家政婦でもなければ看護婦でもないのよ。あなたにとってあたしは何なの。あたしたちのどこが夫婦なの。夫婦としてのよろこびがどこにあるっていうの。そとを歩けば若いカップルはいちゃついてるし、老夫婦はたのしそうに肩をならべて歩いてるし、腹のたつことばっかり。あなたは一日中あれをしてくれこれをしてくれ、そんなことしか言わないんだから。ひとっつもたのしみっていうものがないのよ……。  文句を言いながらも上向きに体位交換してくれる。しかし怒鳴られながら介護をうけるというのは、そうとうつらいことである。頸損になってみなければわからないというせりふを私は好まないが、これだけはすくなくとも似たような体験をしたひとでないと想像しにくいかもしれない。仏頂面(ぶっちょうづら)は気を重くさせ、ためいきは心をヒヤリとさせる。  おのれの失言からはじまったことである。あまり強気にもなれず、いやそんなことはないんだけどとかなんとかモゴモゴ口ごもっていると、話は25年まえまで一気にとんでしまった。またか。あのときあなたはあたしを愛してなんかいなかったのよ。あたしの体がほしかっただけなんでしょ。そんなことないよ、愛してたさ、何十回おんなじこと言わせるんだ、と応えながらも、あまり何度もおなじ言葉を聞いていると、次第に相手の言い分が正しいような気もしてくる。かといって、そうだ、おまえの言うとおりだと肯定したところで納得するとも思えない。まして、恋情と欲情が区別しがたいものであるところに若い男のなやみがあるのだよなどと言えば火に油をそそぐようなものだろうしなあ、どうしたものかと考えているうちに、怒ったまま妻は台所へ行って、境の引き戸をピシャッとしめてしまう。  「あのさ、ちょっとお茶くれない? のどかわいちゃって」  「もう、なぜもっとはやく言ってくれないの」  夜中の体位交換のときにつめたい烏龍茶を飲むのは、いつもきまったことではないか。してほしいことを手順よく列挙すればしたで、つづけざまにいろいろ言われてもいっぺんにできないという言葉がかえってくる。重度障害者にはお茶を飲む自由もない。が、いまそれを言うと事態はますます紛糾するだろう……。  お茶をいれたコップからさしのべたストローの吸い口が、私のくちびるにとどかずウロウロしている。妻の顔を見ると、まぶたがほとんどとじている。強い眠剤を飲んで寝こんでいたところを起こされたのだ。無理もない。それも毎晩のことだ。もうしわけない。  おぼつかぬ足どりで台所にもどった妻が、なにかをテーブルから落とし、こまかいもののちらばる音とちいさな悲鳴がきこえた。ぶつぶつ言いながらかたづけているのだが、目もよく見えず意識も朦朧(もうろう)としているためうまくいかないらしく、そのうち癇癪(かんしゃく)をおこして金属製のものを投げつけるするどい音がして、ついで泣き声がきこえはじめた。飛んで行ってたすけてやりたいが、それができない。  地獄だなあと思う。地獄は現世にあり、と天井のくらやみにむかってつぶやいてみる。  妻が寝室にもどってきたのは、朝ほのあかるくなってからのことだった。それまでカチカチとライターの火をつける音や冷蔵庫をあけしめする音のあいまに、ころんだりぶつかったり物を落としたりする音がまじった。おそらく追加眠剤と朝の薬を飲んだにちがいない。もう意識も記憶もないのだろう、またけがをしなければいいのだが、と思うと気が気ではなかった。  ウトウトしかかっては物音で目をさますということのくりかえしだから苛立ってもきて、まぎらわすために環境制御装置でベッドを起こしてテレビをつけてみたが、日曜の明け方にはテレビもラジオもやっていない。窓の障子が白んできてカラスが鳴きはじめるころには、絶望的な気分になってくる。  ふと気がつけば、テレビが子供音楽会のようなものをやっている。タイマーでついたのだ。いつの間にかねむっていたようだ。背中が重苦しい。肩胛骨がベッドにおしあげられて、二の腕が痛む。ベッドから肩胛骨をはなしたい。もうはやく車椅子にうつって前のめりしたい。しかし、子供はふたりとも大きくなるにつれて朝がおそくなってしまった。緊急事態ででもないかぎりこんなにはやく起こすわけにもいかない。9時になるのを待って環境制御装置で2階のインターホンを鳴らす。  妻は昼ごろ1度目をさましたが、薬を飲むとまた寝床にもぐりこみ、夕方、手伝いの鈴木さんが来たときもまだねむっていた。子供に夕食介助をしてもらって、やれやれと、その日最後の前のめりをしたころに起きてきた。テーブルの前をとおりかかった妻に、  「目、さめた?」 ときくと、  「ンン」  否定とも肯定ともつかぬ返事である。  「ご飯ちゃんと食べたほうがいいよ」  「いらない」  「朝も昼も食ってないんだから」  「そんな気になれると思う?」  ひとが心配して言っているのに、そんな迷惑そうな声を出すならオレはもう知らんぞとばかり、こちらもムキになってだまりこむ。台所からは粉薬の紙袋をあける音と錠剤をシートから押し出す銀紙の音がきこえたあとは、つきのわるいライターをカチカチ押す音がときどきひびくのみである。  私は枕のうえにあごをのせてテレビを見ていた。お笑い番組だが、笑い声をたてるのもはばかられる雰囲気で、あまりおもしろくも感じられない。バカ番組は、一緒に笑ってくれるひとがそばにいるとおもしろさが倍加する。  息子が小学生のころは、下のテレビを一緒に見ながらコントの落ちあて競争などしたものだが、中学生になってからは食事が終わるとすぐ2階にあがってしまい、それでおなじ番組を見ていたりする。2歳上の娘は、もうとうに寄りつかない。2人ともフニャッとした顔で近づいてくるのは、なにかをねだるときだけである。  思春期になれば親離れが始まるのは、自然なことである。動物はすべてそうだ。むしろ親の側の子離れが、積極的におこなわれる。タンチョウヅルなどは、子わかれの時期になると、親が子を突ついたり蹴とばしたりしてテリトリーから追い払う。人間だけがいつまでも子供を抱え込もうとする。親離れに反抗期という名称を与えたのは誰なのだろう。親の側からの一方的なとらえ方にいかにも学術的な用語を与えてしまったばかりに、どれほど多くの親子関係がゆがんでしまったことだろう。  子供は、時期が来れば親がうとましくなる。子供自身、なぜうとましいのかわからない。親に特別な欠陥があるわけではないから、ギクシャクした関係を修復しようとして親子で話しあったところで、冷静な議論にはならない。子供が説教されるかたちになってしまう。おもしろくない。そこでますます親から遠ざかる。自分は親不孝なのだろうかと自責の念さえわいてくる。  私はそう考えている。子供の自立をしずかに見守ってやりたいと思う。……と、考えてはいるのだが、さみしい。腹立たしくさえある。うとんじられるおぼえはない。  それともやはり、わが家のばあいは特別なのだろうか。母親はいつもふさぎこんでいるし、父親はなにかと用を言いつける。そのうえ両親は始終言い争っている。たしかにこれではそばにいたくなくなるのも無理はない。気をもむばかりである。  8時半になった。1時間前のめりをしているので、もうだいぶんあごが痛い。ここで子供がおりてきてトランスファーしてくれれば、なにごともなく事ははこぶのだが……。しばらく我慢したがおりてくる気配がない。たえきれず、  「ベッドへあげてくれるかい?」 と妻に声をかけた。賭けだった。  「いまそんなことができる状態かどうか、考えたらどうなの」という答えがかえってくるかもしれない。だとすると、そのあとに「あなたはいつも自分勝手なのよ。25年前もそうだったわ」という言葉がつづくにちがいない。あるいは「ベッドにあがるから子供を呼んでくれるかい?」という言い方をしたほうがいいかもしれない。でも今日はそちらを採ると「もうあたしはこの家には必要のない存在なのね」という返事がかえってきそうな気がしたのである。  すこし間があってから、膝のうしろで椅子をおしやるゴゴゴという音が台所のほうでした。  妻はだまったまま私の両肩に手をかけて車椅子の背もたれまで体を起こし、だまったまま洗面所にむかった。あ、歯みがきはいいよと言いかけて、やめた。余計なことを言って、せっかく順調にいきかけているのに思わぬ波乱を起こしたくない。水をいれたコップと金属製のガーグル・ベース、それに電動歯ブラシをもってきた。  いつもならここでリクライニングするのだがと思いながらも、だまって口をあけ歯をみがいてもらった。体を立てたまま口だけ天井に向ける姿勢は、意外にしんどいものだ。まあしかしこの姿勢でやることもあるし……。のどのほうに歯みがきの泡のまじった唾液がながれこんでくる。そのうち……。  「おとうさん! おとうさん大丈夫? おとうさん!」  失神していた。妻は私の足のほうにまわりこみ、両足をかかえあげていたが、カットアウト・テーブルにはばまれて十分にはあげきれず、それで意識の回復もおくれたようだった。  「やあ、すまんすまん。失神しちゃったんだね」  「すまんすまんじゃないわよもうっ!」  半べそをかいている。  「もう大丈夫だから」  口の中が歯みがきのミントでからい。  「みがいてたら急にブラシをガリガリかじりだすんだもの」  「ごめん、ごめん。もう平気」  テレビの画面はまだまっ白だが、音声ははっきりしてきた。なにもはじめて失神したわけじゃあるまいし。日常茶飯事ではないか。失神をおそれていたら頸損は生きていけない。そう思った。口にはしなかった。  妻はなにかとげとげしい言葉をはきだしながらカットアウト・テーブルを移動させようとしていたが、床においてある2枚の座布団がひっかかってうごかない。子供はテレビの前の座卓で食事をするのである。カバンや眼鏡ケースなども床に散乱していた。妻は座布団を一枚つかむと座卓にたたきつけた。  「もういや、こんな生活!」  さけびながらもう1枚もたたきつけた。こうなってしまったらいさめても効果はない。危険なことをしないかぎりだまっていようと思った。  プラスチック製の眼鏡ケースをつかんでふりあげた。これを木の机にたたきつけたら、われてとびちる。怒鳴りつけて制止しようとした瞬間、座布団のうえになげた。力を加減していた。  「どうして毎日、毎日、ヒヤヒヤしながらくらしていかなきゃならないのよ!」  それを聞いてハッとした。そうか、おびえているのか。    ここちよい風の吹く水面を軽快に走るヨットのような快活な女性だった。しかし、黒い雲が押しよせて以来、暗鬱の海底にしずみこむ時間が長くなり、時として一気に上昇したかと思うと荒れくるう竜巻きの中に身をおどらせる。そんな日々がつづいた。おのれをおそった病魔の姿を見さだめようと朝から晩まで、ときには夢のなかまでおいかけつづけ、ほりさげつづけ、再起への手がかりをつかみかけたところで、私が全身麻痺になった。海が裂けたうえに天がふってきたのである。  介護に疲れはて、思わずあたりちらしたり、ときには手をあげたりして、あとで自己嫌悪におちいり、気をとりなおしてやさしく接しようと思っても、べつに状況が改善されているわけではないし、怒鳴られたほうは心の扉をそのたびにすこしずつ閉ざしていくから、気持ちのかよいあいが次第にうすれ、そこでますます苛立ちがつのる。そういう構図だろうと思い、懸命になって妻の肩の荷をかるくするようつとめてきた。けずれるものは全部けずった。それでもなお回復のきざしをみせないという事態にたちいたって、いよいよ疲れているのは体よりむしろ心であることだけははっきりしてきた。  そして今日またひとつ、心労の一因におびえがあることに気づいたのである。理解しがたい惑乱の内奥を垣間みる思いがした。  †1 膀胱瘻の処置  今はこれほど複雑な処置はしていない。亜鉛華軟膏を塗るだけである。イソジンやアクリノールなどは手術直後には必要であっても、瘻口が安定したら付けないほうがいい。かえってただれる。急性期と慢性期では対応が異なる。急性期を診る医者は慢性期を知らず、慢性期を診る医者は急性期を知らない。  †2 過反射の危険性と対策  頸損に過反射は付き物、みんな苦しい思いをしている。ただ苦しいだけでなく命に関わる危険性をはらんでいる。日本せきずい基金のホームページに米国退役軍人マヒ者協会発行の“Yes, you can !”が掲載されており、なかに自律神経過反射の対処法が載っているので引用する。プリントアウトして常に携帯したい。私もこれを知っていれば入院せずにすんだだろう。 《 自律神経過反射についての医学的警告カード  このカードの所有者(氏名:藤川景、C5)は、自律神経過反射のリスクがあり、それはT7レベル以上の脊髄損傷者の生命を危うくするやっかいなものである。  それは交感神経系の亢進によるもので、損傷レベル以下の有害な刺激に対する反応である。  一般に自律神経過反射の病因は膀胱の残尿、腸の膨満、きつい衣類、足の巻き爪などによる。  症状は血圧の上昇、頭痛、鼻詰まり、徐脈、頬などの潮紅である(損傷レベル以上での)。ふつう、脊損患者の血圧は最高血圧90、最低血圧60であることに留意するように。もし自律神経過反射を解決できなければ心筋梗塞、脳卒中、網膜出血、あるいは死を招く。原因を特定することは必要であり、血圧の上昇をすぐに解消しなければならない。治療法の詳細を記すこのカードを見ること。 ○ 自律神経過反射の治療  ベッドを90度に上げて頭を起こすか、まっすぐに座らせること。  自律神経過反射の原因をチェックすること:膀胱の充満・腸の膨満、きつい衣類、足の巻き爪、褥創あるいは何らかの有害な刺激。原因を除くには一般に症状の減少か除去による。  血圧と心拍を5分ごとに測定する。  カテーテル法のための局部麻酔ジェリーを用いて排尿させるか膀胱洗浄を行なう。  直腸壁に麻酔軟膏をつけたあと、直腸の便をチェックする。便がある場合は指刺激により排便反射を引き出す。 ○最大血圧が160以上の場合2.5cm(1インチ)のニトログリセリン軟膏を体毛のない皮膚に塗り、清潔なラップでおおう。 ○最大血圧の上昇が続くようであれば、更に2.5cmほどのニトログリセリン軟膏を塗る(計5cm)。 ○最大血圧が130まで減少したら、ニトロ軟膏を拭き取る。 ○5cmほどのニトロをつけたのに最大血圧の上昇が残っていたらヒドラ10mmgを投与する。その10分後に変化がなければ、更に10mmg投与する。 ○上記の治療でも最大血圧の上昇が残っていればニィフェジピン10mmg錠をゆっくりと噛み砕く。ニィフェジピンを投与した場合、自律神経過反射がコントロールされる際に一度低血圧のリスクがあり、ニィフェジピン投与後の数時間は厳密にモニターすべきである。 (米国退役軍人マヒ者協会発行 Yes, You Can! から抜粋)》  ニトロの軟膏はもはや日本では市販されていない。私が所有しているのは、ニトロダームTTSという貼付剤(シール)。冠状動脈と全身の静脈を拡げる作用がある。  要するに異常に高くなった血圧を下げるには、まず頭の位置を高くし、血圧が160になったらシールを貼り、130に下がったらはがす。それ以上の処置が必要なばあいは救急車だろう。ニトロのシールは主治医にもらっておく。血圧計も買ったほうがいい。文中に脊損の最高血圧は90だとあるが、それは座位の話で、横になっていればもっと高い。私のばあいは、寝て120、すわって60。  †3 トランスファー用スリングシートの欠点  体をつるす道具として私は2本のベルトを利用している。最近は肩から膝までをすっぽり覆うシート形式のものがはやっているが、身長が180cmもあると長さが足りなくて使えない。  †4 命綱  カットアウトテーブルに前のめりするという生活を繰り返しているうち、テーブルのストッパーがあまくなって、テーブルが前方に逃げるようになった。居心地が悪いばかりか前に転げ落ちる危険が出てきたので、車椅子とテーブルを命綱で結びつけることにした。            *ヒマワリの種を買いに*  ヒマワリの種を買いに出かけようと思った。シジュウカラにやるのである。ベッドから見える餌台にやってくる野鳥たちは、種類によって餌も異なる。黒いネクタイをしめたシジュウカラの好物は、ヒマワリの種。太い竹筒を1節たてにわったものの両端をピラカンサの枝につるして餌台にしていた。  鳥は音と動くものに反応するようだ。ベッドサイドのガラス戸はアルミサッシで遮音性が高いせいか、こちらがじっとしていれば安心して餌をついばんでいる。  バード・ウォッチングに行けない体になってしまったので、鳥に来てもらうことにした。まず窓辺に木を植えなければならない。妻と2人で木をえらんだ。妻はどうしてもヒイラギナンテンがほしいといった。魔除けになるのだそうだ。  高島平団地に住んでいたころに入手した『樹の本』(板橋区、1982年発行)を参考にした。初心者にもとてもわかりやすい。木の種類は「株立ち」と「幹立ち」とに大別できるということを教えてくれたのもこの小冊子だった。いままでに出会った無料本中の白眉と言っていいだろう。  ピラカンサを植えればヒヨドリが来るにちがいないと思った。南に面した2間のガラス戸にそって東からマンリョウ・ソヨゴ・ヒイラギナンテン・ピラカンサ・カイドウ・サラサドウダン・シャクナゲ・センリョウ・ベニカナメ・マユミ・ツツジ・キンモクセイを植えた。これほど詳しく書けるのは、植木屋に図をかいておいてもらったからである。丈の低いものは、ベッドに横たわっている私からは見えない。  木を植えると心がなごんだ。それまで窓のそとに見えるものといえば隣家の壁と塀だけだったのである。私の位置から見える場所にピラカンサを植えてもらった。  シジュウカラが肉の脂身を食べることは、知っていた。むかし母が脂身をミカンのネットにいれて木の枝につるしていたのを見ておぼえていたのである。  それを試してみたところ、シジュウカラだけでなくメジロもやってきた。これはうれしかった。窓の障子を閉めていた数日間のうちに、シジュウカラのとはちがう、こまかい食(は)み痕が脂身についていたので、いったいどんな鳥が来ているのだろうと不思議に思っていたのだ。メジロなど間近に見たのはそれが初めてだった。メジロはウグイスに似た鳥で姿がよく、ウグイスよりウグイス色をしている。目のまわりが白いのでそう名付けられたのだろう。いつも2羽でやってくるのがほほえましい。シジュウカラもかならずつがいでやってくる。ネクタイの太いほうがオスである。  小鳥がついばんでいるうちはよかったのだが、ある日カラスがガアガアいいながらネットごと持っていってしまった。カラスがかわいく感じられないのは、色のせいだけではあるまい。ネットを枝にぐるぐる巻きにして堅く結んでみたが、翌日には跡形もなかった。頭がいいから、餌をつけたとたんにまたやられてしまうにちがいない。それ以来、脂身はあきらめた。  シジュウカラにはヒマワリの種を、メジロにはミカンをやることにした。ミカンを水平2つ切りにして枝に刺すのである。冬は餌が少ないせいかひっきりなしにやってきて、ミカンのふさの袋だけを放射状に残してきれいに食いつくす。  シジュウカラのオス・メス判別法を教えてくれたのは、『フィールドガイド日本の野鳥』(財団法人日本野鳥の会、1982年発行)である。野外でつかうことを念頭において作られた堅牢な本で、わが家のものは、表紙が手垢でうすよごれている。大井野鳥公園のスタンプが押してあり、表紙の内側には、品川駅東口から大井町駅東口までのバスの時刻表の写真が、はりつけてある。書きうつすより正確だし、記念にもなると思って、停留所の時刻表を写真にとった。それほど通ったのである。  双眼鏡は、8倍のものを買った。初心者にはこれくらいの倍率がちょうど良いのだそうだ。高倍率になればなるほど遠くの鳥が見えるが、視野がせまくなって鳥が見つけにくい。  ある冬、見るだけでなく写真をとりたくなり、会社から200ミリの望遠レンズを借りて出かけた。初めての望遠レンズである。バスに乗りこんだときは、オレは望遠もってるんだからな、なめんなよ、とあごがすこし上を向いた。ところが野鳥公園に着いてみると、半円形の塀に銃眼のようにあけられたのぞき穴に、先着のバード・ウォッチャーたちは、まるで土管のようなレンズをつっこんでいるではないか。はずかしくなって、撮影もそこそこに、私はスキットルに持参したウィスキーをぐいぐい飲んだ。  子供は鳥より売店のほうに興味があるようだったが、ときどきベテランたちに抱っこされて、三脚の上の望遠鏡をのぞかせてもらったりしていた。  2人ともまだ小学校にあがる前で、私たち夫婦も30代前半だった。家のなかに活気がみちていた。  「もったいないくらいしあわせだった」と当時をふりかえって、妻は述懐する。あのころがわが人生の黄金期だったということに、いまになって気づく。    ヒマワリの種を買いに行きたかった。餌台にいれてやると、シジュウカラは30分ほどで飛来する。定期的に偵察飛行をつづけているのだ。2羽で交互に餌台にとまり、またたくまに空(から)にしてしまう。空なのがわかっているのに飛んできて「ツツピン」と一声鳴いていくこともある。催促しているように聞こえる。  出かけようと思っても、簡単にはいかない。月水金は体の処置で午前中はつぶれてしまうし、午後も用がある。土曜は午後泌尿器の往診があるから、それが終わるまでベッドを離れられない。日曜日は人手が足りない。いまのところ火木がいい。  しかしあまり寒い日は出る気になれないし、真夏の暑い日はガラス戸越しに外のギラつく照り返しを見ただけで頭の中にかげろうがたちそうだ。雨が降ったら季節を問わず計画はすべて中止。  私が外へ出るのは、1年365日のうち5日ぐらいだろう†1。退院して約6年。年を追うごとにふえてきてはいる。在宅頸髄損傷者としては多いほうだと思う。国リハで同室だったひとにひさしぶりに電話をかけたところ、帰宅したのが民間アパートの2階だったせいもあるのだろうが、退院してから3年間1度も部屋から出たことがないという話だった。いくつもの条件がととのわなければ外出はむつかしいのである。  わが家には車椅子が2台ある。1台は電動、自分で運転する。もう1台は介助用、ひとに押してもらう。退院前の計画では、電動は室内で、介助用は外出時につかおうと思っていた。退院後しばらくはそうしていた。  どちらをつかうにしても、車椅子に移る前に、万一の失禁にそなえて紙おむつを当て、ズボンを2枚はくという身支度をしていた。完全に脱力している成人男性におむつを当てたりズボンをはかせたりするのは容易なことではない。それを妻ひとりでしていたのである。ほかのひとには頼みにくかったし、また人手もなかった。介助用車椅子を押すのも妻の仕事であった。  この方式は、妻のダウンでじきに改善を余儀なくされた。大儀そうな介護は、されるほうにとってもつらい。とにかく簡単にすることを心がけた。  現在のやりかたはこうである。電動車椅子の座席に毛布なりタオルケットなりを横長に敷いておいて「ローホー」というフローテーション・マットをおき、その上に紙おむつを敷いて座席をととのえる。そこへ下半身はだかのままベッドから「パートナー」という機械で移乗する。毛布で左右から下半身をつつめば終わり。簡単に言えばこうなる。いくつかの心理的抵抗をのりこえれば、これにまさる方法はない。  心理的抵抗といえば、戸外に出るのも最初は勇気がいった。はじめて外へ出たのは、退院して1カ月ほどの夜だった。しぶる私を妻が「だいじょうぶよ」と強引にさそいだした。路地から公道へ出ると、帰宅するサラリーマンと出くわして、なんとなく気おくれがした。蒸し暑かったのをおぼえている。思えばあのころは妻もまだ元気があった。  私の退院後半年ほどで、妻が入院した。新緑の季節だった。電動車椅子でひとりで出かけるようになったのは、そのころだっただろうか。  1年のうちもっとも外出しやすいのは、5月と10月。冷暖房をつかわない季節と一致する。夏の暑さはどうにもならないが、冬の寒さは厚着をすればなんとかしのげる。東京では真冬でも風のない日だまりなら20度前後にはなるようだ。  寒さ対策はこうしている。股引(ももひき)を足の付け根から下だけ切ったものを1年中はいているが、これはあるヘルパーが私のむきだしの足を見て「寒そう」といって考案してくれたものである。尻から上の部分は、つかわずに捨ててしまう。褥瘡(じょくそう)予防と労力削減のため、下ばきは着けないのである。さらに分厚いロングソックスとレッグウォーマーをはく。親指の分かれたロングソックスは、洋服屋へ行っても売ってない。釣具屋へ行けば手にはいる。何にしても、とにかく肌を締めつけるような物はいっさいいけない。鬱血(うっけつ)と褥瘡のもとである。  上も厚着をして、出発前にセルシンと鎮痛剤をあらかじめ飲んでおく。頸損になりたてのころはまだ首の筋肉がきたえられていないせいもあったのだろう、しばらく車椅子に乗ってゆられると、ベッドにもどってからひどい痙攣(けいれん)に苦しんだ。そんなときはセルシンと鎮痛剤を飲んで電気毛布や布団をいっぱい掛けて3時間ほどうなっているしかなかった。それなら最初から薬を飲んでしまえということで、いまのやりかたにしたわけである†2。セルシンはもともと精神安定剤だが、痙攣止めにもなる。内科でも常備している薬である。  天気がいいとウズウズしてくる。散歩に行きたいのである。妻はベッドに横になったきり動かない。ウズウズがミじてイライラしてくる。  ホーム・ヘルパーは台所と洗濯機のあいだを行ったり来たりしながらこちらの様子を気にしている。  「ご主人が車椅子に移りたがってらっしゃるのはわかってるんですよ、私も。だけどそばに奥さんがいらっしゃるのに……」  あまりさしでがましいことをしてもいけないから自分も困っていると、妻がいないときに言われたことがある。  ついためいきともうめき声ともつかぬものが出てしまう。  「車椅子に乗りたいんでしょ。背中が痛いんでしょ」妻がいらだちと悲しみとやりきれなさをたたえた声で言いながらゆっくりと上半身を起こす。「あなたがなにを考えてるか、あたしは全部わかってるのよ。いまこうしてほしいんだろうな、ああしてほしいんだろうなって、いつも考えてるのよ。あたしだってしてあげたいわよ」  次第に鼻声になってくる。  私はあいづちをうちながら、ヘルパーに力を借りるべきかどうか迷っている。手伝ってもらったほうが妻の労力は少なくてすむのだが……。  ときには妻のほうから「子供を呼んで」と言うことがある。しかしまた呼ぼうとすると、呼ばなくてもいいといらだたしげな声を出すこともある。見きわめがむつかしい。こじれたら最後、「もうあたしはあなたにとって必要ない人間なのね」というところまでいってしまう。いたわりの言葉が、かえっていさかいの元になることもあるのだ。  よけいな波風を立てぬよう、なるべくだまっていることにする。  トランスファーにしても、上半身・下半身の身づくろいにしても、妻がいちばんうまい。迅速かつ丁寧である。ではそれをほめればいいかというと、ことはそれほど単純ではない。嫌みにとられかねない。  「あたしがなんにもしないから怒ってるんでしょ」  「そんなことないって。何度も言ってるじゃないか。おまえがなにもしてくれないなんて、オレは思ってない」  「あなたがあたしにしてほしがっているということはわかってるのよ。摘便や入浴なんかあたしがしたほうがいいよねえ」  迎え袖で私にセーターを着せながら、もうすっかり涙声である。  「いやそれはそうだけど……でも無理してあれしてもなんだから……」  「お料理できないのがくやしい。最近ようやく大根や人参ならこわくなくなったけど、まだキャベツやレタスはだめね」  「大丈夫だよ。そこまで来たんだから、時間はかかるだろうけど、そのうちできるようになるって」  「もうだめよ」  家庭の主婦が調子をくずして最初にできなくなるのは、料理である。料理は、味覚はもちろん視覚・嗅覚・触覚、そして栄養学などあらゆるセンスを必要とする総合芸術である。それだけ大変なのである。  妻がおのれの変調を自覚したのは、台所でジャガイモの皮をむいているときだった。急に包丁がこわくなり、ジャガイモと包丁を流しにほうりだしたという。以来、しだいに料理が億劫になりはじめた。特にレタスやキャベツのように、1枚1枚むいて水洗いしなければならないものは、店頭に並んでいるのを見るのも苦痛になっていった。  私は妻のぐあいがそれほど悪化しているとは気づかず、夜おそく帰宅して、子どもたちが夕食をすませてないことを聞き、「オレが帰るのを待ってたの? 先に食べてていいんだよ」と言ったことが何度かある。  「あたしが台所の椅子にすわったままボーっとしていても、子供たちは、わかるのね、おなかがすいたって一言も言わないのよ。スナック菓子や牛乳で我慢してたわ」  後年、涙ながらに語った。  カットアウト・テーブルに車椅子をつっこんで上半身を前に倒し、積みあげた枕の上にひたいをのせる。目も枕にうずもれて何も見えなくなるが、背中が楽になって、安堵のためいきが出る。  「むかしは台所に立ってる時がいちばん幸せだった……」  粉薬の紙袋をやぶく音が聞こえる。妻は再び、けだるそうにベッドに横たわる。  「あたしにとってお肉や野菜は、単なるお肉や野菜じゃなかったの。なんだったかわかる? 家族のよろこぶ顔だったのよ。お店で品物を見ると、あ、これをこうしたらあなたや子供がよろこんでくれるだろうなって思ったわ」  「ロール白菜は……」うまかったよなと言いかけて、過去形にしてはいけないと気づき、あわてて「うん、なかなか独創的なアイデアで……」口ごもる。  「みんなあいつのせいよ! あいつは人間じゃない。悪魔よ!」  妻が、突然怒鳴った。声の大きさに一瞬きもをひやす。それまでの会話とは脈絡のない、激しい叫びである。だが、何を意味しているかはすぐにわかった。何年にもわたって毎日のようにくりかえされてきた言葉なのだ。私に同意を求めていることも理解できるのだが、それに応えて逆に事態が悪化することを恐れる。私は、どっちつかずの曖昧なうめき声を出す以外のすべを知らない。それがまた妻をいらだたせることはわかっているのだが。  妻はCDウォークマンのイヤホンを耳にさしこみ、しばらく呪詛(じゅそ)と自虐の言葉を口にしていた。それがしだいに間遠になり、やがて寝息が聞こえはじめた。  「そうだ、ヒマワリの種買ってこなくちゃ」  私はさも急に思い出したかのようにヘルパーに声をかけ、マフラーとジャンパー、それにひざかけ、蓄尿袋カバー、靴、帽子で身なりをととのえたのち、右側のひじかけに「ツイン・サーモ・クロック」をとりつけた。気温と時刻が数秒おきに液晶表示されるもので、ひとりで外出するときには重宝する。  車椅子の運転レバーが左側についているのは、私のばあい左腕から動きだしたからである。乗りはじめたころは、まだ右腕には全然力がなかった。  最後に車椅子の背もたれについている安全ベルトを胸にまわしたが、合わせ目のマジックテープが十分にかさならないほどセーターやジャンパーで着ぶくれしている。  玄関まで屋内に段差はない。外の階段わきに油圧式昇降機が設置してある。油圧式というのがどういうことを意味するのか知らないが、電気じかけで、音はほとんどしない。  路地から公道へ出るとき4.5センチ下がる。この4.5センチがひどくあぶなっかしいので、特注の金属製スロープをつくって置いた。コンクリート製の9センチスロープなら駐車場の入り口には必ずといっていいほど置いてあって珍しくないが、4.5センチの既製品はないのだそうだ†3。需要が少ないからだろう。  大通りに向かってしばらく行ったところで、保育園の散歩らしき子供たちと出会った。デイパックをしょった女性が、男の子と手をつなぎながら先導している。デイパックは、保母の必需品である。近づくと子供たちの中から、「なんにもしないのにうごいてる」という声があがった。手をつないでいた子が「ぼくものりたい」と先生の顔を見あげたが、女性は無言のまま前を向いたっきりである。うなじがこわばっている。  大通りにつきあたった。車の流れがはげしい。店は通りをわたればすぐ左だが、あいにく交叉点が近くにない。  交叉点まで遠回りするのは気が重かった。波打つ歩道を車椅子で行くには、そうとうな腕前が必要なのである。車道に塗ってある横断歩道の白線ですら、わたろうとすれば車椅子がカクンカクンと揺れるほどの障害になる。  まずいことに、背もたれのロックがあまくて体がすこしうしろに倒れたのか――私の車椅子は脳貧血にそなえてリクライニングできるようになっている――、あるいは疲労で腕の筋肉がちぢんだのか、そのころになると運転レバーに手がとどきにくくなっていた。指はまったく動かないから、レバーは棒状のものを握るのではなく、T字型のものの上に手をのせるだけである。  車の流れを見はからって通りを横切り、店の前まで来た。車道と歩道のさかいに5センチの段差があるが、5センチぐらいならバックで乗り上げられないことはない。少々危険だが、思いきってやってみようと決意した。蛮勇が必要なときもある。はじめてひとりで外出したときも、なかば捨て鉢だった。  左手をT字型レバーの上にのせて引いた。乗り上げたとたんに体が前にかたむいた。あわてて停車した。しまったと思った。大通りと歩道の段差は20センチ。20センチの段差の乗り上げ口が5センチになっているということは、歩道は15センチ分ななめにえぐれているということだ。そんなことは承知の上だった。頭ではわかっていたが、腕が意のままにならなかった。前傾した体を元にもどす力は私にはない。腹筋も背筋もきかないのだ。  後車輪の片方だけ乗り上げたのか、車椅子も体も妙なぐあいにかたむいた。運転レバーにふれると、ころげ落ちる危険がある。膀胱瘻のカテーテルを連結した蓄尿袋は車椅子に固定してあるから、もしころげ落ちたら腹からカテーテルがズボッと抜けるかもしれない。そうなったら救急車だ。  リクライニングしていればまだしも、前傾姿勢では大きな声は出ない。だれかがそばを通りかかるのをじっと待つしかない。背後に通行人の気配を感じて、「すいませーん」と声をかけたが通り過ぎてしまう。聞こえないのだろうか。関わり合いになりたくないのだろうか。あるいは、車椅子に乗っているのは足の悪いひとという先入観から、私がそんな危機におちいっているとは思わず、ただうなだれてひと休みしているようにしか見えないのかもしれない。体はジリジリと傾斜の度を深めてくるし、手をさしのべてくれるひとはいないしで、おそろしくもあり、はずかしくもあり、後悔と自嘲がまじって、最低の気分。息を殺して次の通行人を待った。  さいわい初老の紳士が気づいてくれた。体を起こし、安全ベルトを締めなおしてもらって、ようやく車椅子は歩道の上におちついた。すでにそこは目的の店の前である。ガラス戸が閉じていて中にひとの姿がなかったので、ついでに奥に声をかけてもらおうかとも思ったが、大変な難局から救い出してくれたひとにさらに用事をたのむのはなんだか図々しいような気がして、せっかくそのひとが「ほかになにか」と言ってくれたのに、「いえ、もう大丈夫です」と気弱な笑顔でことわってしまった。  うしろ姿を見送りながら、ああ、たのめばよかったと悔やんだ。車は多くても人通りの少ない場所なのである。  ガラスの向こうに呼びかけてみる。なんの応答もない。  なにもかもひとにたのまなければならないなさけなさに、ええいもう帰ってしまおうかと苛立ったが、ここまで来て目的を果たせないのもダラシない話だ、しばらく辛抱してみようと思いとどまった。  だれにでも声をかけられるというものではない。せかせかと忙しそうにしているひとにはたのみにくいし、あまりゆったりした高齢者だと用件が伝わりにくいことがある。若い女性のばあいは、下心を勘ぐられやしないかと、つい余計な心配までしてしまう。  まだ芽吹く気配を見せない街路樹の枝先が、風にふるえている。顔が寒い。歩道は家々の陰にある。温度計を見ると、7度だ。両手はなにも感じないが、きっと金氷(かなっこおり)に凍えているのだろう。  「毅然とした態度をとってほしい」と妻が言ったのを思い出す。「くずれたのはあたしよ。だけどあなたは、あたしが守ってって叫んでるのに、なにもしてくれなかった。なんにも解決してない。何が大事なのって聞いたら、あなた言ったわよね、全体がうまく行くことだって。そう、そうなの。あなたにはあたしや子供より全体のほうが大事なの。逃げ口上じゃない。優柔不断なのよ」  「優柔不断だからここまでもったということも言えるんじゃないの」私がかろうじて絞り出した反論はこれだけだった。答えにも何にもなっていない。話をそらしているだけである。振り返れば恥の足跡。後悔ばかりである。  店の中はすこしも飾りけがない。外の風景がガラスにうつって店内がよく見えないせいもあるが、土嚢(どのう)のような袋がコンクリートの床に無造作に積んであるのが目立つくらいで、店というより倉庫のようだ。小売店ではないのかもしれない。  不意に奥から小さな子が顔をのぞかせた。ほほえんでみせると、ドアのほうへ寄ってきた。2、3歳の男の子で、うれしそうに大人のサンダルを引きずっている。  ドアの外へ出てはいけないとしつけられているらしく、ガラス越しに手ににぎったものを見せてくれた。何だかわからない。私は眉をあげて首をかしげた。男の子は笑顔で引き返し、棚のかげに向かって手の中のものを投げ、腰をかがめてなにかを拾い、ふたたび寄ってきて手をガラスに押しつけた。また首をかしげておどけてみせると、男の子はうれしそうに口をあけて笑った。いつも一人遊びをしているのだろう。  イナイナイバアをやってやればよろこぶだろうになあ――顔までとどかぬ我が手を見ながらそう思った。  †1 外出回数  読み返してみて驚いた。今では週2回は外出している。受傷後日が浅くて無力感にさいなまれているひともあきらめないでほしい。いつまでも今のままではない。  †2 痙攣の減少  受傷直後はハロー・ベストで首を固定したり寝ている時間が長かったりで、やはり首の筋肉が弱るせいか、車椅子に乗りはじめると、知らないあいだにひどく疲労している。首の筋肉がついてくるにつれ痙攣も少なくなる。  †3 4.5センチのスロープ  その後、建材店で高さ4.5センチのプラスチック製スロープを見つけ、路地の出口に据え置いた。外出先の段差に対しては、簡単な室内用のスロープを2つに切って持ち運べるようにした。 ────────────────────────────────── U 意志の実現 ────────────────────────────────── *選挙権を回復せよ*  重度障害者になると、実質的に選挙権はうしなわれる。投票所に行けなくなるからである。権利というものは、行使できなければ、なきに等しい。  「選挙のお知らせ」という投票用紙の引換え券をかねたハガキは、送られてくるのだが、投票したくても、投票所への道のりを考えると、断念せざるを得ない。  1987年にけがをしてから投票できるようになるまで、7、8年かかった。その間幾度ハガキを捨てたことだろう。  もともと政治にはあまり関心がないほうだから、選挙ができなくても地団駄をふんでくやしがるということもなく、ま、自分の1票で当選者が変わるわけでもなかろうと、ほうっておいた。毎日毎日、目の前にあらわれる難問に追われつづけ、選挙どころではない。38歳で突然重度障害者になるということは、それまでに積み上げた人生をご破算にして、またはじめからやりなおすということである。  ある選挙の投票日、ひとりで近くの中学校へ投票に行った妻は、帰ってくるなり私の枕もとにある電話の受話器をとりあげ、区役所の選挙管理委員会を呼び出し、投票所の入り口に階段があって車椅子では入れない、いったい選管は障害者のことをどう思っているのかと抗議した。私には相手の声は聞こえないが、妻の声がしだいに荒々しくなってくる様子で、どうやらのらりくらりとした返答しかかえってこないらしいことがわかった。  「あんたねえ、自分だっていつ障害者になるかわからないのよ。明日はわが身だっていうことをおぼえときなさい!」  一喝して、ガシャッと受話器を置いた。    数年後、妻はかかりつけの病院の看護婦から、郵便投票という手段のあることを聞きつけ、今度こそはと勢いこんで選管に電話した。ところがやはり埒(らち)があかない。郵便投票をするには、公職選挙法で定められたかくかくしかじかの条件を満たしていなければならないのだが、お宅のご主人はそれにあてはまらないからダメだという。  やっとみつけあてた1本の細い糸をにべもなく断ち切られ、妻は激怒した。怒鳴りまくったあと、「あなたも言ってやりなさいよ」と、電話を「マイク」にきりかえ、付属のマイクを寝ている私の胸の上に置いた。NTTのキュートSUは、こうすると相手の声が電話器から聞こえ、私の声はマイクで相手に伝わる。  なんだか声が小さい上に早口でしゃべるからよく聞こえないのだが、とにかく公職選挙法施行令第五九条二によると、両上肢のつかえない者は適用外だというのである。  「では私はどうすればいいんですか」  「投票日の前に区役所へ行って不在者投票をしていただくということも考えられるかと思いますが」  近所の中学まで行けないものを、どうやって遠方の区役所まで行けというのか。車椅子ごと乗り込めるハンディキャブを頼んで、介助の人手を確保すれば、なんとかならないこともないが、おおごとである。そこまでする気力も体力もない。  「郵便投票ができないなら、選管のかたにうちまで来ていただいて在宅投票するというのはどうですか」  「そういうことは都会ならできるかもしれませんが、となりの家に行くのに山ひとつ越えなければならない地域もありますから……」  ここは東京のど真ん中だ。それに投票するのに山ひとつ越えなければならないような土地こそ、選管がおもむくべきではないのか。郵便配達をみならいなさい。  いろいろ言ってみても、「選管は現行法の枠内で公正な選挙の実現を期する」の一点張りで耳を貸そうとしない。これだけ言ってもダメなら、もうしようがないかとなかばあきらめ、冗談半分に、  「そうですか、どうにもなりませんか。でもこの選挙のハガキがもったいないなあ。じゃあ同じ候補者を推す人にあげちゃおうかな」 と言ったところ、それまで抑揚のない合成音のようだった声が、いきなり動揺した。  「ッそれは違法行為です。選挙違反になります」  お、いけるかもしれない。  「でも投票所でハガキをわたして投票用紙をもらうとき、ハガキを持ってきたのが本人かどうか確かめてはいないでしょう」  「…………」  「それにこないだ、聖心女子大の女子学生たちが集団で選挙ハガキを売ったっていうこともありましたよね」  「ですからそれは法に反する行為です」  「もちろん選挙のハガキを売るなんてけしからんことです。ですが選挙があるたびに選管は棄権防止を呼びかけてらっしゃるでしょう。私は私の1票をむだにしないようにするには、信頼できる友人にでも託すしかないじゃありませんか」 というようなやりとりをしばらくしたあと、  「私は手では書けませんが、口で書けます。それなら何も問題はないでしょう。公職選挙法の精神に反するものではないでしょう。郵便投票ができるようにどうかひとつよろしくおねがいしますよ」  選管はその場ではウンと言わなかったが、つぎの選挙がおこなわれる前に郵便投票証明書を送ってきた。    私はこのようにして選挙権を回復した。だが、事は私一個人にとどまる問題ではない。郵便投票というものがあることすら知らないひとが多いのである。  高齢者層の増加にともなって今後ますます在宅障害者はふえてゆくだろう。1991年の時点ですでに在宅身体障害者270万人のうちほぼ半数が65歳以上なのである。このひとたちが投票所に行くことは、まずないだろう。行きたくても行けないにちがいない。  選挙がおわるたびに「投票率が下がった、投票率が下がった」と報道される。原因は国民の政治に対する無関心だといわれているが、投票したくてもできないひとの増加も関係しているのではないか。投票率は、若者層より高齢者層のほうがずっと高い。  プライバシー保護の問題などいろいろ考えてみたが、やはり選管の訪問による在宅投票が一番いいだろうと思い、もう一度、区の選管に電話した。相手は、初めての声である。   藤川 もしもし、私は藤川と申しますが、ええとね、障害者の投票についておうかがいしたいんですが、お時間よろしいですか? 選管 大丈夫です、どうぞ。 藤川 車椅子で投票所に行くばあい、会場となる小学校や中学校の体育館に入れないケースが多いと思うんですよ、階段があってね。 選管 そういうばあいもございます。 藤川 そういうときはどういうふうに……。 選管 基本的にはですね、スロープを設置するんですよ。そしてスロープのつけられない階段も中にはあります。そうしたばあいは職員の者が段差をもちあげてはいっていただくという……。 藤川 ああ、かつぎあげるということですか? 選管 そうです。 藤川 百何十キロにもなりますけれども。 選管 すべての投票所というわけにはいかないんですが……職員の者がかついで、重すぎて投票所にはいれなかったということは聞いたことがございませんが。 藤川 そうですか。電動車椅子となると、7、80キロあって、その上に6、70キロの人が乗ると、130〜140キロになるんですけど、大丈夫なんですか? 選管 あのですね、具体的に重すぎて上げられなかったという話はうかがってないんですよ。 藤川 それはおそらくはいれないということを本人がわかっていて、行かないんだと思うんですけど。かついでもらうのも恐縮なんですよ。スロープがあれば解決すると思うんですが、さきほどおっしゃったスロープというのは選管が各投票所に用意するんですか? 選管 そなえつけのスロープがないところもございます。 藤川 それは選管が用意するんですか? 選管 そうです。 藤川 わが区には何カ所くらい投票所があるんでしょうか。 選管 65カ所です。 藤川 そのうち何カ所くらいスロープの必要な場所が? 選管 少々お待ちください。……もしもし、今回の選挙で特別にスロープを設けた場所は13カ所ございますね。 藤川 ということは、あとは? 選管 あとはですね、設備がもともとあるということですね。 藤川 体育館にスロープではいれるということですか? 選管 そうですね、基本的には。 藤川 そうですか。そういう体育館は私はほとんど見たことがないですけどね。……あの、車椅子のばあいはね、投票所にたどりつくまでの問題がありましてね。雨がふると投票に行けないんです。 選管 ああ、そうですね。校庭を通れないということですか? 藤川 校庭? いやいやあのね、まず家から出られないということですよ。 選管 はあ。 藤川 雨がふっても傘をさせないでしょ、車椅子のひとは。そういうとき、どうしたらいいというふうに……。 選管 こちらは選挙管理委員会でございまして、ご自宅のほうにお迎えに行くということになりますと、利益のフトウヨ(不等与?)という問題が出てくるかと思うんですけれども。特定の障害者のかただけに便宜をはかるということになってしまいます。私どもとしましては、投票所にお越しのかたに対応したいということになります。 藤川 しかし、実際に雨がふれば棄権という可能性が高いと思うんです。選挙の時になると、選挙管理委員会の広報車とかテレビ等で「投票に行きましょう。棄権をしないように」とさかんに呼びかけがおこなわれますでしょう。行きたくても行けないひとはどうすればいいのか。物理的に投票したいのにできないという、そういうひとのために対策を講じる必要があるのではないかと思うんですが。 選管 それは、……(聴取不能) 藤川 あの、郵便投票という方法がありますよね。 選管 ございますね。これについては、障害者手帳の級がございますね。1級、2級という等級に定められたかたが郵便投票の対象になるのであって、障害者すべてのかたが郵便投票できるというわけではないんですよ。 藤川 それで、障害者手帳で、1級もしくは2級を持っていて、どこがどうであればいいというわけなんですか? 選管 該当するかということですね。少々お待ちください。……もしもし、お待たせしました。それでは申しあげます。両下肢、体幹、心臓、じん臓、呼吸器、ぼうこう若しくは直腸若しくは小腸の障害若しくは移動機能の障害(以下この条において「両下肢等の障害」という。)の程度が、両下肢若しくは体幹の障害若しくは移動機能の障害にあつては一級若しくは二級、心臓、じん臓、呼吸器、ぼうこう若しくは直腸若しくは小腸の障害(次号において「内臓機能の障害」という。)にあつては一級若しくは三級である者として記載されている者、それらのかたがたが該当するわけなんですけれども。障害を複合的にお持ちで、これらの障害に当たらなくとも、それらに相当すると認めるかたについては、特例的に適用される時があるんですよ。 藤川 誰が認めるんですか? 選管 東京都知事です。 藤川 知事が認めるんですか……。それであの、頭ははっきりしているけれども……。 選管 頭がはっきりしている? 藤川 つまり正常だということです。ぼけてないとかね。 選管 一応ですね。この郵便投票という制度を利用できるかたというのは、自分で字が書けるかたという条件があるんです。障害などの状況によって、字が書けないかたがいらっしゃいますね、そういうかたは利用できないんですよ。 藤川 それはなぜですか。 選管 法律なんですよ。郵便投票の義務ということなので、法律で決まっているんですよ。おそらく意味としては「投票の偽造をふせぐ」ためではないかと思われます。 藤川 そうすると、郵便投票する場合、それが本人が書いたかどうかというのは、どうやって確認するんですか。 選管 はい、本人がお書きになったというような状況でやっていただいております。本人がおいでにならないというケースや、自分で書けないというかたについてはですね……。 藤川 いやいや、自分で字が書けるにしても。今、字が書けないひとは除外されるという理由として、「投票の偽造をふせぐ」とおっしゃったでしょ。では郵便投票で字が書けると認められているひとが郵便投票したとして、それが本人が書いたかどうかはどうやって見分けるんですか? 選管 いや、それはですね。見分ける方法というのはないのですけれども、私が申し上げたのは、こういうことなんですよ。あの、代理投票というのはご存じですか、制度として。 藤川 代理投票というと、投票所に行って係りのひとに書いてもらうっていう……。 選管 手続きとしましては字がお書きになれないというかたが、口でおっしゃいますよね。「誰々さんにお願いします」と。そうして確かに代筆する者がそのひとの名前を書いたということを、他の者が見るわけなんですよ。確かに選挙人のかたがおっしゃった名前を投票用紙に書いたかどうかを、こちらの者が確認します。 藤川 はいはい。 選管 ですけれども郵便投票のばあいに、そういった代筆を頼みますと、選挙人のかたの意志が投票用紙に表わされていない可能性がある、という意味で私が申しあげたんです。偽造の疑いがあるというようなことを申しあげたんです。 藤川 はい……? だから、その、下肢であるとか、体幹であるとかね、あるいは心臓腎臓等の1、2級、もしくはそれの複合したもので、知事が認めたひとはそれ以外の等級でも郵便投票ができるわけでしょう? だけど、自分で書けないひとは認められないと。自分で書けないひとが認められないのは、偽造をふせぐためだと。 選管 と、私どもは考えております。 藤川 いや、そのとおりだと思いますが。でも、郵便投票をしているひとがね、それが本人が書いたかどうかを確認する方法は……。 選管 ございませんね。 藤川 ないわけでしょう。だったら、その、頭ははっきりしているけれども、たとえば両手両足がないとかね、そういうひとだってあり得るわけじゃないですか。 選管 そういったかたはですね、郵便投票の制度はご利用できないんですよ。 藤川 うん? だから、そういうひとは選挙に行けないじゃないですか。だって頭ははっきりしていて自分の意志で誰々さんと言うことができるんだけれども、だけど手足が使えないから、投票所に行くことも郵便投票することもできないっていうんじゃ……。足が悪いということで郵便投票の権利を獲得しても、本人が書いたと称して、ほかのひとが、家族あるいはよからぬ人物がですね、勝手に書いて投票してしまうということもありうるわけでしょ? 選管 そういったかたは、そもそも郵便投票の制度を利用できないわけです。 藤川 ええ? だって、該当する等級にあれば申し込むことができて、郵便投票できるわけでしょう? 選管 実際にはできるかどうかということを、こちらのほうで確認するかたちになっているんですけどねえ。 藤川 そんなことないじゃないですか。それはもちろんね、障害者手帳を持っていて、下肢、体幹、あるいは内臓などの機能がだめで、自書できるということであれば、郵便投票の権利はあるわけでしょう? 選管 当然ございますねえ。 藤川 だから、そういうひとができるんだったら、それは、郵便投票を現在認められているひとのね、投票が偽造でないかどうかということを確認するすべはないわけでしょう? 選管 ……(聴取不能) 藤川 こないだもね、朝日新聞の「論壇」に門野晴子っていうかたが公選法五九条の二に「在宅寝たきり者」を加えるべきだと、自分の母親を例にして書いていらっしゃいますよね。それと以前、朝日の西部版、これは92年7月の話ですけれど、ALSの高井さんというかたがね、大きくとりあげられていましたけれども、その後、なんの手だても講じられていないという話なんですよね。ALSってご存じですか? 選管 ……存じてません。 藤川 あの、筋萎縮性側索硬化症という、まあ、頭ははっきりしているんです。ただ体の自由がきかないということでね。そういうひとは投票所に行くことができないんですよ。 選管 …………。 藤川 あのー、投票所に行きますとね、投票箱の前にずらーっと並んでらっしゃいますよね、ひとが。 選管 ひとが……、はい。 藤川 あれはどういうひとが並んでいるんですか? 選管 投票立会い人のかたたちです。 藤川 立会い人というのは、選挙管理委員会のかたなんですか? 選管 いや、選挙管理委員会がですね、投票立会い人ということで信任する場合がございますけれども。 藤川 選挙管理委員はいらっしゃるんですか。 選管 通常、うちのほうで立会い人をするということはございませんけれども。 藤川 立会い人をすることはない? じゃあ、字を書けないひとが、代筆を頼むのは、誰に頼むんですか? 選管 投票所に職員がおりまして。 藤川 職員というのは、誰ですか? 選管 職員というのは、区の職員で、投票に関して、選挙管理委員会のほうから委嘱(いしょく)している者なんです。 藤川 ああ、なるほどなるほど。区の職員のかたが、要するに最低2人はいらっしゃるということになるわけですね? 選管 いえ、投票所にはいろいろ係がございまして、各投票所で職員の数は10人を下ることはないと思いますよ。 藤川 ああ、10人はいらっしゃると。投票箱の前に並んでいるひとは全部、区の職員ということになるんですか? 選管 立会い人は、区の職員ではございません。 藤川 ああ、じゃあ立会い人のほかに区の職員のかたが……。 選管 10名ほどおりますね。 藤川 ああそうですか。たとえば有権者がハガキをわたしたときに名簿をチェックするひとなんかがそうなんですかね。 選管 そうですね。 藤川 そうですか。10人もいらっしゃるんですか。それで、その1人が書いて、もう1人がちゃんと選挙人の言ったとおり書いたかどうかを確認する、と。それをですね、外出の困難な障害者で郵便投票も認められてないっていうひとのところに来てもらうわけにはいかないんですか? 選管 それはですね、法律で認められておりませんので、できないんです。 藤川 選挙管理委員、もしくは選挙管理委員会が委嘱した区の職員が、障害者のところへ行ってですね、あのー、2人いればいいわけでしょう? 1人が書いて、もう1人が確認すればいいわけでしょう? 選管 はい、しかしそれは投票所の話です。 藤川 うん、だから郵便投票が認められていないひともいるからっていうことを申しあげているんですよ。 選管 いや、郵便投票の資格のないかたの自宅に行って、代理人立会いで投票するということは認められてないんですよ。 藤川 うん、だけどね、これからますます老人が増えていくわけでしょう。すると、郵便投票に該当しないひとも増えてくるんではないでしょうか。 選管 可能性はございますね。あくまでもですね、選挙管理委員会というのはですね、公選法に則って仕事をしなければならないんですよ。公選法で認められていないことは仮に住民のかたの要望があっても、いたしかねますんですけれども。実際、法律のほうがですね、変わらない限りできないんですよ。 藤川 うーん、そうですか。……あのー、65とおっしゃいましたっけ、わが区の投票所。 選管 はい。 藤川 では1つの投票所には、何人くらいの有権者がいるものなんでしょうか。 選管 区全体で42万人ほどでございますから、6,400人ほどですけれども。 藤川 この中で、投票所に行けない、つまり車椅子の人間なんてのは、そう数いるもんじゃないと思うんですけれどね、これから増えるかもしれないけれども。そうするとそれは1日でもまわりきれる数だし、事前に投票するという方法を採用すればですね、なにも投票日に限ってやる必要もないわけでしょう。 選管 必要がないというのも、法律の改正が必要なんですけれどね。 藤川 うーん、10人いるとすれば、物理的には可能なんじゃないでしょうか。 選管 物理的に可能であっても、法律的に不可能でございます。 藤川 はいはい。現行法ではね。それはまあわかるんですが。ただ在宅投票制度というのが1947年にできましたよね。 選管 変わりましたね、制度が。 藤川 はい、1947年に施行された地方自治法で採用されて、50年施行の公職選挙法にひきつがれたけれども、52年に廃止されたと。高井さんをとりあげた朝日の記事を読むと、「疾病、負傷、妊娠、もしくは不具のため、または産褥(さんじょく)にあって歩行が著しく困難な者」について、郵便投票と、同居の親族による投票用紙の代理請求と投票とを認め、対象は300万人から400万人に上っていた。ところが、親族や選挙運動員が悪用するなどの違反が続出したことから、52年廃止された。まあ変わることもあるわけですよね、法律って。 選管 変わる可能性もございます。 藤川 それをね、変えるとすれば、誰に働きかければいいんですか。 選管 法律を決めるのは、国会なんですけれども。 藤川 国会? 選管 国会のほうで決めるはずですけれども……。 藤川 うーん。だけど国会に働きかけるっていってもなあ。 選管 ちょっとむずかしいかもしれませんけれども。 藤川 うーん、国会に働きかけるったって、そんな簡単にはいきませんよね。「進め!電波少年」じゃないんだから、そんなにいきなり行ったってねえ。どこへ行ったらいいかもわからないし。国会議員の知り合いなんていないし。では普通のひとが誰に働きかけたらいいかと考えたばあい、役所で選挙のことを扱っている係りといったら、選管しか思い浮かばないんです。下水道課にかけてもしょうがないでしょ。それは、僕は選挙管理委員会が下から積み上げていくしかないんじゃないかと思うんですけれどねえ。 選管 あの、実はですね、たとえばこの前の選挙の時にですね、地方選挙、ございましたね。 藤川 あの、都知事選のことですか。 選管 そうです。それが終わった時にですね、東京都の選管から私ども区の選管に対して、何か住民のかたの要望であるとか、法改正の余地はございませんかという問い合わせがくるんですけれども。今回はですね、残念ながら私どものほうで出したものの中にはなかったように思うんですけれども。まあつまり、東京都の選管に働きかけるという可能性はございます。 藤川 そうなんですか。こないだ都知事選のほかに区長選と区議選がありましたね。その区議選については、別に都の選管がどうのということはないんですか。 選管 いや、都の選管がやっております。 藤川 あ、区議選についても。ああそうなんですか。選挙のたびにそのあといわばこの、住民の声を聞くというような……。 選管 ある程度はできると思いますね。 藤川 そうですか。しかしそのー、いま言ったような問題がですね、現にこれまでに何度かマスコミでも取り上げられているにもかかわらず……。 選管 さきほどのお話にありましたけれども、清水の高井さん。 藤川 ああご覧になりました、あの記事。さすが選管ですね。 選管 あのかたはワープロでお書きになれるんですよね。 藤川 そうそう。そのひとが言うには、この選挙法がね、公職選挙法が始まったころには、ワープロなんかなかったって。つまりワープロを念頭において作られた法律ではないわけですよね。 選管 そうですね。 藤川 また郵便投票をワープロでやればやったで、これは誰が打ったワープロかわからないと言われかねないでしょう。 選管 …………。 藤川 そうすると、また最初の疑問にもどっちゃうんですけれども、郵便投票したひとの書いたものは、本人が書いたものかどうか見きわめる方法はないではないかと、そう思うんですよね。選挙の公正を期するという意味においては、現在の方法よりもね、むしろ選管もしくは選管に委嘱された区の職員が、直接当人からとったほうがずっと公正が期せるんじゃないでしょうか。 選管 私自身の意見を申し上げてもしようがないんですけれども……。 藤川 いやいや、そんなことないです。 選管 いまの例では、たしかにそのほうが、選管が立ち会って選挙人の前で係りの者が代理で書いたほうが……。 藤川 そうでしょう。手間がかかるかもしれないけど、なにも投票日にまわらなければいけないということもないと思うんですよ。不在者投票も郵便投票も事前にやるわけですから。 選管 そうでございます。 藤川 最後まで封筒は開けられないようにしてね。だからそういう投票方法をとれば、投票日前にまわるということだって可能なわけでしょう。 選管 はい、それは法律を改正すれば可能でございます。 藤川 うーん、そういう方法がいいと思うんですけどねえ。 選管 私も個人的には非常にいい方法だと思いますよ。 藤川 そうですか(笑)。わかりました。ぜひ次回の機会がありましたら、そのようにご提案いただくようお願いいたします。    この電話のあと、7月23日(日)に参議院議員選挙があった。ほんとうに投票所にはいれるのかどうか、身をもって確認してやろうと、まなじりを決してその日を待ちかまえていた。梅雨のあいだは比較的すずしく、雨さえふらなければ頸髄損傷者にはしのぎやすい季節である。  ところが、投票日の朝、いやな気配を感じて障子をあけてもらうと、前日までとはうって変わってギラギラとかがやく屋根瓦や空が、目に飛び込んできた。1995年の夏は、キッパリとやって来た。その強烈な日ざしを見たとたん、ヘナヘナと腰がくだけた。頸損は雨にも弱いが、夏の日ざしにはもっと弱いのである。    【郵便投票の手順】  まず郵便投票証明書の発行を選挙管理委員会に申し込む。めんどうなのはこれだけで、証明書さえ獲得すれば、あとは選挙のたびに選管から必要な書類を送ってくる。証明書は4年間有効。  もうすこしくわしく言えばこうなる。  @ 選挙が始まると、投票用紙と投票用封筒の「請求書」が送られてくる。請求書といっても、なにもとられない。選管に対する請求書である。それに署名・捺印して、証明書を同封のうえ送り返す。  A 投票用紙と内封筒と外封筒が、送られてくる。投票用紙に候補者名を書き、内封筒に入れる。それを外封筒(「郵便による不在者投票用外封筒」)に入れ、上に署名する。返送用封筒に入れて送り返す。証明書は、また使うからとっておく。以上。  自分の名前と候補者名は、自筆でなければならないが、口で書こうと足で書こうとかまわない。私が「前例」である。  体が不自由で投票所に行けないために棄権しているひとは、なんとかこの方法で選挙してほしい。腕をこまぬいていると、弱者は切り捨てられかねない。票にならんような者のことを、政治家が真剣に考えると思うか。            *究極のページめくり*  本が読みたい。猛烈に読みたい。  けがをする前の自分にとって活字がいかに重要なものであったか、その活字漬けの日々のありさまや、全身麻痺の身になって、もう一生本は読めないという絶望感におそわれたこと、そしてなんとか自力で本が読めるようになったいきさつなどについては、前作の中の「あんパンの楽しみ、読書の楽しみ」にしるしたとおりだが、じつはあの時点では書けなかったこともある。夢想に終わったことである。  入院中、ベッド上である程度上半身が起こせるようになると、ベッドにテーブルをさしこみ、その上に本をひろげて読めるようになった。ページはめくってもらうのである(ベッドで使うテーブルには何種類かあるが、横から見てカタカナのコの字形をしているベッドサイド・テーブルがなにかと便利なようだ。コの字の上の横線がテーブル状の板で、縦の線が柱、下の横線はキャスターのついた土台である)。  自力では読めなくても、ひとにめくってもらえば読めないことはないとわかって、退院後のおのれの姿を夢想した……。私はベッド上で上半身を起こし、本を読んでいる。妻がかたわらの椅子にすわって編み物をしている。私が「ン」と声をかけると、立ち上がって1枚ページをめくり、ふたたび編み物をつづける妻。ときどき紅茶などをいれて飲ませてくれる。かろやかなモーツァルトをちいさめにながすのもいいだろう。このようにして、不自由ながらも静かな午後がすぎてゆくことを夢想していたのである。  あまかった。静かにすぎてゆく午後など、かぞえるほどしかなかった。  なにかをしたいという意欲は、体の苦しさに圧倒され、ほとんど湧かなかった。それでも本だけは読みたいと思った。しかも極力ひとの手をわずらわせずにである。なにかしたいと思えば妻の手をわずらわせることになる。妻は必要最小限の介護で手一杯だった。  しかし私の遠慮がまた、妻を苦しめることになった。  「あたしがだらしないから、あなたに好きな本も読ませてあげられない」と、おのれを責めた。「あなたは、会社から帰ってきたらもうそのままごろごろテレビを見てるっていうひとじゃなかったものね」  「いや、テレビもなかなかおもしろいよ」  妻は私が遠慮しているのではないかと気に病んだが、私は私で妻が気に病んでいることは分かっていても、つらそうな様子を目にすれば頼めない。  私の心は、萎縮に萎縮をかさねた。全身麻痺になった瞬間から、もはや対等な夫婦関係ではなくなっていた。私はそう思っていた。ひがみだろうか。妻は世話をする立ち場で、私はされる立ち場である。せめて妻の心の支えになることで夫の役割をはたそうとはしたが、力がおよばなかった。妻の心は、もはや何をもってしても癒されることはなかった。  生活の激変にとまどっていたのは、2人とも同じことである。私はうごかなくなった体にまだなれていなかったし、妻は私がうごけなくなったという現実を容認できなかった。  「うごいて、うごいてよ!」  私の体をゆさぶりながら泣きじゃくるのである。  はじめのうちはあれこれとなぐさめていた私も、毎日のようにくりかえされる愁嘆に次第にやりきれなくなり、ある日、心の樽からなにかがあふれだすのを感じた。ああ、限度を超えたなと思った。  「そんなことを言うなら、おまえがうごかしてみろ!」  怒鳴りかえした。妻は玄関のドアに体当たりして、夜の中に裸足で飛び出していった。いま思い返しても気の重くなる歳月である。    欲望をいだくべきか、おさえるべきか、それは大問題である。欲望をいだかなければ、成就のよろこびはない。欲望こそ進化発展の根源である。だが、欲望にはきりがない。どこかで欲望と抑制との折合いをつけなければならない。どこでつければいいのだろう……。  もうひとつ、入院中に考えていたことがあった。こちらは一応実現したのだから、あながち夢想とは言えない。新聞を読む工夫である。カットアウト・テーブル(えぐれ机)を作るにあたり、国リハに出入りしていた福祉用具製作業者に新聞2ページ分の大きさになるよう注文した。天板を、手前のえぐれた部分と新聞をのせる部分との2つに分け、両者をちょうつがいでつなぐ。手前の板はテーブルの足に固定されていて動かないが、新聞をのせるところは80度ほど跳ね上がるようにした。天板中央に新聞を固定するための針金がわたしてあり、中央ページ、すなわち32ページだてなら16・17ページをはさんでおく。  かくして車椅子にすわった私の目の前にはじめて新聞が立ち上がったときは、実用新案特許を申請したいくらいの気分になった†1。  ページは、口にくわえたマウススティックでめくる。このマウススティックこそ、四肢体幹麻痺の身にとって欠くべからざる道具なのである(マウススティックは"mouthstick"なのか"mouth stick"なのか、てもとの『ランダムハウス』にはどちらも載ってない。新語なのだろう。マウスピースは"mouthpiece"と1単語になっているから、マウススティックも1単語と類推しておく)。  最初のマウススティックは、入院中国リハのOT(作業療法士)に作ってもらった。院内の歯科で歯型をとり、なにか白い合成樹脂でマウスピースを作り、それを鉛筆ホルダー(短くなった鉛筆をつかうための金属製のもの)に固定、鉛筆ホルダーにはお菜箸をさしこみ、先端に小さいゴムチューブを付けた。お菜箸に特別の意味はない。長さと太さが適していればなんでもいい。  新聞の四隅は遠くて読みにくいものの、ゴムチューブの適度な摩擦の力を利用してなんとか自力で32ページすべてを読むことができた。  だが、退院後じきにこれもあきらめざるをえなくなった。えぐれ机には腕の運動を助ける器械スプリング・バランサーがとりつけてあったし、不要になったフローテーション・マットなどいろいろなものがのせてあった。  フローテーション・マットというのは、褥瘡(じょくそう)を予防するための製品で、主に車椅子にすわるとき、尻の下に敷いて使う石油製品。ほかに「ローホー・クッション」という一種のエア・マットがあり、頸損のベテランからそれを勧められて購入してからは、いままで使っていたフローテーション・マットが不要になってしまったのである。1個数万円するものだから簡単には捨てられない。福祉機器は何でも高く、ちなみに「ローホー」は私が買った1988年には6万円した。6万円の座布団である。  新聞を読むためには、これらのものをすべてどかさなければならない。石油製品のフローテーション・マットは、小さめの座布団ぐらいの大きさがあり、こんにゃくマットという通称がおかしいくらい適切なブヨブヨして重たいものである。これらをどかしたうえで新聞をセットするのは、女の力では無理のように思えた。やってできないことではないが、気が引けて頼めない。  †1 新聞を読む工夫  新聞紙は大きくて扱いにくい。透明な板の上に1ページひろげて、それを顔の上にぶら下げようかとも考えたが、手間がかかりそうでやめた。ホイストを利用して2ページ読む方法を『上の空』増補版に記した。 ○  退院後、「リーディングスタンド」というものも、通信販売で買ってみた。寝たまま読める書見台である。書見台に支柱がついており、支柱をささえる板状の土台は、枕の下にさしこむ。値のはるものだけあって、あらゆる部分の角度が調節可能なように設計されており、なかなかよくできている。小さな蛍光灯までついている。  本はページの中ほどを書見台の中央にひもで固定し、下から見上げても落ちてこないようになっている。ところが本の四隅はクリップで止めてあるから、ページをめくるには、片手でクリップをつまみ、片手で本を押さえなければならない。よしんばそれを器用に片手でこなせるとしても、とにかく両手の動かない私には使えない。  小学生の子供にめくらせたこともあったが、ひとの読んでいる本をめくるのは、そうとうな根気を要する仕事のようで、2、3枚めくると、もうすっかり飽きてしまい、あとがつづかなかった。  この書見台は、たちまち物置きへ行ってしまった。  入院中から電動式のページめくり機があるという話は聞いていた。なんでも4、50万するらしく、さすがに物のそろった国リハのOT室にも現物は置いてなかった。  簡単なスイッチ操作でうごくページめくり機はないものかと、誰彼となくたずねまわっているうちに、潟iムコが電動ページめくり機を売り出したという話を聞きつけた。15万円だという。高いといえばやたら高いが、従来のものにくらべれば格段に安くなっている。  ナムコの福祉機器相談室に電話する。さっそくお持ちしますと営業マンは言った。ご親切はありがたいが、持ってこられたら、きっと買わなければならないような雰囲気になるにちがいないと、おのれの性格を勘案し、とりあえずパンフレットを送ってもらうことにした。  自動ページめくり機リーディングエイド――見れば、たしかに操作は簡単なようだ。「特殊粘着テープを利用して、ひとつのセンサ入力で操作できる」「文庫本からB5版の週刊誌が使用可能」と謳い文句にある。版の字がまちがっているが、まあそれはよろしい。しかし、いかんせん大きすぎる。たたんでも幅が80センチ、奥行きが3、40センチ。重量も5キロある。これではかたづけるのも出してくるのもえらいことで、たのむたびに気兼ねを強いられることになるだろう。読書専用の机でもないかぎりむつかしい。  しかし、この機械の写真を見て、あることを思いついた。ロール本構想である。私がサラリーマンになった昭和40年代後半、コピー機の紙は、判型別でなく、たしかロール状だった。紙の大きさは、オリジナルの大きさに合わせて、つまみで調節するしくみになっていたように記憶する。あのてのコピー機で、紙を裁断せずに本をどんどんコピーしてゆけば、トイレットペーパーのようなロール本ができるはずだ。  それをモーターじかけの読書機の左の棒にさしこみ、右の棒で巻きとらせる。カメラのフィルムを巻く要領である。横組みの左開きの本は、逆にセットすればいい。スイッチは、右巻き本用と左巻き本用の2つが必要になるが、これがかえって前のほうを読み返す際の逆まわしスイッチの役割も果たす。  これだ! これなら体のどこかでスイッチにふれれば、ページは苦もなく進んでゆく。  おお、なんて頭がいいんでしょう。この読書機が成功すれば毎年特許料がガッポガッポだなあ、もう将来の家計は心配ない。本が読めなくて悔しい思いをしている障害者諸君、待っておれ、鞍馬天狗のおじさんはいますぐ駆けつけるぞ!  なんだか浮き浮きしてきた。全身麻痺になってしまった今、動かせるのは首から上だけである。聾唖(ろうあ)者や盲人、あるいは下半身麻痺なら、不自由ながらも働くことはできる。稼ぐことができる。社会に出ることができる。だが、全身麻痺の身で何ができるだろう。首から上だけで勝負するしかないではないか。アイデアひとつで収入が得られれば、これに勝るものはない。しかも重度障害者のお役に立てるのだ。    入院中には、こんなことも考えついた。よるとさわると競馬の話をしている患者たちを見て、世の中にはずいぶん競馬好きのひとが多いのだということにおどろいて思いついたことである。話を聞いていると、馬券を買うのに苦労している様子である。女性客の掘り起こしに成功した競馬業界は、いまや空前の儲けぶりだという。それなら、馬券をもっと手軽に買えるようにすれば、――たとえば主要な駅の一角に馬券売り場を設置すれば――そしてそこに障害者を雇用すれば、売上げは一気にはねあがり、同時に障害者の働きぐちも飛躍的に増大するのではないだろうか。  現在、わが国では身体障害者の雇用水準を引き上げるため、常用労働者63人以上の企業は1.6パーセントの障害者を雇わなければならないことになっている。「障害者の雇用の促進等に関する法律」で定められているのだが、企業の約半分は未達成である。労働者300人以上の企業は、それを達成できないばあい、障害者1人あたり月5万円の「身体障害者雇用納付金」という名の罰金を払わなければならない。それでも、障害者を雇うくらいなら罰金を払ったほうがましなのだろう。  馬券売り場を主要駅に設置すれば、もう一つの大問題、交通バリアも解消にむかってゆくのではないだろうか。車椅子のひとを雇うからには、どうしても電車が利用できるよう駅の階段というバリアを解消せざるを得ない。主要駅のバリアがかたづいたら、つぎはすべての駅、そしてバスへと安楽交通の輪はひろがってゆくにちがいない。  馬券販売障害者優先法でもつくらないかぎり、障害者雇用の問題も交通バリアの問題も解決しないと思う。百年河清(かせい)を俟(ま)つにひとしい。  しかし……指一本うごかない私は、馬券売り場の窓口にすわることもできないだろう。たとえすわれたにしても、競馬には興味がないから、私自身は馬券売りになりたいわけではない。ただ、あまりにも競馬好きが多いのを見て、それならこうしてはどうかという案を出してみたのである。競馬は一例に過ぎない。    さて、ページめくり機の話である。自分の考えた器械を誰かに作ってもらわなければならない。さいわい私の環境制御装置を作ってくれた南浩一さんを知っている。南さんは、エンジンつきのハンググライダーにのって空を飛んでいるときに墜落して頸損になったひとだが、私より状態は良く、足をつかわない改良自動車を運転してどこへでも行く技術者である。福祉機器やコンピューターにかけてはとても詳しい。  電話でアイデアを話すと、  「なるほど、それならできそうですね。考えてみます」 という返事だったが、いっこうに音沙汰がない。頸損は電話一本でもなかなか思うようにかけられないことは重々承知しているし、こちらも自由にはかけられない。しばらくしてやっと電話の機会があった。  「あの話どうなったかな」  「工場のスタッフとも相談したんですけど、いや器械は簡単なんですよ、すぐ作れます。でもロール本のほうがねえ。だれが作るのかと。1冊あたりすごく高くなってしまうんじゃないですか」  やはりそうであったか。私もうすうす勘づいてはいたのである。しかしそれを言ってしまったら話が先へ進まないと思って、考えないようにしていた。ほかのひとの頭脳ならまたなにかよい知恵が浮かぶかもしれないと期待をかけていたのである。やっぱりダメか。  という次第で、ロール本構想はあえなく潰(つい)え去った。 ○  そんな折り、知人から『明日を創る――頸髄損傷者の生活の記録――』(上村数洋著、三輪書店、1990年発行)を送っていただいた。上村さんは自動車事故で頸損になったものの、持ち前の行動力とアイデアを駆使して、福祉機器の開発と普及を説いてまわっているひとである。  中にページめくり機の章があった。  全身麻痺というきわめて特異な状況に置かれた者は、ほかの頸損の情報が入ってきにくいせいもあって、自分だけがまったく独自の体験をしていると思いこみがちだが、案外みんな同じような経路をたどるものである。考えてみれば、一日の行動にしても、健常者が数百の選択肢を持つとすれば、頸損には数種の選択肢しかないわけだから、似かよった人生を送ることになるのは当然のなりゆきなのである。  上村さんもまたページめくりに悩み、さまざまな方法や器械を試したあげく、どれもいまひとつ満足できず、なかばあきらめたという。   《仕方なく、妻に1ページずつ洗濯バサミで止めてもらい、読み終わると呼んで次のページを止めてもらいました。最初の内は、良かったのですが、度重なると妻も仕事ができず文句は出るし、呼んでも来てくれなくなり、イライラは増すばかりでした。》    かくあって独自のページめくり機を考案する。著書にはその詳細なイラストが掲載されている。しかし、どういう仕組みなのか、見てもよく分からない。要するにページのあいだに透明な下敷きをはさんでおいて、それをマウススティックでひっくりかえしてゆくもののようだ。  私には合わないと思った。第1に、これを作ってくれるようなひとが身近にいない。第2に、上村さんは、このページめくり機で1日に3、40ページ読めるようになったということだが、3、40ページではとてもものたりない。一度セットしてもらったら、肉体の限界がくるまで読まなければ気がすまない。  同じ頸損とはいえ、ひとりひとり残存機能も異なれば、おかれた条件も異なる。座位はとれるか、腕はどの程度うごくのか。あるいは介護者は若いか高齢か、家屋の構造はどうなっているか。ひとりとして同じひとはいない。みな同じような事柄に困るものだが、解決法は微妙に異なる。  重度障害者が行動を起こすうえでとりわけ重要なのは、なにに興味があるかである。とにかく願わなければ何も始まらない。そしてその願いが比較的簡単に実現しそうな見通しがあること、これも肝要なことである。  私は自力で本が読みたかった。心おきなく読みたかった。  この方法では満足できぬ。わざわざ作ってもらう必要もなく、300ページだろうが400ページだろうが、その気になれば1日で読めてしまうような工夫はないものだろうか。  私は、こうしてみた。  文房具屋へ行って、金属製の書見台を買ってきた(そういうモノがあることを知っているかどうかで、そのさきの道がちがってくる)。  本の位置を顔の高さに近づけるため、書見台を適当な箱の上にガムテープで固定した。これで書見台は完成。  本をひらいて表紙を書見台の背もたれにクリップなどで固定する。書見台の下部にはもとからページ押さえがついているので、本が閉じてしまう気づかいはない。ただ、金属製の書見台は、左右のページ押さえが連動していて不便だった。左右の厚さは、本の中央を除いて常に異なるのだから(左右のページ押さえが独立して動かせるプラスチック製のものを、1995年夏に発見した)。  これを1ページずつマウススティックでめくっていくわけだが、このマウススティック、それにスティック置きこそが、肝腎要なのである。  文頭にすこしふれたマウススティックは、鉛筆ホルダーとマウスピースとのつなぎめが、じきにこわれてしまった。お菜箸の先端に付けたゴムの摩擦でめくる方式だから、すこし力がいる。それに、開きの悪い本のノドを押さえつけたりもしなければならない。  保健所の訪問OTに作りなおしてもらった。オストロンという材料でマウスピースをこしらえ、それに直径5ミリほどの金属パイプを埋め込み、先端にゴムチューブを付けた。オストロンはもともと歯科医のつかうもので、安全かつ頑丈である。  ただ、どんな材料で作っても同じことだろうが、使用後よく洗っておかないと、くさくなる。マスクを長時間はめていたときにこもるあの悪臭である。人間の息や唾というものは、案外くさいものだということをあらためて知った。ディープキスをするときは覚悟しなければいけない。  マウスピースは、きちんと歯にそってかみしめるわけではないから、歯型をとる必要はないと思う。歯型のような形をしていればよい。なるべく薄いものがくわえやすい。  私ははじめからくわえる部分が歯型マウスピースだったからいいようなものの、上村さんのばあいは、入院中に病院のOTが作ってくれたマウススティックが棒状のものだったせいか、歯型に行き着くまでに10年ほどかかった。その詳細が、「第8回リハ工学カンファレンス1993」に「マウス・スティックについて」と題して報告されている。  1本棒タイプのものを長年つかっていたら歯ならびが悪くなってしまったという。受傷当時と現在の歯型の写真を掲載している。実証精神が好もしい。  さらにおどろくべきは、昔より鼻の穴が大きくなったといって、受傷前・受傷後の顔写真をくらべ、頸損仲間に同様の現象がないかどうかアンケートをとったうえで、マウススティック使用と鼻の穴拡大との因果関係を証明しようとしていることである。  さもありなんと笑ってしまった。頸損はただでさえ肺活量がすくなくて息苦しいのに、座位をとると起立性低血圧で脳貧血気味になる。そこへさらにマウススティックをくわえて口がふさがれるものだから、酸素不足をおぎなおうとして、知らず知らずのうちに鼻の穴がひろがるのだろう。障害者ならではの観察である。医者は、そんなことなど目もくれない。  そういえば思い出したことがある。受傷後数カ月たったころ、どうも目がおかしいと気付いた。奥目になってしまった。主治医に訴えたが、相手にされなかった。それでなにか不都合が生じないかぎり取り合わないというのが、医者の習性のようである。  私の数すくない観察例によれば、頸髄損傷者は、たいてい上まぶたがくぼんでいる。天井を向いて寝ている時間が長いので、眼球が奥へ沈んでゆくのではあるまいか。あるいは、体を起こしているときには目をひらくために無意識のうちに上まぶたの筋肉をきたえているのが、臥床生活になると目をみひらく時間が短くなって、上まぶたの筋肉が衰えるのかもしれない。  それはさておき、奇しくも年を同じくして「OTジャーナル」にマウススティックに関する論文が掲載された(吉森洋子・内山幸久共同執筆、三輪書店、1993年10月発行)。吉森さんはOT、内山さんは頸損で泣lットワーク・コンソーシアム代表取締役。それによるとマウススティックは、薄くて軽量、かつ咬合(こうごう)部位が広いほど、顎関節、歯、歯周組織への影響が少ない。形状は歯列弓に沿った半円形がよく、前歯でかむ方式は、歯列不正などの症状を生じやすいとある。  この事実が、もっと以前に、より多くのマウススティック使用者に知られていれば良かったのだが。  さて、マウススティックと書見台だけでは、いくらページがめくれても完成とはいえない。くわえっぱなしというわけにはいかないのである。めくるときだけくわえ、あとは離しておける、そしてまた簡単にくわえられる、そういうものでなければ究極のページめくりと豪語する資格はない。  内山さんが使っているもので、私には合わないが興味深いと思ったのは、マウススティック・スタンドである。論文の写真を見ると、書見台の横に空き缶を置き、マウススティックをさしている。缶を板にとめる方法がおもしろい。「ワンカップ大関」のふたを木ネジで板にとめておき、上下のふたを切り抜いて筒状にした「カゴメ野菜ジュース缶」をはめるのである。銘柄を指定してあるのがうれしい。実用的である。  スティックを立てるやりかたは、以前ためしたことがあるが、私にはできなかった。たぶん内山さんほど車椅子の背もたれを起こせないせいだろう  私は、口の横に水平に置く方法をとっている。スティック置きの構造は、こうである。  電気スタンドの軸によく使われる金属製のジャバラ――専門家は「グースネック」と呼ぶ。gooseneck 雁首である――あれの下端に机などに固定するためのネジをとりつける。上端にはスティックをのせるための磁石をとりつける。一方、あらかじめスティックの全長には、パイプとほぼおなじ幅の薄い金属をビニールテープでしっかり付けておく。  こうしておけば、ジャバラが多少かたむいても、スティックはピッタリ磁石に付いて落ちない。姿勢の変化に対応できるよう、ジャバラを長めにして、まさにガチョウの首のようにまげてつかうのがコツである。  さらにジャバラの上端の磁石を2個にすれば、スティックは2本置ける。1つをページめくりに、1つを筆ペンなどの筆記具にする。何ができるか、説明するまでもあるまい。  この磁石式スティック置きが完成したのは、退院から5年を経たやはり1993年のことである。これもまた保健所のOTとPTに作ってもらった(訪問OTや訪問PTが絶対に必要であることを強調しておきたい。自分が動けない以上、まわりに動いてもらうしかないのである)。    だが、おそらく、私がいかに豪語しようと、べつのひとが見れば、この方法は自分には合わないと思うことだろう。  数年前にテレビで星野富弘さんの近況が放送された。チン・コントロール(顎操作)式の電動車椅子で道を行くとき、太陽が背後にくるようなばあいには、車椅子の向きを逆にしてバックで運転すると暖かいと言っておられた。これはいい、と共感した。野外の空気にふれる機会のすくない者にとって、つめたい風が顔にあたるのは、ひどくつらいことなのである。むかしは自転車でビュンビュン寒風を切りながら走るのが、一種の快感でもあった。なのに、いまはちょっとでも冷たい風が顔にあたると、すぐさま帰りたくなってしまう。  絵を描く場面で、私はおどろいた。彼が字や絵にとりくみはじめたころとまったく同じ姿勢だったからである。処女作『愛、深き淵より。』(立風書房、1981年第1刷発行、88年第72刷発行)の写真によれば、ベッド上で右側臥位になり、ベッドの柵に付けたスケッチブックに向かって、口で描いている。それが、10年以上たったいまもなお同じスタイルなのである。  側臥位では、テレビも見づらい。画面を90度横転させたいほどである。まして精緻な画風で、立っている対象を横になったまま縦に描くとは。すわった姿勢で対象に向かったほうが見やすいのではないかと思うのだが、ご本人にしてみれば昔からやりつけた方法が最善なのだろう。  かかえた問題は同じでも、解決法は、ひとそれぞれ。いくら自分がよいと思っても、それが究極の方法とは言い得ない。だが、多様性の中にもなにかしら普遍的なもの、もっとも合理的な要素があるのではないか。そんな思いがあるからこそ、私は私のとっている方法をひとに伝えたいのである。            *筆ペンも、パソコンも*  男のノウミソから「仕事」と「セックス」を取り去ったら、あとには「趣味」のかけらしか残らない。  定年退職の前に老後の人生設計をしておかなければ家庭の中で粗大ごみあつかいされることになりかねないという警告は、昔からよく聞くものであるし、最近は定年と同時に妻のほうから三行半(みくだりはん)をつきつけるケースも増えているようだ。ふぬけになった亭主に用はない。それでなくても積年の恨みがある。  イソップの道徳観で教育された私たちにとって、無為徒食は耐えがたいことである。趣味だけで生きるというのも、退職以前から、よほど手ぐすね引いて待ちかまえるぐらいでないと、うまくゆかないような気がする。  専業主婦のばあいは退職という環境の激変がない分、若いうちから老いに対する策が立てやすいだろう。男は会社勤めをしているあいだは夢中で、家族のこともおのれ自身のこともつきつめて考えるほどの余裕がない。  それに、ほかのことにわずらわされず仕事だけしていればいいという状態は、案外楽なものである。サラリーマンだったころ、「ああ、会社に来ると、ホッとするなあ」と朝の挨拶がわりに言う上司がいた。それを聞いてまわりの者が笑ったのは、同感だったからである。仕事は救いである。逃げ場でもある。  働きざかりの年代に、突然、余生としか言いようのない状態に投げ込まれたら、どうなるか。つらいもなにも、ただただ茫然とするばかりである。入院中は、まだいい。周囲は病人や障害者ばかりだから、自分が特別異常な状態にあるとは思えない。いまは仮の姿、一時的な状態だという気分である。モラトリアム状態とでもいうのだろうか。  これがいったん退院して日常生活のなかに身を置くやいなや、けがをする以前と同じように夫としての役割、父としての役割、社会人としての役割を要求されることになる。  要求にこたえたいのは山々である。すぐにでもこたえたい。私はもともとせっかちなほうである。目の前の仕事は、すぐかたづけなければ気がすまない。今日できることは明日に延ばすなという主義である。いつ何時トラブルが起こって時間をロスするかわからない、間に合わなかったらエライことになるという不安がいつもつきまとっていた。  しかし、指一本うごかなくなってしまった私にどうしろというのか。自分にいったい何ができるというのか。たとえば手紙が来る。すぐに読んで返事を書きたいと気がせくのだが、手紙は机の上にのったままである。よしんば読めるには読めたとしても、どうやって返事を書けばいいのか。口述筆記? だれが書くのだ。  私はまたアフロディーテの子でもあった。ちょいと様子のいい女を目にすると、反射的に「したい」と思った。思うだけである。そのまますれちがって、何も起こらない。現実は、テレビドラマほど劇的なものではない。同僚と酔っぱらって街を徘徊しながら、「うう、したい。したいけどできない。オレはシタイフジユウジだあ」などと夜空にむかってほえるのが関の山である。そんな不謹慎なことを言っているから、バチがあたってしまった。  趣味などはすでに論外である。釣り道具は、手もとにあっても悲しいだけだから、全部ひとにあげてしまった。  おのれのあまりの無力さに、心は萎縮してゆく一方である。  ある日、たいせつな用があって、ある会社に電話をした。相手は多忙な人で、秘書が電話口に出た。  「もしもし、藤川と申しますが……」  「どちらの藤川様でいらっしゃいますか?」  秘書としては当然の質問である。素性が明らかにならなければ、やたらに取り次ぐわけにはいかない。しかし私はめんくらった。なんと答えてよいのかわからない。私は、どちらの藤川さんなのだろう……。  サラリーマンのころは社名を名のればよかった。勤務中は言うにおよばず、自宅にかかってきた電話をとるときも、うっかり社名を名のってしまうことがあった。男は、職を失うとアイデンティティまで失ってしまうのである。  私が最初の本『上の空』の執筆を引き受けたのにはいくつかの理由があり、それについては前書きなどに高邁なことを書いておいたが、ほかにつまらぬ魂胆もあった。「職業欄」を埋めたかったのである。退院当時、子供はまだ小学生だったが、いずれ進学や就職の際、履歴書の「父親の職業」という欄を記入する必要が生じるにちがいない。無職とは書かせたくない。1冊でも本を上梓すれば、著述業と称してもさしつかえあるまい。そんな思いもあったのである。    手をつかわずにどうやって本を書いたのか知りたいひともいるだろうと思い、前著の最後に方法を書いておいた。簡単にいえばテープに声をふきこんだのである。録音状態にした録音機を環境制御装置につなぎ、電源のオン・オフだけを自分でした。文章を頭のなかで組みたてるあいだは、オフにしておく。  そのほかに音でうごく録音機もつかった。日立の「VAコントロール」という機種である。小さい声でも録音できるように別売りのピン型マイクを接続した。  「あ」とかなんとか言うと、テープが回りはじめる。黙ると止まるから、テープにむだが出ない。環境制御装置などのよけいな機械を必要とせず、単独でつかえるし、テープ・カウンターが付いているから、あらかじめ60分テープは900というように総量をはかっておけば、テープの残量がわかって便利だ。ただし、となりの台所でガタンと物音がしただけでも作動してしまうのが、難点といえば難点である。  ふきこみのさいは、あらかじめ綿密な構想をねっておき、一気に録音しなければならない。日をへだてては、前に何を言ったか忘れてしまう。そうとうな集中力を要求される仕事である。  テープおこししたワープロ原稿を口述で推敲した。週1回、編集者に来てもらった。これまた体力の関係から時間の制約があって、楽な作業ではない。能率をあげるため、次回の分の原稿を前もって読んでおくことにした。  そのころには、本だけでなく書類も自力で読めるようになっていた。必要にせまられて工夫したのである。B4の原稿用紙がのるほど大きな木製の書見台をつかう。これはむかし、丸善でみつけたものだ。  原稿の束の左上を「ダブルクリップ」でとめ、クリップを書見台にセロテープかなにかで固定、いちばん下の用紙をやはり書見台にテープでとめておき、マウススティックで左にめくる(右側にめくるときは、逆にセットすればいい)。めくった紙がペロンともどってこないように、私は大きめのダブルクリップを書見台の左下にかませ、つまみのかすかなバネをページおさえに利用した(この1節、ダブルクリップを知らなければ理解できない。私は勝手に「黒バッチン」と呼んでいるのだが、そう言われても知らないひとは困惑するだけでありましょう)。  で、とにかくひとりでめくって読めるようにはなったのだが、よし、ここはこう直そうときめておいても、次回の作業日までおぼえていられない。  そこで、書見台のかたわらに、ゴム印などにつかうスタンプ台をおき、マウススティック先端のゴムチューブにインクをこすりつけて、訂正箇所に印をつけることにした。ところがやはり数日たつと、どういう意図で印をつけたか思い出せない箇所が出てくる。  スティック置きが重要なものであることは前にのべたとおりだが、ページめくり用スティックと筆ペン用スティックを同時にのせられるようにすればよいのだと気づいたのは、このときである。  これ以降、私は思う存分添削できるようになった。  その過程でうまれた愉快なアイデアをひとつ。筆ペンをくわえて、木の書見台に横長にセットしたA4判の紙に向かうわけだが、筆ペンのとどく範囲はかぎられている。私の体と書見台は、横から見るとVの字の形をなす。左の線が私、右が書見台。字は横書きである。紙の上部に筆先がくるようにセットすれば下部が近すぎて書けないし、下部に合わせると、今度は上部にとどかない。体幹はうごかないから、いくら首をのばしても限度がある。  これこれこういう事情で書見台が上下するようにできればありがたいのだがと保健所のOTに相談してみた。それはむつかしそうだが検討してみましょうと、首をひねりながら書見台を持っていった。数週間後にOTのかかえてきた書見台には、じつに巧妙な工夫がほどこされていた。  書見台は、水平な台と蝶番で連結した本の背もたれ、それに背もたれを支えるつっかいの3部分からできており、市販品はどれでもつっかいの角度を何段階か変えられるようになっている。そのもともとのつっかいは無視して、モーターじかけのつっかいをはめこんでしまった。モーターの円運動をつっかいの線運動に変えたのである。スイッチはタッチ・センサー。書見台の前面下部に付ける。マウススティックでセンサーにふれると、書見台の背もたれがウィーンと後ろに倒れ、あるところまで倒れたら、今度は起きあがってくる。好きな角度に調節できる。これでA4の紙いっぱいに書けるようになった†1。  来客にこの電動書見台を実演してみせると、みな一様に笑いだし、ついで感心する。  ――こう書けば、えらくトントン拍子にいったように見えるかもしれないが、とんでもない、原稿の推敲の時期から月日は流れ、すでに最後の著者校正の段階にはいっていた。けがをしたときから数えれば、まる6年である。著者校を返すときに渡す前書きと後書きは、すべて口で書いた。ふるえ文字の原稿を見た担当の女性編集者は、「ウルウルしました」と言った。    なんとしてでも自己表現の方法を案出しなければならぬ事情が、いまひとつあった。著作の仕事とほぼ同時に、裁判がはじまった。私の頸髄損傷は、医療過誤事故である。事故のあと病院側がずっと出してくれていた付添い婦や家政婦の費用を停止されたことから、訴訟に踏み切ったのである。  よわったのは、裁判所への出廷はもちろん、裁判関係の書類の通読さえできないことであった。当方の弁護団が代筆してくれる準備書面はよいとしても、口頭弁論の速記録はかならず目を通さなければならない。ことに被告の出してくる書類を読んで反駁(はんばく)する作業は欠かせないのだが、妻は法律事務所から来た茶封筒を見ただけでおびえてしまう。  「いいから置いておけ。オレがなんとかするから」  とりあえず妻の不安をやわらげるのが先決だからそう言ってはみるものの、妙手があるわけではない。家政婦は家事で手一杯だし、子供はじっとしていられない。ボランティアや友人など、家事や介護以外のことも手伝ってくれるひとが来たときに、たまった書類を口述筆記で処理したりした。  四六時中裁判のことを考えなくてもいいようにわれわれがいるのだからあまり気に病まぬようにと弁護士は言ってくれたが、それでも任せっきりというわけにはゆかない。裁判など初めての経験で、思いがけないことがいろいろ出てくる。たとえば弁護士の立場は、あくまでも代理人であって、原告本人ほど裁判官にむかって強いことを言えないものらしい。裁判官のほうがエライようだということがわかってきた。となると、ますますみずから東京地方裁判所におもむく必要があるのではないか。  地裁の入り口にはスロープがあるだろうか。そんなことまで心配になる。ちょうどそのころ自民党のドン金丸某氏が脱税容疑で逮捕され、車椅子で地裁にはいる様子がテレビ各局の画面にうつしだされた。目をこらして見つめたが、どのカメラも顔のアップばかりで、足もとをうつさない。中でただ一度だけ、場所取りに失敗したらしいカメラが、ななめうしろから体全体をうつしたことがある。2、3段の石段には、急ごしらえらしき木製スロープが置かれていた。  患者側にとって、医療裁判には、3つの壁があるといわれる。密室性の壁、専門性の壁、封建制の壁がそれである。1と2は説明不要だろう。3は、医者どうしの縦のつながり、かばいあいのことである。被告はさておき、被告側証人の医師がいけない。どのような言辞を弄しているか、ここに具体例をあげたいところだが、裁判記録の一部分だけ引用しては我田引水ととられかねないので、さしあたり控えておく。それにしても、あっけにとられるほど恥知らずなことを言いだすのがいて、暗澹(あんたん)たる思いをしたことも一再ではない。  裁判官の心証は、証人の肩書きに左右される。まあ世の中とはそういうものだろうと、何十年も生きているのだから頭ではわかっていたが、このとき初めていやというほど思い知らされた。  「じつにけしからんやつですが、それでもとにかく大学助教授ですからね」と証人尋問の報告に来た弁護士が言った。「こちらはそれを上回る証人をさがさないと……」  相手はエリートの専門家、私はただの障害者なのである。  本の執筆と裁判は、同時進行である。裁判のことを書こうかとも思ったが、裁判を有利に進めるためにマスコミを利用したと勘ぐられるのも業腹(ごうはら)である。一生に一度のたいせつな出版をけがしてなるものかと、本の中でも出版後のマスコミ各社の取材においても、一切ふれなかった。  1993年6月、『上の空』上梓。  多くのかたからお祝いの言葉をいただいたが、いちばん喜んでくれたのは、やはり妻だろう。  「あなたは物書きになるひとだって、ずうっと思ってた。結婚前からよ」  「オレは定年まで会社にいるつもりだったけどね」  「いずれ会社をやめてフリーになるにちがいないと思ったから、あたしはワープロ入力の仕事をはじめたの」  妻がワープロの仕事をはじめたのは、下の子が幼稚園にはいって自分の時間を持てるようになったころのことで、パソコンが普及した現在とちがって、ワープロはまだ特殊技能だった。1式100万円の時代である。それにしても、私の収入減にそなえての行動だとは知らなかった。  「あたしはもうワープロどころか妻も主婦も母親もできなくなってしまって、あなたは悲しくてつらい体になってしまったけど、でも、本が出せてうれしい」  涙ぐみながら初版本を大事そうにサランラップで包んだ。埃よけである。 ○  さて、本が出てまもなく、いくつかの新聞・雑誌がとりあげてくれた。知りえた範囲のものをここにかかげる。記録にとどめておきたいからであって、自慢しようなどという気持ちはさらさらない。……エーと、すこしある。   93.6.22 新潟日報「日報抄」 6.23 北海道新聞「卓上四季」 6.24 西日本新聞「春秋」 7.12 大分合同新聞「読書」 7.14 聖教新聞「新刊から」 7.18 毎日新聞「ポッカリ出会い箱」朴慶南(パクキョンナム)氏(毎日新聞社、のち同氏『いつか会える』収録) 7.20 朝日新聞東京版 7.25 北海道新聞「著者訪問」関正喜記者 8.30 聖教新聞「名字の言」 9.4 中国新聞「本だな」   9月号 健康ファミリー「ファミリー今月の推薦図書」(文理書院)   9月号 本の雑誌「今月のお話」椎名誠氏(本の雑誌社、のち同氏同社『むはの哭く夜はおそろしい』収録)   9月14日号 経済界「ブックス・ナウ」北山おさむ氏(経済界)   9月号 月刊宝石「ブックハンター」黒田清氏(光文社)   9月号 噂の真相「新刊メモ」(噂の真相)  10・10 朝日新聞「天声人語」  10・25 解放新聞「今週の一冊」みなみあめん坊氏  11月号 保健の科学「書評に代えて」逸見武光氏(杏林書院)  12・24 読売新聞「医療ルネッサンス」(のち同社『病との共生』収録)  12月号 エルダー「BOOK」坂本宇一郎氏(企業通信社)  '94・5月号 主婦の友「シリーズ命を見つめる」   6.16 日本経済新聞「グリーン往来」角田満弘氏    この一覧から、マスコミの反応は、地方紙がいち早く、発行から3カ月間に集中し、約1年つづくことが読みとれる。  取材は「ご夫婦で」という申し出が多かった。苦労と愛情に満ちた美談にしたてあげたいのだろう。が、妻はてんから受けつけなかった。黒田氏の書評の中に《奥さんのことがよく登場するが、これも献身的な看病というような定型的なものではない。》という語句を見つけ、「献身妻にされなくてホッとしたわ」と言った。  出版社あてに読者カードが送られてきた。80通以上はあるだろう。コピーしてもらってすべて読んだ。未知の読者から出版社経由で手紙が送られてくることもあった。手紙をいただくのはうれしいが、小さなかわいらしい便箋で10枚も書いてあると、読むのに難儀する。  高校時代の同級生村野君の手紙は、パソコンで書いたものらしくB4判1枚だった。2段組みでビッシリ書いてある。私がどういう状態で手紙を読むか配慮したうえでの形式だろう。2段組みなどという芸当ができる腕前にも感心した。のちに彼は私のパソコン指南役になる。    9月のある日、国立リハビリテーションセンターの茶封筒が郵送されてきた。国リハは、私のお世話になったところだが、病院ではなく、研究所の数藤(すどう)部長からである。  手紙によると、数藤氏はリハビリテーション工学の専門家で、4年ほど前から電子化図書の研究をはじめ、すでに30冊ほど作成しているが、その中に拙著を加えたい、ついてはフロッピー・ディスクを貸してほしいとのことである。電子化図書? 初耳で、なんのことやらわからない。  依頼書が同封されている。  《パソコンやワープロで書かれた作品(フロッピーディスク)は、普通は出版社に渡してしまうと、その後は消してしまうとか、どこかにしまい込んで忘れてしまうのではないかと想像しますが、意外な利用価値があります。そのようなフロッピーディスクが、通常の本を読めない視覚障害者や重度の肢体不自由者の読書環境を大きく改善すると考えられるからです。》  電子化図書というのは、フロッピー・ディスクのことらしい。どうも私がワープロで書いたと誤解しているようだ。しかし、いまの本は、活版ではなくほとんどが電算写植で作られている。電算写植で文字を組むためにはフロッピー・ディスクがいる。つまりどんな原稿でもいったんはフロッピー・ディスクになるのだから、私の手もとにはなくても出版社にいえば入手できる。  電子化図書の利点は、@本のページがめくれないひとでも、パソコンをつかえば簡単なスイッチで読める、A弱視者は、パソコン画面の字を大きくすれば読める、Bフロッピー・ディスクをパソコンで自動的に点字に変換すれば、点字本の製作が簡単で、新刊がすぐ読める、ということらしい。  重度障害者が簡単に読めるうえに、視覚障害者の役にも立つなら、なおさら結構である。ポケット判の『コンサイス英和辞典』が、点字本では26冊になると聞いただけでも、点字本の製作がいかに多大な時間と労苦を要するかわかるというものではないか。これまでは新刊の点字本など考えられなかったにちがいない。盲人のほとんどは、新刊を読みたいという気持ちをいだくことすらないだろうと私は想像する。可能性のないことを願ってもしかたがないからである。  「障害者(およびその関係者)以外には貸し出さない」とあるのは、著作権や版権のことも考えた上での判断であろう。  「ファイルにはプロテクトをかけて、簡単にはコピーできないようにする」という一節がなんのことやらよくわからないが、障害者用の電子化図書は世界初らしいという点も気に入って、一も二もなく賛成した。  数藤氏に電話、了解の旨をつたえる。  「それでは、できあがったらフロッピーを1枚お送りします」  「いや、いいですよ。私、パソコン持ってませんから。出版社のほうに送ってください。それよりひとつお願いしたいことがあるんですが。同封されてきた『障害者用電子化図書の開発・普及に関する研究』(テクノエイド協会、平成2年発行)の参考文献の中に『在宅頸髄損傷者』(松井和子著、東京都神経科学研究所、1987年発行)という本がのっていますが、1冊入手できないでしょうか」  頸髄損傷に関するまとまった知識を得たいとねがいながらも、小著執筆中にはついにはたせなかった。1987年、私が受傷した年にすでにこういう本が出ていたのである。  10月、数藤氏より返信。入手困難とのことでガッカリ。しかし、国リハの売店に『上の空』が10冊ちかく平積みになっていてびっくりしたと書き添えられていたのはうれしくもあり、なつかしくもあった。入院中、あの売店には妻と何度か行ったことがある。菓子類や衛生材料が中心で、週刊誌はそろっているものの、書籍は文庫ぐらいしか置いてないような小さな店だった。    光キーボードを知ったのは、この手紙によってである。  数藤氏は、電子化図書のほかにパソコンのキーボード代替装置の開発もしており、すでに「光キーボード」という名称で実用化している、よかったら試してみませんかと知らせてきた。キーボードのキーを押すかわりに、レーザー光線をキーに照射するだけで文字を入力できるというのだが、パソコンをいじった経験のない私には、まるっきりわからない。なんだかめんどくさそうな話である。だが、「『上の空』を読むと、原稿作成はほとんど口述筆記に頼り、文章の推敲などに苦労したと最終章に書かれていましたが、この光キーボードとパソコンを使えば、少なくとも文章の推敲(前後の入れ替えとか一部削除とか)は、誰に気兼ねもなく自分一人でできると思います。」  という一節に心をうごかされた。  氏は前述の『研究』の中で、健常者や晴眼者より障害者、それも重度の者ほど電子化図書に興味をしめすと報告、「施設や療養所でほとんど寝たきり状態の者にとっては、読みたい時に読めるという気持ちが行動に結びつく事は極めて大きな意味を持っているのであろう」と、重度障害者の心に深く分け入った言葉で論文をしめくくっている†2。  体の自由を失った者にとって、気持ちを行動に結びつけることがいかに困難であるか。まして気兼ねなく――。  新しいことを始めるのは億劫だったが、ちょっとやってみようかと思った。  ほどなく数藤部長と伊藤研究員が、機械一式をたずさえて来宅。  光キーボードは、普通のパソコンのキーボードと大きさや文字の配列はほぼ同じ。パソコンとの連結法も同じ。ちがう点は立ててつかうところ。手でさわるものではないから、キーの凹凸はない。平板なプラスチックの板にキーの配列が印刷してあり、各キーの下に直径3、4ミリの受光部がある。なんでもこの受光部ひとつひとつに半導体がしこまれていて、それらの調子をととのえるのがむつかしいのだそうだが、なにしろ私は半導体からしてもうわからないのでそれ以上の説明を受けても「はあ……」と答えるしかなく、相手も私の理解力をすぐ察知して、要するにこの穴にレーザー光線を0.5秒以上当てれば、指でキーを押したのと同じことなのだと教えてくれた。  レーザー光線の発射口は、眼鏡フレームの中央にとりつけたり、帽子のつばにとりつけたりする。別に虎屋の羊羹(ようかん)ぐらいの大きさの発射機本体があり、本体と発射口はグラスファイバーでつながっている。レーザー光を直視しないこと、グラスファイバーのコードは折らないこと、その2点に注意する。  パソコンをつかっているひとなら、通常のキーボードで同時に押すキー(たとえば、コントロール、シフト、キャップス、カナ、グラフ)はどうするのかという疑問をいだくだろう。それらにかぎって1度押せば、つぎのキーを押すまでつきっぱなしになる。2つのキーを同時に押した効果が得られるから、心配はいらない。  「あ」という字を打つにはどうしたらよいか、「あい」という字を「愛」に変えるにはどのキーを押すか、あるいは「哀」にするばあいはどのような操作をしたらよいかなどをその場で教わって、あとはとにかくいじってみるにかぎるということになった。  ここからさきは、すべてのパソコン初心者がたどる経過と同じである。もうヤんなっちゃった。全然言うことを聞かない。だいたい、あのヘルプ・キーというのは何のために付いているのだろう。ヘルプ画面を呼び出して助かったためしがない。  これなら口で書いたほうがよっぽど早いと思った。説明書はあっても読むことができない。その分厚さを見ただけで意気阻喪(そそう)してしまう。やれフロッピー・ディスクだ、やれコンパクト・ディスクだ、やれハード・ディスクだと、用語の意味もわからない。  しかしやはり上達するにつれて、いやこんな便利なものはない、手のつかえない者には必需品だと思うようになってきた。たとえば筆ペンのばあい、原稿用紙が1枚、2枚なら問題ないが、10枚をこえると前のほうを見なおすのがしんどい。マウススティックで1枚ずつめくらなければならないのだから。これがパソコンなら、何十ページあっても往復は一瞬である。  辞書が引けるのもありがたい。いま使っているNECのPC9821にはCD−ROMを差し込む口があって、私はそこに『広辞苑』のCDを入れ、さらに外づけドライブとかいう器械を接続して――すべて友人にセットしてもらう――、そちらにもう1枚CDの辞書や事典を入れている†3。文章を書きながら、不明の点が出てきたら、画面を辞書にきりかえ、確認後ふたたび文章にもどるのである。  ベッドに側臥位で横たわったまま入力できるようにもなった。「寝たままパソコンがしたい」という私の要望に数藤部長がこたえてくれたのである。問題は、レーザー光線発射機。側臥位のとき下側の耳は枕についているから、眼鏡タイプも帽子タイプもつかえない。試作第1号は、ヘアバンドに棒状の発射機を縫いつけたものだったが、頭を動かしているうちにヘアバンドがずれてきて光線の方向がくるってしまう。私は「千昌夫のほくろがほしい」と言った†4。ひたい中央から光線が出せれば理想的だという意味である。結局、上の耳のあたりにかるくのせるタイプにおちついた。  一応打ったものを印刷するところまでこぎつけるのに、1年半ほどかかった。パソコンにもかなり詳しくなった。フロッピー・ディスクは四角いペラペラの容器にはいっていて、コンパクト・ディスクは銀色の円盤で、ハード・ディスクはタバコ2箱分ぐらいの大きさの硬いものだということもちゃんとわかるまでになった。  本書の執筆は、パソコンでおこなった。ぶっつけ本番、練習と仕事を兼ねて光キーボードに向かった。本を書くという目的がなかったら、そして教えてくれるひとがいなかったら、とても続かなかっただろう。  これでまあパソコンのワープロ機能はモノにしたなと自信をつけてしばらくたったある日、『上の空』の内容を確認する必要が出てきて、そうだ、せっかく電子化図書をもらったのだから、あれで読んでみようと思いたち、フロッピー・ディスクをパソコンにつっこんでみた。すると、なんたること、画面に「この電子化図書は作ってから1年以上たっているので読めません」という意味の文字が出てきた。そのとき初めて、「ファイルにプロテクトをかける」というのはこういうことだったのだなと合点がいった。しかし、どうしてフロッピーのやつに時の経過が自覚できるのだろう。わからぬ。 ○  話はすこし前にもどる。国リハの数藤・伊藤両氏が来訪してまもない晩秋のころのこと、三五館の編集者から「つくづく世間はせまいものとびっくりした」という便りがあった。彼女の所属しているアウトドア・クラブに最近新メンバーが加わり、キャンプに行った。テントの中でたまたま話がおたがいの仕事におよんだ際、新メンバーが所沢で障害者の自助具の開発をしているというので、ひょっとしたら国リハの研究所ではないかと問うと、まさにそのとおり、なおかつ、いま『上の空』を電子化図書にしているところだと答えたという。伊藤さんだった。  研究所と三五館とのあいだにはなんのつながりもなく、それぞれメンバーは数人に過ぎない。にもかかわらず、たまたまその中の2人がまったく任意のクラブにはいり、それだけならひとつも不思議はないが、同じ本にたずさわっていたとなると、――おまけにそのクラブは、わが家のご近所といっていいようなところにあったことも判明したとなると――やはり「世間はせまい」といささか感慨にふけらざるを得なかった。    その年の暮れであったか、三五館経由で1冊の本が送られてきた。『冥冥なる人間――ある重度障害者のエクリチュール――』(可山優零・かやまゆうれい著、川島書店、1992年発行)。著者自身から送られてきたもので、手紙が同封されていた。読んで仰天した。C4の頸損で、手足はまったく動かないという。C4といえば私より一段階重度の障害である。そういうひとが本を出したことにおどろいたわけではない。なんと多摩市内のアパートで一人暮らしをしているというではないか。多くのボランティアの協力を得ていると書いてはあるが、全身麻痺の人間がアパートで一人暮らしだなんて、そんな話は初めて聞いた。それがいかに困難なことであるか、容易に察しがつく†5。  ひとからおくられた本は手が伸びにくいものだが、おなじ頸損の手記でもあり、なんといっても一人暮らしを敢行するそのひととなりに関心をひかれ、通読した。  1957年生まれ。私より8歳年下だが、1982年の受傷だから頸損としては5年先輩である。大学の経営工学科を卒業後、物流会社に入社。人間の価値を経済的な側面からしか見ない、すなわち金をより多く稼ぐひとが立派で、稼ぎのないものは「穀潰し」と決めつける人間観の持ち主であったという。それがある日交通事故で全身麻痺になり、みずからが穀潰しになってしまった。社会の「お荷物」になりさがったおのれに、生きつづける価値はあるのかと問いかけることからはじまる、重いテーマの本である。  私がとりわけ目をひかれたのは、重度障害者施設の現状である。私は当時すでに在宅生活をおくっていたが、ひょっとしたらゆくゆくは施設にはいらざるを得ないかもしれないと考えていたからである。重度障害者の施設とは、いったいどんなところなのだろう……。  施設にはいって初めての入浴日。首から上がマーガリンでも塗られたようにベトベトして気持ち悪い。香りの良い石鹸とふんだんなお湯に触れたい。フケと汗に別れを告げたい。さっぱりできるならいかなる代償でも払う。やっときれいにしてもらえると思っていたのだが――。   《浴室の前まで行った途端、地獄に突き落とされた思いがした。とくに糞尿の匂いは、私を逡巡させた。眼の前の三畳ほどのスペースには身体をくっつけ合って瓦礫と化した真っ裸の人間が、5人も横たわっていた。そのスペースは、入浴が終了した患者に下着を着せてあげる場所であった。(中略)  私はマットに寝かしてもらうとすぐに、洗面器でお湯を数杯かけてもらった。お湯が顔や頭に一気にかけられると、引き返したい気持ちもすこし和らいだ。石鹸を擦り付けられて泡立っているナイロンの手拭いで、身体の前面を擦ってもらうと、今度は身体を横向きにして背中を擦ってもらった。頭がマットから飛び出して、頭が直接タイルにぶつかった。背中をゴシゴシ洗うリズムに合わせて、その震動で頭がゴツゴツタイルにぶつけられた。  口元には汚水が漂っている。それには垢がプカプカ浮いていた。人体の油も浮いていた。石鹸の泡も浮いていた。光線を反射して虹色の油膜を作っていた。おぞましさのあまり眼を閉じないではいられなかった。誤って汚水を飲まないように口を結んでいた。間違って排水溝の蓋をタオルが塞いでしまったのであろう。》  恐ろしい描写はまだまだ続く。大昔の話ではない。つい数年前のことである。こんなありさまでは、なにがなんでも施設を出ておのれの生活はおのれ自身で決めるという強固な意志を持つにいたるのもうなずける。ひとえに職員の人数不足と予算不足が原因であると可山氏は分析しているが、原因は何であれ、いまも事情はそう変わらないだろう。施設にはいろうなどという考えは、即座に捨てた。  さて、「一刻も早く施設職員が仕事しやすい環境が得られるような医療制度と福祉政策の充実を願う。」としめくくられた本篇のあとに数篇の寄稿がある。そこに「ワープロ入力を手伝って」という一文を寄せているひとの名を見て、オヤッと思った。東京都神経科学研究所・松井和子とある。なんというめぐりあわせだろう。  本を読みおわってから、電話した。電話のむこうの可山優零さんは――もちろんペンネームである――明るい声で、  「じゃあ一度おうかがいしますよ。最寄りの駅はどこですか」  「え? どうやっていらっしゃるんですか、交通手段は」  「電車とバスで行きます」  私はけがをしてこのかた、電車にもバスにも乗ったことがない†6。  数日後、可山さんは、はやてのように現れた。まっ赤な介助用車椅子に乗り、学生のボランティアを一人ともなってきた。  「駅の階段はどうしたんですか?」  通りがかりのひとに頼むのだと、こともなげに答えた。腹がすわっている。  ようやく生活のサイクルが安定してきたとはいえまだまだ人手の確保に悩んでいた私は、約30人いるというボランティアをどうやって集めたのか聞いてみた。  「駅前でビラをくばるんです。1000枚くばれば1人はみつかりますよ」  1000枚くばって1人! 私にはとてもできない。  旬日を経ずして松井さん来訪。重度障害者のために奔走しているひとである。めずらしく妻も同席した。  国リハにたまたま用があっておもむいた折り、拙著を売店で見つけ、可山さんに紹介したとのこと。国リハの精神科医N先生とも面識があり、私のえがいたN先生像が的確だと言ってたのしそうに笑った。そのうえ妻のかかっている医師まで何十年も前から知っていると聞いては、松井さんの交際範囲の広さに感心すると同時に、やはり世間のせまさにおどろかざるを得なかった。まったく世の中はどこでどうつながっているかわからない。  これをきっかけに「はがき通信――四肢マヒ者の情報交換誌――」(向坊弘道発行、松井和子編集)を送ってもらうことになった。さまざまな頸髄損傷者の生の声が聞けるので、毎号たのしみにしている†7。  †1 電動書見台その後  モーターじかけの電動書見台はほどなく壊れた。書見台の重みに耐えられなかったと見える。しかし車椅子が電動でリクライニングできるものに変わったので、こちらで高さ調節ができるようになった。  †2 病院・施設でのネット  パソコンでインターネットを接続すれば、じつにさまざまなものが読めるようになった。まさかこんなに便利な時代が来るとは思わなかった。ただしそれは在宅の話であって、病院や施設に入っていたのではむつかしいようだ。身体障害者は情報障害者でもある。  †3 辞書はパソコンにコピー  パソコンのことはよく分からないが、辞書のCDは別の器械を接続しなくてもパソコン本体に何枚でもコピーできるようになった。  †4 千昌夫のほくろ  こんなことを言ってももう分からないひとがいるだろう。千昌夫はひたいに大仏のようなほくろをつけていた時期があるのだ。  †5 重度障害者の一人暮らし  全身性の障害者を支援する制度があり、それを利用して一人暮らしをする重度障害者がふえてきた。むかしは死を覚悟して施設から出たものだ。この20年でわが国の福祉制度はほんとうに進んだと思う。  †6 交通バリア  東京の事情しか分からないが、電車にはどの路線でもたいてい乗れるようになった。エスカレーターは車椅子対応になり、階段には昇降機がついた。エレベーターを設置する駅も徐々にではあるがふえてきた。  バスはまだまだ。ノンステップバスは運行本数が少なく運転手も慣れていない。もっとどんどん利用しないとそのうち消えてしまうだろう。  自動車についてはタクシー会社やボランティア団体の福祉車両がある。タクシー会社のものは利用料金が高い。経済さえ許せば自分で買ってしまうのがいちばん便利ではある。車メーカーもいろいろ出しているが、総じて手こぎ車椅子のことしか頭になく、背の高い電動では乗れないことが多い。  †7 「はがき通信」のhp  「はがき通信」のホームページ(http://www.asahi-net.or.jp/~sq6h-mkib/PCC1.htm)は体験談の宝庫だ。創刊号から現在発行中のものまですべて掲載されている。また痛み・褥瘡・排尿・排便・車椅子・人工呼吸器など、項目でも検索できるようになっている。         *まがるストローはしゃらくさいか*  チェッ、しゃらくせえなあと最初は思ったものだ。まがるストローのことである。たとえばこんな場面。喫茶店にはいってきた若い男女がむかいあってすわり、男はぎこちないしぐさで吸いつけないタバコをくわえながら「レスカふたつね」なんていって、見ていると、ほそながいグラスがふたつ運ばれてきて、それぞれに紙袋いりのストローがついている。女の子はいいとしても、男にストローはにあわない。グラスからじかにグイグイ飲めばいいのである。それをおちょぼぐちでストローなんかチュウチュウ吸っているのだから。タバコはくわえていても、まだジャリなんだなと思う。  しかし、なんだってストローの首をまげる必要があるのだ。ストローなんかまっすぐでいいじゃないか。首をまげることによって付加価値とかいうものをつけて高く売りつけようという業者の魂胆はみえすいている。そんなものにうかうかのることはない。しゃらくせえといって、はねつければいいのだ――とそう思っていた。  世の中にはしゃらくさいものがいっぱいある。シェービング・フォームというのもしゃらくさい。スプレー缶の頭をおすと、プシューと泡状のクリームが出てくるという寸法だが、これも生活必需品というわけではなく、ただ格好がいいからというだけのしろもの。なんといっても、ひげそりまえに顔にぬるものは、ブラシでシャカシャカとたてた石鹸の泡にかぎる。スプレーなどとは風格からしてちがう。    ところで、まがるストローで「レスカ」なんか飲みながらテーブルの下でオイタをするような連中にかぎって、これがまた電車の中でいちゃついたりするわけだ。みぐるしい。注意しようかとは思うものの、なにがわるいんだようといわれると、ちょっとこまる。べつに法にふれるわけじゃないんだからいいじゃないのさ、よけいなお世話よ、なんてさかねじをくらわされたら、たじろいでしまうだろう。  このさかしらをうちくだくには、なんと反論すればいいだろう。法にふれなければ何をやってもいいというものではないのだよ君たち。法は最低限の道徳にすぎない。六法全書には書いてない不文律もしくは常識というルールが、この世の中には五万とあるのだ。年寄りの常識と私たちの常識はちがうって? そう、たしかにモラルはうつろいやすいものじゃ。だがしかし、われわれは古今東西にあまねく普遍する生の真実を追究しなければならない。  わかるかね、お若いの。公衆の面前におけるいちゃつきが、なぜ少なからざる嫌悪羞恥の念をいだかせるのかという点を人類史をさかのぼって考えてみようじゃないか。それは性行為を連想させるからではないだろうか。正確な理由はわからないが、人間は原則として人前では性行為はおこなわない。性行為ほどではないが、排泄行為もまたかくれてするものである。その意味でセックスと排泄は似ている。両者に共通するのは、その行為の最中に外敵におそわれたばあい防御体勢をととのえにくいということである。それがおそらく人前でしなくなった所以であろう。君たちは電車の通路で排泄をするかね? と、ここまで言えば、あいてはグウのねも出ずにうつむくばかりであろう。  もっともあれだな、こんな長口舌をふるっているうちに途中の駅で、バーカ死ぬまでやってろかなんか言いながらカップルは降りていくというのが落ちなんだろう。  そういう事態が最初から予測されるから、みんなひるんでしまうのである。あるいはいきなり有無をいわさずなぐってしまうという方法も考えられるが、戦後の民主主義教育を受けたわれわれの世代にはなかなか採用しにくい途である。    これが一昔前だとすぐ腕力沙汰になった。たとえば南方熊楠(みなかたくまぐす)などは、近所に洋服なんか着て歩いている奴がいるので、しゃらくさいから今度会ったらなぐってやろうと思っているなどと書いている(平凡社の『南方熊楠全集』のどこかに)。熊楠といえば明治中葉にアメリカ・中米を旅したのち大英博物館に勤務した洋行帰りの代表のような人物。その彼にしてこの発言である。むかし読んだもので分厚い本だから引用して正確を期するということができないのが残念だが、たしかそのような気分の文章であった。  衣食住のような暮しの基本をなす部分は、きわめて保守的なもので、容易には変えがたいのである。初代文部大臣森有礼は、欧化主義がたたって暗殺された。  熊楠には、あるいはもっと深刻な危機感があったのかもしれない。おまえら、そんな上っ面の模倣だけでええのか、と。勝海舟は西郷隆盛と江戸城で交渉した際、いまここで内戦におちいったら日本は西欧列強の植民地になりはてるだろうと、アメリカでの見聞などを例に引きながら説得したにちがいない。夏目漱石にしても森鴎外にしても、鎖国があけて西洋に行った連中はみな彼我の文明差に憂鬱になって帰ってきた。  腕力沙汰と海舟で思いだした。海舟の父勝小吉は、自伝『夢酔独言』(平凡社東洋文庫)の中でこう言っている。   《或日、おれの従弟の処へいつたら、其子の新太郎と忠次郎といふ兄弟があるが、一日いろいろのはなしをしていたが、そこの用人に源兵衛といふがいたが、剣術遣ゐだといふことだが、おのれにいふには、「お前さまはいろいろとおあばれなさり舛(ます)が、喧嘩はなさいましたことがあり舛か。是は胆がなくつてはできません」といふから、「おれは喧嘩は大好だが、ちいさい内から度々したが、おもしろいものだ」といつたら、「さやうで御座舛か。あさつては蔵前の八幡の祭があり舛が一喧嘩やりましやうから、一所にいらつしやひまして、一勝負なさいまし」といつたから、約束をして帰つた。》    このあとむこうから来たやつに唾をかけて喧嘩をしかけ、挙げ句の果ては刀までふりまわすのである。祭だからひと喧嘩しようとは、またなんと乱暴なはなしだろう。こんなことも書いている。   《この年に凧にて前丁(まえちょう)と大喧嘩をして、先は二、三十人ばかり。おれはひとりでたゝき合、打合せしが、ついにかなはず、干(ほし)かばの石の上におゐ上げられて、長棹でしたゝかたゝかれて、ちらしかみになつたが、なきながら脇差を抜て、きりちらし、所(しょ)せんかなはなくおもつたから、腹をきらんとおもひ、はだをぬいで石の上にすわつたら、其脇にいた白子(しろこ)やといふ米やがとめて、内へおくつてくれた。夫よりしては近所の子供が、みんなおれが手下になつたよ。おれが七つの時だ。》    武士は帯刀をゆるされているかわり、いったん刀を抜いたら喧嘩両成敗でお家は断絶、閉門蟄居といろいろ歯止めがかけられているはずではなかったのか。まるで趣味のように喧嘩をしているではないか。浅野内匠頭が聞いたら「おれだけワリをくった」となげくにちがいない。昔の日本人は野蛮だった。  世の中がこのように殺伐としていたら、とても電車の中でイチャつくことなどできないだろう。いつなんどき誰にすごまれるか知れやしない。そう考えてみると電車の中や街中でキスできる時代のほうがいい、すくなくとも平和だということはできるだろう。    しかしよくよく考えてみると、しゃらくさいと感じる原因は案外単純なもので、新しいものに対する抵抗感というただそれだけのことなのかもしれないと私は最近思いはじめた。  銀行のキャッシュカードは、いまや預金者なら誰でも持っているが、あれは私がサラリーマンになって数年後に一般化したもので、それまで銀行で金をおろすときは通帳と印鑑を持っていって伝票に必要事項を書きこんで窓口に出すという手続きが必要だった。ある日銀行で名前を呼ばれるまでベンチにすわってあたりさわりのない雑誌などをパラパラやっていると、行員がちかづいてきてカードをつくることをすすめたが、私はことわった。カードなんてしゃらくさい。銀行の人件費削減に協力するいわれはないとも思った。  しかしいまやカードなくしてわが家の暮しはなりたたない。銀行に自分で行くことはできないが、子供にカードを持たせて学校帰りに金をおろさせることもできれば振込みもできる。午後3時をすぎても、また土曜日でもできるのがありがたい。  つとめていた会社にファクシミリが導入されたとき、はじめは「こんなものほんとに必要なのかあ」などと冷笑していたのが、いったん使ってみると、「いままでファックスなしでどうやって仕事をしていたんだろう」とコロッと意見が変わってしまった。文字の校正なら電話ででもできるが、イラストの打合せはそれまで現物を間において相手と対面しなければできなかった。それが会社にいながらにしてできるようになったのである。時間も交通費も節約できる。  娘が高校生になって、2階にコードレスホンがほしいと言いだしたときも、「すぐ流行にとびつきたがるんだからもう」と思ったものだが、その後、車椅子にのっているときに電話がかかってきて、電話機まで移動できないばあいなど、じつに重宝なものだということに気づいた。その後、コードレスホンに電話の交換手がかぶるようなヘッドセットを組み合わせることで、さらに便利になった。受話器を持っていてもらう必要がない。  まがるストロー、キャッシュカード、ファクシミリ、コードレスホン……これらに共通するのはみなカタカナで表記するものだということである。カタカナ系がしゃらくさいのである。ただしカタカナ系でも自分が生まれる以前からあったものは、しゃらくさいという感情をいだかせることはない。シャツ、パンツ、アイスクリーム、パン、ラジオ、ガラスなど、生まれたときすでに身の回りにあったものにはなんら抵抗を感じない。私は感じないけれども、明治時代の多くのひとはチャンチャラオカシイと思ったことだろう。  要するに、西洋からやってきた先進的なものがわれわれの憧れと劣等感を刺激するのだが、それを認めるのは癪なので、われわれは知らず知らずのうちに、しゃらくさいという反発に転化しているのである。 ○  四肢体幹麻痺の身にとって、まがるストローは必需品である。  けがをしてかつぎこまれた日医大の救命救急センターで、栄養補給が点滴からおかゆにかわると、ときどき牛乳のちいさい紙パックが付いてきた。表面の対角線にストローが貼りついている。それをはがしてパックにさしこむのだが、唇でくわえる分は外に出さなければならないから、どうしたって長さがたりない。そのうえ私は完全に寝たきりで、おまけに頭にはハロー・ベストをかぶっていて首をねじることができないので、そんなストローでは飲みにくいことおびただしかった。  のどはひどくかわくが、食欲はまったくない。牛乳で流しこむようにして食事の時間を乗りきった。牛乳が付いてこないときは、ほかの患者が手をつけなかったものが冷蔵庫に残ってないかと看護婦に催促したものだ。そのうち、牛乳は膀胱結石になりやすいからあまり飲まないようにというお達しが出た。  つぎに移った防大では、長くて頑丈なシリコン・チューブのセットされたポカリスエットの容器で水だしの麦茶をしきりに飲んだ。ゴクゴク飲んだ。密閉容器なので、一息に飲もうとすると容器の内圧が下がって水が上がってこず、いったんチューブから口をはなしてジュルジュルと空気を入れてやらなければならない。ところが麦茶も尿の色に影響が出るということで禁じられてしまった。何でもとりすぎてはいけないということである。  味噌汁をストローで飲むのはむつかしい。お椀の中を見ながら吸うわけではないから具がひっかかってしまう。ひっかかったら吹くしかないが、加減しないと機雷の洋上爆破のように味噌汁がとびちることになる。  横になったまま液体を飲むのに昔は吸いのみというガラス製の器具をつかった。かたちは取っ手のもげた急須といったところ。口に当てる部分は細くてあぶなっかしいのでビニールのキャップを付けたりするのだが、これがまた透明で小さいものだから洗っているうちになくなりやすい。全体がビニールでできたものもあるが、すぐにくすんできて汚らしくなる。また吸いのみには内部を洗いにくいという欠点もある。その点ストローなら使いすてにできるから清潔で気持ちがいい。  ストローは太いほうが飲みやすい。細いストローは口がくたびれる。太くてもまがらなければ意味がない。蛇腹が要点である。ストローのほかに蛇腹といえば電気スタンドの支柱がある。むしろこちらのほうが先だろう。金属製の蛇腹も福祉機器には欠かせない。障害者用の道具は、柔軟でなければならない。可変的、可動的でなければならない。こちらが動けなければ相手に動いてもらうしかないのである。  まがるストローの最大の長所は、なんといっても自由自在の方向にまげられることである。寝たまま液体を飲むのにこれほど適したものはない。その自在性をいかして、いまではこのストローは重度身体障害者のための環境制御装置やスピーカーホン(手を使わずにかけられる電話)などの呼吸気スイッチの部品として欠かせないものになっている。口の近くに置いて、息で反応させる呼吸気スイッチは、まがるストローが存在しなければ発想されることはなかっただろう。そういう意味でも、まがるストローは偉大な発明品といって過言ではない。    いったい誰がこんなものを考えついたのかという疑問は湧かないだろうか。私は、テレビや宇宙衛星のようなあまり大がかりなものを見ても疑問が湧くことはないが、まがるストローや蛇腹式電気スタンドなど身近なものを見ると、誰かこれを考えついたひとがいるにちがいない、いつごろ何がきっかけでこれが生まれたのだろうかと好奇心をそそられる。  まがるストローといえば、思い浮かぶのは、ファストフードの店である。発明者はやはりアメリカ人だろうか。私はこんなふうに想像していた。そのひとは医療関係者で、なんとか寝たきりのひとがもっと楽に液体を飲めるようにできないものだろうかと考えつづけていた。四六時中そのことが頭の片隅に引っかかっていたのである。そしてとある午後、行きつけのコーヒーショップでいつものようにアイスコーヒーをたのんだ。  コーヒーにそえられた紙袋いりのストローをカウンターに立て、片手で中のストローの強度をたしかめながら袋を引きおろした。芋虫のようにちぢんだ紙袋を灰皿にいれると、ストローをスポイトがわりにして1滴のコーヒーをたらす。芋虫が身をよじるようにして伸びるのを見るのが、そのひとは子供のころから好きだった。その時である、「これだ!」とひらめいたのは。ストローの一部を蛇腹にすればいいのだ! ――これなら映画のワンシーンになるなと夢想していた。だが、事実はまったく異なっていた。  発明したのは、日本人である。そのひとの名は、坂田多賀夫。1928年(昭和3年)生まれ。父親が製材所や木工所を経営していた影響か、幼いころから物を作るのが好きで、おもちゃを見ると分解しては組み立てなおしていたという。  19のとき、それまで手作りだった洗濯板の製造機を発明、家が買えるほどの大金を手にした。以来、発明のとりことなる。  1950年、木材の廃材を利用した割りばし製造機を開発、平和箸株式会社を設立。その事業の一環としてストローの販売や、ろう紙ストロー製造機の改造にたずさわったのが、ストローとのそもそもの出会いだったのだが、そこから「可撓(かとう)ストロー」を考え出して製造機を完成させ、1990年に科学技術庁長官賞を受賞するまでのあいだには、3、40年の歳月を要した。一朝一夕にできたものではないのである。  「ひとつの開発が偶然に、短期間の研究で完成できるとは限りません。積年の関心と経験、新素材の出現、製造機の生産性、一般市場の経済的条件などがすべてそろわなければ生まれない一つの例が、まがるストローなんです」と坂田さんは言う。  まがるストローの開発を決心させる大きなきっかけがあった。氏は、1955年に女性用ナプキンの製造機をつくりあげるのだが、その後、つかいすて衛生材料の研究のため、欧米の病院を視察。このときベッドに横たわった患者が、薬液を飲むのにゴム管をつかっている場面を目撃し、「日本なら吸いのみをつかうところだが、しかしあれも非衛生的という欠点がある。つかいすてのストローをまげることはできないものだろうか」と、まがるストローの必要性を痛感したのだそうだ。動機は、私の想像していたとおりだった。  塩化ビニール、ポリエチレン、ポリスチロールなどを素材にした「直管ストロー」がつぎつぎに生産されたが、まがるストローが完成するには、形成上の適性の面でポリプロピレンの出現を待たなければならなかった。まがるストローの原材料は、ポリプロピレンである。ストローの材料なんか何だっていいんじゃないのという気もしないではないが、あにはからんや、ポリプロピレンの発明者は、これでノーベル化学賞を受賞している。まがるストローは、ノーベル賞の上に成り立っているともいえるだろう。 ○  まったく何が何の役に立つかわからない。バルーン・カテーテルにしても、最初は前立腺手術後に尿道にできる傷口を圧迫して出血をおさえるための道具として開発されたものであった。前立腺は男性にしかない器官である。それがいまでは男女を問わず、主に自力排尿できないひとのための留置カテーテルとして使用されている。  カテーテルそのものは紀元前のポンペイの遺跡から青銅製の物が発掘されているくらいだから大昔からあったのだが、ゴムというやわらかい素材が発見され、なおかつ、そうだこの風船を前立腺よりもっと奥の膀胱の中にいれてしまえば簡単に留置できるではないかということが思いつかれるまで、患者はベッドから容易に離れることができなかったのである。    発明・発見、機械の開発となると、簡単にはいかない。しかし、すでにあるものをべつの角度から見る努力なら、われわれにもできるだろう。  「大びょうたん使用法」のたとえもあるではないか。中国は戦国時代の詭弁家恵子(けいし)が荘子に言うには、「魏(ぎ)王が大びょうたんの種をくれた。植えたところ実がなったのはいいが、これが百キロもはいるしろもので、水をいれたら持ち上がらない。さいて柄杓(ひしゃく)にしても、でかいばかりでボロボロ欠けて役に立たないからぶちこわしてやった」  荘子いわく、「おまえさんは大きなもののつかい方がへたくそだねえ。こういう話がある。宋の国によく効く不亀手(ひびわれよぼう)薬をつくる者がいて、代々綿を水でさらして白くする仕事をしてきた。ある日、旅人がそれを聞いて百金でその処方を買いたいと請うた。さあそこで親族会議だ。『この仕事で一生かかっても得るのはわずか数金。それが技術を教えるだけでたちまち百金になるのだから売りたいと思う』旅人は製法をおぼえ、呉王に自分を売り込んだ。越の国と戦争になったとき、呉王はこの旅人を指揮官にすえた。そうすると冬の水戦で越を大いに打ちまかしたので、領地の一部をあたえた。兵隊のひび割れ予防が勝因の一つだったのだ。かたや領主となり、かたやあいかわらず水仕事を続けざるを得ないというのは、同じものをつかっても用途が異なったからだ。容積百キロのひょうたんがあるなら、なぜそれを大樽にして江湖に浮かべることを考えないのか。ボロボロ欠けて水がいれられないなどと言っているようでは、まだまだおまえさんの心はヨモギのように乱れていると言わざるを得ませんな」と。    今日もまたテレビには若者たちの最新風俗がうつしだされる。顔にモザイクのかかった女子高生たちが、ポケベル、携帯電話、エンジョ交際、体験人数、果ては麻薬や覚醒剤などについて、あけすけなことをドナルドダックのような声でキャハキャハ笑いながらしゃべりまくっている。  「とんでもないやつらだ。あすの日本はどうなる」と、もはや悪徳のたのしみと無縁になった私は、ひとりテレビに向かってつぶやく。「なんだそのズルズルソックスは。しゃきっとせんか、しゃきっと」  しかしだ。なにごとも勉強だなあと思ったのは、それまで長年はいていた冬釣り用ロングソックスがいよいよつくろいがきかなくなって新しいものを購入せざるを得なくなったときである。新品はゴムがきつくてとてもはけない。ゴムのきいたものを身につけると、知らぬまに皮膚が赤くなって、褥瘡にすすむ危険がある。ペットボトルにはかせてしばらく放置したが、いっこうに伸びる気配がない。どうしたものかと弱っているとき、ふいに女子高生の足もとを思いだした。  娘に言ってスーパー・ルーズソックスを買ってこさせた。まことにぐあいがよろしい。ゴム抜きルーズソックスというものもためした。ユルユルであるが、歩くわけではないからいっこうに困らない。まさに私の求めていたとおりのものである。  もうひとつ若者の流行にヒントを得たことがある。ひとりで散歩や買い物にでかけると、そとでのどがかわいて困る。自動販売機はあっても、手がつかえないから利用できない。通りがかりのひとを呼び止めて飲ませてもらうだけの度胸はない。喫茶店にはいって、そこの店員が飲ませてくれるとありがたいのだが、それ以前に車椅子ではいれる喫茶店などまずないから、土台お話にならない。  なんとか自分ひとりで水分補給する手だてはないものかと考えているうち、首からエビアンのミネラルウォーターをぶらさげて渋谷原宿あたりにたむろする若者たちを思いだした。その風景をテレビで見たときは、やはり「小学生の遠足じゃあるまいし」と毒づいたものだが、あれとストローを組み合わせてはどうかというアイデアが、ふと頭に浮かんだのである。  なにごとも大びょうたんだと思ってながめればよいのである。  私は鼻毛を切るのに赤ん坊用の爪切りをつかっている。切っ先が鼻の穴にらくにはいるほど小さく、かつまた丸みをおびているので、粘膜を傷つけることがない。ここへたどりつくまでにいかに多くの毛嚢(もうのう)を犠牲にしてきたことか。鼻の穴にさしこんでクルクル回転させる器具を試してみたこともあるが、あれはダメ、うまく切れずに毛が引っぱられて痛い思いをした。  この鼻毛切り方法は、障害者ばかりでなく、健常者の男性諸君にもぜひおすすめしたい。障害者に便利なものは、健常者にはもっと便利なのだから†1。  †1 鼻毛切り専用器具  長年愛用してきた赤ん坊用爪切りがダメになったので同じものをドラッグストアに買いに行った。すると鼻毛専用のはさみが売っていた。爪切りより細くて使いやすい。身近にあるものを利用するのもいいが、たまにはお店に行ってこれこれこういうものはないだろうかと相談してみるのもいいだろう。            *インテルサットめざまし*  「ひとをあごでつかう」という言いまわしがある。自分はふんぞりかえったまま、指一本うごかすでなく、「おう、それをあっちへ」と、あごだけで指図するような傲岸不遜(ごうがんふそん)なひとづかいのしかたをいう。じつに的確な比喩表現である。われらの先祖の人間観察力に感心する。外国にも同じ表現があるのだろうか。  おまけに、ふんぞりかえった状態であごをつきだすと、上まぶたがたれて、まるでラクダのような目つきになり、高慢さは倍加する。  私はいま、そういう態度でひとに接している。しかたがないではないか。指一本うごくでなし、ベッドにいるときはもちろん、車椅子にすわっているときも多少リクライニングしている。ふんぞりかえっているのである。  頭が枕についていると、これは理解しにくいだろうが、顔をうごかすのも容易ではない。できないことではないが、ものういのである。ひとは首をねじる際、おそらく肩も胴体もすこしねじっているにちがいない。頸髄損傷者のばあいそれができないので、顔ひとつ向けるのもものうくなってしまうのだろう。そっぽを向いたまま話すことになる。横柄と受け取られるのも無理からぬことである。  できれば自分でやりたい。それがいちばん楽だ。なんの気兼ねもいらない。できないからひとに頼んでいるのである。まわりも、それはわかってくれているはずなのだが、どうかすると、「ひとづかいが荒い」とか「ものには頼みようがある」とか、はては「態度が冷たい」だの「だまっていると怒っているように見えるから、もうすこし愛想よくしゃべったらどうか」などと言われることもある。よほど腹にすえかねてのことなのだろう、指摘するほうも意を決した表情である。まわりに不快感をあたえていたことに気づき、当方は狼狽もするし、さみしくもなる。  しかし、私には私の言い分がある。たとえば、腹のあたりでP系列もしくはB系列の音がしたときは、どのような反応をすればよいのだろうか。ガスはなんの前ぶれもなく出てくる。止めることはできない。肛門感覚もない。近くにひとがいたら、そのひとがしたのかと思うほどである。そんなことは始終ある。いちいち照れ笑いをしたり非礼をわびたりできるだろうか。私はやわらかい例をあげているのであって、日常はずっとハードな事例に満ちている。  苦痛に耐えながら、なおかつそれを表情に出してまわりに不快感をあたえるようなまねはするまいと思えば、無表情になっていくのは自然のなりゆきではないだろうか。心がすれちがう。    私はしゃべれるからまだいい。気の毒なのは、口のきけないひとである。頸髄損傷者には、呼吸筋が麻痺して自力呼吸できず、ベンチレーター(人工呼吸器)をつけているひとがめずらしくない。のど(気管)に穴をあけ、カニューレという管をさしこむ。そこから肺に空気を送り込み、肺の中の空気を吸い出す。カニューレは声帯より下にさしこむので、声を出そうとしても声帯まで息がとどかない。  身ぶり手ぶりができないうえに声が出せないのである。どうやって意思を伝えればいいのか。よくつかわれるのは、50音表である。そんなものが売っているとは思えないので、おそらく家族などが手書きで作るにちがいない。「あ」から「ん」まで書かれたものの一点をじっと見つめるのである。  氷水がほしければ「こ」を見つめる。介護者は、本人がどこを見ているか、視線と表を見くらべながら判断する。  「お? け? そ? こ?」  なかなか当たらない。当たったら、まばたきで合図する(頸損は、ハロー・ベストでも装着していないかぎり、首ぐらい動かせるが、病気によってはうなずくことさえできないひともいる)。さらに、まばたきすらできないひとは、目玉をグルッとまわす。つぎは「お」だ。それがすんだら「り」。そこで介護者が早とちりして、「ああ、氷枕ね、はいはいちょっと待っててね」と言いつつ台所へ行ってしまうこともある。氷枕を作る音を聞きながら、持ってこられた氷枕を否定し、なおかつべつの依頼をしなければならない徒労感に苛立つのである。介護者は介護者で、せっかく苦労して作ってきたものを否定され、「だからアイスノンにしたらって言ってるのに、氷枕にこだわるんだもの」と徒労感に苛立つ。――50音表の現場を見たことはないが、まずこんなところだろう。これを1日24時間365日死ぬまで続けるのである。  そばにひとがいればまだしも、いなかったらどうするのか。気管切開している頸髄損傷者は、どうやって介護者を呼ぶのだろうと長年疑問に思っていたが、『がべちゃん先生の自立宣言』(曽我部教子著、樹心社、1996年発行)を読んで、やっとわかった。舌打ちで合図をするのだそうだ。声は出せなくても、舌は動かせる。  1989年に念願のアフリカ旅行を実現し、熱気球に乗って草原にむらがる動物たちを空からながめる「バルーンサファリ」なるものを楽しんでいる最中に、気球が落下、なんとかナイロビ病院まで運ばれ一命はとりとめたものの、気管切開してベンチレーターを付ける身になった。  ある日、痰(たん)がつまって息が苦しくなり、いつものように舌打ちで看護婦を呼んだときのことである。   《なかなか気づいてもらえなく、舌打ちを続けた。その音に気づいた一人の看護婦さんが、いきなり私に向かって手を振り上げ、早口でまくしたてた。怒っていた。何を言っているのか分からなかったが、「舌打ちなんかで人を呼ぶもんじゃない」と言っているように感じた。激しい怒りようだった。そして「プイ」と行ってしまった。私は舌を打ち続けた。看護婦さんを呼ぶにはこの方法しかないのだ。》  地の果てで息もできぬほどの重傷を負い、ただでさえ心細いところへもってきて、肌の色の異なる看護婦に怒鳴られたのではたまらない。窒息しかけているというのに、プイと行っちまうことはないじゃないか。  そんな無礼な方法でひとを呼ぶものではないと言っているようだったと記されているが、言葉の通じない曽我部さんがそう受け取ったのは、彼女自身がその方法に負い目を感じていたからだろうと、私は推察する。そしてまた、看護婦がそんなに怒ったのは、自分たちの年収の何倍もの金をつかって動物を見に来る日本人に対して常日ごろこころよく思っていなかったからではないのだろうかと、想像する。そうとでも考えなければ、ほかに意思伝達手段がないことを知りきっているはずの看護婦の、この過剰な怒りは、説明がつかない。    アメリカの作家アンブローズ・ビアスは、南北戦争のころのひとである。みずからも参戦し、その体験をもとにした作品を多く書いている、という話だが、私は数篇しか読んでない。そのうち「ある失踪兵士」という短篇が、妙に印象にのこっている。  主人公のシアリングは北軍兵士。命じられ、対峙する南軍の様子をひとりで偵察に出かける。小銃一丁をたずさえ匍匐(ほふく)前進してゆく。ひざの下で折れる小枝の音にも全身がすくむほど静かな、そして緊張に満ちた夏の朝である。農場の一隅に、いまにもくずれ落ちそうな小屋をみつけ、そこに身をひそめて敵状をうかがうことにする。  むこうの丘の上に撤退してゆく南軍の隊列を発見、一発おみまいしてやろうと銃の撃鉄を起こし、まさに引き金を引きかけたその瞬間、南軍のはなった砲弾が小屋を直撃、四隅の柱だけでかろうじて支えられていた小屋は一気に崩壊する。  土煙のなかで意識を回復したシアリングは、あおむけに倒れた体と頭が、くずれた木材にはさまれ、身動きできなくなったことを悟る。埃がしずまったころ、目の前に円環状の奇妙なものがあることに気づく。銃口だった。右目をつぶれば銃身の左側が見え、左目をつぶれば銃身の右側が見える。銃口はまっすぐ至近距離からひたいをねらっていた。なんとか逃れ出ようともがくのだが、体も銃もがらくたに固定されて動かない。撃鉄は起こしてあったのだ。全身がふるえ、歯はカスタネットのように鳴り、冷や汗が吹き出る……。    自分はいままさにシアリングと同じ状況に置かれていると思ってゾッとするのは、なにか異常事態が発生したにもかかわらず、ひととコミュニケーションがとれないばあいである。  私のそばには、いつもだれかがいる。いなければ困るのである。妻が亡くなってから、支援のひとびとはさらに増え、いまでは週、のべにして約30人のひとがわが家に出入りする。  たとえば月曜日。朝9時にホーム・ヘルパーと福祉公社の介護協力員が同時に来る。ヘルパーは風呂の掃除や洗濯にとりかかり、協力員は私の朝食づくり・食事介助・歯みがき・ひげそりなどをおこなう。  10時、訪問看護婦来訪、排便・膀胱洗浄・入浴・ガーゼ交換などをおこない、12時過ぎに帰る。  1時、昼食介助をすませて協力員帰る。  2時前から3時まで訪問PTによる他動運動。そのあとヘルパーに車椅子に移してもらう。  4時から5時まで、福祉公社の家事協力員。ホーム・ヘルパーのヘルプをしてもらう。  5時、ヘルパーと協力員、同時に帰宅。合計5人の来宅である。月曜の夕食介助は娘の担当だが、ほかの曜日は、介護協力員やボランティアに依頼。  まるで公園のような家だと思う。落ちつきのない家庭だが、どうしてもこれだけのひとびとの協力を得なければ、暮らしは成り立たない。いまのところ夜の体位交換は子供たちの仕事だが、24時間訪問介護制度ができて体位交換を依頼すれば、さらに来訪人数は増えるだろう。  通信途絶は、夕方、車椅子で前のめりしているときに起こりやすい。ヘルパーが帰るときに私は前のめりの姿勢にしてもらって、夕食介助のひとが来るのを待ち、夕食時に体を起こす。そういう体位のローテーションでなければ、背中が痛くて食事どころではなくなるのである。もし、食事か体位交換のどちらかを選べといわれたら、私はためらうことなく後者を選ぶ。1食ぐらい抜いたって、どうということはないが、圧痛が長引くと、冷や汗が出てくる。  ところが、手ちがいで誰も来ないことがある。前のめりに「あご」と「おでこ」があることは、すでに述べたとおりだが、どちらにしても1時間をこえると耐えがたくなる。それでも、必ずひとが来るという確信があれば、まだなんとかなる。いよいよこれは誰も来ないと分かったときのあせりといったらない。ひたすらだれかが窮状に気づいてくれるのを待つのみである。  無論、さまざまな対策は立ててある。外部との連絡は「シルバーホンふれあいS」。「保留」ボタンを押しておけば、たとえ受話器を取らなくても、5回コールしたのち、自動的につながるようになっている。電話が鳴って、やれうれしや、知り合いなら助けを求めることができると思ってホッとすると、なんたること、学習塾の勧誘である。「お嬢様に振り袖はいかが」である。なんでお前らうちの子の学年や年齢を知ってるんだ。この情報泥棒が。  2階にいる子供に降りてくる時刻を約束しておいたのに、降りてこないということもある。眠りこんでしまうのである。どんなに呼んでも、ドアが閉まっていたら声は届かない。  対策は2、3ある。たとえば、2台ある「FMワイヤレスインターコム」のスイッチを下と上で入れておけば、下の音が上で聞こえるようにできる。一方通行のインターホンをつけっぱなしにするわけだが、わずらわしいらしくて、あまり協力を得られない。  またたとえば、「安心くん」という器械が玄関に置いてある。離れたところからでも専用のリモコンボタンを押せば、ピピピピと鳴る仕掛けである。もともとは散歩から帰ってきて玄関のドアが閉まっているときなどに、なかに帰宅を知らせるための手だてとして買ったものである。そのリモコンをつっぷした顔のそばに置いておけば、顔でボタンを押すことができる。ただ、音がけたたましいので、いささか気がひける。音量は調節できるが、小さくては2階まで届かない。  そのほか、なんやかやと事情があって、コミュニケーションがうまくいかないことがある。問題というものは、ちゃんと準備がしてあるときには起こらず、ついうっかり準備していないときに限って起こりがちなのである。  音声だけでかけられる電話がほしい。音声でとれるものはあっても、かけられるものはまだ市販されてない。    その点、ベッド上にいるときは、安全だ。環境制御装置がつかえるからである。私のつかっているものは、およそ50のことができる。  機能をざっとあげてみると――。まず、呼び鈴。いちばんすばやく作動できる位置に設定してある。枕頭にインターホンがあり、呼び鈴のボタンを指で押すと2階で「ピンポーン」と音がして、2階で受話器をあげれば話ができるようになっている。私はボタンを押すことができないので、器械に代行させるわけだ。  ほかに電動ベッドの上げ下げ。照明などの電源2個のオン・オフ。あとはとにかくリモコンで動くものならなんでも。たとえばテレビのスイッチ各種(オン・オフ、チャンネル、音量)。オーディオのスイッチ各種(ラジオ各局、CD7枚、テープ2本)。ビデオ。エアコン。壁かけ扇風機。カーテンがわりのロールスクリーン等々を、枕元にとりつけた呼気スイッチで操作する。呼気スイッチというのは、要するにストローのことで、シリコンチューブをグースネックで口の近くに置いておき、これを吹いて電気製品をうごかすわけである。吹くといっても肺の力を必要とするほどではない。気管切開しているひとでもつかえると思う。  プラス、電話。これが特に重要なのである。ほかの機種は知らないが、私の環境制御装置に組み込んだ電話は、吸気で操作する。以前つかっていたNTTの「キュートSU」は、とることはできてもかけることができなかった。現在つかっている「シルバーホン」は、ひとりでかけられる。また改良型が出るとくやしいから、レンタルにしている。  環境制御装置があれば、上記のような事柄をすべて自分でできる。なかったら、テレビのチャンネルひとつ変えるにもひとを呼ばなければならない。もしくは見たくもない番組を我慢して見つづけるかである。テレビなど瑣末(さまつ)な例で、エアコンや扇風機が意のままに動かせるようになってから、どれほど生きていくのが楽になったか。深夜であろうが明け方であろうが、自由自在につけたり消したりできるのだから。  環境制御装置は、マンパワーの削減に役立つだけでなく、障害者の心の負担も軽くする。それと同じくらい重要なのは、ひとつでも自分でできることを増やそうとする自立心をやしなってくれることである。装置が故障したときなど、受傷直後の、あの絶望的なほどの無力感が思い起こされてならない。  環境制御装置と電話をつかっているうちにひらめいた愉快なアイデアをひとつ。愉快といっても、崖っぷちの愉快さだが――。前述のとおり、2階の子供は眠りこんだら最後、いくらインターホンのチャイムを鳴らしても起きない。クラブ活動などでくたびれはてているうえ、インターホンは2階の廊下についていて、おまけに室内ではテレビやラジオをつけっぱなしにしたまま眠っているからチャイムが聞こえにくいらしい。かわいそうだが、なんとしてでも起きてもらわなければならぬ。  そんなとき私は親戚に電話をかける。そこからわが家に電話してもらい、2階のコードレスホンのベルをめざましがわりにするのである。私はベルが鳴っても取らない。ところが、たまたま「シルバーホン」の「保留」ボタンを消し忘れていることがある。すると、取らなくても、5回コールののち自動的にベッドサイドの「シルバーホン」がつながってしまう。あるいはファクシミリのスイッチを切り忘れていても、やはり5回コールののちファクシミリにつながってしまい、めざましの用をなさない。  そこでさらにあみだしたのがポケベル作戦である。子供のポケベルをめざましとしてつかう。細かい説明ははぶくが、呼吸気スイッチでは「シルバーホン」からポケベルに通信できない。前もって子供のポケベル番号を親戚に教えておいて、そこからポケベルを鳴らしてもらう。遠方の親戚を経由して2階の子を起こすこの方法を、私は「インテルサットめざまし」と命名した†1。    ベッドに上がったら、かならずグースネックをまげてストローを口元に寄せておいてもらう。うっかり忘れて部屋を出ようものなら、「ストロー!」あわてて大声を出すことになる。これさえあれば、ひとりきりになっても、救急車やパトカーを呼ぶことだってできる。できると思うだけで安心する。  逆にいえば、情報を遮断されること、コミュニケーションの途(みち)を絶たれることが最も恐ろしい。  用もないのに、ときどきストローの先を唇でくわえてみる。安心するのである。赤ん坊が母親の乳首をまさぐるときの気持ちはこんなふうなものだろうか。  環境制御装置は、まだ福祉の助成対象になっていない。全額自己負担である。  †1 ケータイの便利・不便  ご承知のとおりポケベルは姿を消し、世はケータイ全盛期である。これは短縮番号を入れておけばすぐにつながるが、相手が電源を切っていたりバイブにしていたりすれば連絡はつかない。  なお「シルバーホン」には、ハンズフリーで使うとき双方で同時に話せないという欠点がある。相手がしゃべっているときこちらがしゃべっても、こちらの声は届かない。私はそれが分かっているが相手は知らないから、こちらがしゃべっているときにも話しかけてくる。うまく通じない。ただしこれに慣れれば、ひとの話に口をはさまないという紳士的な話法が身に付く。                *あとがき*  本は、いったん出してしまうと、訂正がきかない。誤りなきよう心がけてはいるが、あとになって認識不足で至らなかったと反省する点が出てくる。  前著を上梓してから頸髄損傷に関する知識がふえた。するとあることが気になりはじめ、ぜひ機会があれば訂正したいと思うようになった。この場をお借りしたい。 ○  まずCについて――。これがじつにやっかいな記号なのである。  第5、第6の頸椎(首の骨)を前方脱臼骨折した私は、入院中に医師からC5であると言われた。数字が小さいほど重傷だということはわかったが、それが具体的にどういうことを意味するのか、いまひとつ理解できなかった。  入院中には理解したいという気もおこらなかった。わかったところで症状が良くなるわけでもない。  知りたくなったのは、本を書くうえで必要にせまられてからである。いくつかの文献にあたった結果、C5というのは第6頸髄節の損傷のことであるという結論に達した。というのも、1980年代に出版された本には、こんなふうに書いてあったのである。脊髄損傷レベルの呼び方は、「損傷を免れた脊髄のうち最下位の髄節でこれを表現する」と。  さあ、そろそろこんがらかってきたのではないだろうか。すこし辛抱していただきたい。じつは私もよくわかっていない。  頸椎は7個あり、上から順に1、2、3、と番号が付いている。骨の中を通っている中枢神経を「頸髄」という。関節には椎間孔という穴があいていて、そこから左右に1対の「頸神経」が分かれ出ている。頸髄の幹から頸神経が枝分かれしているわけだ。樹木と同じように、枝のつけねは少し幹から盛り上がる。節である。そこで、枝分かれするところを「頸髄節」と呼ぶ。節といっても、竹の節のように内部に区切りがあるわけではない。  第1頸神経は、第1頸椎とその上の後頭骨とのあいだから出ている。その結果、第7頸椎と第1胸椎のあいだから出る神経は、第8頸神経ということになる。頸椎は7個なのに、頸髄節は8カ所(すなわち頸神経は8対)あるのである。  私は第5頸椎を脱臼骨折したにもかかわらず、第5頸髄節は無事だったので、だからC5と診断されたのだろうと、以前は思っていたわけである。  ところがその後、頸損諸氏の手記を読んでいるうちに訳がわからなくなってきた。「私はCの5・6です」といった記述が目立つのである。障害レベルを損傷をまぬがれた最下位の髄節であらわすとすれば、数字が2つ並ぶわけがない。けがをした髄節以下は、役に立たないとされている。「ははあ、このひとは頸椎のことをいっているのだな。肝腎なのは頸髄なのに」と思った。  混乱のもとは、Cという記号にもあるのではないだろうか。Cは、cervical(頸部の)の頭文字で、首のあたりの部品にはみなこの“cervical”が付く。それはいいのだが、医学書で頸椎と頸髄節の位置をあらわすイラストを見ると、たとえば第3頸椎にも第3頸髄節にも、ともにC3という記号が付してある。だれが決めたのか知らないが、べつのものになぜ同じ記号を付けるのか。理解に苦しむ。  さて、世の中の変化はめまぐるしい。携帯電話が普及しようと、テレビの画面が横にのびようと、そんなことはどうでもいいが、医学や医療の常識がかわってしまうのには面くらう。「Cの何番」といったら、それは、損傷をまぬがれた頸髄節ではなく、損傷した頸椎を指すのだということを、最近読んだ本で知った。みんなが頸椎と頸髄をごっちゃにしていることを痛感したためだろう、『頸髄損傷――自立を支えるケア・システム――』(松井和子著、医学書院、1996年発行)には、念を押すように《専門家に暗黙に了解されるCとは、頸椎のことである。》と明言されている。骨はレントゲンで目に見えるが、神経のほうは見えない。神経の切れぐあいは、骨の状態を見て推測するしかないからであろう。  とにかくCについては一件落着である。 ○  ぜひとも訂正しておかなければならないことはもうひとつ、それは、頸髄損傷と死との関係である。頸椎の上から3個、すなわちC1からC3までは頭蓋骨の中に位置しているので、C3以上の損傷は死に直結するという趣旨のことを書いたが、それはあやまりであった。ほかに死因があれば話はべつだが、C3でもC2でも、さらにC1を損傷しても生きのびるひとはいる。受傷と同時に呼吸は止まるが、3分以内に人工呼吸をすれば、75パーセントのひとは助かるそうだ。  で、やれやれ命だけはとりとめたかと安心するのも束の間、ある意味では死よりもやっかいな生が待ちかまえているのである。  医療の常識は年々変わるから鵜呑みにされては困るが、現在の日本では、第1頸髄節から第4頸髄節までのどこかを完全損傷したばあいは、主要な呼吸筋である横隔膜が麻痺するので、「呼吸器依存型四肢麻痺」に分類され、一生ベンチレーターを付けなければ生きてゆけないと宣告される。  ベンチレーターを付けながら生きるのがいかに大変なことであるかについては、すでに述べた。大変なだけでなく、危険なことでもあるようだ。空気を送り込む管がはずれるという事故が絶えないらしい。  この管がはずれたときの気持ちを、クリストファー・リーブはこう言っている。「ちょうど、釣り上げられたマグロが、口に針が刺さったまま船の上でのたうちまわるような感じだ。痛くはないが、パニックになってしまうんだ」(「女性自身」1996年11月、米「タイム」誌より抄訳転載)  最近ではなるべくベンチレーターにたよる時間を短くし、自力呼吸の時間を長くしようという傾向にある。万が一はずれたときの備えにもなる。  ベンチレーターをはずすことを「離脱」という。離脱訓練は早ければ早いほどいいそうだ。横隔膜が動かなくなっても、呼吸補助筋の僧帽筋と胸鎖乳突筋がある。これらの筋肉がおとろえないうちに訓練を開始するのが効果的なのだそうだ。目覚めているあいだは自力呼吸でがんばり、眠るときはベンチレーターをつけるという生活に移行できるひともいれば、完全にベンチレーターから離脱できるひともいる。  鹿児島の後藤礼治さんは、1985年、19歳のときバイク事故でC1・2を損傷、医者からは3カ月の命と宣告されたにもかかわらず、3年半でベンチレーターからの離脱に成功、5年で退院、いまでは改造バスに乗って日本中を駆け回っている(「ワーキング・クォーズ」清家一雄、1993年発行)。 ○  アメリカ映画「スーパーマン」で一躍スターになったクリストファー・リーブが、落馬事故で重度障害者になったのは、1995年5月のことである。事故の第1報を朝のニュースで聞いたとき、私にはそれが頸髄損傷であることがすぐにわかった。スーパーマンが全身麻痺になってしまった。なんと皮肉なことだろう。  そのリーブが、翌年3月のアカデミー賞授賞式に出てきた。満場総立ちである。テレビ画面に映し出されたリーブは、電動車椅子に乗っており、さすがにスーパーマン時代に比べると、顔にも声にもあまり生気が感じられなかったが、のど元に人工呼吸器の管らしきものが見えるのに、つまり私の知識ではしゃべれないはずなのに、「映画は単なる娯楽ではない」と確かに自分の口でしゃべっている。いったいこれはどういうことなのだろうかと、そのときは不思議に思った。一時的にカニューレをふさいで自力呼吸をしていたのだろう。  リーブの機能回復はめざましい。  95年5月27日、C1とC2のあいだを損傷。事故後1時間でMP(メチルプレドニゾロン)という神経細胞を守る合成ステロイド剤を大量投与。事故後3日めにC1・C2固定手術。どうやら事故後1カ月ほどで離脱訓練を開始したようだ。現在では、人工呼吸器なしで数時間もつ。95年12月には75tだった肺活量も、いまでは860tまで回復。傾斜台も80度起こせるようになった。  社会復帰のスピードも驚くほど早く、事故後3カ月の95年9月には外泊退院(一時的に自宅に戻ること)。おそらく誕生日を自宅で祝いたかったのだろう。同月、テレビに出演し、脊髄損傷の研究費増額を訴えている。  さらには、96年1月、車椅子によるイギリス縦断走行計画のスポンサーになることを表明。2月、ラリー・キング・ライブに出演。3月アカデミー賞授賞式に出席。5月にはワシントンまで出かけて、クリントン大統領から脊髄損傷研究予算の1000万ドル追加拠出をとりつける†1。  スターだからできたのだろうという意見があるとすれば、それは浅薄である。傾斜台にほぼ直立している姿を見たとき、これはただ者ではないと私は思った。私がこんなことをしたら、10秒以内に失神してしまう。健常者が見たのではなんとも思わない、ただ立っているだけのこの写真をリーブが発表したのは、この写真が同じ障害を持つひとびとのあいだでどのような波紋を起こすか考えた上でのことに違いない。激励しているのである。  彼は、こう言っている。  「障害者関連の予算論議を聞いていると、ほとんどが介護費用の話だ。予算を節約する方法を考えるときは、削減を云々するのではなく、方向を変えて、研究と研究効果について話すべきだ。治療法が見つかれば、何十億ドルもの介護費用を減らすことができるのだから。傷ついた人々をただ温かい目で見ようとするだけでなく、これからは元の体に戻していくんだというはっきりとした動機づけが必要なんだ」  卓見である。だれかの入れ知恵とは思えない。  なぜなら、事故後初めてテレビに出たとき、彼はすでに「50歳の誕生日に立ち上がって、妻デーナをはじめ今まで自分を助けてくれたひとたちへの感謝をこめて乾杯することが自分の夢だ」と語っているからである。  じつに大した男である。96年10月に「国民勇気賞」を受賞したのもうなずける。  しかしまた、彼は「タイム」の記者に向かってこんな言葉ももらしている。  「憂鬱と闘いながら、ここに座っているんだよ。『あなたはスーパーマンだから』と励まされると困ってしまうんだ。もちろんその人たちは好意で言ってくれてるのだろうが、私が深夜どれほど苦しんでいるかはだれも知らない」  立派な姿も真実なら、これもまた真実であろう。       1996年12月                  著者しるす   †1 リーブのその後  1995年43歳で頸髄損傷になったリーブは、「50歳の誕生日には自分の足で立つ」と宣言した。2002年9月50歳の誕生日、結局立つことはできなかったが、右手首、左手の指、両足首をうごかせるようになり、全身の皮膚感覚が回復したという。驚異的な回復である。  どのような訓練をおこなったか――。FES自転車による運動を1週間に3回各1時間(コンピューターからの電気信号を両足に伝え自転車こぎの運動をさせるもののようだ)、1週間に1度2時間の水中療法。重力のない水中ではベッド上よりずっと楽に筋肉をうごかせる。もともとは健康の維持・増進のために始めた運動だったが、これが上記のような機能回復につながった。