インターネット文庫 『上の空――頸髄損傷の体と心――』増補版 著 者 藤川 景 発行所 株式会社三五館(電話 03-3226-0035) 書籍初版発行 1993年6月26日 †増補版まえがき  書籍版『上の空』を上梓して10年以上たつ。その間に世の中は大きく変わった。医学の発達はめざましく、障害者福祉も進歩した。またパソコンの普及によってわれわれの情報伝達手段や情報収集量も格段にふえた。内容を改訂する必要が出てきた。書籍の改訂は難しいが、このネット文庫なら比較的容易である。  概して改善の10年ではあったが、わが国における脊髄損傷者の発生は毎年5000人にのぼり、障害者や家族のあじわう苦痛は基本的に変わらない。  そこで原文は改変せず、†マークを付して最新の情報を補足することとした。  すでに書籍版をお読みになったかたへの近況報告でもある。  なおインターネット文庫の売上金はすべて、脊髄の再生をめざす日本せきずい基金に寄付させていただくことにした。ご諒承いただきたい。                          2004年1月  藤川 景                 *まえがき*  歩くのが好きだった。歩きながらとりとめのないことを考えるのが好きだった。歩いていると、足の裏のツボが刺激されるせいか、脳が適度な振動を受けるせいか、気にかかっていた仕事の企画がヒョイと出てくることも多かった。  団地から駅に向かう途中の植えこみの中を歩いていて、ネズミモチの花の香りがただよってくると、どういうわけか「なぜ人間は苦もなく歩けるのだろう」と思ったものだ。なぜ「次は右足、次は左足、右、左、右、左」といちいち考えなくても自動的に足が動くのか、歩けるのか、不思議なことだと思った。ありがたいことだと思った。  ローマ・オリンピックのマラソン競技に優勝してエチオピアに初の金メダルをもたらしたアベベ・ビキラ選手は、つづく東京オリンピックでも世界新記録でマラソン2連覇を飾るという前人未到の大偉業を成し遂げたが、その5年後の1969年、自動車事故によって、二度と走れない体になった。36歳のときのことである。  走ることで世界的な名声を博した男が、走る能力を失ったのである。その無念の想いは、聴力を失った作曲家のそれに勝るとも劣らぬものであったろう。  走れなくなったアベベはどうしたか。事故のわずか4ヶ月後、入院先のイギリスの病院でおこなわれたパラリンピックのアーチェリーと車椅子競走の2部門に参加したのである。下半身が効かなくなったから、上半身だけで勝負できる競技に切り換えたのだ、大したものだ、偉いものだ、と人は思うだろう。だが、コトはそれほど簡単なものではない。「第7頸椎がずれた」という彼の所属していた親衛隊の発表が事実なら、頸髄(けいずい)損傷のレベルは、おそらくC7ということになるだろう。全身麻痺(まひ)である。足がつかえないなら手をつかえばいいというような、そんな生やさしい事態ではないのである。おそらく、指も動かなかったはずだ。  それにしてもC7ぐらいならずいぶん色々なことができるものだと、C5の私は少しうらやましくなってしまう。  人間の背骨は体を支えるだけでなく、脳から下降してきた中枢神経を保護するという重要な役割をもになっている。延髄(えんずい)から下降してきた無数の神経繊維の束は、脊椎(せきつい=背骨)の各関節のあたりから左右に1対ずつ枝分かれし、それはちょうど太い樹木の幹から分かれた枝が、最後は細い細い梢になるように全身くまなく分布していく。枝先を切っても、また新しい枝が伸びてくるように、人間の末梢神経は再生するが、いったん切れた中枢神経は今の医術では修復できない†1。  損傷部位が上へいけばいくほど、体の受けるダメージも大きくなる。  私は頸椎の5番と6番を前方脱臼骨折したため、胸から下の感覚と自由を失った。わずかに上腕二頭筋と三角筋を動かす神経は生き残ったようで、訓練の結果、両ひじを曲げられるようにはなった。しかし、手首や指を動かすことはできない。顔や頭に手が届かず、顔が痒くても掻くことができないし、涙が出ても拭くことができない。もちろん、寝がえりを打つことなど、及びもつかない。  胸から下には正常な感覚は何ひとつない。触覚はおろか痛覚もなければ熱さ冷たさの感覚もない。にもかかわらず肩から下、全身にしびれと痛みだけはあり、特に肩甲骨付近や腕のつけ根は、思わず呻き声が出るほど痛む。  現在の私の体はそんな状態であり、それはこの先、死ぬまで変わらない。加齢につれて悪化することはあっても、回復する見込みはない。しかし、これが人にはなかなか分かってもらえない。退院後、見舞いに来てくれた友人・知人には、 「指を動かせるように訓練して、せめてエンピツが握れるようになるまで頑張れ」 としばしば励まされた。指が動くことなどあり得ないのである。医者にそう言われたのだと説明しても、 「いや、医者は最悪のことしか言わないんだから、希望を捨てずに訓練すれば必ず動くようになる」 と相手も譲らない。うれしいことではあるが、何をどう説明すれば分かってもらえるのだろうというもどかしさも、またぬぐい去れない。  私自身、頸髄損傷の何たるかがよく分かっていなかった。何が起こったのか、いったい自分の身に何がふりかかったのか、よく分かっていなかったのである。これでは他人に分かろうはずもない。  頸髄損傷に関する概説書を読みたいと思い、探してみたが見つからなかった。探しかたも足りないのだろうが、やはり頸髄損傷に関する本そのものが少ないのではないだろうか。そこで私は頸損知識のかけらを拾い集めながら、「首の骨を折るとどういう体になるか」というひとつの症例を世の中に提供しようと思い立った。  1987年7月、38歳の夏に受傷してから、日本医科大学附属病院救命救急センター、防衛医科大学校病院、国立身体障害者リハビリテーションセンター病院(以下、国リハ)、潤和病院、そして再び国リハと各病院を転々として、約1年後に退院するまでの事柄をほぼ時の流れに沿って書いた。  1篇1篇に頸髄損傷特有の症状を織り込んだ。たとえば冒頭の「変身」は死線をさまよっているときの心理状態、胸式呼吸の喪失、体温調節機能の低下について、「横になる」はハロー・ベストを付けたさいの視界の限定、体位交換について、「不機嫌とほほえみ」は異常感覚や起立性低血圧(きりつせいていけつあつ)について、という具合である。  ただし、損傷レベルが同じC5でも損傷の程度が異なれば当然症状も異なってくる。1人として同じ症状の者はいないと言ってもいいだろう。私の症状は頸髄損傷のほんの1例にすぎないことを強調しておきたい。  歩ければそれに越したことはない。松葉杖でも歩行器でも、何か道具を使ってでも歩ければいい。動ければいい。移動できればいい。這ってでも動ければいい。  歩けないなら、上半身の自由だけでも欲しい。上半身が自由に動かせれば、ひとりでベッドから車椅子に移れるし、寝返りも自力で打てるだろう。あぐらをかいて坐れたら、どんなに楽だろう。背中の痛みに苦しむこともない。ひょっとしたら、車を運転して元どおり会社に行くことだって可能かもしれない。  せめて右腕1本の自由が欲しい。右腕1本自由になれば、たいていのことはできる。自分でメシが食える。ひとりで電話もかけられる。電動車椅子の操作も、今よりずっと簡単になるだろう。本を読んだり辞書を引いたりノートをとったり手紙を書いたり、人と握手をしたり妻や子を抱きしめたり、物を指さして「あれをこういうふうにしてくれ」と仕草で合図することもできる†2。  青空の下を自由に歩ければ、もう何もいらない。  †1 脊髄再生の研究  損傷した脊髄を治療することは不可能であるとエジプト時代から言われてきたが、21世紀の現在それはもはや不可能なことではなく、研究者と資金さえ投入すれば実現できる段階まできているようだ。有力なのは幹細胞。ヒトの受精卵の中にはこれから身体各部になる幹細胞が含まれている。ここから脊髄神経になる細胞を取り出して培養し患部に注入するという方法をとる。  †2 喪失機能を補う工夫  ここに列挙したことぐらいなら代わりの方法で補うことができるようになった。ひとりで飯を食うにはセコムの開発したマイスプーンがあり、電話はNTTのシルバーホンをストローで操作できるし、本は目の前にセットさえしてもらえば好きなだけ読めるし、辞書を引いたり文章を書いたりはパソコンをつかってひとりでできる。 目 次 まえがき 変  身  日医大のICUに担ぎ込まれた私が、朦朧(もうろう)たる意識のなかで見聞きしたこと、考えたこと。〈キーワード=受傷後の高熱、胸式呼吸の喪失、転院のさいの注意など〉 横になる  防大病院の個室へ。いやな看護婦、いい看護婦、そして掃除婦との珍妙な問答。〈視界の限定、のどの渇き、ナースコール、体位交換、褥瘡、失業など〉 不機嫌とほほえみ  国リハへ。ご自身も頸損の精神科医N先生から「与えられる立場から与える立場になるように」と諭され面食らう。〈クーリング、異常感覚、不機嫌、起立性低血圧など〉 ハロー・ベストのキキカイカイ  激しい頭の痒みとインキンにさいなまれたハロー・ベスト装着の2ヶ月、ついに取り外しの日が来たのだが。〈関節の硬縮、陰部洗浄、頭の大量発汗と猛烈な痒みなど〉 太郎はたちまち……  3ヶ月ぶりのシャンプーの気持ちいいこと! だが、痩せさらばえた己の姿に愕然とする。〈入浴、着替え、4Lのトレーナー、巻き爪など〉 笑えない話  胸式呼吸ができないせいか腹筋がきかないためか、咳やくしゃみが出せないばかりでなく、存分に笑うこともできなくなった。〈頸髄と頸椎、タンの出しかた、肺活量の激減など〉 1987年のレコード大賞  口笛も吹けないほど肺活量の落ちた私は、歌をうたうため妻と庭に出たのだが、思いがけない出来事が。〈褥瘡、PTとOT、機能回復訓練の激痛、痙性、硬縮、化骨など〉 OT室で本の講釈  初めてベッドから車椅子に移ったときは、即座に失神した。苦しいリハビリの始まり。〈トランスファー、失神、失禁、過反射、無感覚、やけど、スプリング・バランサーなど〉 オートバイはいけません  モトクロスで頸損になった患者の隣のベッドに入ってきた少年は、なんと同じコースで受傷したという。しかも……。〈受傷原因、尖足、痙性麻痺、退院勧告など〉 じ、辞書をくれえっ!  潤和病院で接することになった付添い婦は、ほとんど東北からの出稼ぎで、否応なく言葉の問題を突きつけられた。〈付添い、看護婦・家政婦紹介所など〉 あんパンの楽しみ、読書の楽しみ  寝たきりになって本を読めなくなった私が、かろうじて読めるようになるまで。工夫を重ねるなかで新たに発見した読書の喜びとは。〈買い物、ページめくり、触覚など〉 ボーコーローとは何事か  泌尿器科医から膀胱瘻をすすめられた。腹に穴をあけるという。そんな恐ろしい話があるだろうか。〈排泄機能、尿意・便意、バルーン・カテーテル、導尿、タッピングなど〉 上の空――あとがきに代えて――  退院して在宅介護に。妻の疲弊は極限に達した。負担を軽減する方策は? 〈福祉事務所、保健所、保健相談所、社会福祉協議会、ボランティア団体など〉                 *変 身*  ある朝、目が覚めると、全身が動かなくなっていた。肩から下がまったく動かない。小指1本動かすこともできず、膝を曲げることも寝がえりを打つこともできない。とにかくまったく動かないし感覚もない。手はどこにあるのか、足はどこにあるのか……。顔は白い天井に向けられたままなので自分の手足を見ることができず、そのため手足がどこにあるのかさえ分からなかった。  最初に考えたことは何だっただろうか。はっきりとは憶えていない。ただごく初期の段階に、これは『変身』だなと思った。ある朝、目覚めたら自分が1匹の巨大ないも虫に変身していたという、あのフランツ・カフカの『変身』である。  私は日本医科大学附属病院救命救急センター(以下、日医大)のICU(Intensive  Care Unit=集中治療室)で目が覚めたのであった。日医大には2週間ほどいたはずなのだが、その間の記憶というものはまことに微々たるもの、曖昧模糊(あいまいもこ)としていて、とても正確な記述などはおぼつかない。日医大のICUは、担ぎこまれた患者の回復にしたがって「重篤(じゅうとく)」から「重体」の部屋へ移されるという仕組みになっているので、いくつか部屋を変わったようだが、どの段階で何が起こったのか分からない。これから思いつくままに、思いだせるかぎりのことを述べてみたい。  しかし、まったく何から話しはじめていいのやら見当がつかない。  私は首の骨を脱臼骨折していた。それはもちろんあとから聞いた話である。いつ聞いたのかは分からない。脱臼した骨をもとにもどすのに、手術も検討されたようだが、炎症がひどくて手術は不可能、首をひっぱって矯正する方法がとられることになった。そしてハロー・ベストという、なんといったらいいのか鉄兜(てつかぶと)と鎧(よろい)を一緒にしたような器具をとりつけることになった。  まず首の牽引である。ひどく暑かった。ひどく日の光がまぶしかった。廊下ぞいの部屋にいるのだと思った。その廊下の外は中庭になっていて、中庭から射す太陽が私をこんなに暑くさせているのだと思ったが、今から考えてみればそんな部屋にいるはずはなく、集中治療室の24時間つけっぱなしの蛍光灯と私の発熱がそう思わせたのだろう。  私は頭をツルツルに剃られた。そして両方の眉毛の横と耳のうしろにドリルで穴をあけられ、器具を装着して、どういう形でどういうおもりをつけたのかは知らないが、あとから聞くところによると30キロのおもりで首を引っ張ったという。  とてつもなく緊張した一瞬があった。それはおそらくドリルで頭蓋骨に穴をあけられる瞬間だったのだろう。私は思わず「神よ、われを助けたまえ」と心の中で叫んだ。そんなことは前にも後にもその時かぎりのことである。  となりでは老人がタンに苦しんでいた。看護婦が「誰々さん、今日はよくタンが出たねえ、よかったねえ」と話しかけているのが聞こえた。その声で、あるヨーロッパの画家の絵を連想した。名前は思い出せない。なにか巨大な魚の腹わたを小さな人間たちが引きずり出しているというような気味の悪い絵である。その作品の一隅で、老婆が口から大量のタンを吐き出していた。記憶ちがいかもしれない。私はまぶしさと暑さと緊張と苦痛に耐えながらその会話を聞いていた。そうか、人間最期はタンで死ぬんだなとそのとき思った。  あれは私の幻覚だったのか、実際にそういうことをしていたのか今でも分からないのだが、少なくとも私の頭の中にある記憶というか記憶もどきの中では、朝、看護婦たちがギリシャ神に仕える巫女(みこ)のような白く長いローブをまとって、鎖のついた何かゆらゆらするものを手に持ち、私のそばでそれを揺らしたことがあった。患者は大きな部屋に集められ、まわりにはステージなどでつかうドライアイスのけむりのようなものが漂っていた。1回だけでなく3回ぐらいそんなことがあったような気がする。それが看護婦であることは分かるのだが、ふだんの看護婦の服装とちがうし、妙な儀式めいたことをやっているので、不思議に思った私は、 「いったい何をしているのですか?」 と聞いてみた。 「私たちの仕事は少しのミスもゆるされず、緊張の持続を必要とするものなので、こうやって毎朝精神を統一しているのです」 という答えが返ってきた。  ICUのスタッフは、医師も看護婦もみな若かった。医師は30歳ぐらい、看護婦も20代前半というところだろうか。ICUは生きるか死ぬかの患者をあつかう場所なのにこんなに経験の浅そうな若い看護婦で大丈夫なんだろうかと心配になるほどみな若く、そして美しかった。  1度奇妙な機械の中に入れられたことがある。まるで安手のSF映画に出てくるような巨大な、いま考えればCT(Computed Tomography X線体軸断層撮影装置)だったのかもしれないが、その後経験したCTスキャナーとはちがって、もっと狭っくるしいものだった。数人の若い医師と看護婦総勢4、5人で、おそらくストレッチャーからその機械の上に私を移す作業をしたのだろう。部屋は暗く機械は無気味で所々に赤や青の光を点滅させていた。若者たちは無駄口をたたきながら、それでも気を合わせタイミングよく私を担ぎ上げ、機械の間にさしこんだ。 「大丈夫ですか」 とだれかが聞いた。私の目のすぐ前に看護婦の顔があった。 「大丈夫ですよ、余裕ですよ、看護婦さんにキスしたいぐらいです」 と言おうと思ったが、若者たちが冗談を言いあっているのは、私の緊張をやわらげ、また全員の緊張をやわらげるためであることは分かっていたので、そこで私が妙な冗談を言えば、かえって彼らの気をそぐことになり、危険かもしれないと思い、やめておいた。  病室から玄関の前までベッドごと出してもらったことがある。気分転換も治療の一環なのだろう。ベッドを押していかれると、廊下の天井が頭の後方へ急速に飛んだ。不安なほどめまぐるしい。  外は夏だった。玄関の自動扉を出ると、植物の匂いがムッと顔をつつんだ。病院の敷地に植えられてあるほんのわずかな植木が、私を圧倒するほどの息を吐きだしていた。ゆるやかな坂道が見えた。白地に赤い模様の浴衣をきた女の子が、親に手をひかれて歩いていく。「ああ、夏祭りなのだ」と思った。どこか近くに神社があるにちがいない。  日医大は東京都の文京区にあり上野が近いという話を聞いた。これももちろん朦朧(もうろう)とした意識の中で幻想したことなのだけれど、病室のそばに小高い丘があって、その上で人々が花見をしていた。上野に近いということで連想したのだろう。1人の老人が酔っぱらってくだをまいていた。その老人にむかって若い男が、 「先生もう帰りましょう。今日はもうこのくらいにしておきましょう」 と言っている。しきりになだめている様子だった。老人は酔っぱらって苦しそうにしていたが、それはやはり重篤の患者が苦しんで出すうめき声だったにちがいない。「こちらがこんなに苦しい思いをしているのに、外では酒を飲んでくだをまいている奴がいるんだ」とそのときは思った。  病室の外に大きな池があるような気がしたこともあった。夕方のことである。看護婦が「今日は早じまいにする」といってソワソワしている。盆踊り大会だか夕涼みの会だかがあって、看護婦たちもみなそれに参加するために浴衣にきがえて、うちわを持って出かけるのだと言っていた。もちろんそんなことは現実にはありえないことなのだが。                    ■  ICUで死の淵をさまよっている患者というものは妙な幻想をいだくもので、のちに入った国立身体障害者リハビリテーションセンター病院(以下、国リハ)で同じ部屋にいたある青年は、ICUにいたとき自分のベッドから見えるナース・ステーションではみんながカルビクッパを食っているのにちがいないと思った、と言っていた。 「ぼくにもカルビクッパをくださいって催促したんですよ」  そう言ってみんなを笑わせた。  夜中にテニスをする音が聞こえた。室内コートでパコーン、パコーンと、テニスボールを打つ音がする。 「そうか、最近は勤務時間が不規則なので、上野あたりではこんな真夜中にテニスをする人もいるのかな」  パコーン、パコーンという音を聞きながら考えたが、あとになって妻にその話をすると、 「それはきっと、心臓のペースメーカーなんかの医療機器類の音がそんなふうに聞こえたんじゃないかしら」 という言葉が返ってきた。  首は固定されたままだったから横を向くことはできなかったが、隣のベッドをうかがうぐらいのことはできた。重篤室はカーテンで区切られていなかったような気がする。あるいは開けっぱなしになっていたのかもしれない。肩に入れ墨をした若い男が、喧嘩で頭をやられているらしく、点滴の針を自分でひっこぬいてはフラフラとベッドの上に立ち上がり、看護婦たちになだめられて押さえつけられていたが、看護婦がいなくなるとすぐにまたフラフラと立ち上がって、あぶなっかしくてしようがなかった。交通事故に遭ったらしい若者は「痛いよう、痛いよう」と1日中訴えつづけていた。これも意識は回復していなかった。重篤室の面会時間は非常に限られていたが、この若者に対しては家族の声が意識を回復させる刺戟になると見なされて、特別に面会時間が長く設けられているようだった。これも確信できることではない。そのとき私がただそう感じただけなのかもしれない。  あれはもう栄養摂取が点滴からおかゆに変わっていたから、重体室に移って後のことだったのだろう。私のように身動きのできない患者に対して看護婦が1人で食事を食べさせてくれていた。何人もの患者に1人の看護婦だからなかなか自分の番がまわってこず、私はイライラしてほかの患者に食べさせている看護婦に飯を催促した。腹がへっているわけではなかった。待たされることにイラ立ったのだ。看護婦は、 「いま行きますからね」 などと言いながら、ちっとも来てくれない。2、3度せっついただろうか、食べさせてもらっていた患者が、 「ぼくはもういいから、あの人にあげてください」 と言った。大の男が……。自分のさもしさが恥ずかしかった。  部屋の中にザワザワ水の流れる音がした。食事の介助をしてくれる看護婦に、 「あれは何の音ですか」 と聞いた。肺の病気のためずうっと水で肺を洗っている人がいるのだというような答えだった。しかしずいぶん大きな水音で、私は病室の床いっぱいに水が流れているような気がした。その患者はまだ若い青年だったが、会社からなにかの通知を受け取ったらしく、 「1年も働いていない社員を飼っておくことはできないんだってよ」 と、すてばちな口調で言った。もう命に限りがあるような様子だった。  私は会社のことを思った。そのときはまだ自分が一生寝たきりの体になってしまったのだとは思っていなかったが、しかし相当程度に悪い症状だということは分かっていたので、勤めのことが気になった。私の隣にいた男は2段ベッドの上段にいた(病院に2段ベッドなどあるはずがない。その男性は上半身を起こしていたので、ずいぶん高い位置にいるように見えたのだろう)。どこが悪いのかは知らないが、体は自由に動かせるようで、掃除のおばちゃんが来ると、見舞い客の残していったスポーツ新聞などをもらって読んでいた。もうすぐ退院だという。 「早く働かねえとおまんまの食いあげだからよ」 と、おばちゃんに軽口をたたいていた。私が当分退院できないのを知った上で、聞こえよがしにそんないやがらせを言っているにちがいないと私はひがんだ。                    ■  さて、こんな現実とも妄想ともつかないことをぐだぐだと書きつらねて、何の役に立つというのだろうか。いささか気がひけてしまう。こんなものを読んだってちっともおもしろくないのではないかと不安になる。  そこで実用知識。よく救急患者が病院をたらい回しにされたあげく手おくれになってしまうという話を聞くことがあるが、文京区千駄木にある日医大は、運ばれてきた患者をけっして拒まないということだ。ただし命が助かったら、もうその時点で早々に追い出されてしまうのが難点だが。つぎからつぎへと運ばれてくる重篤の患者を受け入れなければならないのだから、命をとりとめたら即刻出ていってもらうという態度はいたしかたのないものだと思う。  実用知識その2。自殺未遂は健康保険がきかない。深夜病院に駆けつけ、あくる朝病院の会計事務室におもむいた妻は、 「おたくのご主人は自殺未遂ですから、健康保険は使えませんよ」 と告げられた。いったい誰がどの段階で自殺未遂と判断したのだろうか。事故の起きた場所が神経科の医院であったことが、その判断に影響をあたえたのだろう。  私は1987年6月26日に不眠と抑鬱(よくうつ)を治療するため、都内の某神経科医院に入院し、その日から“持続睡眠療法”を受け、これは要するに患者に大量の睡眠薬や精神安定剤を与え、患者の脳を3週間ぐらい睡眠状態もしくは睡眠に近い状態に置くという治療法なのだが、17日めの7月12日夜、朦朧とした状態の中でベランダから転落し、2つの病院を回されたのち日医大に行きついたのだった。 「自殺だなんて……」  夫が死線をさまよっているという驚天動地の状況の中でうろたえきっている妻には順を追って説明できる余裕などなく、 「ちがうんです、そうじゃないんです」 といくら言ってもとりあってくれず、途方にくれるばかりであった。そこで父が事情説明に行き、ようやく納得してもらえたが、事故原因をいともあっさりと自殺未遂と断定して譲らないというのは、患者家族の身にしてみればあまりにも冷淡な態度と言わざるを得ない。  日医大から退院を迫られた家族は、転院先探しにひどく苦労したようだった。私はただ呆然としていた。ハロー・ベストを着装して以来、1日中首や肩がこわばり、歯がカチカチカチカチ鳴っていた。震えていたのである。1日中震えていたのである。家族がどんなに苦労しているか思いやるゆとりはなかった。  妻は半年前まで住んでいた高島平の整形外科医院に電話で入院を打診したが、頸髄損傷のような重症患者はとても受け入れることができないと断わられた。 「今はどこに住んでるの」 「神奈川県の金沢文庫です」 「それでは神奈川リハビリテーション病院にぼくの弟子がいるから」  整形外科医院の院長は快く紹介状を書いてくださった。  大量の安定剤を飲みながら、妻は炎天下、電車を3つと1時間に1本のバスを乗りついで、すがる思いで七沢までたどりつき、あっさりと断わられた。 「半年は待ってもらわなければならない」 と言われたのだそうだ。明日にも日医大を出なければならないというのに、半年先とはまたなんと気の遠くなる話だろう。  それでもなんとか防衛医科大学校病院(以下、防大病院)が受け入れてくれることになり、7月27日いよいよ転院の日を迎えた。  この引越し作戦が大失敗だった。救急車を頼むか民間の寝台車で行くか迷ったのだが、転院をするのに救急車というのは少し気がひけたので、結局寝台車で行くことになった。ストレッチャー(移動式簡易寝台)に寝たまま日医大の玄関を出ると、太陽が目を射た。私は思わずまぶたを閉じた。目をつぶったまま、人々のかけ声やストレッチャーを寝台車にすべりこませるガタガタという音を聞いているうちに静かになったので目を開けると、すぐ鼻先に自動車の天井があった。車内は意外に狭かった。私の他に妻と応援の人2人それに運転手を乗せて車は出発した。  千駄木から防大病院のある所沢まで、予定では1時間半で行けるはずだった。しかし道路が渋滞し、車はなかなか進まなかった。もちろん冷房はつけているのだが車内はひどく暑く、かといって今さらどうすることもできず、約3時間かかって防大病院に到着したときには疲労困憊し、その日から高熱を発するようになった。  頸髄を損傷すると、体温調節機能が極端に低下するということを、その当時はまだ知らなかったのだ。暑い所にいれば体温も上がり、いったん上がった熱はなかなか下がらない。  事故後まだ1カ月も経っていない。まったくの寝たきりであった。体は全身、手足はもちろん、首もハロー・ベストで固定されていたから、動くのは瞼と口、顔面の筋肉、それだけだった。  足の親指がときどきピクリピクリと動いたけれども、そしてそれを見た家族の者は、 「あっ、動いた、動いた」 と言って喜んだけれども、医者は、 「これは痙性(けいせい)ですから」 と素っ気なく言って、みんなの喜びに水をさした。  毎日、息をしているだけで精一杯だった。朝から晩まで連日38度以上の熱が続き、おまけに肩から下の運動機能すべてを失っていたので、胸式呼吸をするための肋間筋が働かず、横隔膜だけの腹式呼吸に頼っていたために、肺活量はおそらくあの当時は800tぐらいに落ちていたのではないかと思う。成人男子の平均肺活量は約3500tだから、一挙に4分の1ぐらいになってしまったわけだ。  肺活量が急激に落ち込み、熱には苦しめられ、鼻がつまり、手足も動かない、首を動かすこともできない。そんな状態だったから、もう何も考えることができず、ただ一日中水をほしがっていた。防大病院の売店で買ってきたプラスチック製のポカリスエットの容器に氷水を作り、容器から突き出た管をそのつど口にあてがってもらって、しきりに水を飲んだ。水を飲むのも容易ではない。息が苦しいところへもってきて何かを口に入れるということは、そのあいだだけは息が止まるということなので、水を飲むのも一苦労なのだが、ゴクゴクと冷たい水を飲んでいるわずか数秒間だけは、息苦しさを忘れることができたのである。だから一日中「水、水」と言い続けていた。  夜中も眠ることができず、頻繁に看護婦を呼んでは水を飲ませてもらっていた。私はナース・コールを押すことができなかった。ナース・コールというのは、枕もとについているブザーのことで、それを押すと看護婦の詰所でどの病室の患者がブザーを押したか分かる仕組みになっている。私はそんな簡単なブザーひとつ押すことができなかったので、 「看護婦さーん!」 と(どれほど大きい声が出たか分からないが)なるべく大きな声で看護婦を呼ぶしかテがなかった。だから夜中でも水がほしくなると、 「看護婦さーん! 看護婦さーん!」 と大声を出した。私は個室にいたのだが、隣室の患者が私の声に気づいて、かわりにナース・コールを押してくれるのが壁ごしに分かった。隣室の患者にしてみればひどく迷惑な話だったにちがいない。一晩中30分か1時間おきに騒々しく看護婦を呼びたてるのだから。    眠れないから睡眠薬を出してほしいと主治医に訴えても、主治医は頑として出してくれなかった。 「朝でも昼でも眠れるときに眠ればいいんですよ」と主治医は優しく言った。「あなたは一生この状態が続くのですから、今から薬なしで眠れるようにしておかなければ……」  助教授回診があったときに容態をたずねられ、 「眠れないのがひどく辛いです」 と答えると、助教授は主治医に向かって、 「精神科の教授と相談して抗鬱剤と睡眠薬を出すように」 と指示した。  私の事故は、抑鬱と不眠を治療するための持続睡眠療法中に起こったものである。だからその治療はまだ終わっていない。それに加えてどんな脳天気な人間でも抑鬱と不眠に悩まされざるを得ないような状態になってしまったのである。  それでも薬は出なかった。わが若き主治医は信念を曲げることなく、助教授の指示を黙殺したのである。                    ■  12階にある私の部屋の窓辺には鳩がやってきた。窓の下のほうは見えないが、羽音でそれと分かった。横目で窓の上半分を見ると、空のかなたには砂つぶのような鳩の群れがゆっくりと小さな弧を描いている。鳩になりたいと思った。鳥になりたいと思った。鳥になってどこまでも飛んで行きたいと思った。  もし自分の体がいも虫になったのならば、いつかはさなぎになり、ある日羽化し蝶になって窓辺から大空に向かって飛んで行けるものを。あげは蝶になって窓から舞い出て青空のかなた、どこまでも、どこまでも飛んで行ってしまいたいと思った。そして同時にそんなセンチメンタルなことを考える自分がいまいましくなって、人に聞こえないように小さく舌打ちした。                 *横になる*  病院によって患者の扱いはずいぶんと異なる。  日医大でのわずか2週間のあいだに、仙骨部分に褥瘡(じょくそう)ができていたことを知ったのは、防大病院の整形外科に移ってからだった。  褥瘡――寝たきりの患者には付きものの床ずれのことである。  防大病院では褥瘡の手当てをしてくれた上に数時間おきにタイコーしてくれた(タイコーとは体位交換、つまり寝返りのこと。言葉を縮めて訳の分からないものにしてしまうのは、どこの業界でも同じらしい)。日医大ではしてくれなかった。責める気はない。首を牽引したり体中に点滴の針やカテーテルが入っていたのでは、体位交換のしようがない。ただ、エアマット1枚で褥瘡は防げるのになぜしないかという疑問は残る。  通常、病院では午前中に患者のさまざまな処置がおこなわれる。朝10時ごろになると“ホーコーシャ”がものすごい音をたててやって来た。どうやら整形外科の床は滑り止めがしてあるらしく、さまざまな器具、すなわち大中小のピンセットや綿球入れや注射器、その他ハサミや薬、膿盆(のうぼん)、滅菌ガーゼなどもろもろを乗せたホーコーシャはガチャガチャと凄まじい響きをまきちらしながら、怒濤のように押し寄せてくるのである。  ホーコーシャというのは、包帯交換車のことらしいのだが、私は最初そのけたたましさから、吠えるほうの咆哮かと思ったほどだった。包帯交換車というくらいだから、当然包帯も乗っていたのだろうが、なにしろ天井を向いたっきりだったから、詳しい搭載物は分からない。  こんなに若くて大丈夫なのかなと心配になるほど若い医者が、看護婦たちを引きつれて治療にやってきた。仙骨部分の治療を受けるときには、片腕を下にした横向きのスタイルに体位交換する。褥瘡予防や処置のしやすさを考慮した上でのことであろう、下半身にはパンツやパジャマなどの衣類はいっさい着けていない。皮膚感覚がないから傷口をさわられても痛くもなんともないが、私は多くの人の前に自分の下半身をさらすという状態におかれるのである。                    ■  ある日褥瘡の手当てをしていると、ドクターがなにごとか専門用語でさわいだ。どうやら処置の最中に便が出てしまったらしい。  そのとき私の体を横向きにささえていた看護婦が、私の顔を「なにやってんのよ、しょうがないわね」というような目でチラリと見た。そんな目で見ることはないじゃないか。自分では便が出ていることも分からないし、止めることもできないのだ。イヤなやつ。その顔のブツブツをどうにかしろ。  21歳で看護学校を出たばかりだということだったが、顔の拭きかたひとつ知らない。普通はひろげたタオルの一端で目頭から目尻へと拭いていき、順々に頬、鼻すじ、ひたい、耳のうしろへと移っていくものなのだが、この看護婦ときたら丸めたままのタオルで顔を上下にゴシゴシこするのだった。  看護婦になりたてなのだからやりかたを知らなくても仕方がないのかというと、とんでもない、同期の看護婦でも、とても上手に顔を拭ける人もいた。  これがまた色白の美人で、濃いめの眉毛は患者への献身を決然と表明しているように見えた。  この美人看護婦がカラになった麦茶を補充してくれたのを忘れることはできない。私は一日中喉が渇いて、ポカリスエットのプラスチック・ボトルの中に水出しの麦茶の素と氷水を入れて飲ませてもらっていた。これがひっきりなしのことだから、すぐになくなってしまう。しかし麦茶ぐらいのことで看護婦を呼ぶのは、患者としては気がひけるのである。どこの病院でも看護婦というのは忙しいものだが、防大病院の整形外科ではナース・コールが鳴ると、看護婦は走って病室に駆けつける。「防大というのはやっぱり自衛隊式なのだろうか」と半ば本気で思ったものだった。そんなふうに忙しそうにしている看護婦に麦茶を作ってくれなどとは言い出しにくい。だからこちらから言わなくてもやってくれるというのが、とても嬉しかったのである。  私は息を押し殺すようにしてベッドの上に横たわっていた。奥歯を噛みしめて顎の震えを押さえつけ、かろうじて細い息をし、高熱に耐えていた。クーラーもあまり効かなかったので、窓のブラインドは降ろしっぱなしにしていた。天井の蛍光灯を消していたから部屋の中はうす暗かった。明るさやにぎやかさは苦痛だったのだ。ひたすら鎮静を願った。  たいていの看護婦は私の心中を察しそっとしておいてくれたが、中には部屋に入ってくるなり、 「なんでこの部屋はこんなに暗いの」 と言いながら紐を引っ張ってガシャガシャとブラインドを一番上まで引き上げてしまう人もいる。  顔に陽が当たってつらかったけれども、どうしていいか分からない。親切でやってくれていることだし……。だけどやっぱり暑いから降ろしてもらおうかなとためらっているうちに、看護婦は部屋から出ていってしまう。  そんなある日、看護婦が部屋にはいってきて、 「具合はどうですか」 と聞いたので、私は、 「気息エンエンですよ」 と答えた。一瞬沈黙があった。とまどっている気配だった。あ、そうか、気息エンエンという言葉を知らないんだ。私はイラついた。看護学校には国語の授業はないのか、国語の授業は。それぁ四字熟語はたくさんある。数えきれないほどある。しかしなにも乾坤一擲(けんこんいってき)とか魑魅魍魎(ちみもうりょう)などという言葉を口にしたわけではない。鎧袖一触(がいしゅういっしょく)だの温故知新など知らなくてもかまわない。危機一髪を危機一発と書いたってかまやしない。穴埋め問題で「□肉□食」を焼肉定食と答えた者には2重マルをあげるだけの度量はあるつもりだ。だけど体の症状を表現する熟語ぐらい覚えておくのが看護婦の心得というものじゃないか……。私のそのときの状態は「気息エンエン」としか言いようがなかったのである。  もっとも「気息エンエン」のエンエンがどういう字だか知らないのだから、私もそう偉そうなことをいえた柄ではないのだが……。                    ■  病院の天井というのは、どうしてみんな一緒のつくりなのだろう。石膏ボードにミミズののたくった跡がとぎれとぎれに入っているような、そんなものばかり。その石膏ボード1枚の面積に大小があるとはいえ、どこの病院の天井も似たり寄ったりなのである。  白い天井ばかりを眺めていたので、体を右向きや左向きに体位交換すると、部屋の様子が分かって、たったそれだけのことでも、ささやかな気散(きさん)じになるのだった。個室だった。小さな洗面台があった。  病院の朝は、だれかが部屋の外の廊下で髭をそる電気カミソリの音から始まった。ジジジー、ジジジーとやけに大きな音をたてる電気カミソリで、起床時刻の6時前から遠慮もなしに始めるので、気になって仕方ない。おまけにその電気カミソリ男の他にも早起きの男がいるらしく、声高に自分の症状や別の人の症状などについてしゃべるのだった。  部屋の外はどうなっていたのだろう。入院時にはストレッチャーで運びこまれ、入院中は一度も部屋の外に出たことがなく、国リハに転院するときもまたストレッチャーで出ていった私には、防大病院の中のことは何も分からない。近くにデイ・ルームでもあったのだろうか、男女が夜おそくまで、といってもおそらく9時までのことなのだろうが、突如バカデカイ笑いをまじえたりしながら、ワイワイ楽しそうにゲームに打ち興じている声が聞こえてきた。時にはチイインという工事の音が響いてきた。それはギプスをはずすための電動ノコギリの音だということを、あとになって誰かから聞いた。そんなものでギプスをはずして体を傷つけないのだろうか……。  個室ではあっても、ドクターや看護婦が処置に来るとき以外は扉はあけはなたれているので、廊下の音がよく聞こえた。廊下を通る患者が私の部屋を覗いていく。ドアのほうに体位交換しているときにはそれが見えたし、天井を眺めているときにもなんとなく気配でそれと察せられた。おそらくハロー・ベストをかぶっている私がめずらしかったのだろう。  妻が廊下で他の患者と話している。姿は見えない。 「ご主人はどうなさったんですか」 「首の骨を折ったんです」 「えっ、それは大変ですね。じゃあ退院までに大分かかるでしょう。会社のほうは……」 「もう辞めることになるでしょうねえ」  本当に人生どこに不幸がころがっているか分かりませんわね、という妻の声はやや上ずっていた。そうか、おれは会社を辞めることになるのか。                    ■  毎朝9時ごろになると掃除のおばさんがやってきた。どうやら私の部屋の近くにトイレがあるらしく、トイレ掃除から一日の仕事が始まるようだった。話し声の騒々しいおばさんで、これがひどくおとなしいおじさんに愚痴をこぼすのである。 「暑いだにぃ、ほんとに今日も朝から暑くてたまらないだよ」  決まって夏の暑さに対する不平から会話が始まる。会話といっても、ほとんどおばさんが一方的にしゃべりまくり、おじさんはボソボソと低い声で相槌をうつだけなのだが。 「トイレの入り口に“掃除中”っていう札をかけてあるのに使おうとする人がいるんだから、ほんとうにかなわないよ。見りゃ分かりそうなもんだのに」  別の階を担当している掃除婦なんかちっとも働かないで、ちょこちょこっとやるだけで、あとは休憩しているばっかりなんだ、と文句はつづく。 「4階の○○さんなんか、患者がいない部屋だと入り口のあたりをちょこちょこっとしかやらないもんだから、どんどんほこりがたまってくんだってよ」  おばさんの口調はコメディアンの志村けんに似ていた。志村けんがおじいさんやおばあさんの役をやるときに使う「何々だにぃ」というしゃべりかただ。防大病院は埼玉県の所沢にあるということだったが、さてその所沢がどこにあるのか私には分からない。西武線の奥のほうだという見当はついた。そうすると所沢というのは志村けんの住んでいる東村山と近いのだろうか。ああ、きっとあのおばさんは近在の農家の人で、アルバイトで掃除をしているのにちがいない……。 「暑いだにぃ、臭いだにぃ、疲れるだにぃ」の、だにぃだにぃおばさんが、ある朝私の部屋に入ってきて掃除を始めた。入院後しばらくたってからのことである。それまでは奇妙な格好をした重症患者に遠慮したのか、気味が悪かったのか、それこそ入り口近くをちょこちょこっとやるだけでベッドのそばに寄ってこようとはしなかったのだが、その日は床をモップで拭きながら、突然、 「ちっとは横になれるかい」 と話しかけてきた。 「ええっ?」 と私は思わず聞き返した。 「だからよ、ちっとは横になれるかって聞いてんだよ」 「はあ、まあおかげさまで……」  どう答えていいのか、とっさに言葉が出てこなかった。一日中横になっているのに、「ちっとは横になれるか」とはどういう意味なのだろうか。  しばらく考えて、若いころから働きづめに働いてきたのであろうそのおばさんにとって、横になるということは、体を休める、楽になるという意味なのだと気付いた。ここらへん特有の言いまわしなのかもしれないと思ったが、確かめるだけの元気はなかった。              *不機嫌とほほえみ*  間の抜けた話である。  8月の下旬になって防大病院から国リハへの転院が決まったとき、またしても私の輸送方法が問題となった。防大と国リハはつい目と鼻の先の距離である。防大の主治医は、以前自分の患者を車椅子に乗せて歩いて国リハまで行ったことがあると言った。しかし、いまだ高熱にあえいでいる私にはとてもそんな方法はとれそうもなかった。今度もまた民間の寝台車を頼むか救急車を頼むか迷ったが、あの7月下旬の日医大から防大への転院のさいの酷熱をくりかえすのは御免だったので、思い切って救急車を依頼することにした。  転院のときに誰が付き添っていたかよく覚えていない。妻と主治医がいたことだけは覚えている。白衣と白いヘルメットをつけた救急隊員が防大の私の病室までやってきて、私をストレッチャーに移し救急車に乗せ、サイレンを鳴らして出発したかと思うと、あっという間に国リハに着いてしまった。あっけなかった。  国リハに着くと防大の主治医はすぐに帰ってしまい、妻は入院手続きのためにロビーに私を残したまま、受付のカウンターのほうへ行ってしまった。  私の頭の上で救急隊員が小さな声で、 「これはなんて言うんだろうな」 「さあ何と言って報告したらいいんだろうか」 と小声でささやき合っていた。ハロー・ベストのことを言っているのだなと思った私は、その名称を告げた。 「ああ、ハロー・ベストね」 と答えた救急隊員の冷静な声の中に、かすかな動揺の気配が感じられた。口がきけるとは思っていなかったようだ。  受付ロビーの天井は高かった。どこのビルでも1階の天井は高いものだが、それまで天井の低い個室にいた私にはことさら高く感じられ、また外来患者もまわりでガヤガヤと動きまわっていたから、少し落ち着かなかった。                    ■  国リハでは最初、2人部屋に入った。病室の入口には患者名をしるした横長の札が差し込んである。同室の患者は友多という人であった。  ベッドの枕元に患者名・入院年月日・主治医名を書いた札がぶら下がっている。主治医はT先生という長身の女医だった。短髪で化粧っ気ゼロ、白衣の下はジーパンというテキパキサバサバしたドクターだった。  ずっとあとになってから分かったことだが、病棟は、ナース・ステーションや処置室やトイレ・浴室・洗濯場などを中心とし、そのまわりを廊下が取りかこみ、さらにそのまわりに病室が並んでいるという構造になっていた。病室は4階と5階。4階は脊損、5階は脳血管障害の人が中心になっているようであった。  2人部屋の入口寄りのベッドに私は運ばれた。クリーム色のカーテンのむこうにいるのはまだ若い男性で、奥さんが付き添っているようだった。  国リハは付添い不要の完全看護である。しかしこの完全看護というのがくせもので、殊に寝たきりの患者の場合、看護婦やヘルパー(看護助手)だけによる完全看護などありえない。手が回らないのである。そこで国リハでは、患者が家庭に帰ってからの看護のしかたを家族が覚えるという名目で「付添い願い」を出し、それを病院が特別に許可するというかたちをとり、特に症状の重い患者には家族が付き添っていた。  部屋は西向きらしく、夕方になると窓から黄色い光が部屋の中に差し込んできた。私は友多さんのほうに向かって、つまり左肩を下にして体位交換していた。雲が動いて光が強まると、奥さんの横顔が仕切りのカーテンにくっきりと浮かび上がった。インスタントの焼きソバか何かを食べている。少し長めの髪をポニーテールというのか後ろのほうで束ねて、音をたてずにそっと焼きソバを食べている姿は、とても美しく見えた。  私はあいかわらず熱が下がらず、一日中、首や脇の下や鼠蹊部(そけいぶ)に氷嚢(ひょうのう)をあてて体温を下げることにつとめていた。こういう解熱剤にたよらずじかに体を冷やす方法を「クーリング」というようだ。  顔も頭も熱くてたまらなかったが、下半身だけは氷水に浸ったように冷たかった。もちろん実際に冷たかったわけではない。私の異常感覚である。  看護婦に冷たさを訴えても、「全然冷たくないわよ、熱いくらい」という予想通りの答えが返ってくるだけであった。  異常感覚といえば、右足の膝から下がベッドを突き抜けてたれ下がっているような感じがするのも無気味だった。体を起こして下半身を見ればちゃんと両足ともまっすぐに伸びているのだから、そんなことはありえないと頭では分かっていても、まるでベッドに穴が開いているような感じがした。  腹部には常時つめたい水銀が重くたゆたっているような不快感があった。内臓がプルプルと小刻みに震えつづけていた。ドクターは私の腹に手を当て、これもまた案の定「震えてなんかいない」と診断した。  とにかく私は震えつづけていた。歯がガチガチ鳴るので奥歯を噛みしめて、顎の震えを押さえていた。  毎日朝から晩まで息をしているだけで精一杯だった。PT(理学療法士)が肺活量を測りにきた。子どものころ身体検査のときに使った器具とは違い、なんだかトイレットペーパーの芯のようなボール紙の筒をくわえさせられた。 「鼻から息を吸って、口からはき出してください」 と言われ、思い切りはき出したものの、フニャリとした弱々しい空気しか送り込めなかった。  こんな計測方法に慣れていなかったので、口から紙筒を取られるときに唇のうすい粘膜も一部はぎ取られ、その跡はアフター性口内炎になってしまい、余計な苦痛をひとつ追加することになってしまった。  アフター性口内炎にはよくケナログが使われるけれども、あれは効かない。だいいち、患部にくっつかない。私は看護婦に、少しイヤミな言い方かなとは思いつつも、 「ケナログ以外の口内炎の薬があったらください」 と頼んだ。さいわいアフタッチがあった。中学生のころから口内炎に悩みつづけてきた私は、ケナログは効かないと断言する。あんなものは薬事法違反だ。ケナログをつけて治るようなアフターなら、つけなくても治るんだ、バッキャロー。  私はひどく気難しくなっていた。  事故当時の住所は横浜の金沢文庫だったので、妻が私に付き添うわけにはいかず、プロの付添い婦を頼むことにした†1。付添いがついている患者などほとんどいない。贅沢をいえる立場ではなかったが、やはり他人の介護ではなかなか思いどおりにならないことが多く、ただでさえも不機嫌な私は一日中押し黙っていた。  付添い婦は私を力づけてくれようとし、つとめて明るくふるまっていた。  ベッドの脇に、衣類やタオル・電気カミソリ・湯のみ茶碗など入院生活に最低限必要なものを入れておく床頭台(しょうとうだい)という収納箱が置かれていた。床頭台の上にリンゴが1個のっていた。 「リンゴをむいてきてあげましょうか」 「いらない」 「おいしそうですよ」 「食べたくない」 「ラジオつけましょうか」 「いいよ。聞きたくない」  そんなやりとりをしているときに、付添い婦が床頭台の中から星野富弘氏の詩画集『風の旅』(立風書房刊)を見つけた。どなたからいただいたのか分からない。 「あら、この本持ってたの。読ませてあげましょうか」 「いらない。読みたくないよ」  冗談じゃないと思った。 「じゃあ、読んであげるわよ。私、朗読得意なんだから」 と言って最初の詩を読みはじめた。   車椅子を押してもらって   桜の木の下まで行く   友人が枝を曲げると   私は 満開の花の中に   埋ってしまった   湧き上ってくる感動を      おさえることができず   私は   口の周りに咲いていた   桜の花を   むしゃむしゃと      食べてしまった。 「さくら」と題する詩である。読みたくないとは言ったものの気になってチラリと横目で窺うと、8分咲きぐらいの桜の枝先が淡い色調で描かれているのが見えた。  次の詩を読もうとするので、 「もういいってば」  私は断った。冗談じゃないと思った。こっちは苦しくって苦しくってたまらないのに、頸損の人が苦しみを綴ったものなんか読めるわけがないじゃないか。  なめんなよ、おれはこう見えてもついキノウまで編集者だったんだ。大学を卒業してから出版一筋でやってきたんだからな。こういう本は、病人や障害者が書いた本は、健康な人が不幸な人の姿を見て、自分の健康のありがたみを再認識するのが目的の本なんだ。そのときはそう思った。  桜の花をむしゃむしゃと食べただと。口の前に差し出されたのが桜の花だからいいようなもののチューリップだったらどうするんだよ。まったく冗談じゃねえよ。そのときはそう思った。  口に絵筆をくわえて描いただと。口で描けば偉いのか。絵はそれ自身の持つ美しさによって評価されるべきものであって、口で描いたから偉いというものではない。口で描ける人が偉いというのなら、ガラスのコップをバリバリ食う奴のほうがもっと偉いさ。「世界びっくり人間大集合」に出て来た、ガスバーナーでドロドロに溶かした鉛を口に含んで固めてペッとはき出す韓国のおじさんのほうがもっと偉い。私はふてくされていたのである。  今はそんなふうには思っていない。  詩についていえば――。「車椅子を押してもらって/桜の木の下まで行く」という書き出しで自分の置かれた立場や季節・風景をいわばロング・ショットで簡潔に描き出している。車椅子を自分でこぐことすらできないのである。次の3行「友人が枝を曲げると/私は 満開の花の中に/埋ってしまった」でズーム・アップして状況をより鮮やかに、華やかに表現する。「湧き上ってくる感動を/おさえることができず」で、一転して風景から内面に移り、最後の5行で、一気に意外なフィニッシュを決めるのである。内面描写を2行だけにとどめ、これだけ激しい生命力を表現できるのだからそうとうな力量というべきだろう。こざかしい論評を蹴散らすほどの勢いである。  口に筆をくわえて描くというのも、並大抵のことではない。私も後に筆ペンをくわえて字を書いてみたが、まっすぐな線一本引けやしない。字もそうとう大きなものでなければ書くことはできない。まして微細な絵を描いたり彩色したりすることなど、とうてい無理だということが分かった。体が動かせるならともかく、首しか動かせないのである。  作品はまずそれ自身の持つ美しさによって評価されるべきであること、論を俟(ま)たない。しかし、その製作過程もまた芸のうちであると今の私は考えている。  同室の友多さんと話しはじめるにはしばらく時間がかかった。友多さんが頸損で、奥さんが付き添っているということはすぐに分かった。2人とも、どうやらとなりに重症の患者が入ってきたらしいということをおもんぱかってか、ヒソヒソ声でこちらにずいぶん遠慮しながら話していた。  入院後2、3日してからだろうか、ハアハア私があえいでいるとカーテンのむこうから、 「怪我をしてから、どれぐらいですか」 と声をかけられた。 「2カ月弱です」 「そうですか。そのころが一番苦しいんですよ。頑張ってください」  友多さんは大の野球ファンで、ごひいきのチームは阪神タイガースだった。ストレッチャーにトランスファー(Transfer 乗り換え)し、私の足もとを通って部屋の外にたびたび出て行くのは、デイ・ルームで野球中継を見るためらしかった。 「僕もね、最初は全然部屋から出なかったんですよ。誰とも口をききたくなくて。だけど高校野球が始まったら、もうどうしてもそれが見たくって、それで部屋の外にかあちゃんに連れてってもらうようになったんですよ。それで、まあぼちぼちと他の人とも話をするようになったんですけど」  ある夕方、奥さんが部屋にいなくて友多さんが少しイラ立っている気配がカーテンごしに伝わってきた。  舌打ちをしたり、「まったくしょうがねえな」などと言っているので、 「どうしたんですか?」と聞くと、 「いやあ、もうナイターの中継が始まっているのにスイッチが入れられないんですよね。まったく」 「なあんだ、そんなことなら……」  私は自分の付添いに友多さんのラジオのスイッチを入れてあげるように言った。付添いはとなりのベッドへ行って、 「なによ、そんなこともっと早く言ってくれればいいのに」  友多さんは、しきりに恐縮していた。その気持ちとイラダチが、私にはよく分かった。早くは言えないのである。目の前にラジオがある。ヒョイと手を伸ばしてスイッチを入れれば、それで済むことなのである。ついキノウまでしていたことなのである。それができない。スイッチを入れるというような幼稚園児にもできる簡単なことが自分にはできないというくやしさ。そんな簡単なことを人に頼むバカバカしさ……。ついためらってしまうのである。よほど親しくなれば別だが、まだ知り合ったばかりの人には、なかなか簡単なことでも頼めないものなのである。簡単なことだからこそ頼めないともいえる。  付添いには食事が出ない。だから病院内にある「グリーンハウス」という名前の食堂に食べに行ったり、新所沢の駅にある西友までカップ麺やカップ焼きソバを買いに行ったりして、自分の食事は自分で調達しなければならない。患者には若い男性が多く、病院の食事はなかなか喉を通りにくいものなので、友多さんの奥さんは、よく他の患者の買い物をしてきてあげて、食事時になるとついでにカップ麺にお湯をそそいで作ってやっているのだった。それでご主人のそばを離れていたのかもしれない。しかし友多さんにしてみれば、どうもそれはおもしろくないことのようだった。 「またどっかで油を売ってるんだな」  奥さんが自分のそばを離れているその理由が分からないということ自体が、またイラダチの一因にもなるのである。                    ■  私があまり憂鬱(ゆううつ)そうにしていたからなのか、それとも夜中の3時間おきの体位交換のときにいつも目覚めていたからなのか、そこらへんはよく分からないが、こちらは気がつかなくても看護婦のほうは患者をよく観察しているもので、国リハに移ってまもなく、病院内にある精神科の受診を勧められた。  睡眠薬がもらえるなら行ってみようか……。  ある日、妻がストレッチャーを押して1階にある精神科に連れていってくれた。精神科のドクターも頸損だと前もって聞いていたので、それほど驚きはしなかったが、名前を呼ばれて診察室に入っていくと、デスクの向こう側に眼鏡をかけた小柄な男性が、車椅子を後ろに倒し足を顔の位置より高くして坐っていた。坐っていたといえるのかどうか。正確にいうと斜めになっていたから、やはり少し驚いた。これがN先生との初対面であった。  きちんと白いワイシャツを着てネクタイを締め、折返しつきのズボンに、紐式の皮靴を履いておられた。頸損の患者としては礼装といってもよいほどの服装である。膝には膝かけをかけている。  妻がストレッチャーを操作し、私の体を少し起こして自分もデスクの前の患者用の椅子に坐り終えると、先生はいきなり、 「どちらを治療するんですか」 と、おっしゃった。面食らった。どういう意味なのかよく分からない。戸惑っている2人に向かって先生は、言葉をつづけられた。 「家族が患者を連れて入ってくるでしょう。そうすると僕はまず誰を治すんですかって聞くことにしているんです。そうすると皆さんあっけにとられますがね。みんな、自分の連れて来た人間を治してもらいたいと思って入ってくるんですが、そうじゃないんですね。その患者だけが病んでいるのかどうか。その父親が病んでいるのかもしれない。その母親が病んでいるのかもしれない。その家全体が病んでいるのかもしれない。あるいは、その地域全体が病んでいるのかもしれないんですよ」  なんだか、にわかには理解しかねるようなことを言いだす先生だった。もちろんご本人には分かりきったことながら、こちらにそれをすんなり受けいれるだけの素地や教養がないという、それだけのことなのだけれども。いささか高飛車で、じつに負けん気の強い先生だった。  先生は、30数年前アメリカ留学中に事故で頸髄損傷になったと言っておられた。患者に処方する薬の内容をいちいち告げるのは、ひょっとしたらアメリカ式なのかもしれない。 「僕が頸損になったころは、日本にはまだ救急車もあまりなくて全然医療体制が整っていなかったので、そのままアメリカで1年間治療したんですよ。うつぶせになっているときは英語の大きな辞書を開いてもらいましてね、これなら見開き2ページを読むのにたっぷり時間がかかって、めくってもらう必要がないでしょ。あおむけに寝ているときは天井にスライドを映してもらって、勉強したんです」  うつぶせになったのは、尻や背中などにできた褥瘡を治療するためだったのではないだろうか。しかし、頸損の身にとってうつぶせは簡単なことではない。腹式呼吸しかできないのに、その腹部が圧迫されてただでさえも息が苦しい上に、鼻水でも出てこようものなら一段と苦しくなり、鼻をふくこともできず、さりとてせっかく人手をわずらわせまいとして英語の辞書を読んでいるのに、鼻水が出るたびにいちいち人を呼ぶのも気のひけることなのである。それにもかかわらず先生は、異国の病院でうつぶせになって英語を勉強された。天井にスライドを映し出すというのも、おそらく先生の考案で、うまくいくまでには何度も試行錯誤を重ねられたにちがいない。まさに刻苦勉励の人である。並大抵のエネルギーではない。  障害者心理の分野では世界でも3本の指に入る権威だというもっぱらの評判であった。  最初は精神科医を志して留学したのではなかったのかもしれない。何か他の科を志しながらも頸損になって、問診中心の精神科医の道を選ばれたのかもしれないなと、私は思った。  それだけに気が強く、まったくいきなり思いもよらぬことをおっしゃるドクターだった。なにかの折に私が、 「でも、その日はリハビリがありますから……」 と言ったところ、「またか。いったい同じ説明を何十回くり返さなければならないのだろう」という顔で、 「リハビリっていう言葉を皆さん間違って使っているんですよ。たとえばデパートにあなたが乗っているそのストレッチャーのまま行って、そこへ一人でほっぽり出しておくことが、リハビリなんです」  何をおっしゃっているのか訳が分からなかった。後になってよくよく考えてみると、普通われわれがリハビリと言っているのは機能回復訓練のことで、怪我や病気で不自由になった手足の機能を元のように回復させることを指しているのだが、リハビリテーションの本来の意味は社会復帰ということなので、機能回復訓練とは別個に考えなければならないのである。仮に手足の機能が回復しなくても社会復帰することは可能なのだ――つまりデパートで一人置き去りにされてもなんとか自宅に帰り着くこと、手足が動かなくても自分の意思を実現させることこそがリハビリテーションなのだ――と、そういう意味でおっしゃったようだった。  N先生は患者の話にじっくり耳を傾けるというタイプの医者ではなかった。精神科医としてはめずらしいほうかもしれない。私が診察を受けるようになってからしばらくして、妻もついでに診てもらうことになった。妻が自分の現在の状態がどういうものであるか、なぜこういう状態になってしまったかを、縷々(るる)述べはじめると、先生は妻の言葉をさえぎるようにいきなり、 「多弁」 と言った。つまり看護婦に多弁という文字をカルテに記入するよう命じたのである。  つっけんどんな調子に聞こえた。それは、ひとつには一人の患者にそんなに長い時間をかけるわけにはいかないという事情もあっただろうし、またもうひとつには、肺活量の足りない頸損の人間がはっきりと正確に自分の意思を伝えるためには思いきって発音しなければならないということがあり、それは今の私には理解できるのだが、頸損に対する理解のない人にとってはとかく誤解のもとになりやすい。それともうひとつ。「お前さんなんかより、私のほうがずっと苦しいんだよ。その程度のことでグダグダ言いなさんな」と思っておられるのではないかと、私は察した。  患者は障害者だけではなく、もちろん外来のさまざまな人々が来たから、神経症の段階ではない、もっと本格的な患者にはまた別の対応をしておられたのかもしれない。  診察室の中には簡単なベッドもあった。これは患者用ではなく先生用だった。ドクターは、起立性低血圧と呼吸確保のためだろう、車椅子をリクライニングして診察するのだが、いよいよ脳貧血がひどくなると自分がそのベッドに横になって患者を診察するのである。  診察中ときどき万歳をするように腕を上げるのは、何か呼吸と関係があるらしかった。  息をするのがそうとう苦しそうで、 「僕は痙性を利用して呼吸しているんです」 とおっしゃっていた。痙性で呼吸するというのがどういうことなのか、いまだによく分からないのだが。 「今朝はね、病院へ来るまでに2回ほど失神しそうになったので、車を停めて休憩しながら来たんですよ」  先生には女性の秘書兼付添いがついており、その人が運転をして病院まで来るらしかった。  そんな体でも海外でおこなわれる学会にしばしば出かけるということなので感心していたが、 「きのうは膀胱結石の手術をしたんです」 と聞いたときには、あきれるほどびっくりしてしまった。 「きのう手術してもう今日診察ですか、それはたいへんですね」 「仕方ありません、仕事ですから。患者さんを放っておくわけにはいきませんからね」  さて、話は私の初診にもどる。 「それでは今から数字を言いますから同じように繰り返してください。3、2、6、8、7、5」  こんなものならお安いご用だ。すぐに答えられた。 「3、2、6、8、7、5」 「それでは今言った数字を逆に言ってください」 「えーっ、いや勘弁してほしいですね。えーと、えーと」  それでもなんとか私は答えた。精神科の診察が、まさか知能テストから始まるとは思わなかった。この質問に答えるのは、元気な人にとっても容易なことではないだろう。 「では『捕らぬ狸の皮算用』の意味を言ってください」  算数の次は国語ときた。 「えっ、えーと、そうですねえ……。ある物事をおこなう前にその利益を期待することでしょうか」 「そう。過大にね。過大に期待することをね。つぎ、『転石苔(こけ)を生ぜず』の意味を言ってください」  それには2つの意味があるんだが、と少しためらいながら片方の意味を言った。  するとドクターは、 「そう。それはアメリカ式の考えですね。この解釈には2つあって、イギリスではそれと逆の意味につかってるんですよ」  部屋の奥のデスクの上に『ランダムハウス英和大辞典』(小学館刊)のパーソナル版があった。私の持っているのと同じ辞書だ。  カルテは看護婦が書きこむ。書き終わったカルテを先生は胸の前に差し出した両手の親指と人さし指の間にはさませて目を通し、確認した。黒ぶちの眼鏡をかけた眉間には2本深い縦皺(たてじわ)が刻まれている。  ある日の受診時、先生は私に向かって、 「今、あなたは与えられてばかりいる状態ですが、これからは与える側に立つことをこころがけなさい」 とおっしゃった。 「与える側に? 私がですか」  面くらった。私は指一本動かないのである。先生のように眼鏡をかけたりはずしたりすることすらできない。完全に人に身をゆだねる状態であったから、人に何かを与えるなどということは、まったく考えられもしなかったのである。 「与えられるより与えるほうがいいに決まっているじゃありませんか」 と先生は強い語調で言い放った。  病室へ戻ってから考えた。私が人に与えられるものは何だろうか。もう子供にも妻にも何もしてやれなくなって、会社にも行けなくなって、働くこともできなくなってしまった私に何ができるというのだろうか。                    ■  友多さんと一緒に4人部屋の窓ぎわのベッドに移り、ハロー・ベストがとれると、秋になった。  大きな窓からは所沢の青い空が見えた。朝方、その窓の右から左へ横切って行った赤トンボが、夕方になると今度は左から右へ横切って行った。それを見て不忍池の鵜を思い出した。あそこに群れている鵜は夜明けとともに東京湾に飛んで行ってエサを漁り、夕方になると池に戻って来るのだという。  丸ビルの会社に勤めていたころ、夕方になると私は腕時計を気にしながらときどき机から目を上げて、窓の外、銀座方面の空を見やった。銀座のむこうは海だ。昨日は5時20分に鵜の群れが飛来した。日が短くなれば鵜のご帰還もそれに応じて少しずつ早まるはず……。夕刻用があって出かけるときは、後輩に、「何時何分ごろ、上空を通過するはずだから見といてよ」と、頼んだりしたこともあった。翌日、「来ましたよ」という報告を受け、予想が当たると、「そうか、来たか、グフフフ」と私は大いに満足したものだった。  病院の庭に出てみる気になった。それまでは玄関の自動ドアの前までは行ってみたもののガンガン照りつける陽ざしを見てひるみ、ポーチの日陰だけにでも出てみようかとストレッチャーを押してもらってガラスドアが開いた途端に外で待ちかまえていた熱気が押し寄せてきて顔を包み、あわてて退散したのだ。  それが窓から入ってくる風の肌ざわりと赤トンボの姿で、これなら耐えられるだろうと、ある日の午前、精神科の診察帰りに、ストレッチャーに乗ったまま外へ出てみた。顔は空に向いているからまぶしかったけれども耐えられないような暑さではない。庭のとある場所まで来ると、どこからか金木犀(きんもくせい)の香りがただよってきた。 「ちょっと失敬していこうか」 と私は言った。  妻は花壇の中に入り、こんもりと黄色く輝いている木に小走りでかけ寄り、葉っぱを2、3枚つけた枝先をちぎってきた。  病室に戻ったものの、さてそれを差しておくような花びんがない。ほんの10センチ程度の小枝だから、ちゃんとした花びんがあっても役には立たない。そこで、使わないまましまってあったビニール製のスイノミに投げ入れて窓辺に置いた。古ぼけたスイノミが意外に美しい花器に変身した。  金木犀をぼんやり見ているうちに、ふと、そうだ、これからおれは人にほほえみを与えようと思った。これからの自分にできることはそれしかない。愚痴をこぼしたり泣いたり叫んだり、そんなことは今までだってしたことはないけれど、それでも今後はなるべく人にほほえみをもって接しようと思った。まあ、とにかくそう思うだけは思った。それができたかどうかは、また別の話である。  †1 付添い婦の廃止 1990年代後半に病院の付添い婦は廃止された。看護は専門家の看護婦(のち看護師)がするべきだという考え方による。しかし付添いの給料は患者負担だが、看護婦の給料は病院負担だ。病院が看護婦をふやすわけがなく、いまではすっかり付添い婦が復活しているようだ。            *ハロー・ベストのキキカイカイ*  ハロー・ベストは、着けている本人にはそれがどんな形でどんな仕組みになっているものか分からない。ただ、着けたその日から目の前の左右に鉄の棒がたてに2本存在するようになる。  いつも目の前に鉄の棒が見えるので、頭が鉄格子の中に入っているような感じがした。  ハロー・ベストで頸椎を固定するときには首をそらし気味にして固定するため、本来ゆるいS字形を描いている頸椎はほぼまっすぐな形になってしまうらしい。だからハロー・ベストの装着期間が終わり機能回復訓練が始まったとき、訓練室の硬いプラットホームに寝かされると首から肩にかけてひどく落ち着かなくて、枕なしではいられなかった。  ハロー・ベストは、簡単にいうと頭蓋骨に固定した頭まわりの鉄格子と胸部にしめつけたチョッキをつなぐことによって首を固定する仕掛けである。英語でいうと Halo Vest Traction。トラクションは牽引(けんいん)という意味だから、装置そのものはハロー・ベストといってよいのだと思う。ベストは固いプラスチックのチョッキで、マエミゴロとウシロミゴロを両肩と両脇につけたベルトで胴体に縛りつける形になっている。  ではハローとは何だろうか。それを着けると思わずみんなに「ハロー!」とあいさつしたくなるような、そんな明るく楽しい代物ではない。この装置の考案者の名前かもしれないと長いあいだ思っていたが、調べてみたら後光という意味であった。天使が頭につけているあの輪っかのことである。つまり頭蓋骨につけた鉄の輪と固いプラスチックのベストのあいだに鉄棒を4本、頸椎を引っぱるように固定しているといえば、大まかなところはお分かりいただけるだろうか(ただし、私が装着したのはこういう形のものであったが、ハロー・ベストといっても、1種類だけではないらしい。これは他のことがらに関してもいえることで、私の体験談はまったく個人的なものであり、誰にでもあてはまるものではない)。  ベストにはムートン状のやわらかい裏ばりがしてあるが、じかっ肌(ぱだ)に着るわけにはいかない。かといって下着をつけるのは至難の技である。そこでどうしたかというと、ランニングシャツのマエミゴロとウシロミゴロを切りはなし、肩と両脇3カ所、すなわち計8カ所に紐を縫いつけて、マエミゴロとウシロミゴロを腹側と背側からベストの中につっこみ、紐で結ぶという形をとった。  日医大でそういう下着を作るようにと言われたものの、妻にはそんなものを作る余裕はとてもなく、妻の友人にこれこれこういうものを作ってほしいと連絡したら大至急作って送ってくれた。それも電話連絡だけでこちらの意図したとおりのものを作ってくれたというから、女というものは大したものだ。私など前身頃、後身頃という言葉の意味を知ったのはそのときが初めてであった。要するに前半分、後半分という意味なのだった。  この下着の交換は、きついベストの中に手を突っこみながら手さぐりでやるわけだから容易なことではなく、結び目をほどくのにウッカリした看護婦だと引きちぎってしまうこともあった。  ハロー・ベストはひどくうっとうしいものだが、とにかくしっかり首は固定されているから体位交換のときなどもべつに首の骨を気づかうこともなく、手荒にゴロッと体をひっくりかえされてもなんの不安もないところが利点といえば利点だろうか。                    ■  防大病院に移ってしばらくしたころ、妻は子供を連れてくると言いだした。私は少しためらった。自分の姿は見えないけれども、それが異様なものであることは十分に察しがついたからである。私の部屋の前を通る患者たちが、それとなく私の姿を覗いていく気配があった。 「大丈夫よ」と妻は言った。「子供たちには、お父さんは宇宙人みたいなかっこいいマスクをつけてると言ってあるから」  そしてある日、子供たちがやってきた。私の姿を見ても特に驚いた様子はなかった。事前によく説明しておいてくれたからだろう。 「お父さんのお指を揉んであげなさい」 と妻が言った。当時小学校の2年生だった長男は、ニコニコ笑いながら私のベッドサイドに寄ってきて指を揉んでくれた。指なんか揉んでもなんの効果もないんだけどなと思いつつも、べつに気味悪がりもせず揉んで指を曲げ伸ばししてくれるのが嬉しかった。 「さあお姉ちゃんも揉んであげなさい」 と妻が声をかけたが、小学校5年生の長女は衣裳入れを兼ねた椅子に坐ったまま、 「疲れたあ」 と言って動こうとはしなかった。やっぱりちょっと無気味なのかなと、私は思った。  何かの用事で他の者が出ていき、病室に私と娘の2人だけが残された。娘は何も喋らないので私から話しかけた。 「お父さんはね、毎日8度5分以上熱が出るもんだから、もう息が苦しくて苦しくてたまらないんだよ」  すると娘は坐ったまま、 「そうよね、8度5分以上出ると、ちょっとつらいわよね」  その口ぶりが意外に大人びていたので、びっくりしてしまった。約1カ月会わないうちに、娘は少し大人になってしまっていた。  熱といえば、ふつう熱が出たときには解熱剤を飲み、それでも下がらないときには坐薬を用いることが多い。私もそういう処置をほどこされた。しかし、いっこうに下がらなかった。坐薬式の解熱剤は発汗作用があり、その汗の気化熱で体温を奪うという仕組みのものなのだが、私は麻痺した部分、すなわち肩から下の部分の汗腺がすべて閉じてしまっているために解熱剤が効かないのだろうという説明を後から受けた。  ハロー・ベストをしているので、頭が熱くても氷嚢や水枕を当てることができず、直径5、6センチの細長いゴムの袋に氷水を入れ、それを額や首に巻きつけるという方法をとった。ところが、いわばこの巨大なコンドームの口を縛るのがなかなか難しく、ときどき知らないあいだに水がもれて枕や肩口が濡れてしまうことがあった。体が濡れてもよく分からなかった。いうまでもなく感覚がないからである。  防大病院にいたころは毎日肩に筋肉注射をした。ここでいう肩は腕のつけ根のまるい部分(三角筋)である。筋肉注射というのは本来ひどく痛いものなのだけれど、私にとってはそのあたりが麻痺と感覚の境目で、注射もそれほど苦痛ではなかった。これが点滴ということになると、肘の内側に針を刺すので、そのあたりは完全に麻痺しているからなんの痛痒(つうよう)も感じなかった。目をそらしていれば、いつ針を刺されたのかさえ分からない。  点滴は看護婦や若い医者がやってくれたが、何度刺し損じても私には痛くも痒くもないので、若い医者が首をかしげながら、 「入らないなあ」 などと小さな声でブツブツ言っているのを聞くと、 「まあ何度でも気楽にやってくださいよ、僕は痛くもなんともないですから」 と、なかば皮肉混じりで言ってやったものだった。  何を点滴するかといえば、塩水なのだ。点滴のビンのラベルには輸入品でもあるまいに横文字が書いてあったが、あきらかにそれは塩水としか受け取れないような文字であった。こんなものを日に何本も刺して、おまけに熱はいっこうに下がらないのだから、皮肉のひとつも言いたくなるではないか。  そのうち指の関節が黒ずみはじめた。そして次第に手の甲全体が黒くなっていき、指の関節の皺の部分の皮がポロポロと落ちはじめた。最初それが皮だとは分からず、 「何なんでしょうね」 と看護婦に聞いても、 「何かしら」 と首をかしげるばかりであった。話は少し飛ぶが、こんなときに首をかしげるならともかく、いろいろな処置をしている最中に医者や看護婦が首をかしげながらブツブツ言うのは、まして首をひねったりするのは、患者にとってはあまり気持ちのいいものではない。やめてほしい。  指先なんか曲げ伸ばししてもなんの意味もないと、受傷直後には思っていたが、1、2カ月もたたないうちに、これがたいへん大切な運動であることに気付いた。皮がはげ落ちると同時に関節から皺が消えてゆき、指の曲げ伸ばしも難しくなってきた。関節の硬縮がすすみはじめたのである。手の甲は黒くなり、手のひらは妙に赤っぽくなった。黒人の手に似ている。  怪我をしたのが真夏のことで、高熱も発していたしハロー・ベストも装着していたので、風呂に入ることができなかった。毎朝、“清拭”(せいしき)といって、看護婦が体を拭いてくれたけれども、体というものは拭いただけでは、なかなかきれいになるものではない。特に陰部は、ひどく汚れやすい。  汗腺が閉じているといっても100パーセント閉じているわけではなく、少しは開いているものらしく、特に陰嚢(いんのう)からは何か妙な分泌物が出るものだということをこんな体になって初めて知った。そこへもってきてペニスと陰嚢と鼠蹊部は密着したまま体を動かさずにいるから、どうやら受傷後またたくまにインキンになったらしく、そして十分な手当てを受けなかったので、そのあたりは、惨状ともいうべき有様を呈してきたもののようだった。黄色い膿でズルズルになっているという。おぞましい限りである。  防大病院から国リハに移るとすぐ、転院の翌日だったか、看護婦が陰部洗浄というものをしてくれた。私には見ることができないから、どういうふうにするものかは分からないが、とにかく陰部の下に膿盆なりなんなり水を受けるものを当てて、石鹸などで陰部を洗い、水もしくはぬるま湯で洗い流してくれるのだった。  その処置を受けているとき、ホッと心がなごむのを感じた。こんなテがあるのなら、もっと早くからやってくれればよかったのに。防大病院ではそんなことは一度もしてくれなかったように思う。もちろん、陰部を洗われようと、どこを洗われようと、私は気持ちよくもなんともないのだけれども、不潔な部分をいま洗ってもらっているのだと思うと、わずかに見える看護婦の横顔が、とても美しくて、優しくて、崇高なものに見えた。いや実際あの看護婦はいつもニコニコしていて綺麗だった。ほほえみを絶やさず、患者の陰部の清潔に細心の注意を払ってくれるのが上等な看護婦の第一条件だとつくづく思った。  この陰部のただれに関しては、今でも腹がたつというか、腹だちを通り越して、滑稽な思い出として残っていることがある。あまりにもただれがひどいので、国リハに月に1回だけ出張してくる皮膚科の医師の診断と治療を受けることになった。ストレッチャーに乗ったまま診察室の中に入っていくと、私の下半身はカーテンで遮断された。カーテンの向こうで医師は開口一番、 「あーあ、これは掻いたんだろう」 と言った。あっけにとられてしまった。木を見て森を見ず。医師、患部を見て患者を見ず。いくら皮膚科の患者だからといっても、そこに連れられてきたのが頸髄損傷者であることを知っていれば、どんなにただれていようと痒いなどと感じることもなく、また仮に感じたとしても手で掻くことなどできないということぐらい分かりそうなものなのに。おまえはプロだろうが。  医師、患部を見て患者を見ず――私はこの思いをそれ以後しばしば味わうことになる。                    ■    ハロー・ベストを装着していて何が不便かといえば、あたりまえのことながら、首が動かせないことだった。肩から下は全然動かないから、首が動かないということは、つまり頭のてっぺんから足の爪先まで顎を除いて動かせるところは一つもないということで、これは不便などといった言葉で表現しきれる状態ではない。  夏だったから夜になると蚊が飛んできた。網戸はしめていても、蚊というやつはどこからともなく入りこんできて、そしてどういうわけか顔をめがけて攻撃してくるのである。  これまでなら、プーンと飛んできた蚊が、額に止まり針をさしこんで血を吸いはじめた瞬間をねらってパシッと叩けば退治することはできたし、手でおっぱらうこともできれば、起きあがって電気をつけ、静かにあたりを見まわして、壁に止まっている蚊を見つけ、そっと近づいてパシッと叩くと蚊がペチャッとつぶれて白い壁に小さな血痕が残ったりするのも、これはこれでなかなか楽しいものなのである。  ところがまっすぐに天井を向いて寝ているところへ蚊が近よってきて、しかも顔ひとつ振ることができないというときの蚊の撃退法は、ひとつしかない。息で追い払うのである。額のほうに飛んできた場合には下唇を突きだし、息を上方へ吹きかける。右頬に飛んできたやつには口を右に曲げ、左側に飛んできたやつには口を左にねじまげてフッと息を吹きかけ追い払うのである。  そんなときにうっかりすると顎の下に設置してあるナース・コールに触れてしまうことがあった。押しボタン式のものが使えないので、私は特別なナース・コールを国リハでは付けてもらった。  参考までにどんなものなのか記しておく。電気スタンドの軸でジャバラ状になっていて、どんな方向にも動かせるものがあるが、あれの長いものとお考えいただきたい。根元は巨大なクリップでベッドの頭の鉄パイプに固定されており、先端がスイッチを内蔵した細いプラスチック製のセンサーになっている。それを顎の下に設置しておくのである。顎を開くとそのセンサーに触れて、病室の天井中央にとりつけられた送受信の両機能を兼ねたナース・コールがプルプルプルプルと優しくも緊張感をはらんだ音をたてながら赤く点灯するのである。  夜中、蚊をおっぱらっているうちに思わず鳴らしてしまった私は、他の患者が目を覚ましはしないかと心配になり、早くそのプルプルが消えてくれることを祈っていると、 「どうしました」 という夜勤看護婦の声が、その天井の機械から聞こえてくる。 「あっ、すみません。なんでもありません、間違いです」 「そう」  もとの静寂がもどり、ホッとする。  もともと寝つきの悪い私は蚊を追い払う作業に疲れ、注意はしているものの、思わずあくびをしてしまい、またもやナース・コールのセンサーに触れてしまう。そしてまたプルプルプルプルが始まって、 「どうしました」 「あっ、す、すいません。また間違いです」  冷汗をかくことになる。  ハロー・ベストを装着したときにはツルツルに剃られた頭も、今ではだいぶ伸びてきて、しかも汗をかくのは肩から上だけときているから、体中の汗がぜんぶ頭に集中したかと思うほど、頭から顔からひどく汗をかいた。  汗をかくと、さなきだに痒い頭が痒みの修羅場と化す。チワチワチワと押し寄せてきた痒みのさざ波が、ぐんぐんとその勢いを増し、まるで大海(おおうみ)の磯もとどろに寄する波のように、割れて砕けて裂けて散るかも! といった塩梅(あんばい)になる。  怪我をする前は、まあ2、3日に1回は頭を洗っていた。それがもう何週間も洗っていないのである。付添いや看護婦がハロー・ベストのあいだから指を突っこんで、しぼったタオルで擦ってくれたり、時にはアルセンといってアルコールをしませた脱脂綿でアルコール洗髪をしてくれることもあったが、それは自分で掻くのと違って、強度も位置も思いどおりにはならず、また気持ちいいのは擦っているあいだだけのことで、それが終わってしまえばまたじきにチリチリと痒みのさざ波が寄せてくるのである。  何か気をまぎらわせなければならない。かいいかいい、かいいかいい――。そういえば「てんもうかいかいそにしてもらさず」という言葉があったなあ。うん。そうするとこれはさしずめ「のうてんかいかいそこかいてもらさず」といったところだろうかと、アホなことを考えたりした。念のためにいっておけば、「天網恢々(かいかい)疎にして漏らさず」は、悪事は必ず露見するという意味だから、「脳天カイカイ……」とは意味のつながりは何もなく、そんなことを考える私は、ノンキといえばノンキ、ヤケクソといえばヤケクソの思いであった。                    ■  ハロー・ベストを装着して2カ月、9月中旬のある日、主治医のT先生が嬉しい知らせを持って、ベッドサイドへやってきた。 「ごめん、ごめん、藤川さん。わたし計算ちがいしてたわ。ハロー・ベストの装着期間は2カ月だから、今度の何日には、ハロー・ベスト取りますから」  取りはずしは10月中旬と聞いていた私と妻はビックリし、かつ大いに喜んだ。手を取り合って小躍りして喜び合った――といったらウソになる。妻に手を取られた私は、 「これで風呂に入れるなあ」 と言って笑みを浮かべただけである。 (話は少しそれるが、身体各部を用いた比喩がつかえないのは、文章を作る上で不便極まりない。「手を取り合う」ことなどできず、手は取られるだけであり、小躍りすることなどもちろんできない。照れくささを表現するのに「頭を掻く」といったり、行楽の日を「指折り数えて待つ」といったり、くやしさを表わすのに「地団駄を踏む」といったり、その他身体各部を用いた間接的表現は枚挙にいとまがなく、これらの表現は、文章をイキイキとしたものにさせるのにきわめて効果の高いものなのだが、今の私には、ほとんどそれが使えないのである。私の文章が精彩を欠いているとしたら、そのせいであると理解していただきたい。と、まあ、これは単なる言い訳だけどな。)  その日がきた。  まずストレッチャーで処置室へ運ばれた。主治医が工具箱の中をガチャガチャとひっかきまわして器具をより分けていた。バールがないとかなんとか言っている。冗談じゃねえなあ。そんなもん前から分かっているんだから、その場になって用意せずにもっと前から用意しとけよなあ、と心の中でつぶやいた。  やっと器具がそろい、頭のあちこちでネジはずしが始まった。はずしている最中に先生が、「この外側をはずしてからレントゲンを撮って、骨が固定されていることが確認できたら頭蓋骨からネジを抜きますから」 と言った。ギョッとした。ネジ? 頭蓋骨? 私はそれまでハロー・ベストというのは何か鉄の爪のようなもので頭蓋骨にギュッと挾みつけてあるだけのものだと思いこんでいたのだ。それがまさかネジで頭に埋め込んであるなんて。しかも4カ所だぞ。今の今まで誰もそんなことは言ってくれなかった。ボルトがつっこんであるなんて、おれはフランケンシュタインか。どういうふうになっているかは外から見れば一目瞭然のはずだ。それなのに医師も家族もそんなことは一言も言ってくれなかった。 「あのう、麻酔やなんかは……」 「しません。大丈夫よ」  あっさりしたものである。  レントゲン室へ運ばれ、結果は正常。再び処置室に運ばれ、いよいよボルト抜去が始まった。耳の後ろの2本は比較的簡単に抜けた。何ではずしているのだろうか。レンチだろうか。とにかく回すたびに頭蓋骨がミシミシと鳴るのである。無気味なことこの上ない。手に汗を握る思いである。チキショウそうだったのか。こういうことになっていたのか。もうされるがままに任せるしかない。  体が一生動かないことだって、誰も言ってくれなかった。  怪我をして間もないころ、体がもとに戻ったら、もう会社を辞めよう、そしてこういう障害者の訓練士、障害者を助ける仕事につこうかとぼんやり考えていた時期があった。その前に自分自身が動けるようにならなければならない。  そのとき私の脳裏に浮かんだのはこういうイメージである。外ではプラタナスの街路樹が最後の枯れ葉を寒風に引きちぎられ、その枯れ葉が道路をすべるようにふっ飛んでいっている。冬である。怪我をしたのが夏だったから、半年もして冬になればきっとそのころには歩行訓練ができるようになるだろうと思ったのかもしれない。広い柔道場のような畳敷きのところで、私は四つんばいになってハイハイの稽古から始めるのである。膝がすれるかもしれない。そうだ、高校のときバレー部で使っていたあの膝あてを妻に買ってこさせよう。あれを膝に当てればハイハイをしてもきっと膝が痛まなくてすむだろう。広い柔道場の中を軍手をはめ、膝あてをしてハイハイをしている自分の姿を思い描いた。  国リハに入って、最初にPTから、 「どこまで回復できるようになりたいですか」 という質問を受けたときに私は、 「せめて這ってでも歩けるようになりたいです」 と答えたものだった。  流れ出る血を拭きながら先生がボルトを抜く作業を続けている。処置室に入ったのはそれが初めてだった。それまで処置室などというものがあることすら知らなかった。意外に狭い所で、ストレッチャーのすぐ右脇の壁には看護婦のスケジュールなどが書きこまれた日程表やその他意味の分からないものがぶらさがっており、左手には薬瓶や処置器具の金属類を載せた数段の金属棚がせまっていた。  両耳の後ろのボルトは比較的簡単にはずれたが、右の眉尻の上はなかなかうまくいかず、 「じゃ、こっちから先にやってみようか」 ということで、左の眉尻の上のをはずしにかかった。もうそのときは目など開いていられない。ただ一刻も早くボルトの抜去がすむことだけを念じていた。左ははずれ、右もギリギリギシギシと音をたてながら、やっとのことで抜くことができた。  それまで目をかたくつむり、歯を食いしばって、痛みと緊張に耐えていた私はようやく安堵して、止血をしている先生にむかって聞いてみた。 「この頭蓋骨に開いた穴は、どのぐらいでふさがるものなんですか」 「頭っていうのは毛細血管がいっぱい走ってるから、すぐふさがりますよ」  ドクターはまたまたあっけない返事をし、一応の処置をすますとすぐに立ち去った。  ひとりになって天井の蛍光灯を見つめているうちに、ふいに胸にこみ上げてくるものがあって、あれ、なんだなんだと思っているうちに涙が溢れ出した。看護婦が来たら格好悪いなと思いながらも、もう涙を止めることができず、あまつさえ泣き声までヒックヒックと出てくるしまつ。近くに看護婦がいるはずだったが、ストレッチャーに近づいてくる者はなかった。私はしばらく、そこで泣いた。  泣き終わると、看護婦がやってきた。ガーゼがはずれないように弾力のあるネットを頭にスッポリとかぶせられた。  まさか自分の頭にネジクギが埋め込まれていようとは夢にも思わなかったが、だれも手術当日までそれを教えてくれなかったことをありがたく思った。そんなことが前もって分かっていたら、ハロー・ベスト取りはずしの日まで不安で不安でたまらなかったに違いない。取りはずし当日になって、その場になって初めて知らされ、またたくまに事が終わり、ショックは大きかったけれども、それでよかったのだと思った。  処置が終わるまで処置室を出たり入ったりウロウロソワソワしていた妻は、私が病室に戻ると、その日病院に来るときに買ってきたお菓子を病室の患者や付添いに配って、ハロー・ベストの取りはずしを祝ってくれた。             *太郎はたちまち……*  ハロー・ベストが取れてやっと入浴できることになったのは、もう9月の終わりに近いころだった。 「ああ、これでやっと頭を洗ってもらえるのだ」  そう思うと、その日が待ちどおしくてたまらなかった。  ハロー・ベストをつけたまま浴室でシャワー浴をしたことはある。陰部のただれがあまりにもひどいので、上半身を濡らさないように下半身だけ石鹸で洗ったのである。  身動きのできない患者にとって、入浴は楽しみでもあり、また同時に不安と苦痛のともなうものでもある。自分で風呂に入れる患者は週に3回は入れるのだが、身動きのできない寝たきり患者は週1回と決まっている。それでも週1回入れればましなほうで、入浴日に熱でも出してしまったら、2週間に1回となり、その次の入浴日に運悪くまた体調が悪かったりすると、入浴はさらに1週間先へ延びることになるので、いつまでたっても風呂に入ることができない。  老人病院などでは入浴させてもらえないところもあるそうだ。付添い婦やヘルパーが、あるいは看護婦が、毎朝熱いお湯でしぼったタオルで体を拭いてはくれるのだが、そんなことで体の清潔は保てるものではない。なぜ風呂に入れてもらえないか――寝たきり患者用の風呂を備えている病院が少ないということと、人手が足りないということが原因だろう。  国リハでは脊損の患者はみんな下半身はスッポンポンだった。褥瘡を防ぐためである。つまりパンツやパジャマをはいていると、その縫い目が仙骨などにくいこみ褥瘡の大きな原因となるから下半身には何も着けないのである。もちろん訓練室へおもむくときには下着やズボンをはくのだが、ベッド上ではあくまでもスッポンポンなのである。感覚がないから、べつにスースーして困るとか落ち着かないということもないし、元気な若者などは車椅子に乗るときも腰にバスタオルを1枚巻くだけでよその部屋へ遊びに行ったりする。  入浴するには(あくまでも私の場合だが)、上半身に着ているトレーナーやTシャツをぬがせてもらって全裸となり、次にペニスに挿入されたバルーン・カテーテルという排尿のための管に栓をする。ふだんはバルーンが蓄尿袋と接続されているのだが、尿袋をぶらさげたまま入浴すると邪魔になるので、一時的に排尿をストップするのである。バルーンに栓をするのは、そこから膀胱内に細菌が侵入するのを防ぐ意味もある。とにかく裸になってバルーンに栓をする。  それからが大変。浴室へ行くには、まずベッドからストレッチャーに乗り移らなければならない。これには最低3人の人手を必要とする。だいたいいつも、妻と看護婦とヘルパーというメンバー。1人が肩から首を支え、1人が腰の下に手をつっこみ、1人が足を持ち、「セーノ」と合図をかけて患者を抱え上げ、ベッドのそばに持ってきたストレッチャーへドタドタドタドタという、おぼつかない足音をたてながら運ぶのである。  3人の女性に抱え上げられてストレッチャーに寝かされるまでのあいだはわずか5、6秒なのだが、これがひどく心もとない(とにかく狭いところでの作業だから、抱えるほうも楽ではない。腰痛は看護婦の職業病である)。空中に浮いている数秒のあいだに私は落とされるのではないかという不安をいつも抱いた。抱えるほうだって真剣で緊張しているから、患者を床に落とすなどということはない。それは分かっている。信頼はしている。しかし何百回何千回とやっているうちには落とすこともあるのではないか、という不安が、自分で自分の身を護れない私の脳裏を、ついチラリとかすめるのである。  ストレッチャーに寝かされた私は大急ぎで浴室まで運ばれる。国リハの浴室には2種類あった。1つは自分で入れるか、もしくは簡単な介助で入れる患者用の浴室。もう1つは完全に寝たきりの患者用の浴室で、そこにはわれわれが「テンプラ」と呼んでいた浴槽が1台置かれていた。  浴室に来ると介護人たちはゴム製の白い大きなエプロンをかけ、足には長靴を履く。ここでまた私はストレッチャーから「テンプラ」に付属した洗い台の上へ移される。その洗い台がどうなっているのか、浴槽がどうなっているのか私には見えない。私の目に入るものといえば、壁につけられた温風ヒーターや天井、そして妻や看護婦やヘルパーの上半身だけである。 「あら、だいぶよくなったじゃない」 「本当におかげさまで」 「このあいだ洗ったからかしらね」 「薬もいただいてますし」  そんな声が聞こえる。私の陰部を見ながらの会話だと察しがつく。  よほどの惨状を呈しているらしい。私はそれまで自分の下半身を見たことがなかった。ベッドはそのころにはだいぶ起こせるようになっていたのだから、見ようと思えば見られないことはなかったのだが、見たくなかった。排便や膀胱洗浄の、あるいはバルーン交換の様子なども一度も見たことがなかった。 「ワーア、すごい垢、おもしろいぐらいだわ」  手を洗っている妻がはなやいだ声を出した。 「ほら見てごらん」  私のひじを折り曲げて手を顔の前に持ち上げてくれた。手のひらには消しゴムのかすのようなものが大量にこすり出されていた。 「足の裏もすごいわよ」 と、足もとのほうで看護婦の声がする。  しかし手のひらも足の裏も、いまの私には興味がない。私の意識はひたすら頭部に集中していた。ハロー・ベストを抜いたあとの傷口はまだ十分には治っていなかったが、そこをよけるようにしてヘルパーが頭を洗ってくれていた。患者がどこの部分を掻いてほしいかすっかり心得ているらしく、そのときのヘルパーは文字どおり痒いところに手が届くようにゴシゴシとこすってくれた。  6月26日に神経科医院に入院したときから数えれば、もう3カ月近くも頭を洗っていないのである。頭を洗わずに一夏すごしたのだ。このときの快感といったらなかった。健康なときですら3日も洗わなければ痒くなる頭を、3カ月も洗わなかったのだから、頭をこすってもらう快感は、まさに全身を貫くようで、それまでに味わったあらゆる官能的な喜びを超えるものに思われた。 「掻痒(そうよう)は射精よりも貴(たか)し」こんなフレーズが頭に浮かんだ。これを『故事名言ことわざ辞典』の「苛政(かせい)は虎(とら)よりも猛(たけ)し」の次の項目に入れたらどうかなあ。ウウーッ、気持ちいい! 「痛くないですか」 と頭を洗っているヘルパーが聞いた。 「いや、ちっとも痛くないです。もっとゴシゴシやってください。なんだったら剣山を使ってこすってもらってもいいぐらいですよ」  目をつぶったまま答えた。  体を横向きにし背中を洗い終わると、いよいよその洗い台を浴槽の上へスライドさせる。洗い台も浴槽も金属製なので何か手をはさむ危険性があるらしく、みんな注意を促すようなかけ声をかけあいながら、ガチャガチャと金属音を響かせて、私の体を浴槽の上に移動させた。  体が洗い台ごとお湯の中に沈み始めた。浴槽はやや小さめなので、上半身を起こし膝を曲げながら入った。スイッチを押すとお湯がいっせいに泡立ちはじめた。いわゆる泡風呂というやつである。ボコボコボコボコと水面が泡立っている。「テンプラ」というのは、その様子からついた俗称だろう。  このとき私は事故後初めて自分の下半身を見た。自分の足を見て愕然とし動揺した。腿(もも)から筋肉がすっかりなくなってしまっている。骨は細くならないから、膝小僧は昔のままなのだが、腿は骨に張りのない肉がポテッと付いているという感じだ。骨のまわりに脂肪と皮がタプンとぶらさがっているとでも言ったらいいだろうか。「ヘチマのようだ」と思った。ふくらはぎはもともと太いほうではなかったから、衝撃的な変化はみられなかったが、それでもずいぶん細くなっていた。  緑色のバルーン・ストッパーは水に浮く材質でできているので、釣具の浮きのように水面でユラユラ揺れている。股間を見ると丸くちぢこまったペニスもまたバルーンの動きにつれて黒い陰毛の中でユラユラと揺れている。  腕もすっかり細くなっていた。骨に皮がへばりついているだけである。手首はまるで薄い板のように見える。  なんという変わりようだろう。わずか2カ月……。まるで玉手箱を開けた浦島太郎が、いっぺんにおじいさんになってしまったように、私も2カ月で何十年も歳をとってしまったようだった。                    ■  ハロー・ベストが取れてから、ふつうのトレーナーを着ることになった。普段着兼パジャマである。寝たきり患者の着替えというのは重労働なので、夜になったからといって、いちいちパジャマに着替えることなどしないのである。私はだから、怪我をしてから一度もパジャマを着たことがない。  肩やひじの硬縮(こうしゅく)はすでにかなり進んでいた。肩の痛みが激しく、着替えはつらかった。事故以前に着ていたLサイズのトレーナーではとうてい無理だということが分かったので、妻は新宿の伊勢丹へ行って、4Lというサイズのトレーナーを4枚ほど買ってきた。 「襟(えり)つきのものは1枚1万何千円もするから、とても買えなかったわ」 と言いながら妻が目の前にひろげた4Lのトレーナーは、とてつもなくバカデカイものに見えた。 「おれはプロレスラーか」  おかしさがこみあげてきた。  しかしそんな大きなトレーナーでも、より痛いほうの左腕からソーッと通し、頭をかぶせて、しかるのちに右腕を通した。その逆ではとても耐えられない。頭から先にかぶって腕を通すという方法も痛くてだめだ。慣れているはずの看護婦や付添いでも、たまに手順を間違えることがあり、右手から通そうとしたり、頭からかぶせようとしたりすると、私は、 「ああ、ダメダメダメ!」 と焦った声を出し、 「左手から通してください」 と言ったものだった。  次の夏が来ても、私は半袖を着ようとしなかった。病院内の元気な若者たちはランニングシャツで過ごしていた。しかし、私は細くなった腕を見るのが悲しくて、どんなに暑くても最初に買った厚地の4Lのトレーナーしか着ようとしなかった。  初めて半袖のシャツを着たのは、怪我をしてから3度めの夏である。                    ■  見たくないものはたくさんあるが、巻き爪の手術などもその一つに入る。頸髄損傷にかぎらず、歩かないと足の親指の爪の両はじが内側に巻いてきて肉にくいこみ、細菌が入って炎症をおこしやすい。医学用語でいえば嵌入爪(かんにゅうそう)によるヒョウソである。爪が肉にくいこんできても痛覚がないから、膿が出る前に発見することは難しい。  入院中にも1、2度ヒョウソの手術をしたが、見たことはなかった。しかし巻き爪は何度でもくりかえす。特に冬場は血液の循環が悪くなるせいか、ヒョウソになりやすい。  退院後は近所の外科で手術をしてもらった。最初のうちはやはり見たくなかったので車椅子をリクライニングして手術が終わるまで天井をながめていた。何度か手術をしているうちに、慣れてきたせいか、どんなことをしているのか見たくなり、思いきって手術の様子を見学してみることにした。  切開すべき足を患者用の丸い腰掛けに乗せると、ドクターはニッパーのような爪切りで爪の先端から付け根に向かってジョキジョキジョキッと切りおろしていった。足がビクビク震える。 「痛いですか」  ドクターは上目づかいに私の顔をチラリと見上げる。 「いいえ、ちっとも痛くはないんですけど、足の野郎が勝手にあばれるんですよ」  どういう神経の仕組みになっているのかは分からないのだが、痛覚がなくても反射神経が働くようだ。国リハではこの手術をする前に麻酔を打っていた。それは足があばれて手術のさまたげになるからだということらしかった。  ここの病院では麻酔は打たず、足を妻や看護婦が押さえつけ、医者が爪を縦に裂いていくのである。すると赤い血がフワーッと噴き出してくる。看護婦がすばやくそれを拭きとり、爪をはいだあとにガーゼを手際よくキュキュキュと押し込んでいく。  私の足なのだが、私の足ではない。ガラス窓の向こうの無音の風景を見るようだ。  足は巻き爪になるし、すねは細くなるし、腿には筋肉の張りもなく、腹部は腹筋が効かないから脂肪がたまって膨慢し、胸部は古いたとえだが洗濯板のようで、腕はいわゆる力こぶと呼ばれる二頭筋だけは働くからある程度は見られるものの、ひじから先は板のように細く薄く、手の指は硬縮して曲がってしまった。  手の爪もまたヒョウソになるほどではないけれども丸く巻き、なんの必要があってそうなるのか、爪の成長にひきずられるように内側の肉が盛り上がっている。つまり、ふつう爪を切るときは灰色の部分だけを切り、それ以上ピンク色のところまで切ると深爪といって痛い思いをすることになるのだが、私の場合、灰色の部分をぎりぎりまで切ると、下から盛り上がっていた肉まで切ってしまうのである。だから、慣れない人が爪を切ると血を見ることになる。このことは看護婦でも知らない人が結構いるようだ。  容姿が衰えるのは人間、歳をとれば致し方のないことなのだが、こう何もかも短期間に激変してしまうと、惨めというほかはない。  特に見たくないのは、顔。鏡を見る機会はめったにない。ベッド上で食事をするときに使うオーバー・テーブルには天板の下に小引出しがついていて、中に折りたたみ式の鏡が入っていたが、私は引出しごと取ってもらった。  どうしても自分の顔を見なければならないのは、散髪をするときである。鏡と向きあうこのときだけはどうしても自分の姿と対面せざるを得ない。  もともとなで肩だった私の肩は、筋肉を失った上に、やはり骨格も少し萎縮したらしく、散髪用のエプロンをかけられると、その傾斜が余計に強調されてしまう。髪の毛は整髪をすることがないからいつもボサボサだし、特に後頭部の髪の毛は1日24時間のうち20時間ぐらいは枕についているので寝ぐせがひどく、散髪屋はそうとう苦労するようだ。40代に入ったばかりだというのに髪の毛はもうほとんど白く、両眉毛の上にはハロー・ベストの傷跡が残り、目は落ち込んでいる。この目が特によくない。上瞼が落ち込んでいるので眠たそうで、覇気がなく、まったくの病人面である。涙が出ても拭くことができないので目尻がただれて黒くなっている。ちょうど喜劇役者がアホの役をするときのメイキャップのように……。                    ■  病院にいるころには、周り中が車椅子だったせいか、車椅子の人を見てもなんとも思わなかったけれども、自宅へ帰って来てからたまに外へ出て、そしてごく稀に車椅子の人に出会うと妙な気分になる。同病相憐むの情が湧きおこり「おお我が同士よ、あなたも大変だろうが、気持ちをしっかりもって一所懸命生きてください」などとはげましたりするようなことは決してなく、会釈をすることもない。向こうもまた同様である。これはいったいどうしたことなのだろうか。お互いに自分の醜い姿を見るような気がしてイヤなのだろうか。そんなはずはない。決してそんなはずはない。  あれはたしか私が中学生のころだった。ある日、母と一緒に外出し、電車から降りたとき、プラットホームに白い杖で足元をさぐりながら数歩あるいては柱にぶつかり、数歩あるいては線路側に寄ってしまうという有様の、この駅には不案内らしい1人の男性の盲人がいた。母はそれを見るとすぐその人に歩み寄り、二言3言ことばを交わして近くの盲人施設に行きたがっているのだということを知り、その人を駅前の交番まで導き、警察官にあとを託した。そのときの母の姿は、私の記憶に鮮烈に残っており、その出来事は障害者に対してどう接するべきかを私に教えた。  高島平に住んでいたころは、子どもの通う小学校で開かれる「ふれあい祭り」に一家そろって出かけた。これは、車椅子の人などさまざまな障害者といわゆる健常者とが交流して、障害者の実態の一端にでも触れようという趣旨の集いであった。また高島平団地では、障害者のための作業場作りを障害者自身やボランティア・グループが中心になって呼びかけていた。それに対しても私はじつにささやかなことながら出来るだけの協力は惜しまなかった。  要するに、もともと私は障害者に対する偏見も蔑視もない人間なのだということを言いたいのである。  それでは路上で車椅子の人と出会ったときの気まずさは、どう説明すればいいのだろうか。  最初私は、自分の心の揺れにいささか疾(やま)しいものを感じていた。自分の姿が見えにくいのをいいことに、障害者を蔑視しているのだろうか。自己嫌悪の影を他の障害者の上に投げかけているのだろうか……。  姿形が醜くなった上に、心まで醜くなったのでは救いようがない。いったいどういうことなのだろうかと、自問をくり返した。  そしてあるとき、ごく単純な答えを見つけた。結局これは、自分の服と似たような柄の服を着た人とすれ違ったときに感じるバツの悪さのようなものではないだろうかと。そう考えると少しだけ気持ちが楽になった。               *笑えない話*  頸損というのは頸髄損傷の略語だが、時として頸椎損傷の略語としても使われることがあるようだ。  頸椎と頸髄がどうちがうかといえば、頸椎は首の骨のことで、これは1番から7番まで7個ある(頸椎の下には胸椎12個、腰椎5個がつづいている)。頸髄は延髄から下降してきた中枢神経で、これもやはり胸髄、腰髄とつながってゆく。肝心なのは中枢神経である頸髄のほうで、極端にいえば頸椎なんか少しぐらい傷ついても頸髄のほうに傷がつかなければよいのである。もっとも、そうはいっても硬い骨が損傷するほどの圧迫が加われば、豆腐状の頸髄に傷がつかないということはまずありえないことだろう。  頸髄、胸髄、腰髄のどこを損傷しても、医学的にはすべてひっくるめて脊髄損傷という。しかし、損傷部位が上位になればなるほど麻痺の範囲も広くなるので、全身麻痺になってしまう頸損はやはり別格扱いで、「脊損ですか?」「いえ、頸損です」というような言い方をされることが多い。  人間の首は7個の骨から成っているわけだが、なんでもキリンもあんなに長い首をしていながら、頸椎は7本らしい。あれだけ首が長いと他の動物に比べて頸損になる率も高いのではないだろうか。キリンが頸損になったら、どうするのだろう。ハロー・ベストをつけるわけにもいかないし、膀胱洗浄もしてもらえぬまま草原に横たわり、水辺のカバを見ながら、 「ああ、おれもカバみたいな首だったら頸損になることもなかっただろうなあ」 と思いながら、腎不全になって死んでいくしかないのだろう。  人間の場合、頸椎の1番から3番ぐらいまでは頭蓋骨の中にはいっており、だからそこをやられるということは即死を意味する。ところが、中にはやはり例外もあって、入院中に、3番をやられたけれども下半身の麻痺だけで済んだという青年に出会った。 「おれは奇跡の生還男と呼ばれているんだよ」  眉毛が濃くて目つきの鋭い、そして手の指に少しだけイレズミをしているその青年は、車椅子の片方の車輪を持ち上げて病院の柱によりかかり、車輪の調節などしているのだった。私にはとうてい真似できない芸当である。  私は転落事故のさい、頸椎の5番と6番が前方に脱臼骨折し、つまりは4番と5番のあいだで中枢神経が切れたのだが、症状としてはC5であると言われた。これが分からない。なぜなら脊髄神経は各関節部分から左右に1対ずつ分かれ出ているわけで、4番めと5番めのあいだで損傷したならC4を損傷したことになるのではないだろうか……。  自分の誤りに気づくには数年かかった。Cというのは頸椎ではなく頸髄(Cervical Cord)の頭文字で†1、しかも頸髄はC8まであるのである。頸椎は7個なのに、なぜ頸髄はC8まであるのか、またまた分からない。よくよく調べてみると、なんとC1は第1頸椎の上から出ているではないか。これでやっと勘定が合ったことになる。  †1 Cの意味  Cはいまでは頸椎(骨)の意味として使われることが多い。                      ■  妻が急を聞いて三浦半島の金沢文庫から東京千駄木の日医大の集中治療室に駆けつけたとき、主治医から首の骨を折ったと聞かされ、その一言ですべてを悟って気を失いかけ、そばにいた人に体を支えられて転倒をまぬがれたという。有名な画家の星野富弘さんの話をテレビドラマかなにかで見て頸髄損傷のなんたるかを知っており、今後私の体がどういうものになるかを一瞬にして悟ったのである。  気を失いかけた妻に対し医者は、 「これ以上話が聞けないならご主人に会わせるわけにはいきません」 と言った。妻は気をとりなおし、 「聞きますから、なんとか会わせてください」 と懇願したという。 「ご主人は今、横隔膜だけで呼吸をしていますが、この呼吸もいつ止まるか分かりません。止まったら人工肺に切りかえます。肺炎をおこしたらあきらめてください」  私は肺炎をおこした。家族がそんな宣告を受けていることも知らなければ、自分が肺炎をおこしていることも知らされなかったのだが。  肺炎のためだろうか、ひどくタンに苦しめられた。ICUでは各ベッドの枕もとにタンを吸引する装置がついていて、患者がタンをつまらせるといつでも吸引できるようになっている。鼻から直径5ミリほどの――いや数字は正確ではないが――柔らかいプラスチックの管をさしこみ、気管にたまったタンを吸引する。  日医大のタンとりはいささか荒っぽい。ただの管ではなく、管の先端にいくすじかの切れ目をいれ、タコの足のようにしてある。それを気管にさしこんでグルグル指でねじりながら吸引すると、タコの足が遠心力でひろがり、気管の壁にへばりついたタンをこそげとって、ただ吸引するよりはずっと効果的に吸引できるという仕組みなのである。他の病院では見たことがないので、千駄木日医大の誰かが考えだした工夫かもしれない。やられる患者にとってはそうとう苦しい方法ではあるが、命を救うほうが先決だからまあ已むを得ないだろう(その後ある医師にこの話をしたところ、首をかしげられた。炎症をおこしてただでさえも傷つきやすくなっている気管に対して、そのような処置を施すだろうかというのである。なるほど言われてみれば、そのとおりだ。なにしろ無我夢中の時期の記憶のこと、自信がない)。  ともかく、医者の厳しい宣告にもかかわらず、なんとか一命だけは取りとめたのであった。  さて、横隔膜だけで呼吸をするというのは、えらく大変なことだ。第1に肺活量が激減してしまう。歌は、腹式呼吸でうたえなどと、よく音楽関係者は言うけれども、そして私も音楽の先生にそう習ったことがあるけれども、あれは大ウソである。腹式呼吸だけで歌なんかうたえやしない。  腹式呼吸だけになるとどうなるか。まず今言ったように肺活量が激減してしまうので、十分に呼吸ができない。つねに息苦しい。ちょうどその息苦しさは、風呂やプールに首まで浸ったときの、あの胸が圧迫されて存分に息が吸えないときの息苦しさによく似ている。それこそ胸一杯に空気を吸うということができないのだ。  体を立てると、呼吸が一段と苦しくなる。横隔膜の上げ下げが大変だからだ†1。酸素不足になって、あくびが出る。涙が出る。涙が出ても拭くことができない。目のふちがただれる。  息をするだけでも苦しいぐらいだから、話すとなるとさらに難しくなる。大きな声が出ない。大きい声を出そうとするとつい語気が鋭くなってしまい、よけいな誤解をまねくことになる。それに一息で喋れる語数が限られてしまう。言葉がとぎれとぎれになってしまうのだ。たとえば「ココ山岡のダイヤモンドリング」ぐらいならなんとかなるが、「天然コラーゲン20パーセント配合のドモホルンリンクル」となるともういけない。  吸うことはできても吐くことがむずかしい。呼吸のうち、吸気よりも呼気(こき)が極端に弱々しくなってしまった。息を強く吐き出すことができない。  タンを出すことができないのは、もっとも危険なことだといえるだろう。寝たきりの状態から体をおこし、機能回復訓練を始めるころが誰にとっても一番タンの分泌量が多くなる時期のようだ。そこへもってきて風邪でもひこうものなら、タンがからんでからんで仕方がない。タンが気管をふさぎ窒息しかけたことも1度や2度ではない。こういうときはみぞおち、つまりは横隔膜なのだろうが、そこを強く一気にガッと押してもらい呼気を助けてもらって「エヘン」と咳払いをする†2。  タンが気管の奥にあるときはうっとうしいだけで窒息することはないが、それが喉もとに上がってきたときが危ない。妻が、窒息して「目を白黒させている」私の口の中に指をつっこみ、緑色のタンを両手でたぐるように引きずり出してくれたことが何度かある。  咳の他にクシャミもできない。クシャミの前兆のあの鼻の奥がむずむずする感覚は健常者と同じだ。しかし「フアクショーイ!」と、隣近所にひびきわたるような豪快なクシャミはもうすることができない。フア、フア、フアっときてフアクショーイと出ることを期待していると、なんのことはない、クチュンと、まるで恋人の前で猫をかぶった女の子のような可愛いらしいクシャミしか出ないのである。 「頸損の子たちって、みんな口が達者でしょう?」 と、ある看護婦が言った。自動車やオートバイで頸損、脊損になる人が多いので、国リハには二十歳前後の男性患者が多かった。彼らはもともと生意気ざかりである上に、身ぶり手ぶりでコミュニケーションすることができないせいか、口がよけい達者になるのだろう、看護婦をからかったり、へこませたりすることが多いのだ。 「ほんとうに憎たらしいと思うときがあるのよね。だけどあのクシャミを聞くと、どんなに憎たらしい子でも、つい可愛いなと思っちゃうのよ」 「ワハハ」と大声で笑えなくなってしまったのも寂しい話だ。息を吐きだすように笑うことができず、「ヒック、ヒック」とまるでシャックリをするときのような吸気の笑いになってしまうのである。  私はもともとあたりかまわずバカ笑いするほうで、学生のころ授業中に教授から「それにしても君はよく笑うね」と、呆れられたことがある。傍若無人な笑いをたしなめられたのであった。  テレビはお笑いをもっぱらとしている。深刻そうな顔をした美男美女が泣いたり喚いたりする恋愛ドラマなどは、おかしくって見ちゃいられない。こっちがテレてしまう。                    ■  私はつぎのような文章を知り合いの写植屋さんに頼んでハガキにしてもらい、友人・知人に事故の第1報を送った。  前略 巷ではビートたけしが復活したそうですが、私はまだ見ておりません。というのもこの夏以来、毎日病院の天井ばかりながめて暮らしているからです。  首の骨を折って肩から下の感覚と自由を失い、文字どおり頭のてっぺんから足の爪先まで人様の、特に妻の手を借りなければ何もできない身となりました。  海の近くに住みたいと思って購入した金沢文庫のマンションも、どうやら手放すことになりそうです。  今後の住所は確定しておりませんが、妻子は妻の実家におりますので、何かご連絡がございましたらそちらへお願いいたします。 草々    ビートたけし云々については、若干説明を加えておく必要があるかもしれない。1986年12月に、自分の女友達に対する強引な取材に怒ったビートたけしが講談社の「フライデー」編集部に彼の「軍団」をひきつれて殴りこみ、その事件のせいで、彼はすべてのテレビ番組から降ろされてしまった。しかし、テレビ界がこの逸材を放っておくはずもなく、私の入院中、いつのまにかテレビに復帰していたのである。  それにしてもこのハガキ、内容の深刻さに比べてなんと書き出しの軽薄なことよといぶかしむ向きもあるかもしれない。生来軽薄な男なのである。眉間(みけん)にしわ寄せた深刻な文章なんかガラじゃないのである。  サラリーマン時代には「魚名雑学」と題してこんなお笑いコラムを某水産会社の社内報に連載したりもしていた。   《鰯(イワシ)は漢字じゃない  イワシの語源には2つの説がある。古代上流社会ではイヤシい魚と見なされていたので、イヤシからイワシになったという説。それと、水揚げするとすぐ死ぬし腐りやすいので、ヨワシからイワシになったという説。どちらとも決めがたい。  鰯という字があるくらいだから弱し説で問題なさそうなのだけれど、そうはいかない。というのも鰯は中国製の由緒正しい漢字ではなく、メイド・イン・ジャパンの感字(国字)で、いわば弱し説の人が造った歴史の浅い字。証拠物件として採用するには、ちと弱いのだ。   ちなみに鱚(キス)、鮗(コノシロ)、鱈(タラ)、鯰(ナマズ)なども漢字ではない。    英語でも「左鮃(ヒラメ)の右鰈(カレイ)」  鰈(カレイ)と鮃(ヒラメ)は、同じような顔をしているし、日本では鰈のほうが何十倍も獲れるせいか(だいたい50対1)、古くは鮃は鰈の一種とされていた。見分け方を俗に「左鮃の右鰈」という。体色の黒いほうを上にし、腹側を手前にして置いて、目の位置を見るのである。  英語でも両者をflounder(フラウンダー)といって一緒くたにしてしまうが、区別するときは鰈をRight-eyed(ライトアイド=右側に目のついた)flounderとかRight-handed(ライトハンディド=右ききの)flounderとかいう。ライトをレフトにすれば鮃のことだから、日英メのつけどころは同じ。  ただし例外もあって、ヌマガレイは、カレイでも目が左側についている。珍しいカレイだから歌にもなった。麻丘めぐみが唱ってたでしょう。♪ワッタシのワッタシのカレーは、左ききい……。わかるかなァ。  伊寿墨(イスズミ)かイズスミか  メジナによく似た魚に、イスズミというのがいる。語源ははっきりしないが、岩礁帯に付くところから、磯棲み、石棲みの意味ではないかといわれている。これをイズスミと呼ぶ人がいて、そう表記した本まである。小さい子が、「今日はカゼみぎだ」といったり「かだらがだるい」と言いそこまちがい(?)をするのと同じ。  こういうまちがいは、なにも小さい子だけがするものではなく、言葉にきびしいフランス人だって派手にやらかしている。チーズは型(forme)に入れてつくるところから、最初はフォルマージュ(formage)と呼ばれていたのが、いつしか o と r が引っくり返ってフロマージュ(fromage )になってしまったのである。  しかしなんといっても、言いそこまちがいテッコンキンクリート大賞第1席は、平たい大福餅を「ながまし」と呼ぶ富山・礪波(となみ)地方の人々に差し上げたい。これ、生菓子のことだっていうんだから。》 「鰯は漢字じゃない」は、連載第2回。1982年3月のことで、当時、娘が5歳、息子は2歳。文中の「かだら」とか「カゼみぎ」が、そのころのわが子の様子を反映している。  私はこのコラムを妻のために書いた時期があった。もちろん大企業の社内報に掲載するための文章だから数万人の読者のために書いているのには違いないのだが、私は心ひそかに妻を第1の読者と思い定めていた。過度のストレスでノイローゼになって沈みがちな妻を少しでも喜ばせようと、雑誌ができるとさっそく持ち帰って妻に読ませた。最初のうちは喜んでくれたけれども、ノイローゼが進行するにつれ活字を読むこともできなくなり、できあがった雑誌を渡してもページを開かないことが多くなってきたので、私もいつしか持ち帰ることをしなくなった。  このコラムを切り抜いたスクラップブックを見ると、87年6月号の第65回でストップしている。事故があったのは87年の7月である。                    ■ 「映画観たいなあ」 と向かいのベッドの友多さんが言った。病室には男の患者4人しかいなかった。院長回診や総長回診のさいにはベッドのあいだのカーテンがすべて開けられ、家族も室外に出ることになっている。ふだんカーテンで見えない顔が見えるようになり、話の内容も、男だけの、いつもとは違ったものになる。  モトクロスで頸損になった友多さんは、怪我をする前は、子どもが寝静まったあと奥さんと2人でコーヒーを飲みながら、借りてきたビデオで映画を観るのがなによりも楽しみだったというほどの、無類の映画好きである。  最後に観た映画は何かという話になった。私が最後に観た映画は何だっただろうか。「ブルース・ブラザーズ」だったかもしれない。とても元気のいい映画だったが、観たのはすでに少し気の弱っているころだったので、その元気の良さがかえって少し涙をさそったのを覚えている。 「もうこれから一生映画館へ行くこともないだろうねえ。どこにでも階段があるからさ」 と私は言った†3。車椅子は、2段以上の階段には耐えられない。  すると友多さんが、 「どうせ僕たちなんか、首から下はいらないんだから、首から上だけで生きていけるといいのにね。そうすりゃ、かあちゃんがさあ、買いものかごに僕の首だけ入れて行ってくれれば、料金も1人分ですむしなあ」 と言った。  買いものかごと聞いてすぐスーパーマーケットのポリ袋を連想した私は、「でも、あのスーパーのポリ袋だけはやめてほしいよな。あれが鼻にひっかかると息が苦しそうだもんな」と言って笑わせようと思ったが、ちょっと話がナマナマしすぎるかもしれないと考えなおした。  しばらくバカっぱなしがつづいて、友多さんが今度はナゾナゾを出した。 「3人の男が女をおそいました。1人はモモをさすり、1人はクリちゃんをさすり、1人はそれを見ながらマスをかきました。その3人がつかまってだれが一番重い刑になったでしょうか」  みんなはひとしきり考え、 「うーん、やっぱり一番気持ちのよかった奴が罪が重いんじゃないの」 「だからかいた奴が一番の重罪だろうな」 と、だいたいそこらへんに解答は落ち着いたのだが、 「答えはあってるけど、それじゃナゾナゾにならないんですよ。答えはね、モモクリ3年カキ8年」  友多さんはまったくもって人を笑わせるのが上手な人だった。  それをきっかけにみんなが自分の知っているナゾナゾを披露しはじめた。私は当時小学5年生だった娘からおそわった「明治天皇が道のまん中で何をしていたでしょうか」というナゾナゾを出した。馬に乗っていただの、立ち小便をしていただの、やはりナゾナゾの解答になっているようなものは何ひとつ出ず、だれも答えられなかった。そこで私は得意満面、 「目いじってんの」  みんなヒヤヒヤと頸損特有の笑い声で笑った。また部屋の一角から声があがった。 「ある男の人が道路のまん中で倒れていました。医者がかけつけたけれども、注射もしないで行ってしまいました。さてなぜでしょう……答えは、そこはチュウシャ禁止だったんだ」  部屋の四隅から起きる小さな笑いを聞きながら私は「その男はCの3番をやられていたんだ」と言おうとして、 「そうじゃなくてさあ……」 と言いかけたが、自分で笑ってしまって、みんな私が何を言おうとしているのか聞こうと待ちかまえているのに、私はただ顔をゆがませヒイクヒイクと言うばかりであった。  †1 座位の息苦しさ  座位をとると横隔膜の上げ下げが大変だから息苦しくなるのだろうと思っていたが、それより起立性低血圧による脳貧血のほうが主原因のようだ。その証拠に脚を挙上すると楽になる。ただし横隔膜の上げ下げはたしかに大変で、座位をとったままではすらすらしゃべることができない。これぐらい一息で話せるだろうと思って話しはじめても途中で息が切れてしまう。現在の肺活量がどれくらいなのか調べたいといつも思っているが、測る器械がない。病院にもない。小学校の保健室ならあるのだろうか。  †2 タンの出しかた  みぞおちと書いたけれども実際にはもう少し下だ。一気にガッと押してくださいと言っても、なれないひとはギューッと静かに押すからなんの効果もない。ある頸損女性がタンを出すさまをテレビで見ていたら、介助者が空中から女性の腹めがけて掌底突きをやっていた。ご本人はなんともないと言っていたが、感覚があったら耐えられないだろう。  †3 町のバリアフリー  ある映画館が障害者サービスデイをもうけ屈強な若者をそろえて館内の移動を介助しようとしたことがあった。待ちかまえていたのに車椅子は1台も来ない。町のバリアが多すぎて映画館にたどり着けなかったのだという笑い話のような記事を新聞で読んだことがある。しかし、ハートビル法の施行もあって車椅子ではいれる建物は着実にふえてきている。           *1987年のレコード大賞*  国リハでは、褥瘡が治らなければ、機能回復訓練は受けられない。それほど褥瘡というのは大問題なのである。  私の場合は日医大でできた褥瘡が比較的浅かったし、また、その次に入院した防大病院で適切な治療を受けていたので、国リハに移って数週間で完治した。  エア・マットやウォーター・マットが病院に完備されていない現在、寝たきりの患者には褥瘡がつきものである。特に口から食べ物を入れないとできやすいらしく、点滴だけで栄養を摂っている老人などは見るも無残な状態になってしまうらしい。物を食べられる若者ですら、仙骨の部分にひどい褥瘡を作るケースが多く、中には傷口が広がって内部の骨が見えるほどまでになってしまい、自分の体の他の部分の皮膚、たとえば内腿あたりから皮をはいで患部に移植している人も多かった。  褥瘡には日光浴が有効であるという。しかし、そうはいってもなかなか窓際で尻を出してそこに運よく日が当たり、窓の外を誰も通らないといったような条件は整うものではなく、褥瘡についてはいろいろ無残な話も聞いた。  ごっぽり穴の開いたようなひどい褥瘡には砂糖を詰め込んでおくといいという説があり、ある日、ガーゼをはがしたら尻の褥瘡に蟻がうじゃうじゃたかっていて、それを見た看護婦が「ギャッ」と叫んだとか、あるいはまた、豚の皮が人間の皮膚に一番近いからといわれて豚の皮の移植を受けたところ、移植した豚皮の下で褥瘡が進行してしまい、えらい目に遭ったとか……。  床擦れという言葉は以前から知ってはいたものの、こんなに重大な問題であるとは思わなかった。褥瘡ばかりを専門に研究している人もいるという話だ。  2人部屋にいたころ、となりのベッドの友多さんは褥瘡をイソジンかなにかで消毒したあと、うつぶせになって尻を出し、奥さんが患部にドライヤーの冷風をあてて乾かすことになった。試しにそういううつぶせ療法をやってみようかということになったのだが、その次にドクターが来たとき、 「うつぶせは結構効くじゃない。これはいいわ、これでいこう」 と言っているのがカーテン越しに聞こえてきた。医者でも褥瘡に関しては、いや褥瘡に限らないだろうが、治療法は手探りのようだ。 「うつぶせもいいけど、ハナが出て息がぐるじい」 と友多さんはうめいていた。胸式呼吸ができないせいかハナをかむことができず、うつぶせのスタイルになると、うまくハナをすすり上げることもできないので、鼻水が流れっぱなしになってしまうのである。  さて、入院してまもなくPTが病室にやってきた。機能回復訓練にはPT(Physical Therapyフィジカル・セラピー=理学療法)、OT( Occupational Therapy オキュペイショナル・セラピー= 作業療法)、それにST(Speaking Therapyスピーキング・セラピー=言語療法)の3つがある。STは主に脳血管障害の患者に対しておこなわれるものなので、私は受けたことがない。PTはフィジカル・セラピーの略語であると同時にフィジカル・セラピスト(理学療法師)をも意味する。つまりTは療法でもあり、療法師でもあるわけだ。どちらの意味で使っているかは、文脈で判断する。  30代半ばとおぼしい男性のPTと胸にリハビリテーション専門学院のワッペンをつけた女性の実習生がやって来た。専門学校を卒業する前に何カ月間か病院で実地訓練を受けることになっているようだ。  肺活量の検査を受けた。800tだった。成人男子の平均は3500tだから、一気に4分の1に落ちてしまったことになる。とにかく息苦しい。  入院後2週間ほどして、友多さんが2人ともどうやら4人部屋に移ることになりそうだという情報を、どこからか仕入れてきた。とても情報が早く、院内の事情に詳しいのである。 「藤川さん、窓際がいいでしょう。僕と藤川さんは窓際にしてくれるように、もう看護婦さんに予約しておきましたから」  褥瘡が治ったころ、4人部屋に移った。そこに付添いを必要とする人ばかりを集めるというのが、病院側の狙いだったようだ。 「ここはもともと職員の食堂だったところなんですよ」 と、友多さんが教えてくれた。とにかく病院の内部事情に詳しい。  褥瘡が治っても、まだ1階の訓練室には降りていかず、まずベッドにPT、OTがやってくる、いわば訪問訓練から始められた。  PTの第1課は呼吸訓練であった。大きく息を吸い込んで、なるべくほそーく息を吐き出す。これは肺活量を増やす訓練である。 「PTが来なくても自分でなるべく頻繁にやってください」 と婦長にも言われたが、ただでさえも息が苦しいのに、こんなことやって本当に効果があるのかなあという疑念も伴い、あまり一所懸命やる気にもなれなかった。  午後になると毎日のように廊下から口笛を吹く音が聞こえてきた。車椅子をこぎながら吹いているらしく、口笛はゆっくりと近づいてきて部屋の前を横切り、去っていった。車椅子をこぎながら口笛を吹くぐらいだから老人ではないだろう。女性の患者とも考えにくい、きっと若い男性患者にちがいない。 「ずいぶん、のんきな人がいるもんだね、口笛吹きながら行くなんて」  そう友多さんに話しかけると、 「いや、あれは呼吸訓練をしているんですよ」  私もそっと口笛を吹いてみた。驚いた。音が出ない。唇が乾いているのかと思って舌で湿し、思いっきり吹いてみたがやはり全然音が出なかった。口笛も吹けないほど息が弱くなってしまった。                    ■  ハロー・ベストがとれると、本格的に手足を動かす訓練が始まった。もちろん自分では動かすことができないから、PT、OTに動かしてもらうのである。作業療法といっても何ができるというわけでもないので、主に下半身の硬縮予防をPTが、腕の訓練をOTがやってくれることになった。最初はPTだけ。それも、しばらくすると実習生の女性だけがやってきた。丸い眼鏡をかけた頭の良さそうな優しい人だった。  褥瘡予防と介護の便利のため、ベッド上では下着やパジャマなどをはくということはなかった。いわゆる下腹部にバスタオルを1枚掛け、あとはタオルケットや毛布などを掛けているだけである。  その若い実習生が、膝を曲げたり、足を開いたりするときには、当然タオルケットなどははがされるわけで、ときどき見えてはならないものまで露出してしまうらしく、バスタオルを掛け直してくれた。  若くてチャーミングな女性が、自分のむきだしになった下半身に触れ、動かしてくれる。これは世間ではあまり起こりうることではない。私には何の感覚もないから、べつに嬉しくもなんともないのだけれど、そして、まあ仕方がないやとは思いながらもやはり気恥ずかしさはぬぐい去れないもので、 「どうしてこういう仕事につこうと思ったんですか」 などと、聞いてみたりした。 「小さいころ、体が弱かったものですから、そういう患者さんの役に立てればと思って……」  PTのベッド上の訓練はこんなものだった。  問題はOTのほうである。  ある朝、「こんにちは」という晴れやかな声とともに長身の女性OTが私のベッドサイドにやってきた。白いズボンに白い半袖といういでたちは、PTにもOTにも共通のユニフォームである。手の指の曲げ伸ばしからひじの曲げ伸ばし、そして肩の硬縮をほぐす運動へと移っていく。末梢から中枢へというのがマッサージなどの基本であるという。指には何の感覚もなかったが、曲げ伸ばしにもまだ特段の支障はないようだった。ひじはすでに硬縮しており、十分に曲げることができなくなっていた。もちろん、まだ自分の力では曲げることができない。人に曲げてもらっても、ある角度までくるとそれ以上は曲がらないのである。  つらいのは肩である。2カ月動かさなかっただけで、もう完全に硬縮していた。ハロー・ベストを付けているあいだは、腕を肩の位置まで、つまり体に対して90度の位置まで上げることはできるが、それ以上はハロー・ベストが邪魔して上げることができない。それにまた肩の位置以上に腕を上げると、固定している頸椎に影響が出るので、それをしてはならないという話だった。  腕を頭上に持っていくことができない。万歳の姿勢をすることができないのである。目標は手をベッド後方の壁に届かせることだった。激痛だった。OTに腕を持ち上げられると肩の関節がギリギリと音をたてるようにロックされて、それ以上あげることはできない。それを無理やり上げようというのである。  私は歯を食いしばって痛みに堪えたが、とても目を開けていることができず、目も食いしばって痛みに堪えた。あまりの痛みに、食いしばった目から涙がビュウッとほとばしり出るほどだった。「目を食いしばる」というのも妙な表現だが、固くつぶるというそんな生易しいつぶり方ではなかったのだ。  しかし、それにしても、あんなに痛かったのは、若いころに痔瘻(じろう)の手術をして以来のことだ。27歳のときに、市ヶ谷の痔専門の病院で痔瘻の手術をした。今はもうそういう方法はとっていないようだが、当時は患部をえぐりとったのち、「悪い肉が付かないように」風呂場で腰掛けに手をついてよつんばいになったところを、こすり専門のばあさんというのがいて指にガーゼを巻き付け、その傷口をこするのだった。これも痛かった。いや、じつに痛かった。今後の人生において交通事故にでも遭わない限り、こんな痛さを経験することはあるまいとそのときは思ったものだ。ところが、この硬縮した肩をほぐす訓練は、それを超えていた。  私は、腕のつけ根の骨が何か固まったようになってしまって動かないのだと思っていたが、のちに得た知識では肩ほど複雑微妙な動きをする関節は他になく、肩甲骨や鎖骨、肩関節の軟部組織、それに大胸筋その他の筋肉すべてが肩の動きに連動しているのだった。そのすべてを2カ月も動かさないでいたのだから、その激痛たるやまことに筆舌に尽くしがたいものがあった。筆舌に尽くしがたいなどという紋切り型の表現でいってしまったのでは痛みに対して申し訳がたたないほどである。  主治医に、「どうしてこんなに肩が痛いんでしょうか」と尋ねたら、 「人間というのは長く寝ているとどういうわけか肩が痛くなるもんなのよ」  いともあっさりと一言でかたづけてくれた。  私があまり痛がるものだから、主治医はレントゲンを撮り、そして「カコツができている」と私に告げた。カコツは化骨と書く。動かない筋肉を無理に動かすと筋肉中にカルシウム分が集積して小さな骨のような物ができるのだという。レントゲン写真も見せてもらったが、どれが化骨なのか私には分からなかった。化骨が発見されてからは、あまり無理に腕を動かさないようにという指示が療法師に対して出された。それと同時に、化骨を溶かす薬というのを飲むことになった。 「これは劇薬ですから、あまり長期にわたっては飲めません。3カ月飲んで様子を見てみましょう」  3カ月後、再びレントゲンを撮った。化骨はなくなっていなかった。なんでもまだテスト中の薬だというような話だったので、そんな恐ろしい薬を3カ月も飲み続けて、何も効果がないなんて残念だと言ったら、主治医は、 「これを飲んでいたから化骨が増えなかったということもできるんじゃない?」 と軽くのたもうた。医者たるものこれぐらいの度胸がなければならない。  ちょうど私が肩の痛みに苦しんでいるそのころ、巨人軍の江川卓投手が引退を発表した。肩が痛くてもうこれ以上投げられないという声がラジオから聞こえてきた。何か他に理由があるのではないかという噂も流れているようだった。球界入り当初から評判のよくない選手だっただけに、おそらくスポーツ新聞などはあることないこと書きたてているにちがいないと思った。  私はもともと野球には興味もないし、政治家の秘書を使った姑息な手段で巨人軍入りした江川投手になんら好感など抱いてはいなかったけれど、彼の引退理由だけは真実に違いないと思った。肩が痛い、それだけで十分じゃないか。痛みを知らない奴が勝手なことを憶測で書いたり喋ったりしているだけなのだ。                    ■  あれはもうだいぶ秋も深まったころのことだ。日曜日の午前中だったろうか。いつもの訓練もなく、部屋でみんなが雑談をしていて、話が中国残留孤児のことに及んだ。国リハの近所に残留孤児の一時的な宿泊所のようなものがあって、そこの孤児たちが国リハの庭にときどき散歩に来るというようなそんな話から始まって、 「あの人たちは、育ての親を捨ててまで日本に帰りたいのだろうか」 と誰かが言いだした。私に付いていた付添い婦が、 「私はあの人たちは甘えていると思うわ」 と言ったのを覚えている。  私はその話題に参加しなかった。内容が不愉快な方向に流れていたせいもあるが、その日は朝から呼吸が苦しく、次第に呼吸困難に加えて体の震えが強まってきていた。「痙性」の大波が押し寄せてきたのである。首から肩にかけての筋肉がこわばってきて背中の筋肉がギュッと縮まり、両腕の付け根が引き絞られるように痛くなると同時に、歯がガチガチいい始めた。  苦しさに耐えることには慣れていたし、私はもう一生こういう体なのだから、少しくらいの苦痛は我慢しなければならないと覚悟を決めていたけれども、いっこうに治まる気配がなく、ますます顎の震えがひどくなり呼吸が困難になってきたので、付添いに、 「気分が悪いので、看護婦さんを呼んでください」 と頼んだ。  看護婦が来たころには苦しさは最高潮に達していた。目をあけていられなくなり顎を出してあえぎながら震えているところにやってきたのは、高井さんという背の低い若い看護婦だった。人間あまりにも肉体的苦痛が強くなると精神も弱くなってしまうらしく、私はもうすっかりだらしなくなってしまっていた。  肩に手を当てられ、 「大丈夫? 大丈夫? どうしたの? どういうふうに苦しいの?」 とやさしく聞かれた途端に涙が溢れ出た。 「苦しくて、苦しくて、これ以上耐えられません。もう楽にしてください」  高井さんは、すっとんでドクターを呼びに行った。  その日の当直医は東大出の若いドクターだった。あえいでいる私の様子をしばらく診察すると、看護婦に「セルシン何ミリグラム注射」と一言いって、すばやく出て行った。  注射をして2、30分もすると、震えがおさまり、呼吸もだいぶ楽になった。私が高井さんに「もう楽にしてください」と言ったのは、そういう意味ではなかったのだが……。しかし、実際楽になったのだから、 「ま、いいか」 と思うことにした†1。                    ■  国リハに移ってからは、大声で看護婦を呼ぶ必要がなくなった。昼間は妻が付き添い、夜間は付添い婦がついてくれたからだ。しかし、日医大や防大病院にいたときには大声を出していたのに、国リハに移ってからはとんとそういう機会がなくなってしまったので、少し心配になってきた。 「このままもう、大きな声を出すことができなくなってしまうのではないだろうか……」  婦長からはことあるごとに、肩の上下運動と大きく息を吸って細く出す呼吸訓練、それと、ベッドを立てて上半身をなるべく起こす上半身起立運動を勧められていたから、呼吸訓練を兼ねて歌をうたってみようと思いついた。だけどまさか病室でバカ声を張りあげるわけにもいかないので、庭に出て、周りに人がいないところを選んでうたってみようと計画した。  まず歌集がいる。歌集は妻が中野の書店で買ってきた。『ヒット曲と愛唱歌集』(梧桐書院刊)というタイトルのこの本は、奥付によれば昭和62年9月発行である。出たばかりだ。見ると、意外に新しい歌が収録されている。発行ぎりぎりまで最新の歌を収録しようと苦心したにちがいない。これからはやりそうだと思われる歌に目星をつけて収録している節もうかがわれた。それになんといっても感心したのは、この本がカセットテープのケースと同じサイズに仕上げられている点である。担当編集者が「この工夫にどれほどの人が気づいてくれるだろうか。分かんないだろうな。でもいいんだ。分かんなくてもいいんだ」とブツブツつぶやきながら、ひとり深夜残業をしている情景が目に浮かんだ。  発行所の梧桐書院というのがどれほどの規模の出版社かは知らないが、この道はこの道でけなげにやっておるのだなと、久しぶりに見た本だったせいか、本づくりが懐かしく、少し感慨深いものがあった。  ある日の午後、ストレッチャーに乗せてもらって、妻と2人で庭に出た。空が青かった。国リハの庭は広大で、もともと米軍基地のあとに建てられたものなので、竣工当時にはまだ自然が残っていて、野兎が跳びはねていたという。庭は単に広いばかりでなく、車椅子で通りやすいように通路が舗装されており、また訓練にもなるよう緩急の起伏がつけられていた。ところどころに砂利道や電車の線路などがあるのは、これは車椅子でそういう難関を渡る訓練のためのものである。  庭の中ほどに池がある。それほど大きな池ではないが、カルガモが来てヒナを育てるという。それを聞いて、毎年話題になる大手町の三井物産のカルガモを思い出した。カルガモというやつは、水とエサさえあればどこにでも卵を産むたくましい鳥のようだ。  池には大きな鯉が何匹もいるということだったが、ストレッチャーに乗って上を向いている私には見えなかった。池のほとりに大きな藤棚がしつらえられており、藤棚の下にはベンチがいくつかとゴミかごが置いてあった。緊急用のブザーもところどころに設置されており、なかなか配慮の行き届いたいい庭である。  私たちは藤棚の下へ行った。花はもちろん咲いていない。私の顔の上は藤の葉で埋め尽くされていた。2人で歌詞を見るためにストレッチャーの上半身を少し上げてもらい、どれをうたおうかと目次を眺めた。なかなか曲は決まらなかった。あまりテンポの早い曲では無理だし、あまり古い歌も年寄りくさい。迷ったあげく荒木一郎の「空に星があるように」をうたうことにした。これは大学受験のころ旺文社のラジオ講座の前に放送されていた番組のテーマソングだから、2人ともよく知っていたし、好きな曲だった。   空に星があるように   浜辺に砂があるように   僕の心にたったひとつの   小さな夢が ありました  何小節かうたっているうちに、思いがけないことが起こった。喉の奥にゴクリと丸い固 まりができたのである。なんだなんだ、これはどうしたことだ……。私は自分の声に驚いたのである。久しぶりに聞く己の大きな声におののいてしまったのである。必死になって先をうたおうとしたけれども、堪えきれずに泣きだしてしまった。  妻もつられて泣きだした。 「どうしたの、どうして泣くの」 と、妻が聞いた。 「分からないよ、どうしてだか分からないよ」 「私も分かんない、何がなんだか分からない。何が起こったんだか分からない。どうしてこんなことになっちゃったの」  2人でひとしきり泣いたあと、気をとり直してべつの歌をうたうことにした。 「今の歌はちょっと思い出のある曲だから、まずかったな。もっと景気のいい歌にしようか」パラパラめくって、朝丘雪路の「雨がやんだら」に決めた。これなら比較的リズム感がある。   雨がやんだら お別れなのね   二人の思い出 水に流して   二度と開けない 南の窓に   ブルーのカーテン 引きましょう   濡れたコートで濡れた体で あなたは   あなたは 誰に誰に逢いに行くのかしら   雨がやんだら 私はひとり   ドアにもたれて泪(なみだ)にむせぶ  ところがこれも、「雨がやんだら 私はひとり」という歌詞のところへきて、また喉が詰まってしまった。妻の悲しみを想い重ねたのである。 「こりゃだめだわ。今日はもうこれぐらいにしておこう。また今度うたいに来よう」  2人は人けのない庭園を抜けて、病棟の前の通路を戻っていった。空は黒いほど青く、傾きかけた太陽に照らされて、ザクロの真っ赤な花がくっきりと青空に浮かび上がっていた。  私はもともと、歌謡曲など聞いてもべつになんの感慨ももよおさない男だった。  友多さんは、テープレコーダーで「乾杯」という曲をよく聞いていた。結婚式に合いそうな曲である。4月に怪我をし、そのため5月に予定されていた妹さんの結婚式が延期になったと言っていたから、ひょっとしたらあれは妹さんの結婚式でうたうために練習していた曲なのかもしれない。  私はラジカセでビバルディの「四季」と、ジャズピアノ名曲選、それにサイモン&ガーファンクルの3つを交互に聞いていた。「四季」はとかく陰気になりがちな病室の空気を少しでも軽快にするため。ジャズは、一番好きなジャンルだったから。サイモン&ガーファンクルは、なにしろ結婚披露宴の新郎新婦入場行進曲に「明日に架ける橋」(Bridge Over Troubled Water)を使ったくらい好きだったのである。 「歌謡曲には興味がないんですか」 と、友多さんに聞かれたので、 「いやあ、どうもね。日本の歌謡曲って、歌詞がくだらないから」  言い終わらぬうちに、シマッタ、まずいことを言ってしまったと気がついたが、覆水(ふくすい)盆に返らずとはこのことである。とかく軽はずみな発言で人の心を傷つける自分の欠点に気づいてはいるのだが。  それにしてもやはり、日本の歌謡曲よりサイモン&ガーファンクルのほうがずっと上等のような気がする。たとえば、Old Friendsという曲はこんなふうに始まる。1960年代後半に作られたものだと思う。  Old friends,  Old friends  Sat on their park bench  Like bookends.  うまい。単純にして的確な比喩(ひゆ)。表現方法がすぐれているだけではない。このあとには、公園のベンチで冬の日没を待つ老人たちの孤独と寂寥(せきりょう)がやわらかく乾いた言葉で心ににじみ入るようにうたい上げられていくのである。同時代の日本にこれと同じ水準の歌があっただろうか。20年たった今でも、心もとない気がする。  ――と、そんなふうに考えていたのだが、ある日また、思いがけないことが起こった。  ラジオから橋幸夫と吉永小百合のうたう「いつでも夢を」が流れてきたときのことだった。何気なく聞いていたのである。自分でダイヤルを回すことができないから、つけたらつけっぱなしでいつもTBSを聞いていた。   星よりひそかに   雨よりやさしく   あの娘はいつも歌ってる   声がきこえる   淋しい胸に   涙に濡れたこの胸に  この「声がきこえる/淋しい胸に/涙に濡れたこの胸に」というところまで来たとき、不意に涙が溢れた。これはいかんと思った。いかんとは思ったけれども、とめどなく涙がこぼれてしまう。涙はそのまま耳に流れ込んだ。「いかん」というのは、自分で拭くことができないので、泣いているところなど人に見られたら恥ずかしいからである。  涙の水位は、いつも喉元の上限にまで達していた。少しでも胸をゆさぶられると、またたくまに溢れ出してしまうのである。  心が弱っていると歌謡曲が心にしみるものだということを、そのとき初めて発見した。  私立の病院だと、病室に百円玉を入れて見る貸しテレビが置いてあるが、国リハにはそれがなく、自分のテレビを持ち込むことも禁止されていた。「テレビが見たければ、デイ・ルームまで車椅子に乗って見に行きなさい」というのが病院の方針だった。リハビリ病院だからなるほど理に適った方針である。  患者がある場所からべつの場所へ移動すること、たとえば、ベッドから車椅子に乗り移ることなどをトランスファーという。自分でトランスファーできない者は他人の手をわずらわさなければならないので、なかなか気軽にデイ・ルームへおもむくことはできない。特に私の場合はトランスファーするのに上半身担当と下半身担当の最低2人の人間が必要だったので、テレビを見ることはまずできなかった。だから、だいたいラジオを聞いていた。  ラジオからは毎日のように瀬川瑛子の「命くれない」が流れてきた。   生まれる前から 結ばれていた   そんな気がする 紅の糸   だから死ぬまで ふたりは一緒   「あなた」「おまえ」 夫婦みち   命くれない 命くれない ふたりづれ  光GENJIという少年のグループが、ローラースケートに乗って走り回りながらうたっているという話だったが、テレビを見ないからどんな様子なのかさっぱり分からなかった。中森明菜が歌詞も聞きとれないほど暗い声でうたう「難破船」も印象に残っている。しかし、とにかく87年の秋は「命くれない」がひっきりなしにかかっていた。  12月になった。世間ではもうそろそろ忘年会の季節だ。会社勤めをしているころは、接待の忘年会や会社の忘年会などでときどきカラオケをやったものだ。会社の忘年会では、シメに「喜びも悲しみも幾年月」をうたうとこれが盛り上がってなかなかよかった。若い者がマイクのまわりに集まり、1人が歌詞カードの次の小節を読み上げながら、「おいら岬の灯台守は 妻と2人で沖行く船の」と腕を斜めに振り上げながら、目一杯最後のバカ声を出してうたうのである。  4階病棟でもクリスマス会をやることになった。 「各病室ごとに出し物を考えてください」 と、看護婦の高井さんがふれて回った。どうやらクリスマス会の幹事らしい。何にしようかと病室の者で話し合ったが、なかなかいい知恵は浮かばない。『寝たきり患者のオモシロ宴会芸』という本はないものだろうか。  友多さんが、 「それじゃあ、小野さんに水戸黄門の格好をしてもらって、ぼくがパッとお尻をまくったら『見ろコーモン』と見得を切るっていうのは……」 と言いかけたが、小野のじいちゃんは、 「やだよ、そんなの」  一蹴した。もちろん冗談である。まあ、歌でもうたうしかないかなと話しているところへ、高井さんがやってきて、 「ほかの部屋ではみんなカラオケの練習をしてるわよ、『命くれない』とか」  私は高井さんに言った。 「高井さん、それじゃあね、みんなが『命くれない』をうたってたらね、こういうふうにうたうように各部屋に伝達しておいてください」 「なあに」 「あのね、サビのところの“命くれない……”というところへ来たらね、すかさず“あげない”って叫ぶんです」 「命あげないねえ、なるほど。じゃあみんなに言っとくわ」  年末年始は、外泊退院といって自宅に戻れる患者は極力戻ることになっていた。だから病院の中はガランとしてしまう。付添い婦さんもこの時期には確保することが難しいので、妻が泊まり込んだ。  病院は9時消灯が原則だが、大晦日だけは12時まで起きていてよろしいという伝統があるらしかった。紅白歌合戦は遅すぎて無理だけれど、9時で終わるレコード大賞ぐらいは見たい。ベッドごと病室の外へ出た。デイ・ルームのテレビでは若者たちがべつの番組を見ていた。1階の受付に大きなテレビがある。  暖房の切れただだっぴろいロビーのテレビの前には数人の先客がいた。煌々(こうこう)とついている蛍光灯が、かえって寒々しい。北海道から足の手術をしに来ている小学校6年生の女の子とその母親、それにおじいさんが1人、運よくレコード大賞を見ていた。私もベッドを少し起こしてもらい、しばらく見ていると、五木ひろしがパンチパーマで膨らんだような見慣れない頭をして出てきた。 「なんじゃこの頭は」 と言うと、女の子がクスリと笑った。  結局その年のレコード大賞は、近藤真彦の「愚か者」と決まった。しかし、それは今度調べてみて分かったことであり、私はてっきり「命くれない」だとばかり思い込んでいた。  †1 痙攣の原因  痙攣の原因はいくつかある。もっともつらいのは発熱前の悪寒。腎盂腎炎の40度近い発熱のさいにはふるえもひどく、息も絶え絶えになる。このさき死ぬまでにあと何回こんな思いをしなくてはならないのだろうかと思う。熱が上がりきってしまえばふるえはおさまる。寒さによるふるえも案外多い。自分で寒さを自覚しないまま体が冷えていることがあるので要注意。              *OT室で本の講釈*  国リハでは初め2人部屋に入ったが、しばらくして同室の友多さんとともに4人部屋に移動した。窓際のベッドだった。これは非常に有利な位置なのである。なんといっても窓の開閉をする優先権が与えられるのが嬉しい。冬になればスチーム栓の開閉の優先権がやはり与えられることになるだろう。  ある朝、窓を開けてもらうと、一陣の風がやわらかく舞い込んできた。夏は終りかけていた。風には、草木の匂いが含まれていた。かすかな匂いである。私はもともと鼻中隔彎曲症(びちゅうかくわんきょくしょう)で、肥厚性鼻炎で、慢性鼻炎だったから、それまでほとんど嗅覚というものがなかったのだが、事故後何の加減か嗅覚が鋭敏になった。 「あ、緑の匂いがする」 と、私は誰にともなくつぶやいた。 「そう?」 と言って付添いさんが風の匂いをしばらくかいで、 「ほんとね」 と相づちを打ったが、これはおそらく話を合わせただけのことなのだろうと私は思った。  きっとこの病棟は、野球場の外野席のようなゆるい斜面をのぼりきった所に建っているにちがいない。その坂にはやわらかい夏の草がたくさん生えていて、そこを吹き上げてくる風が緑の匂いを運んでくるのだと想像した。が、後になって外に出てみると全然そんな風景ではなく、ただの平地にコンクリートの病棟が建っているだけだった。ただ、所沢というところは空気がきれいで、国リハのまわりも植木とはいえ樹木がたくさんあったので、久しぶりに外の匂いをかいだ私の鼻には、そして嗅覚の復活した私の鼻には、樹木の発する生気が感じ取れたのである。  友多さんとは向かい合わせのベッドになったので、2人部屋にいるときよりも話す機会が多くなった。隣り合わせだとどうしてもカーテンで仕切られているので、距離は近くてもそれほど話しやすい状況とはいえないのである。やはり相手の顔が見えないとなかなか話しづらいものだ。  私はまだベッドの上半身を上げるのがつらくて水平になっていることが多く、ということは、車椅子でやって来た他の部屋の患者ともなかなかうまく話ができないのだったが、友多さんは、ある程度ベッドを起こしても話ができるし、またその話がおもしろかったので、いろんな患者が集まってきた。看護婦にしても、むっつりした患者より話上手な患者のほうが好きらしく、友多さんのところでは長々としゃべっているのに、私のところへ回ってくると事務的に様子を聞くだけで、さっさと次のベッドへ行ってしまうように感じられた。とかく病人はひがみやすい。  友多夫妻は30歳前後。奥さんの由美子さんは小柄で元気な人だった。ベッドに横づけしたストレッチャーにご主人をひとりで移してしまうのには驚いた。  それはひとつには、友多さんが両腕を引っ張られても大丈夫なほど腕の筋肉が働いているせいでもあった。私はまだ全然といっていいほど二頭筋も回復していなかったので、少しでも腕を引っ張られると抜けそうな気がして怖く、痛みも走ったから、とても腕など引っ張られてはかなわなかった。  友多さんは沖縄出身で、高校を卒業してから東京に出てきたという。私たち夫婦も沖縄が好きで、一度、竹富・石垣・西表と回ったことがあったので、沖縄の話を聞くのはとても楽しかった。友多さんはじつに話の上手な人で、子どものころの貧乏話や、複雑な家庭内の、語りようによっては悲劇的になってしまうような話を、おもしろおかしくして笑わせてくれた。  似た者夫婦というのか、由美子さんもまたさっぱりした気性の、機転のきく人だった。ある日、ベッドの足元を横切った由美子さんの肩に、何か赤いアクセサリーがついていた。首を上げてよく見ると、それは輪っかのついた赤い洗濯ばさみだった。ご主人の灰色のトレーナーを着ていたのだが、袖が長すぎるので肩のところで少したくしあげて、それを洗濯ばさみでとめているのだった。  どこの病院でも、患者が病室内に持ち込む私物の量を極力制限したがる。しかし、患者にとってはそこが生活の場であるから、長く入院しているとどうしても品物が増えてしまう。まして付添いがつけば2人分の荷物になってしまう。だから、由美子さんはご主人のトレーナーを借用していたわけだが、その赤い洗濯ばさみは実用的でもあり、またかわいらしいアクセサリーにもなっていたので、そのアイデアとセンスの良さに感心した。  何の話からだったか、あるとき、由美子さんが神保町の書泉に勤めていたということを小耳にはさんだ。 「えっ、書泉に? 書泉ってあの大きな本屋さんでしょ? そう、あそこおれよく行ったんだよね」  私は10年ばかり都営三田線を使って高島平から大手町まで通勤していたので、大手町の隣駅である神保町には、土曜日の午後などによく出かけたものなのである。古本屋を軒並みあてもなく冷やかしてまわるのも面白かったが、書泉で新刊書を買うことのほうが多かった。神保町には、何十軒もの古本屋の他に、三省堂書店や書泉グランデや冨山房(ふざんぼう)、東京堂書店といった大きな新刊書の店もあった。  話は少しそれるけれども、なぜあそこを“神田の古本屋街”というのだろう。大学に入ったころ、地方から来た友だちが、神田の古本屋街が有名だというので、国鉄の神田駅で降りて歩き回ったけど、古本屋なんか1軒もなかったと笑っていたのを思い出す。たしかに神田駅と神保町とはずいぶん離れている。お茶の水の古本屋街といったほうが分かりやすいと思うのだ……。 「じゃあ、書泉だったら、斜め前の“ランチョン”っていうビアホール知ってる?」 「いいえ、知りません」 「そうか、じゃあビールなんか飲まないんだね」 「ええ、お酒はあんまり」 「それじゃあね、神保町の駅の横にある“さぼうる”っていう喫茶店知ってる? あの山小屋風に作った木造の喫茶店」 「いいえ、それも……」 「そうかあ、知りませんか。ううん、それじゃ、“響(ひびき)”なんていうジャズ喫茶も当然知りませんよね」  行きつけの本屋を1巡して1、2冊の本を手にすると、私はランチョンの窓辺の席に坐って、黒ビールを飲みながら買ったばかりの本をピラリピラリと繰るのが楽しみだった。黒ビールは普通の生ビールより50円高かった。1、2杯飲むといい心持ちになって、そのままランチョンの斜め裏手にある響へ行くことも多かった。ここは、ジャズ喫茶というと薄汚いのを売りものにしていたような時代にすでにこざっぱりとした内装にしており、妙に薄暗くないのがよくて、マスターも気のいい人で値段も安く、店内は学生や若いサラリーマンでいつも混みあっていた。 「書泉にはしょっちゅう行ったんですよ、会ってたかもしれませんね」 「でも私は地下のコミック売り場だったから……」 「そうか、地下には1、2度しか行ったことがないな」  埼玉県の所沢というなんだかとんでもない田舎に来てしまって、まわりに誰1人知った人もおらず、さみしいような気持ちがしていた私は、神保町に勤めていた、それも行きつけの書店に勤めていたという人に出会って、じんわりと嬉しくなった。                    ■  ハロー・ベストが取れ、PT、OTがベッドサイドまで来て訓練をしてくれるといういわば訪問訓練も終わると、次にはちゃんとズボンを履いてストレッチャーに乗り、いよいよ1階のPT室やOT室に出かけて行くことになった。しかし横になっているのは同じことだから、することも同じで、OT室では、主にひじや肩の曲げ伸ばしをやってもらった。  いつものように担当のOTが私の左ひじをギュウッと曲げているときだった。私のひじは両方ともどういうわけか曲がりが悪くなっていた。90度以上曲がらない。それがその日は手首が肩につくような方向に曲げる訓練をしていたところ、いきなりメリメリッとひじが音をたてた。私は痛くはなかったけれどもさすがにびっくりし、ひじを曲げていたOTはもっとびっくりし、あわてて冷湿布をしながら、 「腫れてきたり熱をもってきたりしたらすぐドクターに連絡をするように」 と言った。幸いなことになんの症状も現われず、かえってそれ以来左ひじは正常に曲がるようになった。あれはなんだったんだろうか。  ストレッチャーで訓練室へ下りていく期間がしばらく続き、ある日、いよいよ車椅子に乗ることになった。このときのことは忘れられない。たしか午前中のことだった。看護婦2人と婦長がやって来た。  私をベッドから車椅子へトランスファーするのは、容易なことではない。ふつう全身麻痺の人間をトランスファーするには、介護者の1人が背後にまわり、脇の下から手を入れて、患者の胸の前で手を組んで上半身を持ち上げ、もう1人の介護者が膝の裏あたりを抱えて「いっせいの、せ」で動かす。私は肩が激烈に痛んだので、とてもその方法はとれず、腹に“命綱”と称する木綿の細長い帯を巻いて、その帯をつかんでトランスファーしてもらった。  まずベッドの上に看護婦が1人上がり、命綱をつかんで上体を起こした。視点が90度変わるわけである。目まぐるしい風景の変化とともに、たとえようもない息苦しさが襲ってくる。もちろん、それまでにもベッドを起こせば気分が悪くなることは経験ずみだったので、こんなことぐらいで苦しさを訴えるわけにはいかない。そのまま我慢して初めての車椅子へのトランスファーを緊張しながら待ち構え、かけ声とともに車椅子に移った。息苦しさが一段とつのり、まわりの風景が薄暗くなってきたかと思うと、そのまま私は気を失ってしまった。初めての失神である。  そのときの様子を妻に聞くと――。 「あなたが車椅子に移ったので、私はベッドの回りを片付けていたのね。そうしたら、いきなり看護婦さんが車椅子を斜め後ろに倒して、もう1人の看護婦さんがあなたの足をかかえ上げるじゃない。おまけに婦長さんが白目をむいているあなたのほっぺたを叩きながら、名前を呼んでいるので、何事かと思って、びっくりしちゃったわよ」  ふっと呼び声に気づくと、何人もの人が私の顔をのぞき込んでいた。 「あれ、気絶しちゃったんですか? 何秒ぐらいでした?」 「2、3秒ですよ」  まだハッキリと目の中に風景が戻ってこないぼんやりした状態のまま、そんな会話を交わしたのを覚えている。これが私の失神事始めで、難しくいうと「起立性低血圧」というのだが、長く寝ている患者が立ち上がったときにはよく起こる現象なのである。要するに、足のほうに下がった血が、頭のほうにうまく戻ってこない脳貧血の状態である。  頸損の患者は車椅子に坐ると、この脳貧血の上に呼吸困難も加わる。横隔膜だけで息をしているので、その上げ下げがたいへんになるのである。私の場合、このダブルパンチにさらに、異常な発汗が加わった。どういうわけか車椅子に乗ると、暑くもないのに冷や汗が頭から顔からダラダラ流れるのだ。鳥肌が立つようなゾクゾクした気味の悪い発汗で、とてもスポーツをした後の心地よい汗とは比べものにならない、不快極まりないものである。  そのころペニスから通していたバルーン・カテーテルを無視するかのように、尿が本来の尿道から出たがって失禁してしまうことがあったが、こんなときにも、同じような不快感とともに汗が吹き出た。排便のときにも、同じ寒けと発汗現象が起こる。正常な排尿・排便感覚が失われ、それにとってかわってこんな不快な感覚に見舞われるのである。これは、医学的には過反射(自律神経過緊張反射)†1というようだ。それにしても以前は何気なくおこなっていた排泄には、得もいわれぬ快感が伴っていたのだということに、それを失った今、改めて気づくのである。  貧血のひどい私のためにリクライニングできる車椅子が用意された。新品のように見えた。私のためにわざわざ新しく購入してくれたのかもしれない。ただ、この車椅子にもリクライニングするとひじが車輪にあたるという難点があった。それに気がついたのは、月1回病院に出張してくる床屋で頭を刈ってもらったあとのことだった。急いで順番を取るために、リクライニングしたまま車椅子を押してもらって床屋のいる洗面所へ向かったときにこすったのだろう、そのときは全然気がつかなかったが、病室に戻ってずいぶん経ってから、左ひじのトレーナーに血がにじんでいるのを発見した。傷の状態から見ると、そのときこすったとしか思えない。  痛覚がないというのは思いのほか危険なことだ。頸損でも多少動ける人は、車椅子で自動販売機まで行って、缶コーヒーなどを買うことができる。コインを投入するのも難しいが、落ちてきた缶を取り出すのも容易なことではない。指が動かないから、取り出し口に出てきた缶を両方の手のひらではさむようにして膝の上に置いたりするのだが、缶コーヒーというのは意外に熱いものだから、本当ならハンカチなどで包まないといけないのに、その熱さが分からないために火傷(やけど)をしてしまうことになる。あるいは熱湯を注いだカップラーメンの容器を膝の上に置いて車椅子をこいでいるうちに、お湯がこぼれたことに気づかず火傷するという事故も、しばしば起こるようだった†2。  †1 冷や汗  冷や汗ほどいやなものはない。顔と頭に鳥肌が立ったかと思うまもなくその部分に汗が噴き出し、ついで鼓動が大きくなる。一時的なもので収まればいいが、さらに鼓動に合わせて目の前が点滅をはじめ、激しい頭痛へとなだれ込むことがある。血圧を下げる必要がある。  過反射の冷や汗は、感覚を脳に伝えられない肉体の発する唯一の危険信号だ。原因を突き止めなければならない。膀胱、腸もしくは褥瘡が主な原因だが、どうしても原因が分からないことがある。  今はもうすわっているだけで冷や汗が出るというようなことはない。受傷まもなくかいたのは、体が座位を苦しがったのだろう。  †2 風呂の自動保温に注意  最近の浴槽は便利になっている。「自動保温」を押すだけで湯量も湯温も調節してくれる。ところがこれを消さずに浸かっていると、湯温が下がって自動的に熱いお湯が出てくることがある。知らないうちに大やけどを負うことがあるから、かならず自動保温を消してからはいるようにしたい。                      ■  車椅子に乗って体をタテにすると、それまで天井しか見えなかった視界が一気に広がり、病院内の様子もだいぶ分かるようになってきた。  1階にはPT訓練室とOT訓練室が廊下をはさんで設けられていた。日本1のリハビリ施設といわれるだけあって、広大なものである。大ざっぱにいえば、体育館の中央に幅の広い廊下を1本通し、北側がPT、南側がOTという配置になっている。そんな感じだろうか。  PT訓練室と廊下とは、特別な電気治療器を置いた部屋を除けば壁で仕切られることなく開放されている。柱に取りつけられた大きなスピーカーからは、FM横浜がいつも流れていた(若者向けの洋風ガシャガシャ音楽中心の局で、あいだにはさまれるアナウンスも英語が多かった。要するにハイカラなのである。もっとも交通情報だけは日本語だというのは、どーゆーワケなんでしょ)。おかしなことにその次に移った潤和病院でも、PT訓練室にはやはりFM横浜が流れていた。これは、海のない埼玉県の人々の横浜に対する憧れのあらわれではないかと感じられた。  車椅子でOT室に出向いて最初におこなった訓練が何だったのか、とにかく苦しい上に緊張しており、さらにそういうことを気取られぬよう何気なく振る舞っているように見せることで精一杯だったから、よく覚えていない。  口にくわえたスティックでひらがなのタイプライターを打つという訓練を1度だけしたことがある。私は首だけ動かして、必死になってキーを押した。打った文はこうである。 〈こんなことばかばかしくてやってらんねえよよよよよよよ〉  打ち終わったころOTが、 「できた?」 とにこやかに言いながら近寄って来て、印字された紙を抜き取って一瞥(いちべつ)した。横顔になにかムッとした気配があった。 「しゃれだったんだけど……。悪いことしちゃったかなあ」と後悔した。  大きな窓ガラスの向こうでは、初冬の日差しに常録樹の葉がキラキラと光り、「ああ、あの澄明な日差しの中でビールを飲んだらどんなにうまかんべなあ」と、私は心の中でつぶやいた。タイプライターの練習は2度とおこなわれなかった。  スプリング・バランサーの訓練も忘れられない。スプリング・バランサーとは何か。これを言葉で表現するのは、はなはだむずかしい。百聞は一見にしかずというけれども見たって分からない。実際に自分でやってみなければ、それがいかなるものであるかは分からないだろう。  直径4、5センチ、高さ50センチほどのアルミの円柱が主体で、その中ほどから斜め上に向かって枝が伸びており、その枝先にさらに地面に並行して短い枝がついている。その最後の枝先にひじ用と手首用の帯状の輪っかがぶら下がっている。円柱そのものも360度回転すれば2本の枝のつけ根もまたバネの力によって自由自在の方向に動く仕掛けになっている。簡単にいえば、腕を吊るして微弱な筋肉の動きを増幅する器具である。  テーブルの1辺を半円形に切り抜いたカットアウト・テーブルという机に、車椅子ごと入り込み、机の両脇に取り付けられた銀色のスプリング・バランサーからぶら下がっている皮の袋にひじと手首を通し、腕を吊るして上下左右前後に動かす。まったく筋肉の動かない患者にはなんの効果もないのだが、そのころになると私は左腕の上腕二頭筋と三角筋がだいぶ回復してきて、ひじを曲げたり、体側から腕を少し離すということぐらいはできるようになっていたので、このスプリング・バランサーが訓練のメニューに採用されたわけだ。  右腕はまだ曲げられるほどにはなっていなかったが、それでも二頭筋だけはかすかに回復してきていたので、スプリング・バランサーを使って勢いをつければ、腕をかなり大きく動かすことができるようになっていた。  しかし、車椅子に乗っているだけでさえ、息は苦しいし貧血で目の前は暗くなるし、そして暗くなると同時に明るいところはやけにまぶしくなって、テレビなどは真っ白になってしまうような状態だった。汗は出てくる、寒けはする、呼吸は苦しい。しかしそれでも必死になって、私はスプリング・バランサーをガチャガチャと動かした。ガチャガチャと音をたてながら、腕の運動を懸命になってやった。  OTに、 「そんなに力を入れなくてもいいのよ」 と言われたけれども、冗談じゃない、ゆるやかになどできないのである。思い切って腕をぶん回すようにしなければ、スプリング・バランサーは動いてくれなかった。力のある人だからこそゆっくりやれるのであって、力のない者はひっちゃきになってやらなければできないのである。両手を上に上げる運動を50回、横に広げる運動を50回、前に突き出す運動を50回、後に引く運動を50回、これだけのメニューをこなすと、ハアハア、ゼイゼイもう息も絶え絶えになってしまうのだった。  運動が終わり機械に腕をぶら下げたままうなだれて、ハアハア荒い息をついていると、OTが回って来て、 「疲労した?」 と聞いた。 「もうヒローどころじゃないですよ、ヒローを通り越してロッポンギですよ」  これはきわめてローカルなギャグなので、埼玉県民には伝わらなかった(東京の地下鉄日比谷線は中目黒から始まり、恵比寿、広尾、六本木とつづくのである)。キョトンとして何の反応もなかった。  とそのとき、となりの机で友多さんの訓練に付き添っていた由美子さんが、アハハハと笑った。冗談を言っても受けないと拍子抜けしてしまうが、あまりローカルな、あるいは仲間内にしか通用しないような冗談で笑いを求めるのは無理というもの。だから、そこに分かってくれる人がいたということで、仲間意識も手伝ってか、こそばゆいような安堵感に似たうれしさを感じた。この駄洒落は、サラリーマンだったころ、残業続きの日などによく使ったものだ。  通り越すといえば、こんな冗談もとばしたことがある。今でもまだあるのだろうか、「週刊漫画」という漫画雑誌の巻頭ヌード写真を会社の昼休みなどに、となりの席の社員と眺めながら、 「おお、いいケツしてんなこいつ、たまんないね」 「ムラムラしてきた?」 「ムラムラなんてもんじゃないよ、ムラムラ通り越してマチマチしてきちゃった」  いいのかなこの本はこんな駄洒落ばっかしとばしてて。  スプリング・バランサーでは、物を食べる訓練もした。吊った腕の手首に「自助具」という革製の固定具を巻きつけ(手首にもまったく力がないので、放っておくとダランとたれ下がってしまう)、その自助具の手のひら側に首を曲げたスプーンを差し込み、そのスプーンでお鉢に入ったイチゴやゼリーをすくって食べるのである。これは、やってできないことはないけれども、必死の思いですくい上げた食べ物を口まで持ってくると、そこで手首の方向が変わってしまい、再び食器のほうに手を持っていくと、もうスプーンの先があさっての方向を向いてしまって、そばにいる介助者に物をすくえるように手首の方向をいちいち修正してもらわなければならないのである。少なくとも私の場合はそうだった。  最初はスプリング・バランサーを使って訓練していたが、そのうちに筋力が向上して、スプリング・バランサーなしで物を食べられるようになった人もいるということだ。                    ■  さてさて、本題はこれからだ。  スプリング・バランサーでは本のページめくりも試してみた。今度は自助具に消しゴム付きの鉛筆を取り付けるのである。その消しゴムのほうでページをめくる。ゴムの摩擦を利用するわけだ。  初日は案外うまくめくれた。しかし、2日めはめくれなかった。 「おかしいわねえ、昨日はちゃんとめくれたのにねえ。どうして今日はめくれないのかしら」  担当のOTが言った。たいていの訓練は、1度めより2度めのほうがうまくいくものなのだ。  私にはその理由がすぐに分かった。昨日試したのは、古くなって日に灼けた昔の岩波文庫だったのだが、その日試したのは、新しい早川文庫だったからである。ここで分かった人はエライ! 相当の事情通でなければ、この謎は解けない。私はそこでなぜ前回できて今回できなかったのか、久しぶりに人にものを教える快感に胸をふるわせながら、トクトクとしてその理由を説明した。  本というものは、16ページずつのまとまり(製本用語で1台という)をいくつも束ねて作るのが基本なのである。大きな紙に片面8ページ裏面8ページを刷り、それを折りたたんで1ページから16ページまで作るわけだ(文庫本のような小さなものであれば32ページ刷ることもできる)。160ページの本ならば、16ページ10台ということになる。320ページの本なら、16ページ20台。8ページ、4ページという台が作れないわけではないが、できれば16ページで区切れたほうがいい。  さて、肝心なのはここからだ。昔はこの16ページに折りたたんだもの(製本用語で折り丁という)を糸でかがって束ねていたのである。だから昔の本だと右ページと左ページの中央に、ときどき糸が見える。それが“糸かがり”という製本法である。もちろんその後でノリで補強したり、その上に表紙をつけたりするから、本をどうやって綴じてあるかなどということは、その道に携わった者にしか分からない。  その後、技術革新と称して糸でかがらず、束ねた折り丁の背中をひっかいて、そのひっかきキズにノリを埋め込んで固めてしまう“無線とじ”という方法が編み出された。  さらに1970年代はじめには、印刷した紙をたたむ段階で、折り丁の背中にページがバラけない程度に縦に切れ目を入れていく“網代(あじろ)”という製本法が工夫された。だが、これもやはりノリで背中をべったりと固めるという方法には変わりがない。  糸でかがった糸かがり製本ならば、本の中ほどを開いて机の上に置けばページはピタリと左右に広がったまま落ち着いている。しかし、無線や網代で製本した本はそうはいかない。開いたところがピンと跳ね上がってしまったり、手を離すとバタンと表紙ごと全部閉じてしまうようなこともあり得る。手で押さえていなければ読めないのである。なんと不便なことか。 「という訳で、昨日の本は糸かがりだったからうまくいったけど、この本は無線だからめくりにくいんです」 「なるほど。知らなかったわ、そんなこと」  本には上製と並製(仮製ともいう)があって、上製はハードカバーつまり堅表紙、並製は軟表紙ということになっていた。かつては並製ですら糸かがりをしていた。まして上製においてをや。ところが、今では雑誌から始まったと思われるこのベタベタ糊付け本が主流となってしまい、ハードカバーまで糸かがりをしなくなってしまった。  これは、なにもひとり製本会社ばかりに責任があるわけではない。出版物は、大ざっぱにいって、出版会社・印刷会社・製本会社3者の協力で造られる。出版社は入稿や校正を遅らせ、印刷屋はゲラや刷了を遅らせ、しかし発行日は決まっているから、どうしても最後のしわ寄せは製本屋に来てしまう。スピードが要求されるのである。おまけに製本代の値上げもままならない。省力化が要求されるのである。  私の知るかぎりでは、『水原秋櫻子全集(みずはらしゅうおうしぜんしゅう)』(講談社刊 1978年)が糸かがりをしないハードカバーの最初である。あくまでも私の知るかぎりである。しかし、糸でかがらなければ上製本とはいえない。ハードカバーにしようが、函(はこ)入りにしようが、それを帙(ちつ)に入れようが、糸でかがらなければ上製とはいいかねる。ページが落ち着かないので、思い切り開いたらバリッと本のページの付け根が割れてしまったという経験はないだろうか。こんなものは雑誌ならともかく、本でやってはならない技法だと私は思う。健常者にとって不便なものは、障害者にとってはなおさら不便なのである。  本書は、まったく個人的な事柄とグチをならべただけのもので、社会に寄与するところはなはだ少ないものではあるけれども、これだけはアピールしておきたい。 「糸でかがらなければ、本とはいえない」と。            *オートバイはいけません*  他の患者がどうして脊損になったのか、その原因はとても気になるところだが、なんとなく聞くのがためらわれる。気楽に話す人もあれば、また、決して話そうとしない人も中にはいるのである。これは患者の性格よりむしろ、事故の原因に左右されるところが大きいようだ。  いちばん多いのは、やはり交通事故だろうか。交通事故の場合は比較的話しやすい。交通事故といっても、労働災害やスポーツと絡んでいるものも多い。国リハにいた患者は若い男性が多かったせいか、オートバイによる事故が目立った。  二十歳のサワちゃんは“純粋な交通事故”だった。純粋な交通事故というのも奇妙な言い方だが、早朝起き抜けに車に乗って交差点にさしかかったときに、横合いから飛び出してきた車にぶつかり、自分の車は空中で何回転かしたのち、頭から道路に突っ込んでしまったという。「あんときゃあ、青だったんだよ。青だからこっちには責任はないのに、相手のヤツはそうじゃないって言うんだよね。おふくろとおやじが事故現場に駆けつけたときには、もう諦めようって2人で話したんだってさあ。とにかく車はグチャグチャだし、おれは血だらけで意識がなかったから。だけどさあ、おかしいの。カーステレオ聞きながら走ってたんだけど、そのときかけてた曲が中山美穂の『ツイてるね ノッてるね』だったんだよね」  首の骨をハリガネでつないでいるというサワちゃんはおかしそうに笑いながら言った。  田所さんは20代の半ばに友達の運転する車の後部座席に乗っていて事故に遭い、頸髄損傷になってしまった。あのときあの車に乗りさえしなければ、あのときあそこにいさえしなければ、あのときもう1分時間がずれていさえすれば……そういった後悔の念は患者にはつきもので、それが口を重たくさせる。  高校生の息子さんのいる加藤さんは、新聞に入れるチラシを販売所に配達する仕事をしていた最中の交通事故だった。新聞は早朝に配られるものである。配るための準備はもっと早い時刻からおこなわれる。その準備をするためのチラシの配達はさらに早く、つまりいつも深夜に配達されることになるのだろう。深夜労働する人が、朝や昼間に寝ていられるかというと必ずしもそうではないので、深夜運転の仕事というのはじつに危険なものだと思う。  鈴木さんは、長距離トラックの運転手であった。30代前半か。身長190センチを超える大男で、病院のベッドではおさまりきれないので、足もとの枠をはずした特別なベッドに寝ていた。この人は男っぽさを売りものにしていて、夜間の長距離運転をするための眠気ざましに、堅気の人があまり使わないような薬を使ったこともあると、アブナイ話をぶっきらぼうな口調でしてのけて、肩をいからせながら回りに鋭いガンをとばすのだった。  ところが、鈴木さんはトラックで事故を起こしたのではなく、仕事あけの昼間に自転車に乗っていてつい居眠りをし、ガードレールにぶつかって頸損になったので、ふだんこわもてで売っているのに、他の若い患者から、 「チャリンコで事故ったんだろ」 と言われると、ついリキんだ肩から力が抜けて情けない顔つきになり、 「それは言ってくれるな」 と、恥ずかしそうな声を出した。  鈴木さんは救急隊員が駆けつけたときには、まだ手足が動いていたという。 「あのときもっと慎重に運んでくれれば、こんなことにはならずに済んだんだ」  この、事故当時にはまだ軽傷でその後の処置が悪くて大事に至るというケースは、ままあることなのだ。  高校生のヨッちゃんは、これもまた私などの目から見るとずいぶん無鉄砲なことのように思われるのだが、千葉から九州まで一睡もせずにオートバイでぶっ飛ばし、カーブを曲がりきれずに電柱か何かに激突したということだった。 「病院に運ばれたときに、おれの着てるライダーズ・スーツをハサミで切るって言うんだよ、レントゲン撮るとき。だからおれ、やめてくれって言ったんだ。買ったばっかしだったし。だからおれ自分で脱いでレントゲンの台にのぼったんだぜ。そんときは、だから動いてたんだ」  ヨッちゃんは、車椅子で貧乏ゆすりしながら言った。下肢が麻痺して歩けなくなると、アキレス腱が硬縮してくるらしく、車椅子に乗ったときなどは急にアキレス腱が伸びて貧乏ゆすりが起きるのである。  足首は硬縮予防をせずに放っておくと「尖足(せんそく)」といって伸びきってしまい、車椅子のステップに足がのせられなくなる。だから、脊損の患者はベッドに寝ているときも、ベッドのわくと足の裏のあいだに詰め物をして足首を直角に保つように心がけなければならない。  この貧乏ゆすりを、病院では「ケーセー」と呼んでいた。どういう字を書くのか、長いあいだ分からなかったが、どうやら「痙性」らしい。痙性は、痙性麻痺の略語である。脊髄損傷による運動麻痺には、腱反射がなくなってダラーッとしてしまう弛緩性麻痺と、本人の意志とは関係なく体がブルブル痙攣(けいれん)する痙性麻痺の2つがあって、頸損のように損傷部位が高い場合は痙性麻痺が多いということだ。  電気屋の小野さんの場合は、労働災害に入るのだろうか。2階の屋根にテレビのアンテナを付けるためひさしにハシゴを架けて上っていたところ、地面にスペースがなく、ハシゴの傾斜が急すぎて、 「ハシゴが横っつべりにザザザザァーと倒れちゃったんだよ」  そのとき顔面を強打したため前歯の数本欠けた口で、60年配の小野さんは、淡々と語るのだった。 「友多さんはどうしたんですか?」 と聞くと、 「僕はモトクロスでやっちゃったんですよ」 「ああ、モトクロスね」  私は分かったような顔をして答えたが、じつはなにかオートバイに関係のあるものだということぐらいは知っていたけれども、モトクロスに関する知識はほとんどなかった。  あとで聞くと、普通のオートバイ・レースとは違って、人工的に極端にアップ・ダウンの激しい悪路を作り、30分でそこを何周回れるかを競う競技のようだった。急傾斜の丘を越えるときに、車輪を地面につけたままではタイムが縮まらないので、ジャンプして空中を飛翔する。それがモトクロスの一番の醍醐味らしかった。高さ1メートルの丘を全速力で駆け上がると、オートバイは地上4メートルの高度で10メートル以上の距離を飛ぶという。  その後モトクロスのカレンダーを見る機会があった。宙高く舞い上がったレーサーはハンドルから手を離し、ステップに直立してバンザイをしている。 「空中にバーンと飛び上がったときに、ふっと一瞬気を失ったみたいなんですね。気がついたら地面に横たわっていて、みんなが回りから僕のことをのぞき込んでるんですよ。『ああ、おれは転倒したんだな』と思って、だけどコース上で寝てたんじゃ他の人の迷惑になるからコースから出ようと思ったんだけど、全然体が動かないんですよね。それで担架に乗せられて、救急車が来たところまでは覚えているんだけど……」 「病院に駆けつけてお医者さんの説明を聞いたときは、目の前が真っ白になっちゃったわ」 と、奥さんの由美子さんが言った。 「そうなのよ、そうなの」と、妻が口をはさんだ。「目の前が真っ白になって、私も倒れそうになったのよ」  それからスポーツは危ないという話になった。  高校生の良君は、学校の授業で柔道をやっているときに頸髄を損傷したという。 「野球もけっこう危ないんですよ」と、友多さんが言った。「PL学園の清原や桑田の同期で、1塁から2塁に滑り込んだときに頸損になったのがいて、清原が入院中のその人のところへ見舞いに行ったって、このあいだスポーツ新聞に出ていましたよ」  ラグビーも危ないらしいと、だれかが言った。たしかにあのスクラムを組むときには激突するわけだから、首の骨を傷めてもおかしくはない。 「それにしてもプロレスほど危険なものはないよね」と私。「なんていうのあの技は? 相手の背中に回って胴体をかかえて持ち上げてそのまま後ろへ倒れ込んで、相手の後頭部をマットに叩きつける技があるじゃない」 「ああ、バックブリーカーね。ネックブリーカーかな」 「それからさ、相手の首を自分のまたぐらにはさんで、相手の下半身を抱え上げてさ、そのままドスンと尻もちをついてノーテンをつぶすやつ、なんて言ったかねぇ」 「パイルドライバー?」 「とにかくプロレスというと、相手を頸損にするような技ばっかりだよね」 「体操も危ないんですよ。鉄棒にしても何にしても、より高いところに上がって体をグルグル回して、なるべく危険なことをやって点を稼ごうっていうんだから」  体育の授業でプールに飛び込んださい、底に頭をぶつけて頸損になった中学生と同室になったことがある。じつにやさしい顔をしたおとなしい子だった。消防署に勤めるお父さんはぶっとい太腿をした元気のいい人で、いつも息子や他の患者に元気よく話しかけていた。その元気の良さが、私にはかえって痛ましく感じられた。  原因のはっきりしているものならしゃべりやすいけれども、なかには訳の分からないものもある。同じプールの事故でも、広告代理店に勤める岡本さんは、プールに飛び込んだ拍子に頸損になってしまった。べつに底に頭をぶつけたわけではない。ただ、水に飛び込んだとき、何かのはずみで、頸髄を損傷してしまったわけだ。 「水泳は得意なほうだったんです」 と30代初めとおぼしい岡本さんは言った。  海水浴に行って、波をザブッとかぶったとたんに頸損になった例もあると聞く。こういうちょっとしたはずみで頸損になってしまうということも、ないではないようだ。  しかし、脊髄損傷の大半は交通事故によるものといっていいだろう。日本の交通事故死亡者は年間1万人を超えているが、それだけの死亡者が出るということは、毎年その何倍もの障害者が増えているということを意味するのではないだろうか†1。 「お宅も交通事故ですか?」 「いいえ、転落です」 「転落? へぇ、高いところから落ちたんですか?」 「いいえ、そんなに高いところからじゃないんですけど……」  私は言いよどんでしまう。2階のベランダから落ちて首の骨を折っただなんて、それだけの説明では相手も訳が分からないだろうし、ひどく間が抜けていて格好が悪い。かといって、自分の受けた持続睡眠療法について説明するのもわずらわしい。第一、私自身その療法の実態を知らなかった。神経科に入院していた17日間の記憶がまったく欠落しているのである。  抑鬱と不眠を治療するために神経科に入院して、持続睡眠療法というものを受けた。そのときの事故なのである。持続睡眠療法は、睡眠薬や安定剤を大量に与えて患者を2、3週間睡眠状態におき、ストレスを和らげるという療法だが、その最中にベランダから転落したのである。事故後は、ベランダから転落したということしか聞かされていなかったし、いまわしい事故の詳細について知ろうとする気力も、当時の私にはまだなかった。神経科での事故だということで妙な偏見を持たれたり誤解を受けたりするのは避けたいという気持ちも、また私の口を重たくさせる一因だった。                    ■  野球好きな友多さんから聞いた話。巨人軍の川上監督は優勝して胴上げされることに慣れていたので、転落の危険性も熟知しており、胴上げのさいには必ず誰か1人が監督のベルトを握り締めていたそうだ。これが胴上げされることに慣れていない監督だと、そこまで配慮が行き届かない。浮かれて宙高く舞い上がったのはいいけれど、胴上げしているメンバーがいかに屈強な男たちであろうとも、何かのはずみで落としてしまうということがないとは限らない。  同じように、新婚旅行に出発するカップルを仲間たちが駅のホームで見送る光景は、よく目にするものだが、胴上げされていた新郎が誤ってホームに落とされ脊損になってしまう事故もあるらしい。まさに幸福の絶頂から不幸のどん底へ一瞬にして突き落とされてしまった極めて劇的な例である。  こんな場合、この夫婦はその後どうなっていくのだろうか。離婚話が持ち上がってくるのは避けられないだろう。  年寄りなら脊損になってもかまわないというものではないが、やはり若ければ若いほど障害に伴う悲劇性は大きくなるといえる。  膀胱瘻(ぼうこうろう)の手術のために入院してきた森さんは、まだ二十歳をいくつも過ぎていないという若さだった。付添いの奥さんもご主人より1つ年下の本当に若い人で、しかもすでに1年数カ月になる子供がいた。  森さんは労働災害だった。トラックから何か重たい資材を降ろす作業の最中、車の下でそれを受け取っていた森さんの上に、資材が落ちてきた。それが首に当たって頸損になった。  彼を雇っていた会社の社長だったか、あるいはそれを聞いた関連会社の社長であったかが気っ風のいい人で、これから建てるマンションの1室を障害者用の内装にし、そこに森さんの家族を管理人として住まわせ、家賃はただにしてもらえるという話も出ているようだった。障害者としては、かなり恵まれた話である。  奥さんは、なかなかの美人でいつもかいがいしく夫の面倒を見ていた。ぴったりと夫に寄り添い、看護婦が夫の体に触れるのすら嫌うという噂だった。まさかと思っていた。ところが、手術の前日に看護婦がベッドサイドにやって来て、 「剃毛(ていもう)を始めます」 と言ったときに、奥さんはすかさず、 「私がやったのではだめでしょうか」 と言ったのだった。  が、ある日のこと、何気なく斜め前にある森さんのベッドのほうを見たとき、私は少し意外な気がした。森さんは眠っており、奥さんがその側の椅子に腰掛けて、壁とベッドの両方にもたれかかるようにして斜めに坐っていたが、目は虚空を見つめぼんやりとし、その顔は途方に暮れているように私には見えたのである。  この夫婦はその後、風の便りによると、離婚したそうだ。夫が障害者になったから離婚したのだという世間の謗(そし)りは当然予想されるところだが、あれやこれや考え、迷い、苦しみ抜いた挙句の結論であったに違いない。  森さんが退院すると友多さんの隣はしばらく空いていたが、1週間もしないうちに入口の名札入れに新しい名札が差し込まれ、新しい患者が入院してきた。どんな人が来るのだろうかと、みんな興味津々である。  私は、自分より状態の悪い人が入ってくればいいなあと、ひそかに他人の不幸を願っていた(結局、集中治療室にいたころはべつとして、1年余りにわたる入院生活のあいだ、ついに私は自分より状態の悪い患者に出会うことはなかった)。  新入患者は、たいてい不安に満ち満ちた気持ちで入ってくる。付き添ってきた家族との言葉のやりとりも小声でひそひそとしているし、べつに歓迎パーティーがあるわけでもなく、自己紹介をするでもないので、どんな状態の患者なのか最初は分からないものである。  新しく入ってきたのは、スグル君という高校生だった。頭を丸刈りにし、顔はにきびだらけで、幅の広いプラスチックのカラーを首にはめていた。これがあるときふと見ると、立って歩いているではないか。  頸損でも歩ける人がいるのを知って少し驚き、「歩ける奴は敵だよな」と冗談をとばしかけたが、新入患者のスグル君との“距離”がまだ遠かったので、思いとどまった。健常者が、つまりドクターや看護婦や付添いが歩いていてもなんとも思わないけれども、患者が歩いていると少し嫉ましい気分になるのだった。  スグル君はじつにあっけらかんとした物おじをしない若者であった。彼の主治医はぶっきらぼうな口のきき方をする若いドクターだったが、ある日スグル君がそのドクターに向かって、 「先生、先生は彼女と会うときもそんなふうに喋るの?」 と言っている声が聞こえてきて、思わず笑ってしまった。  スグル君もオートバイの事故らしかった。頭の中にはオートバイと女の子のことしかないといった感じだ。 「これからどうしようかなあ。ダブるのは格好悪いけど、1学年下にかわいい子がいるから、あの子と同じ学年になれるんだったらいいかもしんないしな」 などと言う。誰にでも気軽によく喋る子だったので、モトクロスで怪我をしたのだということが分かるのに、何日もかからなかった。 「いやあ、おれもそうじゃないかと思ってたんだよ」と友多さんが言った。「そこにお見舞いの色紙が飾ってあるでしょ。その中に何人か知ってる名前があったからさ、ひょっとしたらモトクロスなのかなあと思ってたんだけど」  一気に2人は意気投合したようだった。そして、話しているうちに、なんとスグル君は友多さんが怪我をしたその同じコースで怪我をしたのだということが分かった。  そして、さらに意外なことが判明した。友多さんが「今年の4月何日に怪我をしたのだ」と言うと、スグル君は、 「ええっ? あのときの? おれ、あのとき担架の片方かついだんですよ」  居合わせた者たちはいっせいに「ええっ」と驚きの声を上げた。 「そうか、あのときね。じゃあおれの不幸の矢が1本スグル君に刺さったんだねえ」  モトクロスの先輩・後輩ということが分かると、おかしなもので、友多さんは「おおい、スグル」などと、スグル君を呼び捨てにし、スグル君はスグル君で、歩けるのを利用していそいそと友多さんの手伝いをしたりするのである。先輩はもちろんいばるだけでなく、奥さんに命じてスグル君のほしがる物を新所沢の駅まで買いに行かせたりするのだった。  由美子さんは、新所沢の駅で貸し出している西武ライオンズのマークの付いた自転車を利用していた。  病院内にも売店はあるのだが、もちろん小さなものだから品数は限られている。いきおい外へ買い物に行くことになる。しかし、病院の近くに店はなく、どうしても新所沢の駅まで出なければならない。風呂屋も遠いので、自転車があるととても便利だった。  病院の食事は、患者の健康に適したものではあるけれども、さほど食欲をそそるようにはできていないので、若い患者はあまり食べたがらない。そこで由美子さんは外で買ってきた物をご主人に食べさせ、自分が病院の食事を摂るということもあるようだった。  頸損の若者たちは、もともと筋肉が落ちている上に食事をきちんと摂らないから、痩せている者が多かった。田所さんなどは、友多さんが「ガイコツちゃん」とあだ名をつけるほど痩せていた。  田所さんはずいぶん長く国リハにいるようだった。腕には手術の白い傷痕が無残なほどたくさん残っている。腕を曲げることはできても、伸ばすことが難しい。それを手術でなんとか伸ばせるように、いずれにしてももう使わないであろう腱(けん)を他からとってきて腕に埋め込んだり、腱と腱をちょん切って繋ぎ合わせたりとか、いろいろな手術をしているらしかった。しかし、あまりうまくいかず「腕が伸びない」とこぼしていた。  田所さんの自立に向けての必死の努力にもかかわらず、病院に長く居させてもらうために手術を繰り返すのだという陰口が聞こえてくることもあった。まったくどこの世界にも口さがない連中はいるものである。  友多さんのベッドの回りはいつもにぎやかだった。とりわけ2人の男の子(小学校1年生と保育園児)が来る日曜日には、一段とにぎやかになった。わが家の小学校5年の長女と3年の長男もよく妻が連れてきていたので、日曜日に子供が4人そろうと、キャアキャアと大声を出しながら病室や廊下やベランダを走り回って、ときどき制止しなければならないほどの大騒ぎになった。                     ■  年の瀬が近づくと、患者側の「正月ぐらいは家で過ごしたい」という要求と、病院側の「正月ぐらい少しはゆっくりさせてほしい」という欲求が相まって、家に帰れる患者は続々と外泊退院していった。わが4人部屋でも、友多さんとスグル君は家族と共に家に帰って行った。自宅に帰れるような状態ではない私と隣のベッドのサワちゃんは、病院に残った。年末年始は付添いの手配がむつかしいこともあって、妻が泊まり込むことになった。  病院で迎える正月は侘びしい。そこで、少しでも楽しい正月を迎えるべく、私は妻に缶ビールを買って来るように秘密命令を出した。入院時の注意事項で酒を飲んだら即日退院というふうに申し渡されていたから内心ヒヤヒヤものだったが、まあ、ビールくらい飲まなければ正月が来たような気がしないではないか。大晦日の夜、ベッドの回りのカーテンを閉めきって缶ビールをタオルで包み、栓を開けるときの音を極力殺しながら、静かに乾杯した。妻が持参した数の子を肴(さかな)に2人でひそやかに年越しを祝った。  正月の病院は人けがなく、閑散としていた。サワちゃんが他の病室へ遊びに行ってしまうと部屋には私と妻の2人だけが残された。  妻はふだん子供を実家の母に託して、日中私に付き添っていた。朝来ては夕方帰るという毎日である。 「新所沢からも航空公園からも、同じくらいの距離なのよ。15分くらいかなあ、歩いて。病院に来るときに向こうのほうからあなたに似た人が歩いてくると、いつもハッとしたわ。『やあ、今日も来てくれたの』って、あなたが笑いながら私のほうに向かって来るような気がしたの」  私は横になったまま話を聞いている。妻の背後の窓の向こうには所沢の青く澄み切った空が広がっている。 「こんなの夢よねえ。私たち、悪い夢を見ているのよねえ」  妻が泣きだした。私はなんと言ってよいのやら言葉に詰まってしまう。「ああ、夢だよ」と言ったところで、そんな慰めの言葉で解決がつくような生やさしい現実ではない。いま2人の置かれている状況は、紛れもない動かし難い現実なのである。しかし、「夢じゃないよ、現実だよ」と突き離すのも、なんだか無残な気がした。 「おい、オルゴール聞かないか」  妻は、泣きながらお見舞いにいただいた手回しのオルゴールを革袋の中から取り出した。手のひらにおさまるほどのオルゴール。小さなハンドルが付いており、手の上でハンドルを回してもかすかな音しか出ないが、床頭台の上に置いて回すと、意外なほど大きな音が出た。聞き覚えはあるけれども題名の思い出せない美しいオルゴールの音色が、がらんとした4人部屋に響き渡った。  正月も7日を過ぎると患者たちが続々と帰って来て訓練も再開され、病院はまた元のペースに戻った。 「友多さん、久しぶりに帰った自宅はどうだった?」 「いやあ、子供たちがうるさいのなんのって」  お父さんお母さんが久しぶりに揃った家で、2人のやんちゃ坊主がはしゃぎまくっている光景が目に浮かんだ。 「おれはひどい目にあったよ」とスグル君が言った。「鬼ババアだよ、あいつは。庭でちょっとバイクを吹かしてたんだよね。べつに走ったわけじゃないんだよ。ただまたがってエンジンを吹かしただけなのに、おふくろがすごい音でガラッと戸を開けて飛び出して来て、ホウキでおれのことをバシンバシン殴って、『もうオートバイには乗らないって言ったでしょう!』なんてどなりながら、逃げられないおれのことを本気でバシンバシン殴るんだぜ。鬼ババアだよ、あいつは」  スグル君は、どうやら冬休みのあいだに留年を決めた模様だった。  そんな話をしているところへ看護婦が数人やって来て、友多さんのベッドに近づきカーテンを閉めた。なにやら小声で話していたが、そのうち、 「そんなこと聞いてませんよ」 と、友多さんと奥さんが口々に只事ならぬ気配で言っているのが聞こえてきた。  看護婦が出て行ってから尋ねると、 「いやあ、手術するって言うんですよね。そのための検査に来たんだって。だから手術の話は聞いたけど、手術をするなんて僕は言ってないって言ったんですよ」  どうやら腕の腱の手術の話らしかった。  翌日友多さんの主治医がやって来て、手術をしないのならもうこの病院であなたに対して自分がおこなう医療は終わったことになると告げた。要するに退院勧告である。2人ともそれは覚悟していたらしく、さっそく退院の準備に取りかかった。  退院勧告は人ごとではなかった。ウチのほうにもそろそろという話が持ち上がっていたからだ。  友多さんの退院が近づいたある日、私が、 「何かベッドに寝たままでできる仕事ってないかなあ」 と言うと、 「そりゃあ、競馬と株ですよ」  大の競馬ファンの友多さんが即座に答えた。 「競馬と株かあ」  そのどちらもやったことがなく、私はそのどちらにも興味がなかった。  国リハには病院だけでなく職業訓練所もあり、そこでは盲人向けに鍼灸(しんきゅう)マッサージなどを教えているのだが、せっかくそこで技術を身に着けても、お客は晴眼者の治療師のほうへ行きたがるのであまり職はみつからないという話も聞いた。 「結局、家へ帰っても寝てるしかないのかなあ……。家に帰ったら何やりたい?」 と私が聞くと、友多さんが答える前に奥さんが、 「もう、この人はテレビさえ見てればいいっていう人だから」 と言って笑った。 「藤川さんは何がしたいですか」 「そうだなあ。大きなスピーカーでジャズのレコードを聞きながら、ウイスキーのオンザロックを飲みたいな」 「ストローで?」  由美子さんにからかわれた。上半身をあまり起こせない私は、水やジュース、ときには味噌汁まで曲がるストローで飲んでいた。 「ううん、ストローかあ、そういうことになるかなあ。ちょっと勘弁してほしいけどなあ」  友多さんが退院したのは1月の末ごろだっただろうか。朝から冷たい風の吹きつける寒い日だった。玄関には私たち夫婦と田所さんとスグル君の4人が見送りに出た。  友多さんのベッドサイドで見かけたことのある人が、バンを運転して迎えに来た。友人のようだ。たくましい両腕で友多さんを軽々と抱え上げ、後部座席に坐らせた。  由美子さんと2人の子供は、電車で帰ると言っていたが、なかなか玄関に現われなかった。車を見送ってからしばらくすると、病棟の脇の自転車置場のほうから由美子さんと子供2人がやってきた。なんと自転車の3人乗りである。下の子がハンドルの上に腰掛け、足は買い物かごの中に入れている。上の子は、後ろの座席に立ち上がりお母さんの肩に手をついて、片手を上げてわれわれに大きく振ってみせた。 「あっぶねえなあ」  スグル君が言った。うれしそうに言った。まるでサーカスの曲乗りのようである。由美子さんも子供たちもニコニコ笑っている。ぐるりと玄関の先で1周して見せた。 「あっぶねえなあ、あっぶねえなあ」  オートバイで、私から見れば曲乗りのようなことをして怪我をしたスグル君が盛んにそう言うのだから、おかしかった。  われわれの目の前でさらに2、3周しながら、 「どうもたいへんお世話になりました。皆さん、お元気で」 と挨拶すると由美子さんは、 「さようならー!」 と言い残し、寒風を切り裂くように力強くペダルをこいで去って行った。  †1 年間発生数  わが国の脊髄損傷の発生は年間5000件。そのうち半分が交通事故による。脊髄損傷のうちもっとも重度の頸髄損傷は少数派かと思っていたら、じつは7割以上を占める多数派であった。             *じ、辞書をくれえっ!*  首都圏の病院は東北の農民によって支えられている――このことに気がついたのは1988年の3月、国リハから同じ所沢にある潤和病院に転院してまもなくのことである。  世の中に付添い婦という職業があることは、以前から知ってはいた。しかし、本当に付添い婦と深く関わりを持つようになったのは、潤和病院に移ってからのことであった。  転院前に妻が潤和病院の婦長に「自分が週3日付き添って、あとの4日を専門の付添いさんにお願いしたい」という申し出をしたところ、「そんな働き方をする付添いなんかいませんよ。全部奥さんがやるか、そうでなければ専門の付添いに毎日付いてもらうしかありません」と、ほとんど笑われたということだった。  そんな申し出をしたのは、妻も私も付添いについて大きな勘違いをしていたというか、十分な知識がなかったからである。  国リハにいたころは、朝9時半に妻が病院に来て私に付き添い、夕方7時に泊まり専門の付添いと交替するという体制をとっていた。もう少し詳しくいえば、月曜の朝来た妻は、その夜と翌火曜の夜を泊まり込んで全面的に私の介護に当たり、水曜の夜プロの付添いにバトンタッチ。木金は通いで日中の介護に当たり、土日は泊りを含めて全面的にプロに依頼。これを約半年続けたのである。  だから看護婦・家政婦紹介所は病院の近くにあり、付添い婦もまた病院の近所に住んでいるものだと思い込んでいた。いやたしかに病院の近くに住んでいる人もいるにはいるが、普通、病院の「付添い」といえば、夜間だけとか昼間だけとかではなく、1カ月なら1カ月、2カ月なら2カ月、あるいはそれ以上泊まり込んで患者の世話をするのがごく当たり前の姿なのである。  潤和病院にいた約半年のあいだに、付添いの交代が3度あった。4人の人が私に付いたことになる。  潤和病院にいた付添いのほとんどは、東北からの出稼ぎのおばちゃんたちであった。もちろん北は北海道から南は沖縄まで、日本全国から首都圏の病院に集まってくる。地方にも病院はあるのだが、やはり大都市の病院のほうが稼ぎがいいらしく、同じ住込みで働くのならということで、出稼ぎ農民は大都市の病院まではるばると出かけてくるのである。大きく分けると付添いには「出稼ぎ型」と首都圏に居を構える「定住型」の2種類があるということになるだろうか。  付添いを雇うのは患者だが、手配をするのは病院である。患者が直接手配するケースはほとんどないといっていいだろう。紹介所につてのある患者などまずいないし、ナワバリというものもあるようだ。病院の規模にもよるだろうが、だいたい1つの病院には3、4の紹介所が入っている。看護婦・家政婦紹介所という名称のものが多い。しかし、看護婦といってもこれはどうやら看護をする婦人という意味らしく、看護婦の資格を持った人は稀である。  紹介所は、病院にも家庭にも人を派遣する。病院に派遣されるのが付添い、家庭に派遣されるのが家政婦。同一人物が時によって付添いになったり家政婦になったりということもないではないが、だいたい本人の希望によって病院専門、家庭専門と分かれているようだ。  紹介所としては、やはり病院のほうが雇用も需要も多く、かつ安定しているので、家庭より病院を重視している。紹介所が病院に食い込むためには、相当な“努力”が必要なようだ。努力というのはいろいろなことを意味する。  病院は病院で、看護婦には給料を払わなければならないが、付添いには給料を払う必要がないから、なるべく患者の面倒は患者が費用を負担する付添い婦に見させたいという事情があり、持ちつ持たれつの関係のはずなのに、なぜか病院のほうが高姿勢である。  出稼ぎ農民が多いので、盆暮れ、あるいは田植え、稲刈り、りんごの収穫時期などになると、出稼ぎのおばちゃんたちは一斉に帰ってしまい、そういうときは病院も紹介所も人探しに大わらわとなる。  付添いは何人の患者の面倒を見るかによって1人付き・2人付き・3人付きと分類される。1人付きよりも2人付き・3人付きのほうが収入が多くなるのは当然のことだが、2倍3倍になるわけではない。1人頭の額が少しずつ減っていくからである。しかし、それにしても3人付きでもしようものなら、ひと月の収入は5、60万にも、いや額面としてはそれ以上のものになるようだ。女性の気質(かたぎ)の職業で、これほどの高収入を得られるものは他にそうないのではないだろうか(……ン? なんだこりゃ。……ああそうか、そういうことだったのか。私は怪しげな職業ではないという意味で、「堅気」という文字を頭の中に思い浮かべていたのだが、ワープロだとこういう間違いが起こるのね)。  高収入には、やはりそれだけの理由がある。  まず、病院というあまり愉快でない場所に、何十日もあるいは何カ月もずっと閉じ込められることになるし、ほとんど24時間病人のそばにベッタリとくっついていなければならない。夜中も患者の体位交換や排泄介助などで熟睡することはできない。これが毎夜のことである。まして患者の容態が急変すれば、やれ検温だ、やれ点滴の見張りだ、やれ吸痰だということになって一睡もできない。よほどの体力と忍耐力がなければ勤まらない仕事である。  付添いのためのロッカーなどというものはないから、手荷物は極端に制限される。着る物などは、ズボンの替えや下着その他最低限にしぼらなければならない。  食事は病院の厨房で作ってくれればいいのだが、ふつう、そこまで付添いの健康を気づかってくれる病院はない。仕出しの弁当を取ったり、たまに近所の店に仲間のだれかが代表して買いに行くといった具合である。だから、とかく野菜が不足しがちで、便秘になることが多い。潤和病院には湯沸かし器はあったが、ガスコンロがなかったので、おばちゃんたちは、万屋(よろずや)から買ったホウレンソウを湯沸かし器のお湯に浸し、お湯がぬるくなったら新しいお湯に取り換えるという方法で湯がき、野菜の摂取に努めていた。涙ぐましい努力である。  のびのびと手足を伸ばして眠ることなどもちろんできない。寝るのはたいていボンボンベッド。折りたたみ式の短い足がついた鉄パイプに幅広のビニール・ネットを張った簡易ベッドである。これが体は沈むは布団は落ちるはで、じつに寝心地が悪いらしい。  それでも付添いの仕事をやろうという人にはきわめて差し迫った事情がある。「出稼ぎ型」はいざ知らず、「定住型」の人の場合は莫大な借金を抱えていると思って口をきいたほうが無難であろう。知らないあいだに傷つけてしまうことがないともかぎらない。  たとえば友人の借金の連帯保証人になってハンコひとつ押したために、1000万2000の借金を背負っただとか、あるいは夫が多額の借金を残したまま死んでしまって、それが自分の肩にのしかかってきたとか、あるいは夫が長期入院していてその入院費を稼ぎだすためだとか、理由はさまざま。案外多いのが、バカ息子に高い車を買ってやるというケースだ。親にしてみればかわいい子供のためならということなのだろうが、はた目には愛情がかえって子供をスポイルしているように見える。とにかく、借金の返済をするためになりふりかまわず働いているという人が目立つ。  少しでも楽な仕事で少しでも多くの収入を得たいと思うのは人情である。付添い同士お互いにどこそこの病院は楽だとか、どこそこはきついだとか、いろいろ情報交換をしあって病院を渡り歩くことが珍しくない。しかし隣の芝生は青く見え、隣の柿は赤く見えるのと同じことで、どんな病院に行ったところで、仕事のきつさや不愉快な人間関係などに変わりはないのである。それでもおばちゃんたちは少しでも有利な仕事にありつこうとして、ひとつの病院には何度も来ない。  付添いと紹介所の関係というのはきわめてゆるやかなもので、わずかな会費さえ払えば、どこの会にも移れる。だから今年○○紹介所の紹介で××病院に勤めているからといって、来年もそこに来るとは限らず、次の年には別の会に入って別の病院で働くというケースも稀ではない。おばちゃんたちは病院に拘束されることもなければ、会に拘束されることもなく、自由に渡り歩いているのである。                    ■  潤和病院に入院して、私は生まれて初めて農民層と関わる機会を得た。父も母も都会の人であり、妻の両親もまた都会の人であったから、それまで農民層と身近に接するということがまったくなかった。だから減反の話だとか、あるいは農耕機具に莫大な出費を強いられる話などは、特に初耳だというようなことはなかったが、田舎(いなか)の人から田舎の暮らしぶりを聞くのは物珍しかった。  ただ困ったのは言葉である。北へ行けば行くほど未知の国とはよくいったもので、次第に言葉が分からなくなっていく。津軽はまさに辺境の地であるとの感を深くした(……ン? 北へ行けば行くほど未知の国? おれそんなこと言ったかな。……そうだ、ミチノオクと言ったのではなかったか。ミチノクはミチノオクが縮まったものである。吹きこみの際には、ミチノクというルビのついた陸奥という字が念頭にあったのだ。テープ起こしというのは難しいものだ)。  本当に言葉が通じなくて弱った。たとえば――。 「すいません、ちょっと目を掻いてくれませんか」  目が痒くてたまらないのである。肩から下には感覚がないので、痒みが生じることはないが、首から上は正常だからごく当たり前に痒くなる。頭も顔も汗とホコリでしょっちゅう痒くなる。  しょっちゅう痒くなるが、しょっちゅう掻いてもらうわけにはいかない。いまはそばに付きっきりの人がいるけれども、これから先を考えたら、少しぐらいのことは我慢するクセをつけなければならないと思った。  それでも目の痒みは耐えがたい。もともと私は目を使う仕事をしていたせいか、目が痒くなることが多くて、そんなときは、指で遠慮なくゴシゴシこすったものだ。ヒリヒリするほどこすった。特に目頭の涙腺のあたりが痒くなる。指の腹でウニウニするのがいちばん気持ちがいいのだが、そんなことは頼めない。仕方ないからティッシュでふいてもらおうと思う。 「目頭のところお願いします」  おばちゃんは目尻をこする。 「あ、そっちのほうじゃなくて反対のほうです」  ティッシュは意外に硬いもので、ガサガサしてあまり気持ちよくはならない。存分に掻けなくてもどかしい。それでもいちおう目の痒みがおさまると、痒みのやつは眉毛に移動する。しばらく洗わないと眉毛からもフケが出るということを、このとき初めて知った。  眉毛をこすった刺激で今度は眉間(みけん)が痒くなる。 「眉間も掻いてください」  おばちゃんの手が止まる。そうか、ミケンという言葉が通じなかったのだ。 「眉毛と眉毛のあいだです」私は少しつっけんどんな口調になる。おばちゃんはあわてていきなりマブタをこすりだす。「ちっがうよ。眉毛と眉毛のあいだ」  眉間ひとつでこの有様。あとは推して知るべし。  ベッドに仰向けに寝ているときだった。 「ヒジを体に付けてください」 と頼んだところ、なんだかモジモジして体のどこをどうして良いのやら分からないふうで、いつまでたってもやってくれない。私はヒジにも手にも何の感覚もないのだが、腕の付け根には感覚があるので、手が体から離れていると、落ち着かない。手首が狭いベッドの端から落ちたりすると、肩に負担がかかってつらいのである。腕を自分で体側に付けることができないから、おばちゃんに頼んだのだが、どうやらヒジという言葉が通じなかったようだ。ヒジという言葉は初耳だというのである。 「ええっ? それじゃあ、この腕が曲がるこの部分はなんて言ってるんですか?」 と目顔で示しながら聞くと、 「腕のヒザ……」  なるほど、腕のヒザか。そうかそうか、そういうことだったのか。頭の中でビビッとひらめくものがあった。ヒジとヒザはもともと「折れ曲がるところ」という意味であって、その昔には区別がなかったのだろう。おばちゃんの証言が正しければ、ヒジはヒザから派生した言葉だということになる。勉強になった。これだから方言というものは、おろそかにできない。 「ヒジを脇に付けたら手のひらを上に向けてください」  さて、これまた手のひらがどこなのかが分からない。試みに、タナゴコロという呼び方をするかどうかたずねてみた。方言には古語が残っていることが、ちょくちょくあるからである。しかし、これは空振りに終わった。おばちゃんは私がいうところの手のひらを手の甲だと思い込んでいた。  まったく不便な話で、 「じゃあ、NHKの朝の連続ドラマとか日曜の大河ドラマなんか見ていて、ヒジとか手のひらという言葉が出てきたら分からないんじゃないんですか」 と聞くと、テレビなんか見るひまはないという答えが返ってきた。  これもまた大きな驚きだった。日本中北から南までテレビは溢れかえっていると思っていたのだが、テレビを見るひまもなく働いている人もいるのである。 「そうですか……。東京に出てくると話が通じなくて不便でしょう」 「だから私ら東京に出てきたら、口をきかないようにしている」  この言葉には胸を衝かれた。東京もんには分からない訛(なま)りの劣等感で悩んでいる人がどれほどたくさんいることだろう。しゃべるとバカにされるから口をきかないようにしているとは……。啄木の   ふるさとの訛なつかし   停車場の人ごみの中に   そを聴きにゆく という歌がにわかに重味を増してきた。わざわざ上野まで行くものかとそれまでは思っていた。単なるレトリックだと考えていたのである。  言葉が通じないといえば、おばちゃんたちには漢語と外来語も通じにくい。  ある朝、排便の時刻になったが看護婦がやってこないのでおばちゃんに、 「ナース・ステーションへ行って、レシカルお願いしますと言ってきてください」 と頼むと、 「ええっ?」 と聞き返す。 「いや、だから、看護婦の詰所へ行って坐薬のレシカルボンて」  私はイラだってわざと早口で言った。  1日おきにやっていることではないか。排便が遅れると次の訓練や入浴にさしつかえる。ベッド上で排便するのは、その部屋では私だけだった。いくらカーテンを閉めて換気扇を回しても、臭気はいかんともしがたい。処置自体も気の重いことだったが、回りへの気兼ねもまた、私を憂鬱にさせた。  坐薬と言って通じなければ「お尻に入れる薬です」と言い換えれば分かるのだろうが、それができないのである。 「ちょっと待ってください。書いていきますから」  メモ用紙とボールペンを取り出すので、私はもう一度ゆっくりと薬の名前を繰り返した。  おばちゃんの書いたメモ用紙を見ると、ひらがなで「ざいやぐのれすかるぼー」と書いてあった。私は「坐薬のレシカルボン」と言ったのだが、おばちゃんは頭の中で一度自分の発音に置き換えてそれを文字に表記するという、ややこしい翻訳手続きをしているのである。  食事どきのことだ。 「きょうはスズミの味噌スルだよ」 と言うので、へえーっと思った。スズミか。イスズミという魚なら知ってるけど、スズミというのはまだ食ったことがないなあと思っているうちに、目の前に出されたお椀の中にはシジミが入っていた。  食堂の窓からは病院の庭が見えた。垣根に沿ってグラジオラスが植えられていた。おばちゃんはそれを見ながら、 「ああ、グランジュースが咲いている」 とひとりごとを言った。                    ■  6時起床・9時就寝というのが病院のきまりである。夜8時に看護婦が就寝前の薬とヤカンをワゴンにのせて回ってくる。私は2種類の眠剤を飲んでから横向きに体位交換してもらう。9時の消灯まで背中と尻の除圧をするためである。  他の人たちはテレビを見ている。私は音だけを聞いている。音だけを聞いていると、画面を見ているときには気づかなかったことを発見することがあった。 「大岡越前」は効果音にモダン・ジャズを使っていた。それもフリー・ジャズに近い、そうとうハードなものだ。 「わくわく動物ランド」で関口宏が“転位行動”と言っているのを聞いたときには、娯楽番組が変化しつつあるのを感じた。転位行動は動物行動学の用語である。たとえば、トゲウオがなわばりあらそいをしていて、なかなか決着がつかない場合に、いきなり闘争とは無関係にみえる“水底つつき”などをすることをいう。今や“刷りこみ”ぐらいなら、ワイドショウのペット特集でも平気で使われる。しかし、転位行動まで出てくるとはね。番組の制作には然るべき専門家が参加しているのだろう。  9時少し前に再び仰向けになる。熱いタオルで顔と手を拭いてもらう。  9時消灯。付添いのおばちゃんは、みな例外なく寝つきがいい。「おやすみなさい、あ、どっこいしょ」と言ってから、ものの5分もしないうちに寝息が聞こえてくる。  私は眠れなかった。腕や背中の痛みが強く、それになんといっても、寝がえりできないのがつらい。入口のアコーディオンカーテンの隙間からもれ入る廊下の灯でうすらぼんやりした天井をながめながら、とりとめのないことを考えた。体系立った論理的なことを考えるわけではない。ドブ川に浮き出すメタンガスのように、ポコリプカリといろいろな思いが脈絡もなく浮いては消え、浮いては消えするのである。  昼間おばちゃんに言われた「檀那(だんな)」という言葉が、前頭葉のあたりにただよっていた。2人称というものは、なかなか難しいもので、私は最初付添いさんを「○○さん」と姓で呼んでいたが、他の患者がみんな「おばちゃん」と呼んでいる中で、自分ひとり姓で呼びかけるというのは何か気取っているように思われているふしがあった。それに気付いてからはもっぱら「おばちゃん」をつかうことにした。付添いたちもまた自分の患者をどう呼ぶか少し迷っているようだった。  檀那という言葉が浮いているところへ、夕方テレビで見た臓器移植のニュースが浮かんできた。臓器を求めている人は多いのに、ドナー(提供者)が少ないというのである。 「ドナーって、何語なんだろう……」  その疑問が浮かんだ途端にいろいろなことが一気にビビビッと結びついた。ドナーはきっと英語だろう。Donerと書くのではないだろうか。  辞書があれば分かるんだが。  もし、DonerもしくはDonorと書くなら、それはフランス語のDonneur から来たものに違いない。Donneur にルビをふるとすれば、通常はドヌールだろうが、euは「エ」の口の形で「オ」を発音する曖昧母音なので、カタカナでは正確に表記できない。ドヌールのルもまたやっかいなやつだ。上顎と舌の付け根の擦過音(さっかおん)なので表記しにくいだけではなく、日本人には聞き取りにくい。フランス人の発音するDonneur はドヌールよりもドナーと聞こえるだろう。  お菓子のパフェは、もともとパルフェ(Parfait)だったのに、日本人にはrが聞き取れなくてパフェになったのである。Parfait は「完全」の意。「アイスクリームもチョコレートもバナナもストロベリーもぜーんぶいっぺんに食べたいわァ」と駄々をこねるバカ娘に弱り果てた料理番が、「ええい、これならドウダ!」と半ばヤケで作ったのが始まりである。と思うんだけど。  臓器提供者のドナーはフランス語である。Donneur は、「与える」という意味の動詞 Donnerの名詞形である(Donner はドネと発音する)。本当にそうなんだろうなあ、綴りは。  クソーッ、辞書が引けりゃあなあ。こんなもん、一発なのに……。  ここで泡と泡がくっついた。フランス語の「ドナー」は「ダンナ」が語源である。  漢字の檀那は、サンスクリットの「ダンナ」の当て字である。檀那は本来、夫や配偶者という意味ではない。人に施しをする者、与える者を意味する言葉である。  だから厳密にいうと、働かずにぶらぶらしている夫は檀那とはいえないし、お妾(めかけ)さんが夏の夕暮れ、縁側で横坐りになって、湯上がりの胸にうちわで風を送りながら、ばあやに「この節うちの檀那も景気が悪いらしくてさあ……」とつぶやいたりするのは、べつに正妻の地位を詐称しているわけではなく、あれはあれで正しい檀那の用法なのである。 「ダンナ」と「ドナー」ではずいぶん違うではないかという意見が出るかもしれない。しかし、一国内で数百キロも行かないうちにシジミはスズミになり、グラジオラスがグランジュースと変化するぐらいだから、ましてインドのダンナが何千キロもの幾山河を越えてフランスへたどり着くまでにこれくらいしか変化しなかったとすれば、その原型をとどめること奇跡的であるとすらいえよう。  ただ、私の弱点はサンスクリットを知らないことである。サンスクリットの原音に檀那という漢字があてられたとき、すでにそこで中国語という器に合わせて発音の変形がおこなわれているはずだ。次に檀那という中国語が日本語という器に移し変えられたときにも変化が生じているに違いない。 「ダラシがない」の「ダラシ」も元をたどればサンスクリットなのだそうだ。「ダラシがない」というようになったのは、比較的最近のことで、昔は「シダラがない」と言った。「シダラ」を「ダラシ」というのは、ジャズをズージャというが如しだ。最初は一種の隠語だったのだろう。で、そのシダラは、サンスクリットで「秩序」や「教典」を意味するスートゥラが語源なのである。  スートゥラが修多羅になり、修多羅がシダラに変化し、あげくのはてはダラシになったという次第。  だからといって、サンスクリットとフランス語のあいだにそれほど緊密な関係があるのだろうかと、まだ釈然としないむきもあるかもしれない。では、中国語の茶はどうだ。茶は中東でチャイになり、フランスあたりではテと呼ばれ、イギリスではティーになった。他の国でもおそらく同じような発音だろう。 「インド・ヨーロッパ語族」という用語が言語学方面にあるようだが、あれはいったいどういう意味なのだろう。  ここで突然、なぜ日本のことを英語ではジャパンと言うのだろうかという疑問が頭をもたげる。フランス語ではジャポン、スペイン語ではハポン。ヤーパンと呼ぶのはオランダ語だったろうか。みんな似ている。これはおそらくマルコ・ポーロが『東方見聞録』の中で書いた黄金の国ジパングが元になっているに違いない。マルコ・ポーロはイタリア人だから、イタリア語では日本のことをジパングというのだろうか。ああ、イタリア語の辞典がほしい。日伊辞典がほしい。  それではジパングは何に由来するのか。ジパングもジャパンもジャポンもハポンもヤーパンも、すべて何かの訛りに違いない。  疑問が湧くと同時に答えがビビビビッとひらめいた。そうだ、ジパングは「日本」のイタリア式中国語読みなのだ。「日本」は現代中国語では、イー・ベンと発音する。「イー」は舌先を少し上顎に向けて丸めた音で、聞きようによっては「リー」とも聞こえる強い音である。「ジー」と聞く人もあるかもしれない。「ベン」のほうは「ペン」と発音する地域もあるようだ。なにしろ中国は広い。マルコ・ポーロが仕えたのは元の皇帝だから、今のモンゴルあたりで日本のことを耳にしたに違いない。 「ジャパン」の語源が「日本」であるというのは、私の発見である。……と思うんだけど、そんなことはすでにどこかに誰かが書いていて、その道の人にとっては常識なのかもしれないしな。  ああ、辞書が引きたい。1つ辞書を引けば、また1つ疑問が出てくる。それを引くとまた次の疑問が出てくる。そうやって疑問の輪がどんどん広がり、それを最初の疑問へ収斂(しゅうれん)させていくときの快感よ……。  看護婦の静かな足音が近づいてくる。もう12時か。タイコーの時間だ。懐中電灯を持った看護婦が2人入ってくる。優しい人だと体位交換を手助けしてくれるが、そうでない人は、付添いの顔を懐中電灯で照らして、声をかけるだけである。  右側臥位(みぎそくがい)、つまり右腕を下にした横向きの姿勢にしてもらう。いいかげん眠気がさしているせいか、側臥位のほうが眠りに適しているのか、この12時の体位交換で眠れることが多かった。  津軽のおばちゃんは「ちがう」というのを「つがる」と言った。「ものごとが異なる、間違っている」というのを、「つがる」と言うのである。それなら津軽の人は他の人より優れているとか、津軽の風物は他の地方よりも美しいとかそういう意味で「津軽はちがう」というのを津軽弁で言ったらどうなるのだろうかと疑問に思った。おそらく「ツガルはツガル」になるに違いないと思ったが、それを聞いて方言をばかにされていると取られたのでは困るから、私はとても聞きたかったけれども、本当にばかにする気などさらさらなくて、知的好奇心というか、あくまでも学術的興味から聞きたかったのだが、がまんした。  世の中にはガクモンより大切なことがあるのである。          *あんパンの楽しみ、読書の楽しみ*  ここまでの各篇は、時の流れに沿って、それぞれ日医大、防大病院、国リハ、潤和病院で経験したことをつづってきたが、この「あんパンの楽しみ、読書の楽しみ」と「ボーコーローとは何事か」の2篇は、各病院を縦断しておさらいをするかたちになる。                    ■  あれは、日医大の救命救急センターから防大病院に移って間もないころだから、8月上旬のことだっただろうか……。なにしろ、怪我をして以来メモを取るということができないので、日付けなどのことはいっこうに定かでない。妻が私の会社に事故の報告をしに行くことになった。会社を長期に休んでいたが、まだ事故のことははっきりと説明していなかったのである。 「会社に行ったら、おれの机の上に本が何冊か届いているはずだから、丸ビル1階の冨山房に行ってそれの支払いを済まして、ついでに定期購読している雑誌をストップしてきてくれ」 と私は言った。そのとき購読していたのは「本の雑誌」、「噂の眞相」、「ビーパル」、「アニマ」の4誌であったかと思う。 「『本の雑誌』もやめちゃうの?」 「本の雑誌」は、隔月をうたいながらも編集後記というと「発売が遅れてすまぬすまぬ」とあやまる欄ということになっており、そのうち「発売が遅れても死にはしない」と開き直っていつ出るか分からないという状態のころから毎号欠かさず取り続けていたのだ。 「あたりまえじゃないか。読めないものを取っててどうするんだ」  自分の声がいらだっているのに気づいた。もう一生本を読むことはできないだろうと思った。心の底からそう信じていたかどうかは自分でも分からないけれど、そのときはやけっぱちな気分になっていた。悲しみをいらだちにすりかえていたのかもしれない。  30代の半ばに釣りをはじめるようになるまで、私の唯一の楽しみは読書だった。会社に行くときも、どこに行くときも、電車の中で本を読むのはとりわけ楽しいことだった。  1977年から86年いっぱいまでの約10年間、高島平団地に住んでいた。通勤には都営三田線をつかう。高島平駅は始発から3つめの駅であり、会社は9時半始まりだったので、私が乗り込むころにはラッシュアワーを過ぎており、毎朝高島平から大手町までの31分間は坐って行けた。いつもの車両のいつもの席に坐ると、私はさっそくカバンの中から本を取り出し、すぐさま活字の世界にひたりこんだ。だから10年間、毎日のように高島平と大手町のあいだを往復していたのに、そのあいだにどういう駅があるのか、ついに覚えることがなかった。  高島平、西台、蓮根(はすね)ぐらいまでは分かる。しかし、そこから先は地下に入ってしまうせいもあって――いや地下にもぐるまであといくつか駅があったか――地下鉄の駅というのはどこもかしこも同じようなものなので区別がつきにくいということもあるのだが、まあそれは言い訳にすぎず、自分が今どんな駅に到着したかなどということにはいっこうに興味がなかった。私は本を読んでいた。水道橋まで来ると駅名のアナウンスが耳に入るようになり、神保町の声が聞こえると次が自分の降りるべき大手町であることが分かる。そんな程度だった。  1971年に大学を卒業して以来、1度会社を変わったものの私は事故で倒れるまでずっと本づくりの仕事に携わってきた。  少年のころからものをつくるのが好きで、学校では図工を得意とし、中学生のころにはシャボテンに凝って家の庭に木材とビニールで温室を建てたり、またフレームをつくったりした。当時は大工か陶工になりたいと思っていた。しかし、大工や陶工になるような道を選べる環境でもなく、とりたてて特別な能力にも恵まれなかった私は大学にいくことにし、学部は文学部を選んだ。理数系はもともとからっきしだめだったから文科系に進路は限られていたが、法学部・経済学部・商学部といったようなところは就職のための学部と内心ひそかにバカにしており、それに文学部なら本だけ読んでいればそれでいいのだろうから、文学部こそ純粋な学問の場であるというような好都合の理屈をつけて、文学部を選んだのだった。  しかし案の定、文学部の学生の就職先というものはまことに限られていた。大学の就職課の掲示板のどこを見ても文学部の学生を募る貼り紙はほとんどなかった。「対象学部全学部、但し文学部を除く」などという不愉快な募集もあるくらいだった。  ものをつくるのが好きで読書が好き、なおかつ他に特別な能力がない……ということになれば、思いつくのは編集者ぐらいしかなかった。ところが、出版社というのは広告が目につくから会社の名前は有名であっても、一般にその規模はきわめて小さい。文藝春秋、講談社、新潮社といった有名出版社でも毎年編集部員として採用するのはわずかに数名であるといわれていた。今でもその事情はそう変わらないと思う。編集者への道はきわめて狭かったが、なんとかある翻訳書中心の出版社の編集部員として入社した私は、それ以来毎日朝から晩まで文字を相手の生活を送ることになり、それが1987年の事故直前までつづいたのだった。  朝は新聞の朝刊を読みながら飯を食い、通勤電車の中で本を読み、会社に着いてからは原稿の整理やゲラ(印刷前の試し刷り)の校正、出版広告の文案づくりやレイアウト。仕事自体はとても自分の肌に合っていた。朝から晩まで原稿やゲラ相手の仕事だというのに、昼休みに仕事を離れると、こんどは自分の好きな本を読むのだ。仕事が終わればまた帰りの電車の中で本を読み、家に帰ってからは夕刊を読みながら晩飯を食い、寝るまで仕事に関係した本やあるいは仕事とは無関係な自分の好きな本を読む。つまり朝から晩まで、起きてから寝るまで活字漬け、文字漬けになっているのが編集者というものなのである。  最初に勤めた出版社には2年半ほどいたが、組合活動がもとでクビになった。  団体交渉のときの声がデカすぎたのか、こいつはちょっと押せばすぐ倒れると、経営者に弱さを見抜かれたのか、本社の編集部から埼玉県の倉庫へとばされた。組合にはその配置転換を阻止する力がなく、私は飽くまでも編集者になりたかった。  体をつかう仕事が嫌いなわけではない。後に入った会社では、だいたい一番乗りで出社すると――私は会社の鍵を預かっていたくらいだ――まず会社中の灰皿を集めて洗った。灰皿洗いで私の右に出るものはいない。大掃除や棚卸しの日は嬉しかった。長身を利用して天井から吊るされた蛍光灯のカバーを拭いて回った。机の上に脚立をのせ、アラヨッとよじ登るのである。本を15冊、20冊とまとめて茶色いハトロン紙に包むのも、角をビシッとそろえて、ガムテープで正確に梱包しないと、あとで包みを倉庫に積み上げたときに崩れやすい。これも得意だった。  だがそのときの異動辞令は明らかに組合つぶしのためのイヤがらせだったし、ちょうどそのころ腰を痛めていたという事情もあって、配転されても会社に残ってがんばるべきだという友人たちの説得に耳をふさぎ、私は逃げた。依願退職という形にはなったが、敵前逃亡の感はぬぐい去れなかった。  半年ほどある出版社で校正などのアルバイトをしたのち、1974年に別の会社に縁故を頼って入社した。  それから数年、何がきっかけだったのか覚えていないが、最初の会社で同僚だった東京外国語大学イタリア語科出身のK君に「今度、ローレンスの読書会をやるんだけど、来てみないか」と誘われた。ローレンスの原書を毎月1冊ずつ読んで、K君の恩師の研究室で会合を開くのだという。そんなことが自分にできるのだろうかと、いささか、いやひどく心配ではあったが、長年音信不通だった仲間からの誘いである。私は赦免されたのだと思った。それに、あの発禁本『チャタレイ夫人の恋人』を全文読んでみるのも一興かというスケベ心も手伝い、思い切って3加してみることにした。  会合初日の定刻に教授の研究室にうかがうと、まだ他のメンバーは来ておらず、先生おひとりだけがおられた。横文字の本がぎっしり詰め込まれた天井まで届きそうな本棚に囲まれた研究室に入っていき、初対面の挨拶を済ませると、温顔の先生は、 「やあ、藤川さんはパンクチュアルなんですね」 と、おっしゃった。  しょっぱなから、うろたえてしまった。パンクチュアルの意味が分からない。 「いや、まあ、どうも、あはは……」  曖昧につぶやいた(帰宅後ソッと辞書をひらく。「時間厳守」とあった)。  しばらくすると、続々とメンバーたちが集まり始めた。7、8人のメンバーの大半は女性だった。みんな先生の教え子のようである。貴重な時間を割いて、無償で弟子たちを育成しておられるのである。その日初めて飲んだエスプレッソというイタリアのコーヒーも、先生の持ち出しのようであった。  黙って坐っていると、メンバーたちが、 「英語って面倒よね、イタリア語のほうがずっと分かりやすいわ」 などとささやき合っているのが聞こえてくる。私は内心、これはエライところに来ちまったなと後悔したが、ここでまた背中を見せるわけにはいかない。ローレンス漬けの日々が始まった。  朝は早起きしてローレンスと取り組み、会社の昼休みにも飯を食い終わるとすぐにローレンスを開いた。仕事で外に出かけるときにはローレンスと薄い辞書を1冊持って出かけ、用事を済ませると近くの喫茶店に入って1時間ほどローレンスを読んだ。通勤電車の中はいうにおよばず暇さえあればローレンスを読みまくったが、原書を月に1冊というのはサラリーマンにはなかなかきびしく、辞書をひいている暇もないので、内容なんか半分ぐらいしか分からないまま(いや半分というのは見栄で、本当は3分の1、いやいや正直に告白すれば4分の1といったところ)、すっとばして読むといういいかげんな読み方ではあったが、それでも1年ぐらいは続けただろうか。結局、そんな乱暴な読書だったから、せっかくの『チャタレイ』全文も伏せ字だらけの本と同じことで、公序良俗に反する箇所を味わうという当初の目論見(もくろみ)はみごとに外れてしまった。  これはまあ極端な読書体験ではあったけれども、とにかくこんなふうに朝から晩まで本を読んでいた人間が、ある日いきなり活字から引き離されたらどうなるか――。私は最初、極力、本のことは忘れようとしたのだった。本なんか読まなくても死にはしない。面白い本はそうそうあるものでもないし、世の中には本を読まずに生きている人だってたくさんいるのだ。                     ■  8月の下旬に防大病院の隣にある国リハに転院。  病院は5階建てで4階・5階が入院患者の病室にあてられており、4階は脊髄損傷の人たちが多く、5階は脳卒中などの脳血管障害の老人たちが多いということだった。「ことだった」というふうに曖昧な表現をするのは、国リハには翌年の3月まで約7カ月間いたにもかかわらず、私はついに一度も5階には上がったことがなかったからである。私は寝たきりだった。  入院してしばらくは褥瘡の手当てに専念した。褥瘡がなおってからしばらくはベッドの上で訓練を受けた。PTやOTが私のベッドのところまで来て手足を動かしてくれるのだ。1階の訓練室に降りていけるようになったのは、どれくらい経ってからのことだっただろうか。はじめはストレッチャーに乗って降りて行った。だから私はいつも病室の天井、廊下の天井、訓練室の天井と、白い天井ばかり見て1日を過ごしていた。  9月の半ばにハロー・ベストが取れるまで首を動かすこともできず、私の視界の80パーセントは天井で占められていた。私は看護婦に頭上の長い蛍光灯2本を取り外してくれるよう頼んだ。立っている人は気がつかないだろうが、寝たきりの人間にとって顔の真上にある蛍光灯は眩しくてひどく不愉快なものなのである。いやしかし、それは他の患者にとっても同じことなのに、そんなことを言い出すのは私だけだったから、私がことさら神経質なのかもしれない。蛍光灯を外すぐらい何でもないことだと思っていたが、看護婦が備品修理ナントカの伝票を書かなければならないと言っているのを聞いて、なるほど国立病院なのだなあと妙に感心した。  4階に入院している若者たちは皆明るく元気だった。怪我の程度は各人各様で頸髄損傷といっても一人として同じ症状の者はいない。同じC5を損傷していても症状は異なるのだ。  交通事故による脊髄損傷で下半身が麻痺している若者が多かったが、下半身麻痺などは私の目から見ればまったく普通人と同じように見える。車椅子を両手でビュンビュンこぎ、廊下の曲がり角に来ると壁に取りつけられた手すりをグイッとつかんでギュインとカーブを切る若者などは、いったいどこが悪いのか傍目には分からないほどである。  下半身麻痺も全身麻痺も、障害等級は同じく1級である。両腕がきかないだけでも1級。しかしその程度で1級なら、全身麻痺は、名称はともかくとして、特級扱いにしてもらわなければ割りが合わないと思った。なんだったら限定販売純米大吟醸でもいい。  とにかく体を少しでも起こすこと、これが私の課題であった。病院のベッドは、足もとに取りつけられたハンドルをグルグル回すと上半身が上がるようにできている。私は徐々に徐々に体を持ちあげる角度を上げていった。しかし30度ぐらい上げただけでも貧血症状を起こし、苦しくなった。  ある日、病棟の前の広大な空き地でテレビの撮影があった。なんでも「仮面ライダーブラック」の撮影ということで、大きなクレーン車が翼を付けた俳優を吊るしている、とベランダに出た人たちが楽しそうに騒いでいる。そんなことでも単調な病院生活にはこの上ない気晴らしとなるようであった。テレビの撮影ぐらいで何をそんなに大騒ぎしてんだろうね、と横になったまま思った。大の大人がギャアギャア、ギャアギャア、うるさいったらないんだよ、まったく。そんなもの見たって面白くないさ……。じつは見たくてたまらなかったのかもしれない。「あのブドウは酸っぱいに決まっているさ」とつぶやくイソップのキツネになっていたのかもしれない。  上半身を高く起こせるようになるにつれて、窓から見下ろせる所沢の町の面積も広がってきた。たいして高いビルはなく、目立つものといえば西友のビルと一年中イルミネーションをつけているモミの木ぐらいであった。 「ああ、あれがカーサなのか」  元気のよい若者たちが訓練のない日曜日などにコッソリ病院を抜け出してはカーサに行ってきたと話しているのを耳にしていたが、モミの木の下にCASAの文字が見えたのである。  防大病院と国リハという大きな施設を擁しているせいか、所沢の町は車椅子でも通りやすくできており、歩道橋などもスロープ式になっているという話だった。最寄りの航空公園駅には車椅子用のエレベーターも付いているという。  ガラス窓の彼方にバスが走っているのが見えた。もう自分があの乗り物に乗ることはないのだなと思うと、バスが走っている無音の光景というのはなんだか現実感のない奇妙なものに思われた。  このガラス越しに見る無音の風景のような妙に現実感の希薄な感覚を、私はそれ以降たびたび味わうことになる。                    ■  翌1988年の3月、やはり所沢にある潤和病院に転院。ここの病院は脳血栓やクモ膜下出血などのお年寄りが患者の大半を占めていた。  リハビリ中心の病院だったから、患者はみな体のどこかしらが不自由だったが、それでもその症状に応じて付添いを必要とする者とヘルパーの手助けがあれば、特に誰もつく必要のない者とがいた。たとえば私のいた4人部屋でいえば、重症の私には私専属の付添いが1人ついていたし、また足の不自由な中山さんと半身不随になった角田さんは2人で1人の付添いを雇い、1人でベッドから車椅子に乗り移れる加藤さんには付添いがついていなかった。  この病院は埼玉県の中でもひどく辺鄙(へんぴ)なところにあり、屋上にのぼっても見えるものといえばせいぜい雑木林とそれを切り開いて造ったのであろう畑と用水池ぐらいのものであった。  この陸の孤島には週3回、火・木・土の午後、「よろづや」という名のよろずやがやってきて病院の食堂に店をひろげた。毎回持ってくるものは同じようなものばかりだし、値段も町の店にくらべると割高であったが、それでも患者や付添いは決まった日の決まった時刻になると病室から顔だけ出して廊下の奥にある食堂のほうをうかがったりし、比較的自由にうごける者が「よろずや来たよ」と各部屋にふれて回るほど、人々はよろずやが来るのを心待ちにしていた。そして列を作って奪いあうように食品や日用雑貨を買い求めた。  中山さんは、 「あ、あ、あんパン買ってきてくれよ。それといつものアメをひ、ひ、ひと袋」 とどもりながら付添いに頼むのである。自分で買いに行けないことはないのだが、甘いものを禁じられているので、看護婦に見つかると取りあげられてしまうのだ。中山さんは60前とおぼしい、眉毛の濃い目の澄んだ人だった。  中山さんの声を聞きながら、この年代の人は皆あんパンが好きなのかなと、私は国リハで隣のベッドだった小野さんのことを思い出した――。  国リハでは新しい患者が入院してくると、まず看護婦から入院生活の心得といったようなものが説明される。大部屋の病室は黄色いカーテンで仕切られているが、なにしろカーテン1枚なので音はつつぬけである。朝の検温は6時、昼の検温は13時、朝食は8時、昼食は12時、夕食は5時といったようなことから、入浴は月・水・金が男性で、火・木・土が女性、売店がどこにあって、洗濯場がどこにあり、面会時間は何時から何時まで、酒を飲んだら即日強制退院、といったようなことを看護婦がテキパキと患者やその家族に説明している声が聞こえてくる。どうやら隣のベッドに入ってきた小野さんは、その声の調子から年配の男性のようだった。看護婦の説明がひととおり終わると、小野さんがいきなり、 「あんパンなんかは食べてもいいんでしょうか?」 と聞いた。お上の命令に忠実な年代なのだろう。 「かまいませんよ」 と看護婦。その声には少し笑いが含まれているように聞こえた。  この「あんパン発言」を笑わせ上手の友多さんが聞きのがすはずがなく、その後何かにつけては「いきなりあんパン食べてもいいんでしょうかだもんね」と、からかった。 「いやあ、ぼくらの子ども時分にはお大尽(だいじん)の子しか食べられなかったものなんだよ。あんパン食っているのがいると、少しくれやしないかと思って後をついてまわったものさ」 と小野さんは少し照れくさそうな声で言うのだった。  私もあんパンは大好きで、丸ビルの会社に勤めていたころ、昼飯をパンで済ますときはビルの地下にあるパン屋でコロッケパン、コンビーフポテトパン、野菜パンなどと一緒に、いつもあんパンを1個最後に注文したものだ。  話は潤和病院にもどる。毎度のように中山さんがあんパンのことを口にするので、それまで一度も買い物を頼んだことのない私もなんだかあんパンが食べたくなり、あるとき付添いのおばちゃんにあんパンを買ってきてくれるよう頼んだ。私はこの潤和病院に約5カ月間入院したが、ついに一度もその食堂にひろげられた「よろづや」の店を見ることがなかった。簡単にベッドから車椅子に乗り移ることができなかったからである。買い物というものは、できなくなってみると、ずいぶん面白いものだということに気がついた。  買って来てもらったあんパンをベッドに寝たまま食べさせてもらい、あっけにとられた。少しもうまくないのである。かつて、といっても半年前まで食べていたあんパンと、どこかが違うのである。何が違うのか、その違いに気づくにはしばらく時間がかかった。                    ■  病院のベッドは上半身が起こせるようになっていることは先に述べた。最初は30度も起こすと気分が悪くなっていたのが、事故後半年も経つと傍目には普通に坐っているように見えるぐらいまでベッドを起こせるようになった。時を同じくして、左腕のひじを曲げることができるようになった。指も手首も動かない。ただひじが曲げられるというだけのことである。右手のほうは、ひじはまだ曲げることができなかったが、手のひらを返すことだけはできるようになった。そのとき自力で本を読む方法がひらめいた。  ベッドサイドの床頭台の上には、妻が買ってきた「本の雑誌」が立てかけられてあった。天井を向いているときはそうでもないが、体位交換をして床頭台のほうを向くと、鼻っ先に表紙が見える。手を伸ばせばよいのである。手を伸ばして雑誌をつかみ、ページをめくればそれでよいのだ。しかし、それができない。目の前にエサを置かれておあずけを食らった犬のようなものである。もどかしいことこの上なかった(このもどかしさをもっと切実に表現するよい例えを思いついたが、下品になるから書かない)。  ベッドの両脇には、患者が落ちないように、高さ30センチほどの鉄パイプの柵がつけられるようになっている。その柵の上に幅3、40センチの板を渡すと、体の上を横断するオーバー・テーブルになる。テーブルの上に本をひろげ、体を起こして両手を左右のページの上に置いてもらった。  そして左手の親指の爪を左ページの左下に差しこみ、左腕を曲げて手先をズルズルズルッと右に移動させた。これでぺージがめくれた。めくったページはそのままではまた元に戻ってしまう。だから右手の親指側を少し浮かして、左側からやって来たページをすかさずおさえなければならない。  これはそう簡単にいく作業ではなかった。第一、親指の爪が1ページずつすくい取ってくれるとは限らず何ページもいっぺんにひっかけてしまうこともあれば、せっかく1ページだけすくいあげても、他の指、とくに小指がその下のページをひきずって、何ページも持ち上げることになってしまうこともある(指には感覚も力も何もないのである)。これでは仕方がないのでもういっぺん左手を元に戻し、最初からやりなおさなければならなかった。  そのうちに、またあることを思いついた。左ページの左下隅にまえもって三角形の折りグセをつけておいてもらうのである。そうすれば、そこに親指の爪が入りやすくなる。それでも、左手の親指を差しこんではズルズルズルと右に移動させ、右手の小指をテーブルにつけたまま親指側を浮かせ、ページが到達したところでパタンと親指を下におろすという作業を続けているうちに、だんだん本が右斜め前方に移動してしまい、付添いさんを呼んでは本を元の位置に戻してもらうということをくりかえした。  大変なのは指先だけではなく、そもそも体を起こしていること自体が苦しい上に、また首だけガックリと前に倒したスタイルで本を読まなければならないから、5分も読むと首が疲れ、天井を仰いで10分ほど荒い息をつき、またガックリと首を落として本を読む。これを30分もつづけると、もう内容など頭に入らず、ただ目が活字を追っているだけという状態になり、 「すいませーん、倒してくださーい」 と言ってベッドを倒してもらい、急いで水をストローで飲ませてもらって、大きな溜息をつくのであった。  こんなめくり方はなんでもないことのように思われるかもしれない。ところが、自分でめくれるというだけで、コロンブスの卵に匹敵する、じつに画期的なアイデアなのである。というのは、体を起こせるようになるとすぐ本を読みはじめたのだが、最初のころは、いちいち付添いさんに本のページをめくってもらわなければならなかったからだ。これが意外にわずらわしい。なんといって声をかければいいのか。まず思いつくのは「めくってください」だが、どういうわけか同じ言葉をくりかえすのは間が抜けているようでイヤだった。  それに付添いさんも私が本を読んでいるあいだじゅう常にピッタリと付き添っているわけではない。お茶を飲んだり、窓辺に行って外の景色をぼんやりとながめたり、他の付添いさんとおしゃべりをしたり、あるいはふっと部屋から消えてしまうこともある。だから、状況に応じて「お願いします」とか「すいません」とか「おばちゃん」とか「ねえ」とかいろんな合図を送らなければならないのだった。  しかもページというものは指に唾をつけてめくるものだと思いこんでいる人が多く、それをされるたびに 「あーあ、冗談じゃねえよ、まったく、おれの本だぜ、トホホ泣けてくるなあ」 と心の中で私はブツブツつぶやいていたのだった。  それが自分でめくれるようになったのだから、こんな画期的なことはなかったのである。  そしてさらに会社で紙をめくるときに使っていたゴム製の指サックを思い出し、それを左手の親指にはめて、摩擦でページをめくるという方法を改善案として見いだしたのであった。  しかし、人間というのは贅沢なもので、そんな指サックズルズル式のあえぎながらの読書でもできなかったころにくらべれば格段に上等なことなのに、それができるようになってみると、やはり健康だったときのふつうの読書というものがどんなにすばらしいものであったか思い出されてならないのである。  うつぶせに寝ころんで畳にひじをつきながら読む。冬の夜に布団から片手だけ出して本を掲げ、片手の指の操作だけでページをめくり読む。あるいは椅子に坐り机の上に足をなげだして読む。満員電車の中で新聞を器用に折りたたみながら読む。それらの読書姿勢のなんと自由で、なんと閑雅で、なんと豊饒(ほうじょう)で、なんと味わい深かったことか。  新聞はうつむいて読むものである。電車の中は別として、家で読むときはたいてい机や畳の上に大きくひろげてそれを見おろすスタイルで読むことになる。炬燵(こたつ)の上に上半身をさまよわせながら読んでいるのである。  話はいきなり飛ぶようだが、ラーメンもまたうつむいて食べるものである。人は丼の上におおいかぶさるようにして食べているのである。そっくりかえった姿勢ではラーメンは食えない。麺が下唇の外側にさわると、ひどく熱い。うつむいて物を食えなくなり、熱いラーメンをズズズズッとすすることができなくなって初めて気づいたことである。  それに、この指サックズルズル式の読書法では雑誌をパラパラやる喜びというのは味わえない。本来、週刊誌などは最初のページから行儀よく1ページずつめくって読むものではない。タイトルや見出しなどをパラパラとやって気に入ったところから読むのが雑誌の醍醐味(だいごみ)というもので、指サックズルズル式読書法ではこの醍醐味は味わえない。  読書の楽しみについては、さまざまな人がさまざまなことを述べているが、今の私にとってその最たるものは自由である。読書の自由である。気随気ままに本や雑誌あるいはマンガ、チラシの類にいたるまで、とにかくなんでもかんでも自由に読めるということこそが最高の喜びなのである。  それにもう1つ、読書の知られざる楽しみを発見した。それは触覚の楽しみである。本を手に取る。カバーつきのものであれば、多くはPP張りといって、うすいビニールがコーティングしてあるのでひんやりとした感触が伝わってくる。カバーをとれば中の表紙はたいていザラッとした肌ざわりの紙が使われている。そしてなんといっても触覚の楽しみの真打ちは本文。1ページ、1ページを親指の腹でさぐりあて、0・何ミリかの紙のうすさを指の腹に感じながらめくっていくことである。これが触覚を失って初めて知った読書の楽しみの一大秘密なのである。  そのとき私は同時に、あんパンのうまさの秘密にも気づいた。あれは自分の手で持って、上っかわの卵の白身でも塗ってあるのだろうかツルツルしたほうと、下っかわの色の白いフニャフニャした部分を指でつかみ、それをちぎって自分の口に持っていく、あるいはそのまま口に持っていってかぶりつく、そういう行為全体があんパンを食う楽しみなのだ。味覚だけでなく触覚や筋肉の動きなどすべてが含まれているのである。だからそこには空気のうまさも当然含まれてくるわけで、ゴミゴミしたオフィスの中で食べるあんパンよりも、野山や浜辺で食べるあんパンのほうがうまいということになる。  インド人はカレーを指先でこねくりまわして食べるという。それがたしかに一番うまい食事のとりかたにちがいない。金属質のスプーンでカレーをすくうよりも、自分の指ですくい、その温度や柔らかさや硬さを、またその素材を指で確かめながら食ったほうがうまいに決まっている。ちいさくちぎったあんパンを人に口の中へ運んでもらうのでは、あんパンの楽しみは半減してしまう。  本の肌ざわり、これが読書の楽しみの1つであることに気づいている人は案外少ないのではないだろうか†1。  †1 その後の読書法  読書法については『五秒間ほどの青空』に詳述。今ではよほど大きな本や分厚いものでなければ楽に読めるようになった。ベッド上で本を読む方法をひとつ。オーバーテーブルに書見台を載せ、ベッドを起こして本と体の位置を調節する。寝床の高さ調節のできるベッドが望ましい。ページは例によってマウススティックでめくるのだが、グースネックのスティック置きでは高すぎる。そこで缶詰をスティック置きにした。缶詰の上に磁石をくっつけてスティックをのせる(だからスチール缶でなければならない)。缶詰が滑りすぎたので、タッパーのふたを敷いて滑り止めにした。  ホイスト(リフト)を利用してベッド上で新聞を読む方法。体の上にホイストを持ってくる。新聞の両端に、わっかの付いたクリップを留める。わっかをホイストのハンガーにぶら下げる。これで裏表2ページをひとりで読める。             *ボーコーローとは何事か*  都々逸(どどいつ)の故柳屋三亀松(やなぎやみきまつ)は、正月の寄席番組には欠かせない芸人の1人だった。私は高校生のころから妙に都々逸が好きで、みんながやれビートルズだ、やれローリング・ストーンズだといっているときに、三亀松のドーナツ盤レコードをプレーヤーにのせて針を落としては「クーッ、三亀松はええのう」と唸りながら膝を叩いたりする変な青少年だった。だから今でも、そらんじている都々逸がいくつかある。   夕立がザッと降るほど浮き名は立てど ただの一度も濡れはせぬ   この袖でぶってやりたいもし届くなら 今宵の二人にゃ邪魔な月   はなは浮気で漕ぎだす舟も 風が変われば命がけ  寄席のテレビ中継などを見ていると、こういう分かりやすい都々逸をやっているうちはよいのだが、なかには難しいのもあって――そんなのをまあ通は好むのだろうが――演じていると客席が次第にダレてくる。ダレてきたなと見ると三亀松がかならずやる都々逸があった。こんな文句だったと思う。   寝床にトヨをシいてきて 寝たままションベがしてみたい 「トヨ」は雨樋の樋であり、「シいてくる」は引いてくるの江戸なまりだろう。これで客席がドッとくる。するとすかさず「チェッ、こんなのをやると喜ぶんだから」と三亀松が毒舌を吐き、それでまた客席が沸くのだった。                  ■  私は怪我をして以来、このずぼらな人々が憧れる「寝たままションベ」をする状態に置かれている。たしかに便利にはちがいないが、はたで考えるほど楽なものではない(もっとも私の置かれた状態を見てうらやましがる人はいないけれども)。受傷直後、心臓や肺は動いていたが、他の臓器は一時的にその働きを停止してしまったようだった。あとから聞いた話である。その後、肝臓・腎臟その他もろもろの臓器は、血液検査の限りでは特に問題なく働いているようだ。しかし、排便と排尿の機能だけは極端に衰弱してしまい、尿も便も自力では排泄できない体になってしまった。尿意も便意もない。  受傷直後から膀胱には尿道を通してバルーン・カテーテルが留置され、いわばたれ流しの状態で尿を排泄していた。  バルーン・カテーテルについて若干説明しておこうか。バルーンの仕組みについて知ったところで、読者の大半には何の役にも立たないだろうが、人生いつどこでどうなるか分かったものではない。知らないよりは知っておいたほうがいいだろう。バルーンとはその名のとおり風船のことである。最初はなぜ管なのにバルーンと呼ぶのか分からなかったのだが、あるとき看護婦に質問してその構造を知り、納得がいった。  バルーン・カテーテルにはツー・ウェイとスリー・ウェイの2種類がある。共に長さは3、40センチくらい。  まずツー・ウェイについて。膀胱内に差し込む側はミミズのような1本の管だが、その反対側は2又に分かれており、管の中も主要幹線とバイパスの2層に分かれている。主要幹線のほうは尿の排出路(兼膀胱洗浄液注入路)である。カテーテルを体内に挿入後、バイパスの入り口から注射器で5tの水を入れると、膀胱内でバイパスの先端近く(そう、位置としてはミミズの頭部近くにある白い環のあたり)が風船状にプックリとふくらむ。つまり、ただの管を入れたのでは抜けやすいので、膀胱から抜けにくくするために膀胱の中で小さい風船をふくらませるという仕組みになっているのである。  次にスリー・ウェイについて。体内に挿入する側の形はツー・ウェイと同じだが、こちらは1本の管の中が3層に分かれている。風船をふくらますためのバイパスはツー・ウェイと同じだが、主要幹線のほうが、洗浄液を流し込む通路と排出するための通路に分かれているのである。  日医大でも防大病院でも国リハでもスリー・ウェイのバルーンを使っていた。膀胱洗浄をするときには500ミリリットルの生理食塩水を点滴台に吊るして、それを膀胱に流し込む。  膀胱瘻(ぼうこうろう)の手術をしてからは、家庭介護を前提にしたツー・ウェイに切り換えられた。ツー・ウェイでは、大きな注射器で膀胱内に洗浄液を注入し、注入した口から入れた液を出すという方法をとる。スリー・ウェイは洗浄液を点滴台に吊るしておくだけだから処置は簡単だが、ツー・ウェイのほうがよりよく洗浄できるという利点があるようだ。もちろんどちらにしても介護者の手や器具の消毒に十分な注意をはらわなければならないことにかわりはない。  国リハに入院して初めて泌尿器科の診察を受けたときには、まだハロー・ベストを付けたままで、ストレッチャーに寝かされて診察室へ行った。そのときは問診だけだったような気がする。 「まあハロー・ベストが取れてから、どうするかゆっくり考えましょう」 と泌尿器科の主治医のU先生はおっしゃった。髪は半白、長身で寡黙な方である。  私は尿道に挿入された緑色の管を1日でも早く抜いてほしいと思った。他の患者を見わたすと(といってもそんな部分を見ることはできないのだが)、細長いビニール袋をペニスにかぶせ弾性包帯で縛りつけて、失禁というかたちで排尿をしている人が多いようだった。自分も早くそうなりたかった。  バルーンはウロガードという商品名の蓄尿袋に接続されて、その尿袋はベッドの枠にぶらさげておく。車椅子やストレッチャーに乗って1階のPTやOTの訓練室に降りていくときには、尿袋むきだしというのもなんなので、白い布袋をウロガードにかぶせてスナップでとめていた。白い30センチ四方ぐらいの布袋を長いビニール・パイプの先に付けているさまは、まるで白い犬を散歩に連れて歩くような格好に見えるというので、患者たちはそれをポチと呼んでいた。  これからどうするか、道は3つあった。最ものぞましいのは自力で排尿できるようになることである。それとても尿意がない以上いつ排尿するか分からないので、さきほど述べたようなビニール袋を装着することはまぬがれない。第2には導尿。時間を見はからっては、清潔に消毒した細い管を尿道から膀胱に挿入して尿を排泄する方法である。3番めは腹に穴をあけ膀胱に直接バルーン・カテーテルを留置する膀胱瘻。さらに膀胱と尿道のあいだにある括約筋を切ってしまって、たれ流しにする方法もあるようだったが、これはドクターから勧められることはなかった。  2度めに泌尿器科の診察室に行ったときには、尿道から膀胱に内視鏡を挿入して膀胱の中を覗きこんだり、水や空気を入れて、膀胱の圧力を測る検査をした。下半身はカーテンの向こうだから、何をされているのかはよく分からない。下半身にはシビレ以外の感覚はひとつもないからである。U先生が弟子らしき人に向かって、「ここのところに結石がたまりやすい」といったような説明をする声が聞こえる。  検査後、先生から地震計の記録用紙のようなグラフを見せられ、この部分の波形がこうなっているのはよろしくない、なぜなら膀胱の圧力がどうのこうのということで、結局は膀胱瘻にするのが最善の方法であろうという所見を示された。  しかし、私は強く拒絶した。 「ドテッパラに穴を開けるなんて、冗談じゃないよ」  ドクターに向かってそんな口のきき方をしたのは前にも後にもそれっきりである。だいたい私は人の言うこと、それも専門家の言うことには逆らわずに「はいはい」と答えるほうなのだが、膀胱瘻だけはつらすぎた。腹に穴を開けて管を差し込むなんて、そんな恐ろしいことがあるだろうか。  国リハにはいろいろな国から研修生が来ていた。ある午後ベッドでまどろんでいると、U先生が外国人研修生を連れてきて、私についてあれこれ英語で説明し始めた。ところどころ聞きとることができた。ドクターが、 “He doesn't agree to...”と言っている。ああ、これは私が膀胱瘻に同意しないと言っているのだなと、寝たふりをして聞いていた(膀胱瘻は英語で Bladder Fistulaというらしいのだが、それをそのとき知っていれば、会話の内容はもっとはっきり分かったはずだ)。  最初は「ボーコーロ」すなわち膀胱の路かと思っていた。そう聞こえたのである。ところが、あるとき何かの印刷物で膀胱路ではなく膀胱瘻であることを知った。瘻! 痔瘻の瘻ではないか。何というおぞましい字だろう。私は26、7歳のころに痔瘻をわずらったことがある。切開してウミを出す手術、患部をえぐり取る手術、腿(もも)から皮膚を取って患部に移植する手術。あのときの苦痛は忘れられない。痔瘻は痔の王様である。横綱である。痔瘻にくらべたら、イボ痔や切れ痔など前頭かせいぜい小結といったところである。痔瘻の経験を持つ私は、瘻の字にはことのほか嫌悪感を抱いていたのである。なんとか膀胱瘻だけは避けたいと思った。  あくまでも私は自然排泄に望みを託していた。  クランプといって、バルーンをギザギザのついた鋏(はさみ)のようなもので挾んで蓄尿袋のほうに尿の流れ出るのをストップし、膀胱の容量を量るテストをした。膀胱に尿が一定量たまると、「過反射」という現象が起きる。ゾクゾクとした寒気がし、冷汗が出るのである。冷汗が出てきたところでクランプを開放し、どれぐらい尿が流れ出るかを検査する。そのあとで導尿をして膀胱内の残尿を量る。残尿は少なければ少ないほどよい。膀胱内に尿が溜まっていると、膀胱結石その他腎盂炎(じんうえん)にまでつながるような病気の原因になるからである。  残尿を少なくするために、膀胱のあたりを軽く握った手で叩いて尿を出すタッピングという訓練もした。トリガー・ポイントすなわち引き金になるようなポイントがあって、それはテニスボール大らしいのだが、そこを探りあてると尿が出やすいのだと教えられ、妻や付添いや看護婦に必死になって下腹を叩いてもらった。しかし、やはり導尿して尿を出してみると残尿が多く、だんだん暗い気分になっていった。  導尿も簡単なことではない。十分に滅菌したカテーテルを数時間おきに尿道を傷つけないよう慎重に挿入しなければならない。介護面では、膀胱瘻より大変といえるかもしれない。  しかしそれでもドテッパラに穴を開けるよりはましだ。なんとか膀胱瘻だけは避けたい。だけど今の調子では無理かもしれない。どうなるのだろう……。  そんな不安を胸に抱きながらのある日、このような検査がおこなわれた。ベッドに横たわっている私のまわりにドクターと数人の看護婦が集まり、カーテンを引いてまわりを遮断した。いささか物々しい。バルーンを抜いて、尿道から氷水を入れた(下半身の様子はよく分からないので正確なことは保証できないが、たしか氷水を入れると言っていたような気がする)。それで膀胱が反応して水を噴水のように噴き上げれば成功なのだという話だった。緊張して天井を見つめていると、看護婦たちが、 「ワーッ出た出た」 とはなやいだ歓声を上げた。そうか、おれの膀胱は大丈夫だ、生きている、死んでない。はたから見たら、さぞかしこれは奇妙で滑稽な光景だったにちがいないが、私にはとても喜ばしいことであった。そこで私はさっそく歌を作った。 「私のチンコはよいチンコ/ケはバッチリと色黒で/小さな口もと愛らしい/私のチンコはよいチンコ」  我ながらクダラナイ。活字にして残すようなものではない(ましてこれが小学唱歌「人形」の替え歌であることに読者が気づかなければ、ただのヘンタイである)。しかし、そのときの私は、はしゃいでいた。嬉しくてたまらなかった。これでなんとか膀胱瘻の手術はしなくても済むかもしれない。 「やあっ、実験が成功したんですよ」  カーテンを開けるとすぐさま、私はその歌を他の患者にうたって聞かせた。                    ■  病院は病気を治すところだから、病気が治ったら退院しなければならない。ただ国リハのように障害者が社会復帰するために機能回復訓練をするようなところは、一般の病院とは違って収容されている患者が病人ではないから、いつ退院すべきか、その時期の決定は明確ではない。入院前後に得た情報では、国リハの入院期間はだいたい3カ月間が基準になっているということだった。その3カ月はとうに過ぎて、もう半年を越えようとしていた。  国リハでは訓練審査会というものが定期的におこなわれていた。訓練室に医師・PT・OTがずらりと並んで、患者がその前で訓練の成果を披露するというような会である。この患者は十分に機能が回復した、あるいはもうこれ以上訓練をおこなっても回復は見込めないと見なされた場合には、退院を要請されることになる。だから患者はみなこの訓練審査をあまり好んではいなかった。十分に回復しているという印象を与えると退院させられるから少し下手にやってみせたほうがいいという、冗談とも本気ともつかぬ話がささやかれていた。というのは、普通の病気であれば退院は慶祝に値するものだが、障害者の場合は退院してから本当の困難が始まるから、なるべく長く入院していたいのである。  排尿をどのような形でおこなうかという結論が出ないまま、退院の期日がせまってきた。国リハを出たあとどうすべきか、これは深刻な問題だった。他の患者でもその深刻さは同じことだろう。  だいたい自宅に帰るケースが多いようだった。その場合、退院までに自宅を改造しておかなければならない。玄関にスロープをつけたり、家の中を車椅子で動けるように段差をなくしたり、畳の部屋に硬い敷物を敷いたり、壁に手すりをつけたりするのである。患者の障害程度や経済能力にもよるが、少なからざる出費を強いられることは間違いない。それになんといっても、人手の問題が悩みの種である。だから退院を素直に喜ぶような患者や家族はまずいないだろう。盲腸の手術をして退院するのとは訳が違うのである。  わが家の場合、国リハを出たあとどこへ行くか、いくつかのケースが考えられた。  三浦半島の金沢文庫に買ったばかりのマンションがある。しかし部屋は2階にあったから、そこへ戻ったら外出は非常に困難なことになる。ほとんど不可能に近いであろう。つまり部屋から一歩も外へ出ることはできない。階段に他の住民の同意を得てスロープをつけるということも考えたが、なにしろ新築のマンションだし、私1人のために綺麗に仕上がっている外観をスロープを作ることによって崩すことはかなりむずかしいことのように思われた。まわりに友人知人もいない。マンションの部屋の仕組みはもちろん健常者が生活するようにできており、風呂場も寝たきりの人間が入れるようなものではなかった。残念ながらこの案はあきらめざるを得なかった。  妻の実家の1部屋をある程度改造して私のベッドを置き、そこで生活する案が妻から出されたが、やはり通常の住宅だから、車椅子の出入りはともかく、風呂に入ることはまず無理だろう。よって、これもだめ。  国リハの近くに障害者用の住宅を建てれば、訓練に通うことも簡単だし、何かあったときには総合病院だからすぐ診察してもらえるという利点があるので、これができれば一番望ましいことではあった。だが、間の悪いことに所沢の地価がひどく高騰し、その年の地価高騰地区ベスト・ワンとして、いやワースト・ワンか、テレビに報道されるほどであったから、とてもマンションを売却した代金ぐらいでは資金が足りなかった。  結局、都内にある私の実家の建物を半分近くつぶし、そこに私の体に合わせた住宅を建築するということになった。  私は生命保険というものにいっさい興味がなく、それまで1つも入ったことがなかったのだが、マンションを購入するさいに団体信用生命保険とかいうものに強制的に加入させられていた。これで助かった。というのは、よほどの金持ちでもないかぎり、住宅を手に入れるには住宅金融公庫や年金融資から多額の借金をし35年間で返していくというのが、ごく一般的な方法であろう。そこに債務者つまり私が死亡したり1級の障害者になったりした場合には、その借金が棒引きにしてもらえるという制度があったのである。そのおかげでマンションを売って障害者用住宅を建てることができた。ただ、土地までは賄いきれない。  とにかく家を建てることになった。さいわい叔父が建築家であったので、設計その他もろもろのことを依頼することにした。私は国リハにいるころには車椅子に坐るとなぜか大量の冷や汗をかくという状態だったので、叔父のひいた図面を机の上に広げてOTや叔父や妻とともに検討するというのは大変な作業だった。  ベッドに寝たままで大きな青写真を見るのは、きわめて厄介なことである。誰かが図面を手でひろげて私の顔の上に持ってくるわけだから、グラグラ揺れて読みにくいことおびただしいし、持っているほうも3分とじっとはしていられない。それでもう、すべて叔父と妻にまかせ、私は大ざっぱな報告を聞くだけにした。そうすることしかできなかったのである。  さて、家の完成は1988年の7月ということに決まった。3月、約7カ月間いた国リハから、やはり同じ所沢にある潤和病院に転院した。                    ■  潤和病院では4人部屋だった。私の他には誰もバルーンを入れている人はいなかった。病院全体を見わたしても、たしかあそこは百床ぐらいの病院だったが、バルーンを留置している人は数えるほどしかいなかった。  脳溢血の老人が多く、そういう人は見ていると尿意があるものらしく、昼間は付添いや看護婦が溲瓶(しびん)をあてて用を足させたり、あるいは車椅子に乗せてトイレまで運んでいた。ただ脳溢血の人の尿意も明確なものではないようで、私のベッドの向かいにいた角田さんは「もう2度も頭が破裂しちゃったよ」と誰にでも気軽に話しかける陽気な人で院内でも人気者だったが、夜中、付添いに「おしっこする?」と聞かれ、「いや、したくない」と答えたものの、そのまま眠りこんで結局はシーツを濡らしてしまい、「なんであの時しなかったのよ」と怒られていることが何度かあった。  交通事故で下半身不随になった青年は両手が自由にきいたので、自分で導尿をしていた。自己導尿である。しかしこれもグッスリ眠りこんでしまうと過反射に気づかず、失禁してしまうことがあるようだった。  私はといえば、あいかわらず尿道からバルーンを入れ、それをウロガードに連結していたので、看護婦に膀胱洗浄をしてもらう以外には(潤和病院では、それまでの病院と違ってツー・ウェイのバルーンになった)、特に尿で回りに迷惑をかけるようなことはなかったが、それでも不思議なもので、バルーンを留置していても膀胱が暴れてベッドを汚すことが稀にあった。シーツ交換をしてもらいながら考えた。膀胱には膀胱の立場というものがある。面子(めんつ)がある。なのにある日いきなり何の断りもなく、もともとの尿道の太さを上回るような管をつっこまれて、そこから排尿するようにと命じられるわけだから、ふだんは不承不承それに従っていても何かの加減でカンシャクをおこすと、意固地になって無理やり昔の通路を使って尿を出すのだろう、と。  この病院に移ってからは、国リハでしていたバルーンをクランプして膀胱に尿をためる訓練がまったくおこなわれなかったので、私は次第に不安と焦燥をつのらせていった。いったいおれの膀胱はどうなるのだろう。ある日、思いあまって、そういう訓練をしないのは私の膀胱の状態によるのか、それとも病院の手間ひまの問題によるのか、どちらなのだと看護婦につめよったこともあった。返ってくる答えは分かりきっていたのだが。  排便のほうは致しかたない。1日おきにアローゼンという緩下剤を就寝前に飲み、翌日レシカルボンという坐薬を入れるという方法でおこなっていた。これはもう一生続くものと覚悟した†1。  潤和病院に移ってから、どういうわけか血尿が出るようになった。横になっているときは見えないのだが、車椅子に乗ったりするとウロガードの透明な管が膝の上に乗っかる格好になり、それが血で真っ赤になっているのが見えるのである。べつに痛くも痒くもなんともないけれども無気味だった。  赤い切片が管の中にフワフワ浮いていることがあり、これはコアグラといって赤血球の塊なのだと教えられた。赤いものの他に白いものが混じることも多く、ウロガードの本来透明な管の中に白い浮遊物がたくさん連なって浮いているのを見るのも気が重いことだった。  これがひどくなると膀胱炎ということになり、抗生物質を飲んで菌を退治しなければならない。ただ抗生物質はあまり長期間飲みつづけることはできない。体にとって有用なほかの菌をも殺してしまうからである。抗生物質を飲みすぎたせいか膀胱内にカンジダ菌がはびこったことがある。そこで「カンジダ殺し」というのをやった。バルーンから薬液を膀胱内に注入して30分間クランプし、その薬液でカンジダ菌を退治するという方法なのだが、これがまた激烈なものだった。頸損の場合、人によって多少の違いはあるものの、全身の痛覚というものは失われていて、たとえ盲腸炎をおこしても腹部に痛みが生じることはないし、胃が悪くなっても胃が痛むことはない。他の臓器についても同じである。ただ何か体に異変がおこったさいには、痛みのかわりに過反射がおきる。このカンジダ殺しをやったときには薬液を注入した瞬間からゾクゾクする寒けが襲いかかってくると同時に、感覚のある首から上、特に頭から大量の汗が吹き出し、30分間のクランプが終わってカテーテルを開放するころには枕の中までグッショリ汗がしみとおるほどであった。あれはつらかった。  潤和病院の主治医も、また2週間に1度都内の総合病院から来てバルーン交換してくれる泌尿器科の若い医師も、私に膀胱瘻を薦めた。  造影剤を入れてペニスから膀胱までの尿路のレントゲン写真をとり、その尿路の1ヵ所を指さして、 「ここは普通の人でも狭くなっているところですが、あなたの場合は特に細くなっており、ここに長期間カテーテルを留置しておいたり、あるいは導尿という形で日に何回も管を差し込んだりすると、ここが炎症をおこして大事に至る可能性がある」 と医者から説明された。それは理にかなった説明である。しかし医者は同時にこんなことも言うのだった。 「膀胱瘻なんて閉じようと思えばいつでも閉じられるんですよ。バルーンを抜けばすぐ傷口はふさがりますから」  この言い方は、いささか私を立腹させた。腹に穴を開ける必要があるからそうしようというのであろう。それなのに、いつでも閉じられるから開けましょうとは何事か。いつでも閉じられるというようなそんな程度の症状であるならば、最初から開ける必要はないじゃないか。  眠られぬ夜に私の脳裏を「身体髪膚(しんたいはっぷ)これを父母に受く。あえて毀傷(きしょう)せざるは孝の始めなり」という言葉が何度も去来した。身体髪膚これを父母に受く。あえて毀傷せざるは孝の始めなり……。私は全身麻痺である。もう十分に毀傷してるじゃないか。それなのにまだこのうえ腹に穴を開けて管をつっこもうというのか。それはあんまりじゃないか。  しかし退院後の生活を考えると、導尿は無理だろうと思った。体位交換がある。昼間はともかく、夜中に体位交換のために何度か妻を起こし、そのうえ導尿のためにまた起こさなければならないとしたら、妻の健康がそこなわれるのは十分すぎるほど予想できるところだった。  ある日、膀胱洗浄の最中に注射器で入れた生理食塩水が引けないという事態が起こった。いつもなら注入した水を注射器を引くことによって注射器の中に戻して、それを捨てるのだが、何の加減かその日は引くことができなくなってしまったのである。看護婦は主任を呼びに行き、主任がやっても何ともならず、主任はドクターを呼びに行き、ドクターがやっても注射器は動こうとせず、やむなくバルーンを交換した。  その場に居合わせた妻は、 「もし家でこんなことが起こったらどうしようか」 と言って不安がった。結局そのような場合は膀胱が緊張していることが多いので、安定剤でも飲んで安静にして自然に流出してくるのを待てば良いのだと、あとになって知ったが、とにかく経験がないということは恐ろしいもので、泌尿器科の専門医でもなければ、やはり慌ててしまうのである†2。  私は膀胱瘻の手術を決意した。しかし、いったい膀胱瘻とは何なのか、どういう仕組みになるのか、ヘソと恥骨のあいだに穴を開けて膀胱に管を通すというが、どうして尿道でなく管から尿が排泄されるのか、それが分からない。腹に開けた穴からバルーンが膀胱へ到達するまでのその間はどうなるのか。風呂に入ったときに穴から腹の中にお湯が入らないのだろうか――つぎつぎと疑問が湧き起こり、泌尿器科のドクターに聞いてみた。 「膀胱瘻に関する資料が何かないでしょうか、あったらコピーでも取ってほしいのですけど」 「いや、そういうものはちょっとないですね」  意外な返事だった。私は編集者だったせいか、それまで世の中のことはすべて本に書いてあると思い込んでいた。資料の探し方が下手で見つからないことはあっても、ある事柄に関する資料はかならずどこかにあるものだと、私はそれまでの資料調べの経験から分かっていた。まして医療の現場で現実に膀胱瘻というものがおこなわれている以上、それに関する資料がないはずがない。 「じゃ、先生はどうやって膀胱瘻の勉強をしたんですか?」 「それはU先生や他の先生方の下で実地に学んだんですよ」  そのひと言で私は一瞬にしていくつかのことを悟った。国リハのU先生とこの若いドクターの関係、国リハとこの病院の関係、とりわけ医師の世界の実態。なるほどと私は思った。医者の世界というのは徒弟制度なのだ。本で勉強するものじゃないのだ。  家の完成にあわせて、また子供の転校手続きや退院後の私の体調を見はからって、手術は8月の初めにおこなわれることになった。妻の計画はこうだった。引っ越しの後片付けには最低1カ月はかかるだろう。退院1カ月前には引っ越しを終えておかなければならない。それに9月1日には子供に付き添って新しい小学校に行く必要がある。私は真夏に退院すれば10日間は高熱を出すだろう。膀胱瘻の手術に要する入院期間は2週間。あれこれ考え合わせると国リハへの転院は8月のあたまということになる――。もともとこういう算段はじつにテキパキとできる人なのである。  手術のため、再び国リハへ転院。顔見知りの看護婦に案内された病室は、偶然にも5カ月前までいた部屋と同じであり、ベッドの位置まで同じだった。天井の排気口のほこりが一段と厚みを増し、ベッドの脇のカーテンのほこりが増えているだけで、患者の顔ぶれが変わっている以外には何も変わっていなかった。懐かしかった。4階のベランダからながめる所沢の空は澄みきっていて、夏の雲も美しかった。  手術は8月8日。88年の8月8日である。私はもともと末広がりだの、ラッキーセブンだの、4だの9だのにこだわる趣味はまったくない男だが、この4つ並んだ末広がりの数字には縁起がいいと喜んだ。やはり少し不安だったのだろうか。  手術の前日になって困ったことが起こった。急に頭が痛みだしたのである。頭が痛くなることなどめったにないのだが、ガンガンと急にひどい頭痛がしてきた。明日の手術に耐えられるだろうか、どうしたのだろう、よわったことになったと思っているところへ、見慣れない看護婦がやって来た。手術室の看護婦だった。 「今朝から急に頭が痛くなってきたんですが」 と、訴えたが、 「それほど心配することはありませんよ」 と言いながら、脈拍や血圧を測りだした。今日の何時以降はものを食べないようにとか、明日の何時以降は水分を摂らないようにといった手術前の注意事項について、いくつか説明された。 「明日の手術について何か心配なことがありますか?」 「いえ、べつに何も。まな板の上の鯉ですよ。明鏡止水(めいきょうしすい)の心境です」  話している途中、何か看護婦の様子がおかしいので、「あれっ」と思った。呼吸数を測っているようだった。 「呼吸数を測ってるんですか?」 と聞くと、バレたかというような苦笑いをした。測られていると思うと自然な呼吸ができなくて、おかしさが込み上げてきた。  翌朝、手術当日。  妻が子供たちを連れてやって来た。 「昨日から頭痛が止まらないんだよ」 「困ったわねえ。大丈夫かしら」 「ここにきて手術延期というわけにもいかないだろうしなあ」  手術の時刻になった。看護婦の押すストレッチャーに乗せられて、手術室に運ばれていった。妻子も付き添ってきたが、自動扉の前までくると病棟の看護婦も家族も立入り禁止である。手術室というのは、まことに衛生管理が厳重なのである。  ストレッチャーから手術台に移された。天井には丸い巨大なランプがついていた。 「ああ、テレビドラマなんかに出てくるのと同じだ」 と思った。  手術室の看護婦は、病棟の看護婦より動作がいっそう機敏で、態度も緊張に満ちていた。ドクターは、執刀するU先生のほかにもう1人いた。2人とも手術用の帽子をかぶり、マスクをして手術着を着ている。入念に手を洗っている様子である。私は周囲の状況を冷静に観察しうる自分の度胸に誇りを持った。  手術台の上で、側臥位にされた。腰髄に麻酔の注射を打つらしかった。私は全身麻痺だから、体のどの部分にメスを入れられようと痛くもなんともないのだが、それでも麻酔をするのは、きっと脊髄反射で体が震えたりしないようにするためなのだろう。U先生の弟子らしき人が私にむかって、 「背中を丸めるようにしてください」 と言った。腰髄に注射を打ちやすくするためであろう。私はムッとした。この医者は私が頸髄損傷であることを知らないのであろうか。麻酔専門の医者か。それにしたって……。 「あのね、そんなことができるくらいならこんな手術はしないんだよ」 と口まで出かかったが、手術の直前にバカなことを言って手術室の緊迫した空気を乱し、ミスでも起こされたら大変だと思って黙っていた。軽率な発言で何度も人生しくじってるものなあ……。  手術中も意識ははっきりしている。そういう麻酔である。案外あっけなく短時間で手術は成功裡に終わった。手術室を出ると、妻子と病棟の看護婦が待っていた。  自分のベッドに戻り、しばらく妻とぼんやりした雑談を交わしていた。 「頭どう?」 と妻が聞いた。 「頭? 正常だよ。……あっ、頭か。頭痛ね、そういえばもうなんともないな」  そうか、昨日からの頭痛は精神的なものだったのか。手術に対する不安や緊張による心身症の頭痛だったのだ。看護婦はそれを心得ていたのだろう。まな板の上でじっとしていた鯉も、内心はドキドキものだったのである。なにが明鏡止水なものか。第一、私は不眠と抑鬱で精神科に入院した男である。冷静なわけはない。度胸なんかあるはずもない。かろうじて度胸のあるふりをして、体面をつくろっていたのである。  それに明鏡止水なんて言葉は、汚職がバレて辞任せざるをえなくなった政治家が、朝、玄関前で報道陣にマイクを突きつけられて「今朝のご心境は?」と問われたときに、すまし顔で答える文句である。明鏡止水とは、混乱逆上のことである。周章狼狽(しゅうしょうろうばい)のことである。  †1 下剤を変える  アローゼンを数年つかっているうち効かなくなった。いまはカマ(酸化マグネシウム)とラキソベロンを服用。カマは便を軟らかくする粉薬。ラキソベロンは排便前夜に飲む水薬。ともに便の状態に応じて量を増減する。  †2 膀胱のトラブル  安定剤でも飲んでいればそのうちなおるさという楽観は撤回する。精神的な原因で膀胱の具合が悪くなることもあるが、注射器が引けないときはやはりバルーン・カテーテルが詰まっていると見たほうがいい。                    ■  落語家では三遊亭円生が好きだった。古今亭志ん生と並び称された人で、志ん生が破天荒な生き方や芸風で有名であったのに対し――もちろん破天荒とはいってもプロのことだから、そこには十分な計算があったに違いないのだが――一方、円生は老若男女・武士・町人・百姓を細かく演じ分ける端正な芸風を持った人だったような気がする。  あるとき、 「志ん生とご自分とどちらが上手いと思いますか」 と問われ、円生は、こう答えた。 「道場でなら私のほうがだいぶ打ち込めますが、いざ戦場となると、私はだいぶ斬られます」  芸風の相違を言っているようにも聞こえるが、やはり志ん生のほうが上だと認めているのである。並の芸人だったら意地になっても否定するところだろう。それを、これだけユーモラスに表現できるのだから見事というほかはない。自分を客観的に見つめるというのが、sense of humor の原点ではないだろうか。  その円生の戯れ句に「いまはただ小便をする道具かな」というのがある。もとより上品な句ではないが、主語を省くことによって下品に堕ちることを避け、主語を省いてなお男の厳粛な悲哀をしみじみとおかしく表現し得ている。 「古池や蛙(かわず)飛び込む水の音」という芭蕉の句が、俳句の代表のようにいわれているが、こんなものどこがそれほどありがたいのか、さっぱり分からない。それより円生の句のほうが、数等上であるように私には思われる。  私は、事故直後から晩年の円生のような状態になってしまったわけだが、膀胱瘻の手術をした今、私の“主語”は、小便をする道具ですらなくなってしまったのである。  退院は1988年8月22日午後。受傷後、約1年と1月。38歳にして心ならずも聖人君子となりはて、ほとんど木石と化した39歳の私と妻を乗せた寝台車は、埼玉県の国リハから都内のまだ見ぬ新居に向かって、関越道をひた走りに走り始めた。関越道というのはラジオの交通ニュースでよく耳にした道路名である。どんなところなのかと首をねじ曲げて窓の外を見やれば、ただ矩形の黒ずんだコンクリート・ブロックをうず高く積み上げた切り通しばかりの目立つ何の変哲もない道路であった。コンクリート・ブロックの上には、黒い雲が浮かんでいるようにも思えたが、そこまでは見えなかった。              *上の空――あとがきに代えて――*  退院後まもない頃のことである。  天井のカレンダーをぼんやり眺めていた。壁に掛けたのでは見にくいから、天井に画鋲でとめたのである。月の始まりは金曜のこともあれば火曜のこともあるという具合でテンデンバラバラなのに、縦に見ると必ず1、8、15、22、29の順で並んでいる。どの月を見てもそうなっているのが、当たり前といえば当たり前だが、不思議なような気もする。  右側のソファー・ベッドには、妻が突っ伏している。家政婦さんの用意してくれた昼食2人前が、オーバー・テーブルの上ですっかり冷えきっている。  ふたたび天井に目をやる。トランスファー・システム「パートナー」のレールがベッドの上を横切るように敷設されている。レールは左隣の洗面所を通過し、風呂場へとつづく。そのため洗面所のドアも、風呂場のドアも、天井までぶっ通しの両開き型式になっている。  背中が痛くなってきた。少し寒い。寒暖計を見れば20度を越えているし、毛布を何枚もかけているのだから、寒いはずはないのだが、風呂に入ったあとは痙性のくることが多いのだ。寒気がして歯がカチカチ鳴りはじめた。昼飯はいいから、体位交換だけはしてほしいと思う。妻は軽く声をかけた程度では目を覚まさない。くたびれはてて眠りこんでいる。大声で呼べば起きるだろうが、不憫で、とてもそんなことをする気にはなれない。  息子が帰ってきた。玄関の階段を駆け上がる足音とランドセルの横にいくつもブラ下げたおみやげキーホルダーのカチャカチャぶつかりあう音で、すぐに分かる。玄関のドアが開くと同時に私の部屋のドアが開いた。開口一番に言うセリフは決まっている。 「ただいまー!」  元気よく帰ってきた小学4年生は、ランドセルを外すのももどかしげに放り出すと、案の定、 「トイレー!」 と叫びながら私のそばを走り抜け、洗面所へ駆け込んだ。1階の床は全面平坦で凹凸がないから、けつまずく気遣いはないが、それにしてもいそがしいやつだ。勢いよく流れる水の音と一緒に洗面所から出てきた息子に顔を向けて、 「お父さん背中痛いんだけど、タイコーは……まだ無理だよな。ま、いいや。お茶だけくれるかい」  1.5リットルのペットボトルから烏龍茶をコップに注ぎ、曲がるストローで飲ませてもらう。 「じゃあ、行ってくるね」 「え? もう出かけるの。どこ行くの」 「児童館」  ここへ越してきてすぐ、6年生の娘と児童館の卓球クラブに入った。さかんにスマッシュのフォームを繰り返しながら、 「行ってきまーす」 と言いながら出て行ったかと思うと、もう玄関の階段を駆けおりる足音が聞こえた。  怪我をする前は、休日になると子供たちとサッカーボールを蹴りっこしたり、キャッチボールをしたりしたものだ。一家そろってナチュラリスト・クラブの自然観察会に参加したり、大井の野鳥公園へバード・ウォッチングに出かけたことも何度かある。高知県の四万十川へリュックを担いでキャンプに行ったのは、息子がまだ幼稚園児のころだった。ヒッポ・ファミリークラブという多言語同時学習の会にも加入して、毎週土曜日には、家族4人そろって歌ったり踊ったりして楽しんでいた。  とりわけ愉快だったのは、釣りである。まだ暗いうちから高島平駅で始発電車に乗り込み、終点の三田で京浜急行に乗り換え、三浦半島の野比海岸へ。改札口の上にツバメが巣をつくるようなそんな田舎の駅の近くに、「鄙(ひな)には稀(まれ)な」と言っては失礼だが、洒落たパン屋があり、そこでできたてのピザ・トーストその他を買い込んでから浜に向かうのが、いつものコースだった。  釣りはキスの投げ釣りである。幼い子供たちはじきに飽きてしまい、なにがそんなに楽しいのか歓声を張り上げ、砂に足を取られながらも必死になって追いかけっこをしている。妻は、私が百メートルばかり沖合いに遠投した仕掛けを、リールをゆっくり巻いてサビきながら、ときどき、 「あっ、来た来た!」 と笑いながら私のほうを振り返る。竿先にプルプルッと来る魚信がたまらないんだよなあと私はクーラー・ボックスに持参した缶ビールを飲みながら頷くのである。海を吹き渡る広大な風と、何物にもさえぎられることなく降りそそぐ陽光を全身で満喫した。ついこのあいだのことである。  何もかもなくしてしまった。それでも子供は新しい環境への適応がすばやく、今は児童館の卓球に夢中になっているのである。  ああ、痛い。痛くてたまらない。障害者がこんなに痛いものだとは、自分が障害者になるまで知らなかった。街で車椅子の人を見かけても、 「足が悪くて歩けないから、車椅子に乗っているんだな」  そんな程度にしか思わなかったものだ。  ひとくちに頸髄損傷といっても、人によって症状が異なることは何度か述べたとおりである。私の場合、肩から下はすべて麻痺している。  麻痺とは何か――「動かない、感じない、しびれる、痛む」ということである。感覚がないのに、つまりさわられてもつねられても、あるいは刺されてもなにも感じないのに、しびれだけはある。どういう感覚なのかと問われることがある。正座したときなどに足に感じるものとほぼ同じである。肩から下は、腕も胸も尻も腿も脛(すね)も足もすべてジンジンジンジンビリビリビリビリ、朝から晩まで24時間しびれつづけている。  しびれだけならまだなんとか耐えられる(しびれは体に残された唯一の感覚である。言いかえれば、わが身の存在を確認する唯一の手がかりである)。耐えがたいのは痛みである。私の場合、腕のつけねと肩甲骨のあたり、そう、図で描けば肩から下20センチぐらいの幅で最も痛みが激しい。首から上の感覚は、事故前となんら変わりはない。どうやら完全に麻痺している部分と、元通りまったく正常な感覚のある部分の境目ぐらいがいちばん痛むもののようだ。  痛みは日によって異なる。比較的楽な日もある。しかしひどいときには両腕がまるでしびれでできているような感じになる。しびれ棒である。  体が百万ガウスの磁石でベッドに吸い付けられて身動きできないような感じとでもいったらいいだろうか。あるいは、目の荒いロープで体じゅうをグルグル巻きに縛られて転がされている状態だといえば分かりやすいだろうか。  しびれと痛みが最もひどくなるのは痙性を起こしたときである†1。寒いときが特にいけない。歯がガチガチ鳴り、後頭部から首、肩にかけての筋肉が硬直し、肘が自然に曲がってくる。人に伸ばしてもらっても、またググッとひきつって曲がってきてしまう。  仰向けになって寝ていたのでは背中が痛いし、かといって横向きになればなったで、下の腕が極端に痛む。あごが上がり、息も絶え絶えになり、そのうち呻き声が出てくる。歯をガチガチいわせながら、ひと呼吸するたびにうめき声をもらすという有様になってしまうのである。  人と話をしていても、私の意識の80パーセントは、体の痛みのほうに向けられている。呼吸の苦しさのほうに向けられている†2。残りの20パーセントで相手と応対するのである。せっかく友達やボランティアが訪ねて来てくれても、話がちょっと込み入ってくるともう私は上の空になってしまう。ああ、痛い、背中が痛い、腕が痛い、息が苦しい。そんなことばかり考えていて、応対が上の空になってしまうのである。  それまで寝息をたてていた妻が、何事か呟いた。目を覚ましたのか寝言を言っているのか、判断に迷っているうちに、 「ああっ、落ちる! 落ちる!」 と小さく鋭い悲鳴をあげ、今度はいきなり泣きだした。夢を見てうなされているのだ。声をかけて起こしたものかどうか一瞬ためらうが、こういうときに起こすとかえって事態がこじれるということが、それまでの経験から少しずつ私にも分かりかけていた。夢と現実がゴッチャになって、その整理がつくまでひどく厄介な時間を過ごさなければならないのである。  無理もない、と私は思った。妻自身薬の手離せない病人なのである。それが重度障害者の介護に当たらなければならない。  膀胱洗浄を始めたころから妻の息が荒くなり、目がうつろになってきていた。 「大丈夫かい」 と聞いても返事をしなかったので、ハラハラしていたのだが、すべての処置が終わると同時にかたわらのソファー・ベッドに倒れ伏して動かなくなってしまったのである。  妻の1日は膀洗器具の煮沸消毒に始まる。3つのガス台を使って器具を入れたバット、洗浄水をつくるヤカン、洗浄水を注ぐカップを30分煮沸する†3。それから私の顔をふき、ひげそり、朝食介助(私はコーヒー・カップを持つどころか、パンの一片をつまむこともできないので、全介助である)、歯みがき等々を一通り済ませて少し休憩すると、いよいよ本格的な処置の開始である。  台所用の黒いポリ袋、トイレットペーパー、プラスチック手袋、坐薬のレシカルボンなどを用意してから、私の体を左側臥位に体位交換、坐薬にオイルを塗って挿入後、尻にトイレットペーパーをセット。坐薬が溶けるまでのあいだに浴用・浴後のタオル、着替え、横シーツ、縦シーツなどを取りそろえる。坐薬が効いてきて過反射が始まると私の顔の汗を拭きながら腹を押したり摘便したりして排便をうながす。出きったかどうかの見極めが難しく、いちおう肛門が閉まったら終了というのが目安になってはいるが、まだ残っていてあとで失禁ということも珍しくはないので、念入りにおこなわなければならない。排便は順調に行って1時間、へたをすると2時間はかかる。  排泄物をトイレに流すと、つぎは入浴。蓄尿袋をバルーンから取り外し、バルーンの口に消毒したストッパーで栓をする。私の体にベルトをかけ、「パートナー」でシャワー・チェアーにトランスファー(パートナーは、リモコンで操作する)。ここで私は1回めの失神の危機を迎える。排便直後は起立性低血圧を起こしやすい。両足を水平以上に持ち上げて、頭に血が戻るのを待つ。貧血がおさまったところで風呂場に移動。シャワー・チェアーにはキャスター(小車輪)がついている。  私の体にシャワーがかかるようにしておいて(保温のためである)、妻はベッドにとってかえし、シーツ交換をする。ピシッとセットしおえたら、その上に今まで使っていたシーツをかぶせる(風呂場から湿った体で帰ってくるので、新しいシーツを濡らさないための工夫である)。全身くまなく洗い終えると再びベルトで吊り上げ、今度は浴槽へ。肩まで浸かると、やっとお湯の温度が分かる。胸から下では、氷水でも熱湯でも区別がつかない。湯の刺激でしびれがまぎれ、浮力で背中が除圧されるので、じつに気持ちがいい。しかし5分以上入っていると、シャワー・チェアーに戻ったときの失神の危険度が高まるから、そうそうのんびりとはしていられない†4。  妻は私が浴槽に浸かっているあいだに、自分もはだかになって洗髪などを手早く済ませる。タイルにひざまずいて髪を洗う後ろ姿……。  シャワー・チェアーに腰掛けた私の体をざっと拭き終えると、妻は頭にタオル、体にバスタオルを巻いただけの格好で大急ぎで私をベッドにトランスファーしなければならない。私は椅子に腰掛けているあいだは、ずっと息が苦しく、首を激しく前に振り降ろすことによって自らの呼吸を助けているのである。事故以前と変わらず動かせるのは、首の筋肉だけである。  天井のパートナーからワイヤーが伸びてベルトが下がり、体がベッドに横たわると、一気に頭に血が戻り、緊張もとけて深い溜息とともに安堵するのは私だけで、妻は私が湯冷めしないように大型タオルや毛布などをかけ、休む間もなくアルコール綿で手指やバルーンの接合部を消毒、膀胱洗浄に取りかかる。  このあたりから様子がおかしいのに気づいた。ヒュウヒュウと口で息をしている。膀洗が終わると、次に待っているのは膀胱瘻のガーゼ交換。パップ・シートという粘着性の網目シートをはがし、濡れたガーゼを取り去ると、腹に刺さったゴム管が現れる。まだ術後日も浅かったせいか、血膿の分泌していることが多かった。それをアルコール綿でふき取り、イソジンなどをたっぷりふくませた綿棒で傷口を入念に消毒する†5。当時は毎日膀洗をしていたので、毎日妻はこのおぞましい瘻と対面せざるを得ず、処置の最中に泣きだすこともしばしばあった。  ガーゼ交換の次は着衣。その前に頭をドライヤーで乾かさなければ。  完全に脱力し、なおかつ関節の硬縮した大人に、ひとりで服を着せるのは、容易なことではない。トレーナーを着せながら体を左右に転がして、下の水気とり用のシーツを抜き取る。衣服のしわを伸ばし、毛布・ふとんの類をかければ、ほぼ完了。排便を始めて約3時間、時刻は1時をとうに過ぎている。あと、耳そうじやら爪切りやら鼻毛切りなどもしてほしいが、自分の髪を乾かす余力もなく突っ伏してしまった妻に、これ以上何が頼めよう。  膀胱洗浄とガーゼ交換は毎日、排便と入浴は1日おきという入院中のペースを守ろうとした。  処置が終わったら昼食。食事が済んだら、紙オムツを当ててパンツをはき、その上に冬ならズボンを2枚はいて車椅子に移る(寝たきりの人間にズボンをはかせるというのが、これまた大変な労力と熟練を要する作業なのである)†6。  じきに夕食。夜8時ごろにベッドへもどり、2時間ほど側臥位に†7。10時過ぎ仰向けに体位交換して眠剤や緩下剤などを飲んで消灯。  妻は私より強い眠剤を用いていたから寝つきは早かったが、私は痛みもあってなかなか眠れず、いったん眠ってもじきに痛みで目が覚めるので、やむを得ず妻を起こして体位交換させなければならなかった。  私の1日は「延命のための処置、生存のための作業」で明け暮れた。妻の1日もまた私の生存のために費やされることになる。  子供にもできることはさせた。たとえば、朝のゴミ出し、昼の買い物、夜の歯みがき。下の子など、入院の直前まで私がときどき磨いてやっていたものだ。退院したとたんに立場が逆転してしまった。それでもアテにするには2人ともまだ幼すぎ、家事はほとんど家政婦さん任せであったが、介護の手は妻の他になく、誰に相談してよいのか分からず、それに第一、退院指導で、 「奥さん、ご主人の面倒を見るのはあなたしかいないんですから頑張ってください」 と言われていたから、他人に頼むという方向に頭が向くということすらなかった。  妻の心身の疲弊は日に日に度を加え、顔からは表情が消え、口からはトゲトゲしい言葉が出てくるようになり、私の介護が次第に難しくなって、なおかつそういう自分に対するいらだちや嫌悪感にさいなまれ、どんどん悪循環の渦の中に引きずり込まれ、二進(にっち)も三進(さっち)も行かなくなった。 「私には1日の終わりというものがないのよ」  暗闇の中で背を向けて妻は呟いた。 「もう生きていても何のたのしみもない」  凄絶ともいうべき日々が続いた。毎日が綱渡り。車椅子で綱渡りである。いつ転落しても不思議はなかった。  妻は絶望の黒い沼に向かって茫然と歩きだした。私はそれを抱き留めることができない。気配を察知し、ベッドの中からあらん限りの声で呼びもどすというもどかしいいとなみを幾度くりかえしたことだろう。  子供のことも気になった。両親の愁嘆場を目にすること数かぎりなく、特に思春期に入りかけた娘は、修羅場にも何度か立ち合っている。 「人は自分のためだけに生きているのではないんだよ。わが家はもう十分不幸じゃないか。この上にさらに不幸を積み重ねてどうするんだ……」  †1 痙性ではなくふるえ  痙性という言葉がよく分からない。指がぴくぴく動いたりするのを痙性と言い習わしているが、痙攣とどう違うのか。この場面では「ふるえ」というのが正しいように思うので訂正したい。発熱前のふるえは何にもましてつらい。上がりきってしまえばあとは冷やすだけだからどうということもないのだが。今のところ平熱は35度前後。腎盂腎炎をおこすとこれが40度近くなる。   †2 座位の苦しさ軽減法  私のばあいは背中と腕が痛い。ベッドに寝ていても車椅子に乗っていても痛くてたまらない。車椅子のときは起立性低血圧で息も苦しい。前のめりの姿勢をとって背中を完全に除圧すると痛みはほぼ消えるし、血圧も頭を低くするせいか正常になる。車椅子乗車時に前のめりの姿勢をとることをおぼえて以来、乗車時間は飛躍的にのびたし。意識の80%が苦痛のほうに向けられているということもなくなった。もはや上の空ではない。  †3 煮沸時間  水は沸点に達すれば滅菌できるそうだ。今はいちおう15分煮沸している。当初は毎日していた膀胱洗浄も今では週1回、煮沸する器具も注射器とカップだけ。水はドラッグストアで精製水を買っている。  †4 入浴時の失神予防  受傷後数年間は摘便時の過反射がひどく、肩から上が冷や汗でぐしょぐしょになった。だから排便が終わって風呂場へ行くと、何はさておきシャンプーをしてもらった。ところが排便直後に座位をとると起立性低血圧をおこして失神しやすい。排便や入浴は介護負担が大きく、じきに妻から訪問看護婦に移行したが、週3回の入浴のたびに失神していた。何百回失神したか知れない。  対策はこうした。看護婦が私の顔色を見ながら介護する。顔色が悪くなって返事が曖昧になったら危険信号。首が前に倒れたら失神と見なす。そのばあいは片手で両足を挙上し、片手で腹部を圧迫する。これで意識はもどる。声をかけるのも意識回復に効き目がある。  はじめから脚を上げておけばいいのだと気づき、ホイスト(リフト)をつかってシャンプーのあいだ脚を水平以上に上げることにした。これで失神はなくなったが、この方法だと一手間ふえる。そこで考えたのはシャンプーを後回しにすること。というのは、失神する前には目の前が暗くなるので危ないと分かるのだが、シャンプーで目をつむっていると意識が遠のいていくことに気づきにくい。受傷後10年もして体が慣れ、冷や汗も起立性低血圧も少なくなってきたから採用できるようになった順番だ。ただし長湯はいまだにこわい。  †5 膀胱瘻の手当  イソジンやアクリノールといった消毒薬は手術直後の話であって、いつまでも付けているとかえって皮膚に悪い。退院時の指導を守ればいいというものではない。そこまで考えた退院指導をしてほしいものだ。  †6 ズボンのくふう  もう10年以上ズボンははいてない。今はこうしている。車椅子の座席に毛布なりタオルケットなりを敷いておき、そのうえにクッションと平型おむつをのせる。車椅子に移ったら左右から毛布を巻いておしまい。巻きスカートにするわけだ。おむつで蒸れることもない。外出するときはさらに膝掛けで下半身を覆ってしまう。  †7 睡眠時の体位  体位交換のローテーションを変えた。私は背中が痛いのだから仰臥位では眠れない。消灯時に側臥位をとることにした。これでだいぶ眠れるようになった。右腕のマヒがより強く、ということは痛みも少ないので右を下にして寝る。                    ■  妻への説得を続ける一方で、支援体制を作り上げるべく、ありとあらゆる手掛かりを求めて頭を下げまくった。とにかく1日も早く、少しでも多く妻の負担を軽減しなければならない。理想を言えば、家事専門の人と私の介護専門の人を住み込みで頼みたかったが、家の間取りも経済もそれを許さない。それに他人と1つ屋根の下に暮らすということは、長期になると、たとえそれが気心の知れた相手であってもなかなか難しいことなのに、まして初対面の人であれば、お互いがそうとう我慢しないと長続きしない。  家政婦さんはつぎつぎと代わった。いきなり「やめる」と言われる場合が多く、次の人を探すのがこれがまたイチルの望みを託して電話をかけまくるというテしかないのだから、うんざりするほどしんどい。私は電話のダイヤルひとつ回せないのである。誰が回してくれるのか。なんとか電話をかけても、片っ端から断られてしまう。住み込みの家政婦そのものが、年々少なくなっているのである。見かねた友達が連絡を取り合い、10人でそれぞれ10軒ずつ紹介所に電話してくれたことがある。合計100軒。それでも人は見つからなかった。  福祉事務所のケースワーカーにも相談した。退院前からなにかと世話をやいてくれた親切なワーカーである。役所や役人というと、とかく評判の悪いものだが、私の経験した限りでは、福祉事務所とか保健所など、高齢者や障害者の現場に実際に立ち合う部署の人は親身になってくれる。  しかし、その親切なワーカーも、 「いや、ほかのお宅からもときどき家政婦さんの件を頼まれることがあるんですが、それを言われるのが一番つらいんです」  困惑しきった声が、電話機から聞こえてくる。福祉事務所と家政婦紹介所とのあいだには若干の連絡がないわけではない。しかし、紹介所は福祉事務所の管轄下にあるわけではない。  これが保健所となると、紹介所とはなんのつながりもないらしく、いよいよ妻が入院しなければならなくなったとき、 「どこか、看護婦の資格を持った人を抱えている紹介所はないものでしょうか」 と担当の保健婦に問い合わせると、 「直接には知らないんですが、他の者の意見も聞いて、だいたいこのへんが良いのではないかと思われるところを挙げてみました」  恐縮した文面の手紙とともに数軒のリストを送ってくれた。その中に「在宅看護研究センター」(現・日本在宅看護システム株式会社)を取り上げた新聞記事の切り抜きが同封されていた。もともと日赤の看護婦がボランティアでおこなっていた訪問看護を発展させた団体であるという。記事の文末に「センター」の電話番号が記されていた。なんとなく不安ではあったが四の五の言ってはいられない状況だったので、思いきって電話してみた。  その翌日、すぐさま2人の女性が来宅し、訪問看護のシステムについて説明してくれた。膀胱洗浄などの医療行為が入る場合には医師の依頼書が必要なこと、定期訪問のほかに緊急訪問も受けられること、24時間の電話相談があること等々。さらに料金システムの説明とともに、低所得者は「心の開発集団JAM」という慈善団体のバックアップが受けられる旨告げられた。JAMとの折衝も、「センター」のほうでやってくれるという。異論のあろうはずもない。さっそくお願いすることにした。――1989年春のことであった。  その後、保健所の訪問看護も特例的に週1回受けられるようになり、同時にボランティアの介護ヘルパーも来てくれることになった。  体の硬縮を防ぐ他動的運動もままならず、曲がった手の指を見るたびに憂鬱と不安をつのらせていたが、これもボランティア団体からベテランのPTが週2回来てくれることになって解決した。  福祉事務所・保健所・保健相談所・社会福祉協議会・ボランティア団体などの協力によって、わが家の支援ネットワークは徐々に広がっていった。  1992年に区役所と医師会の共同事業でわが区の訪問看護制度が確立するまで、毎日のように「センター」の訪問看護を受けた。JAMの援助も、本来、月4回1年間という限度があるところを、その枠を大幅にこえて続けていただいた。  区の訪問看護制度の開始と前後して、泌尿器科と内科の医師の定期的な往診も受けられるようになった。  もうこれ以上の支援体制は考えられないほどである。自分が幸せだとは思えないが、しかし障害者としてはかなり恵まれたほうだと思って私は感謝している。                    ■  本書の出版経緯について少し触れておきたい。また、原稿作成の具体的方法について記すのも、ムダなことではないだろう。  退院して2、3カ月経った1988年の晩秋、椎名誠氏から電話がかかってきた。私も妻も昔から氏の大ファンで、妻はときどきファン・レターを出していた。作家とそのファンという、ただそれだけの関係だったのだが、私の事故をお知らせしたところ、入院中、国リハと潤和病院の両院に1度ずつ夫人同伴でお見舞いをいただいた。それだけでももう十分ありがたいことなのに、さらに退院後のお電話である。 「事の顛末を本にしてみてはどうですか」  受話器から聞こえてくる氏の声は、低く、もの静かではあったが、その内容は決然としていた。  すでにお知り合いの編集者に話をして承諾を取り付けてあるという。 「あとは藤川さんにやる気があるかないか、それ次第です」  電話をいただいただけですっかりアガっているところへ、その上に話の内容が内容だからシドロモドロになってしまい、正確にはおぼえていないが、確かそんなふうにおっしゃったと思う。 「2、3週間後にまたかけますから、それまでに考えておいてください」  長年愛読しつづけた作家からのお誘いである。おそらく楼蘭(ろうらん)取材旅行直前の最もお忙しい時期に私のために奔走してくださったのだろう。  鉛筆1本にぎれるわけでもない自分に、本の出版などという大それたことができるだろうか。引き受けたはいいが、やっぱりダメでしたなんていうことになったらどうしよう……。迷いに迷ったが、人生、時には自分を追い込んでみることも必要だろうと決意した。  まるっきり見通しが立たなかったわけではない。事は出版の話である。どういう手順になるか、様子は分かっている。これがキンのサキモノトリヒキかなにかを勧められたのでは皆目見当がつかない。私がテープレコーダーに声を吹き込んで、妻がワープロでテープ起こしをするということにした。妻は病を得てからはしばらくワープロから遠去かっていたが、かつてはタッチ・タイプという特殊な入力方法で1時間に1万字近くを打ち込む腕前を持っていたし、足踏み式のテープレコーダーを使ってテープ起こしの仕事もしていたのである。  12月、椎名氏の盟友星山佳須也氏来訪。出版の志と経営感覚を熱血で固めたような編集者である。原稿依頼というのは昔も今もずいぶん大雑把なもので、内容に関する細かな取り決めはもちろんのこと、いついつまでにどれくらいの分量の原稿を渡すとか、それを守れなかったさいの罰則だとか、仕事に対する報酬だとか、そういうキッチリした取り決めはおこなわれないのが通例である。契約書を交わそうにも、なにしろ著者自身なにを書こうとしているのかよく分かっていないので、約束のしようがないのである。あやふやながらとにかく、これで正式にスタートした。  声の録音は、このようにしておこなった。まずベッドの枕元にラジカセを置き、スイッチを「録音」状態にしておく。つぎにラジカセのプラグを環境制御装置(手や口のわずかな動きで、電動ベッドや照明などいくつかの電気器具を操作する機械)につないで、電源をオンやオフに切り換えることによって、テープを回したり止めたりするのである。原理としてはこれだけのことなのだが、さらにラジカセにピン・マイクを接続して、小さな声でも録音できるように工夫した。声の吹き込みに慣れていないせいか、ひとりでブツブツしゃべるのはバカげた行為のように感じられてならない。部屋に誰かひとりでもいたら、恥ずかしくて絶対にできない。  ピン・マイクにもオン・オフのスイッチがついている。そのスイッチをオンにしてマイクを胸元に止めてもらったら、あとはひとりで作業する。テープを巻き戻して再生するという芸当はできない。もちろん人にやってもらえば、前になにをしゃべったか確認できるのだが、ラジカセから出てくる己の声を人に聞かれるのは、たとえそれがわが子であってもキマリが悪くてたまらない。  メモもなにもない。ひたすら意識を集中して、話の展開を頭の中で練っておき、なるべくテープ起こししたものがそのまま文章になるように吹き込むのである。うまくいくわけがない。もともと能弁なほうではないし、痛みといらだちを抑え込みながらの作業である。他にも考えなければならない心配事は山ほどある。  果たしてテープ起こししたものを見れば、文章のテイを成しておらぬ。妻を横に坐らせ、原稿を前に置いて添削。 「右ページの、1、2、3、4……7行めから、8、9、10行めまで4行削って」 「ええと、1、2、3、4……」 「右ページだよ、右。そっちは左だろ」 「7行めから10行めと。ええっ、こんなに削っちゃうの? もったいないじゃない。せっかく打ったのに」 「そんなこと言ったってお前、著者に文句つけるオペレーターなんて聞いたことないよ。文章はな、削れば削るほど良くなるんだから。つぎ。そこから2行めの中ほどの『であるマル』のマルをテンにして……。ああっ、『である』はそのままでいいの。マルだけテンにすればいいの」 「だって、『であるマル』をテンにしろって言ったじゃない」 「そうじゃなくてさぁ……」  マルをテンに変えるぐらい、自分でやれば1秒で済む。それですらこの有様。複雑な直しになると、2人ともイライラがつのるばかりで、少しもハカがいかない。妻はワープロを打つことには慣れていても、こんな仕事は初めてなのである。私がどう添削すべきか迷ってしばらく考えているうちに、赤ペンをにぎったままコックリコックリ居眠りを始めてしまうこともあった。推敲は遅々として進まない。  推敲は後回しにしてもかまわない。吹き込みの仕事が優先だからである。それよりテープ起こしが問題だった。  部屋の片隅に置かれたワープロに向かい、耳にイヤホーンを突っ込んだ妻は、足でガチャガチャとテープレコーダーを巻き戻したり再生したりしながら、キーボードをカタカタ軽快に打っていたかと思うと、ふいに足も手も止め、目をつむったまま動かなくなることが多くなった。どうやら私の声に聞き入っているようである。そのうち、目から1筋2筋の涙をこぼし、しゃくりあげ、泣きだしてしまう。 「具合悪いから今日はもうお薬飲んで寝るね。晩ごはんいらないから」  フロッピー・ディスクをしまいながら、鼻声でそう言うのである。  わが家の支援体制が整い、妻の家事や介護の負担が軽くなっていくにしたがって、妻の「居場所」もまた少なくなってしまった。家事も介護も十分にできなくなった今、私の仕事の手伝いをするということが、妻の最後の拠り所になっていたのである。ところが、テープの内容は、否が応でも悲しい日々を想い起こさせずにはいないものだった。  テープ起こしは、一言も聞きもらしてはならぬ仕事である。ただでさえも集中力と緊張を要するのに、その内容が自分にとって最もつらい事柄ときていては、安定剤を飲み飲みかろうじて生きているような状態の人間にはむご過ぎるのである。といって、それを取り上げたら、ますます立つ瀬がなくなる。  原稿のことを考えない日はなかった。なんとか進めなければならない。しかし焦ってもどうにもならない。 「まぁ、のんびり行こうぜ。また今度、調子のいいとき打ってよ」  私はつとめてノンキそうな声で言った。己の体の痛みと妻の心の痛みをなだめながら、2、3歩進んでは立ち止まり、また2、3歩進んでは蹲(うずくま)った妻が起き上がるのを待つというふうにして日は移っていった。  結局、妻は「変身」「横になる」「不機嫌とほほえみ」「ハロー・ベストのキキカイカイ」「太郎はたちまち……」「笑えない話」「あんパンの楽しみ、読書の楽しみ」「ボーコーローとは何事か」の8篇のテープを起こした。 「変身」「横になる」の添削をし、いちおう原稿らしきものに仕上げたのは、1991年の春。原稿依頼を受けてからすでに2年以上が経っていた。2年間で2篇である。このペースでは、本になるまで身がもたない。内容の方向や程度に対する評価も気になったので、とにかく星山氏に見てもらうことにした。  約2年半ぶりに来宅された氏は、だまって2篇読みおえると、顔を上げ、 「もしお体の負担にならなければ、担当者を週1回お手伝いに参上させたいと思います」 と切り出された。熱血編集者は即断即決なのである。  願ってもないお申し出だが、一段と責任が重くなったのを感じた。数少ない編集スタッフの1人が毎週半日いなくなることが編集部にとってどれほどの痛手であるか、私は経験上知っていたからである。  以来、毎週火曜の午後、松本千夏さんの来訪を受けることとなった。細くて華奢な感じの松本さんは、いつもドアを小さくノックして、足音を忍ばせるように静かに部屋に入ってきた。私の激しい直しの指定によく耐えて、テキパキと処理してくれたおかげで、仕事は順調に回転していった。行の移動や削除や新しい文章の挿入などで原稿がまっ赤になって、私自身どう直したのか訳が分からなくなることもあり、そんなときはいったん原稿のコピーをとって、それを切り貼りして並べかえ、またそれのコピーをとるという工夫で分かりやすくしてくれた。そこへまた新たな朱筆と口述筆記を加えた。  なんというか、その……ヨメ入り前の娘さんに口述筆記させるのはどうかと思われるような箇所も多々あったが、松本さんは極力自分を透明にして私の手足となることに徹してくれた。  著者にストローでお茶を飲ませたり、またその車椅子をリクライニングしたり起こしたりする「介護付き編集者」というのも珍しいだろう。  編集者も大変だったろうが、著者もまたシンドかった。毎週火曜日が来るたびに、「今日はちゃんと仕事ができるだろうか」という不安をいつも抱いた。筋弛緩剤と痙攣止めと痛み止めを飲みながらの仕事だった。2時間やると目がくぼんだ。  そんなふうにして約1年半が過ぎたある日、仕事が終わったあとで、 「あのう、じつは……」 と、松本さんから思いがけない話を聞かされた。結婚のため会社をお辞めになるという。 「今後のことは上の者ともよく相談しまして、ご迷惑のかからないようにいたしますので」 「いやあ、そうですか、それはどうもどうもおめでとうございます。お相手の方とはどういうきっかけで? えっ、クロスカントリー・スキー? カヌー? アウトドア派だったんですか。そうですか。私も釣りが好きでねえ。……それはそれは」  笑いながら見送ったものの、これは困ったことになった、そうとう困った事態になったと思った。録音したはずのテープが、機械の操作ミスかなにかで60分のうち45分まったく無音だったときも、しばらく虚脱状態に陥ったが、今度はそれ以上のショックだった。この人がダメになりましたからハイつぎの人という訳にはいかないのである。自動車の部品を交換するのとはちがうのである。すぐさま対策を2、3ひねり出したが、どれもうまくいきそうにない。まったく弱ったことになったと思ったが、途方にくれることはなかった。なんの、おれはこの5年間、これより険しい山をいくつも乗り越えてきたのだ。今度もなんとかなるだろうと開き直ることにした。  翌週あらわれた松本さんは、 「いろいろ考えたんですが、現在担当している他の仕事は、べつの者に引き継いでいくとしても、これだけは、最後まで私がお手伝いさせていただくことに……」  このようにして本書は上梓の運びに至ったのである。                    ■  小著は、企画から出版までのあいだに足かけ6年の歳月を要した。まことに多事多難な6年であり、とても原稿作成どころの騒ぎではなかったのだが、逆にこの仕事があったからこそ、からくも生をつなぎとめ得たという一面もあった。明治の歴史家吉田東伍(よしだとうご)が、その大著『大日本地名辞書』(冨山房刊)の序文に記した「悪戦僅(わずか)に生還するの想(おもい)あり」という1行が、しきりに脳裏をかすめてならない。人生50年の時代に13年間かけて独力で1200万字を書き上げた東伍にのみ許される感慨であることは分かっている。こんなささやかな随筆集の引き合いに出されたのでは、東伍もたまったものではないだろうが、私は私なりに彼とはまた違った意味でこの1行が胸に迫ってくるのである。  私は、1人で放っておかれたら1週間も生きてはいられないような体である。飢えはともかく、渇きと痛みの中でまたたく間に腎不全になり、ふるえと高熱の中であっけなく絶命するであろう。本書は私の延命に力を尽くしてくれた妻子・親族をはじめとする多くの人々の支えなくしては、とうてい成し得なかったものである。  この6年間で子供もずいぶん頼もしくなった。小学生だった娘は高校生になり、息子も中学生に成長して、いまやトランスファー、体位交換、食事介助など、たいていのことはこなせるようになった。平穏な家庭に育ったのではできることではない。毎日のことである。ほどほどの逆境は人を鍛える、と思う。  最近、ボランティアとは何かということを考えさせられる機会がしばしばある。日本では「無料奉仕」という意味合いで使われることが多いようだが、現実の場面にあてはめてみると、いまひとつしっくりこない。「心意気」という訳語を付け加えてみてはどうだろうか。   1993年5月                            藤 川  景 日本音楽著作権協会(出)許諾第9370563-301号 (P.129)「OLD FRIENDS」 Words Music by Paul Simon Copyright 1968 by PAUL SIMON, New York,N.Y.,U.S.A. 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