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 障害中年乱読日記(2003.6〜2008.12 掲載分)→

バックナンバー「障害老人乱読日記」(2009.1〜前号 掲載分)→


おねがい

今まで読者からいただいた感想を「読者の反響」として掲載することにしました。
ただ私はパソコンが苦手なので以前いただいたメールのすべてを見つけることができません。
「あれ? 自分の出した感想が載ってない」とおもわれたかたは、
ごめんどうでも号数と書籍名を添えて再度お送りいただけるとうれしいのですが。
なおこれからも毀誉褒貶いろいろなメールを期待しています。(藤川景)


 100(2017.5掲載)

 『原始仏典』
 
(中村元、ちくま学芸文庫、2011.3)

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 ブッダの教えだから仏教という。厳密にいえば釈尊の時代、仏教以外にもたくさんの宗教があり、その理想的な修行者のことをどの宗教でも「ブッダ」といった。 なかでも釈尊は傑出していたので、釈尊=ブッダということになった。それならば釈尊がいったこと以外は仏教ではないという立場をわたしはとる。 釈尊没後800年に編まれた大乗経典など仏教とはいえない。生きているころ、あるいは没後すぐ弟子が編んだ原始仏典なら仏教だ。信用できる。

 そこで原始仏典に関する本を読んでみることにした。さいわい、ちくま学芸文庫にそのものずばり『原始仏典』という本があった。 著者は中村元だからまちがいはない。ところが買ってみたら字が小さい。文庫だからやむをえないとはいうものの68歳の爺にはつらいのじゃ (ただ誠実なことに、本書は東京書籍(株)の『原始仏典』TとUを合本にしたものだと冒頭に記してある。 こういうことはたいてい奥付対向ページあたりに載せてある。誠実というゆえん)。古本で底本を入手。読んだのはそちら。 本書は原始仏教の原典をそのまま訳したものではなく、中村が噛み砕いてそのエッセンスを伝えたもの。 ラジオやテレビで講演したものをもとにしているから文章は平易。ただ以前紹介した「障害老人乱読日記」bT0『仏教、本当の教え―インド、 中国、日本の理解と誤解―』(植木雅俊、中公新書、2011.10)よりは難解。やはりお話仕立てになっているもののほうが面白い。

●文庫版解説「文献をして真実を語らしめよ」

 文庫版は解説だけを読んだ。この解説がすばらしい。筆者は宮本啓一(1948〜。インド哲学研究者、國學院大学教授)。中村元に師事。

 解説によれば――釈尊入滅後、仏教の出家集団はしばらく一枚岩だったが、100年もすると20あまりの部派に分裂。 これ以降の仏教を部派仏教、それ以前を原始仏教と呼ぶ。部派仏教は西暦紀元前後(ということは釈尊入滅後約500年後)、 それまでの出家至上主義を批判、衆生救済色を強く打ち出す大乗仏教を興した。《さまざまな歴史的経緯の末、結局、 わが日本に伝えられた仏教(伝統仏教)は、すべて大乗仏教の流れを汲むものとなった。 そのため、日本では、長きにわたって原始仏教は知られてこなかったのである。》「仏教」伝来以来わが国では釈尊の全き思想は伝えられてこなかったことになる。 いや、はなからマガイモノが伝来したのだ。

 ところが西洋では19世紀に原始仏教の研究が盛んになり、その成果が日本に押し寄せて、 日本の津々浦々にゴマンとあるお寺の仏教は釈尊の説いたものではないということが明らかになり、心ある僧侶は大混乱をきたした。 中村は僧籍を持たないから、原始仏教と大乗仏教を峻別した。「文献をして真実を語らしめよ」は中村の口癖だった。 ただ中村は、《原始仏教だけが正しい仏教であり、大乗仏教は仏教ではないなどという、これまた偏狭な考えに陥ることはまったくなかった。 古今東西、さまざまな思想潮流があるが、中村博士は、その豊かさを損なわず、それぞれにかけがえのない真実があるという立場を貫かれたのである。》 以上「解説」から。本書を読むと、寛容の精神は釈尊の精神でもあった。中村はそこに学んだのだろう――だが本音をあかせば、 大乗仏教は仏教ではないと考えていたと読める。

 なお、Wikipediaによれば、『スッタニパータ』も『ダンマパダ』も中村元が初訳とのこと。 ただWikipediaは書き手によって内容がバラバラだから(編集者の介在しないインターネットの最大の弱点)、それゆえ諸説あり。 『法句教』は釈尊没後ややあって編まれたもので、日本伝来は古いが、ほとんど顧みられることはなかった。だからそれまで日本人はこれを知らなかったのだ。 中村元は仏教界で並ぶものなき大恩人といえるのではないか。

 

  『原始仏典T 釈尊の生涯』(中村元、東京書籍、昭和62.10)

●古代インド文明を作ったのは誰か

   原始仏教は古代インド、紀元前6〜5世紀、ガンジス川中流で成立。釈尊の生誕は紀元前463年だろうと中村は考える。 仏教以前はヴェーダ神が信仰されていた。《ここではアーリヤ人と先住民族との混血が盛んに行われました。 インド文明の主流を形成したのはアーリヤ人ですが、これは西洋人と同じ血統を引いている人種で、色が白く、西洋の古典語であるギリシア語、 ラテン語などと似ているサンスクリット語を用いていました。これに対して原住民はドラヴィダ人、ムンダ人その他種々の人種がいました。》 ということは西方からやってきた白人のアーリヤ人が、その高度な文明を以てヴェーダ神を信仰する原住民のドラヴィダ人を征服したということになる。

 ここでいう西洋人はおそらくギリシア人だろう。「障害老人乱読日記」bS4『木馬と石牛』(金関丈夫、法政大学出版局、1982.3)で、 金関はヤマトタケル説話がいかにギリシア悲劇のエディプス説話に似ているかということを詳説している。日本人の先祖がギリシア人であるとは思わないが、 世界の4大文明はおもいがけないほど広く速く地球上に拡散しているのだ。

 仏教の起こった時代になると、学徳の高いバラモンは原住民とさかんに混血した。それによってかどうかバラモンの威信は下がり、 釈尊以前のヴェーダ信仰(アーリア人の自然信仰)は単なる迷信にまで地位を落とした。言論の自由が保障された時代であったので、 思想家たちは「人間は何をやっても許される」といいだした。《このように種々の異論が行われていたので、人々は帰趨に迷い、 はては判断や思考を全部中止してしまうことを説く懐疑論者も現れました。》

●ダルマとは何か、ブッダとは何か

 そこに釈尊が現れた。当時の思想界でおこなわれていた「身体と霊魂はひとつのものであるか否か」などの質問には 《これらの形而上学的問題の論議は益のないことであり、真実の認識、正しいさとりをもたらさぬ》として答えなかった。 釈尊が目指したのは「真の人間の生きる道」、「人間を人間として保つもの」。これすなわちダルマ。漢訳仏典では「法」。 《これは時代、場所、民族の差を超えて、いかなる時、いかなる所でも守らねばならぬ永遠の理法であるといい、 そしてこの理法を体得したものをブッダ(Buddha)といいます。それはめざめた者、覚った者という意味であり、 中国・日本では「仏」という字をあてて書くことになりました。》現代ふうにいえば、理性のことではないかとわたしはおもう。

 インドでいうダルマは、「法」のこと。人間の守るべきところの道筋、理法。これは「道徳」とも訳しうるし、宗教をも意味しうる。 インド並びにその周辺国では、西洋のリリジョンに相当することばがないので、西洋文明を取り入れるさいは、たとえばキリスト教は「クリスティ・ダルマ」と呼ぶ。

▽すべては無常
 彼は人生の苦しみを凝視することから考察を始めた。「苦しみ」とは自分の思うがままにならぬこと。 解決法は、すべてのものが無常であるから、いかなるものをも自己であるとか、自己に属するものであるとか見なさないことだという。 これを「無我説」という。わからん。すべてのものが無常であるということはもはや日本人の頭に染みついた考え方だからわかる。 諸行無常は人口に膾炙する。それとすべてを自己に属するものと思わないことというのがどうしてつながるのか。

▽中道から八正道へ
 さて、彼の説いた現実の実践の倫理は、「道徳的に悪い行為をおこなわないで、生活を浄めること」。 しかし何が道徳的であるのか、それがひとそれぞれであるから世の中が治まらないのではないか。 釈尊がそういう結論に達した背景には、かたや現世の快楽にふけることを勧めるひとあり、かたや身をさいなむ苦行に専心するひとびとがいたので、 そのいずれをも極端な「誤った実践」であるとし、「中道」を説いた。

 そこで出てきたのが「八正道(ハッショウドウ)」。すなわち正しい見解、正しい思い、正しいことば、正しい行為、正しい生活、正しい努力、正しい念想、正しい精神統一。 ――ただしこれとても何が正しいかわからない。

 《世人のための具体的な戒めとしては、第一に「殺すなかれ」、第二に「盗むなかれ」第三に「邪淫を行うなかれ」、 第四に「いつわりを語るなかれ」という四つが教えられましたが、さらに世人が放逸になることを戒めるために、後には第五として「酒を飲むなかれ」が付加されました。 これを五戒といいます。これは当時ジャイナ教などで説かれていた戒めを、仏教が採用して、かたちを整えたものです。》 ジャイナ教は、釈尊と同時代に広まった徹底的苦行・禁欲主義。ほかの教義でもいいものは取り入れる、これは釈尊の柔軟性を示すもので好もしい。 釈尊は神ではなく、天才的な人徳家だからこういうことが許される。

 《かれは、理法をさとり実践することを人々にも勧め、真のバラモン、真の修行者となることを勧めました。 かれは自分が新たに独自の宗教を開始するという意識もありませんでしたし、また他の宗教も人間の道に反しないならば、それを排斥することもありませんでした。 /かれは、諸宗教に通ずる普遍的な真理を生かすという立場を目指していました。これが、後の世によびかける一つの特徴的な思想となったのです。》

  ●釈尊の生涯とは

 釈尊はいまでいうネパール国のシャカ族の中心地であるカビラ城(さらにくわしくいえばカビラヴァットゥ郊外のルンビニー園)に、 国王スッドーダナ(浄飯王(ジョウボンノウ))の長子として生まれた。姓をゴータマ、名をシッダッタ。またシャーキャムニとかゴータマ・ブッダと呼ばれることもある。 インド人ではなくネパール人なのだ。当時はインドもネパールもなかったのだろうが。

 考えてみれば東洋の古代思想家、たとえば老子と孔子は紀元前6世紀のひととされ、釈尊は紀元前5世紀、荘氏は紀元前4世紀、孟子は紀元前3世紀ほど。 東洋の偉大な思想家はだいたいこの300年間前後に生まれている。互いに影響がなかったとはいえないのではなかろうか。 これらの思想家たちが宗教の開祖でなかったのと同様に、釈尊もまた思想家・道徳家であって、宗教家ではなかったとわたしは考える (宗教というのは、ユダヤ・キリスト・イスラムだけだろう。これらは同一神を全知全能の存在として信仰する世界でもまれな思想だ)。

 釈尊誕生の7日後、母親のマーヤーは亡くなる(あるひと曰く、釈尊はマーヤーの脇の下から生まれたと。 そんな無茶なことをするから釈尊生誕7日後に母は死んでしまう)。その後母の妹が王の後妻となり、彼を育てる。生い立ちと関係があるのかないのか、 物思いにふける癖があり、王はそれを心配し、人生にはもっと楽しいことがあるんだよと16歳でヤソーダーラー(誉れある淑女の意)と結婚させる。 一子ラーフラをもうける。

●釈尊の得たさとりとは何か

 家庭生活は楽しかったが、人生の問題は解決せず、29歳のとき、ついに出家して遍歴修行者となる。 《当時、道を求める人は家族から離れて出家修行僧となるのが通例のいき方でした。今日でいえば、家族と離れて留学に出かけるというようなものです。 しかし、そういうことがだれにでもできたわけではなく、わりあいに富裕な人だけが可能でした。ですから家族が困る場合には、出家してはならないということが、 古代インドの法典には述べられています。》釈尊のばあいは王族だったので、あとに残された者が困るということはなかったと中村はいうが、 残された妻子はたまったものではない。いまならとんでもない瘋癲野郎だと噂されるだろう。

 釈尊出家の動機を『スッタニパータ』はこう伝える。「この在家の生活は狭苦しく、煩わしくて、塵のつもる場所である。 ところが出家は、ひろびろとした野外であり、(煩いがない)」と見て、出家されたのである。……そりゃあ家庭は、特に王宮ともなると煩わしいことが多いだろう。 風来坊はいつの時代でも男の夢さ。

 釈尊も最初は当時の修行僧の習慣にしたがって、6年間山にこもって苦行をおこなったが、どうしてもさとりが開けない。 こういう苦行は無意味だとおもってパッとやめてしまう。そののち、ガンジス川中流のブッダガヤーと呼ばれた所の菩提樹のもとで沈思瞑想し、 さとりを開いて覚者となる。ときに35歳。さあわたしにとってはここが大問題。さとりを開くとはいかなることだろう。 晩年の言行録『大パリニッパーナ教』にそれらしきものが示されている。釈尊の生涯は、『スッタニパータ』に始まり『大パリニッパーナ教』に終わるのだが、 『スッタニパータ』に出てくるはずのスジャータが出てこない。きっと見目麗しく気の優しい娘だったんだろうなと楽しみにしていたのに残念。 中村はこれをたいしたことではないとして省いたのだろう。わたしがここで考えたさとりの内容とは、前述した中道・八正道・5戒に近いものだ。

 ちなみに釈尊は、他人に対しては思いやりを抱き、慈悲の精神を以て実践すべきことを説いた。 《あたかも、母が己が独り子をば、身命を賭しても守護するように、一切の生きとし生けるものに対しても無量の慈しみの心を起こすべし。》 (『スッタニパータ』149)当たり前のことのように聞こえる。わざわざいいのこすほどのことだろうか。 だが、幼いわが子を「内縁関係」の男と一緒になって虐待死させる母親のニュースを聞くと、釈尊の時代にもあったことだからこそ、 やはり経典に加えておかなければならなかったのだろう。

  ●経典はどこで完成

 《仏教の経典は普通は「お経」と呼ばれていますが、それはもとは釈尊がだれかに説いたことがらを、弟子たちがずっと口伝で聞き伝えてきて、 後の人がそれを最初は短い詩や決まり文句の形にしてまとめたものです。やがて弟子たちがインド全般およびアジア諸国へ教えを弘めるにつれて、 多数の聖典がつくられました。》紙は紀元前150年ごろ中国で発明されたといわれる。釈尊没後数百年のことだから、 彼の言葉は便利で手軽な紙に直接書き残されることがなかった。残念なことだ。

 だが、Wikipediaによれば、やや怪しい説として以下のことが述べられている。 「仏教の経典は、釈迦時代は釈迦が文書化を許さなかったため暗記によって保持されたと伝えられる。この時代のインドでは、文字はすでに普及していたが、 その使用は商用や法規の公布などに限られ、世俗の用件に用いるものではなかった。 ことに、書くことで自分を離れるから、聖典に対する敬虔さを失うと考えられて、文字に記すのではなく、体で覚えたわけである。」と。 そういえば華岡青洲も、全身麻酔に必要な薬石一覧を書き残したものの、その量は書かなかった。 量は患者と相対して性別・体格・容態などを見てからでなければ決められない。レシピだけが一人歩きしたのではかえって有害だからだという話を聞いたことがある。

 ところで、あるお坊さんが、教団でいろいろなことばが使われているのは困るからサンスクリット語で統一しようと申し出たところ、 釈尊は「めいめいのことばで話せ」といって、その申し出を断った。これは中村のことば。

 原始仏教というとき、それは釈尊やその弟子たちの仏教をさすが、厳密にここまでがお釈迦様の時代の教えで、 ここは弟子のころの教えだというぐあいにはっきりと区別することは難しい。だいたいパーリ語の仏教経典に伝えられているものを原始仏教という。 釈尊の使った言葉は中部インドのマガダ語。それが後にパーリ語に写されたりサンスクリット語に写されたりした。 ……なぜいきなり「中部インド」か。ネパールなら北部インドではないか。パーリ語は、アラビア海に面する西インドのグジャラート州あたりの海岸のことば、 これが商業路に沿って南下しスリランカに伝わった。パーリ語の聖典は、スリランカできちんとまとめられた。 日本へはサンスクリット語から漢訳されたものが来た。真剣に仏教をきわめんとおもう者はスリランカを目指すべきだろう。

 《経典が固定する前の言語というのは、民衆の言語だったわけです。ですから、特殊な仏教の難しい術語というものはないのです。 パーリ語の詩の文句を読んでみると、難しい術語などありません。あれは、仏教学者が訳すと、難しくなるのです。》 めったにジョーダンはいわない中村だが、たまにヒニクをいう。
(つづく)